オペラ座の怪談
                                                        indira'Sメッセージ

ことの始まりは、コルレオーネ伯爵の孫娘がバカンス前に足の骨を折ったことだった。
この夏は一族そろって、ニースへゆく予定だったが、彼の一言で取りやめになった。
伯爵は十歳になるレイチェルを、目に入れても痛くないほど可愛がっていたし、彼女ひとりを残して出かける気にはなれなかったのだ。 
もちろん反対するものもいたが、決して口には出さなかった。
なぜなら、それは誰も、知らない。知っているのは、墓に眠る者のみだった。


パリ、アンジェリーナの家。
「どうぞ、お入りになってください。娘はいま起きたところですわ。」
金色の髪を後ろで束ねただけで、紅も差していない婦人はドアを開けると、エリックを招いた。ここ数日眠っていないのだろう、頬がこけ、青白い。
「お疲れのところ申し訳ない。知っていたら、もっと早くくるんだったが……。」
「いいえ、今日きてくださったたけで、何よりです。」
「マダム・フィユシエル、アンジェリーナはどんな具合ですか?」
怪人に続いて入ってきたクリスティーヌは、彼女をイスに座らせると尋ねた。
母親はほっとした表情を見せた。
「やっと……今朝がたから熱が下がって、元気になってきましたわ。ふだんは丈夫な子だから、なにかあると心配で。」
「あとでオペラ座から人をやります。あなたも休まれた方がいい。ひどい顔色だ。」
婦人の肩に手を置き、エリックは心配そうに言った。
「ありがとうございます。でも私だけで何とかやれますし、なにかの時は隣の奥様が手伝ってくれますから。……さあ、アンジェリーナに会ってやってください。あの子もあなた方に会いたがっていたんです。」
明るい笑顔を見せると、彼女は立ち上がってふたりを二階へ案内した。
「アンジェリーナ、起きているかね?」
エリックはドアをノックすると、返事を待った。母親から回復していると教えられたが、心配でたまらない。声がするまでがひどく長く思えた。
「お………じさん?エリックおじさんなの?入って!!」
いつもと違う弱々しい声に、彼の胸はえぐられる思いだった。
怪人は飛びこみたい衝動を押さえて、静かにドアを開け、ゆっくりと入った。
開け放たれた窓から明るい光が差し込んでくる。窓からのぞくまばゆい夏空。彼方には森がかすんでいる。
しかし、部屋の中は空気がよどみ、熱っぽい。少女の苦しんだあとが、部屋のそこここに残っているような気がした。
「アンジェリーナ、気分はどう?」
怪人は声をかけながらベッドへ急いだ。
じっとりと湿り、シワのよったシーツの中から少女が顔を出した。
「こんにちは………。おじさん、おねえさん、お仕事は…………?」
生気のないまなざしで、アンジェリーナはふたりを眺めた。
「仕事など、どうでも………。」
こんな時にまで気を使う少女のいじらしさが、腹立たしかった。エリックはぐっと唇をかむとベッドにかがみこんだ。彼女の髪を撫でた。 
「なにも心配しなくていいよ。仕事はすませてある。クリスティーヌもだ。あなたが病気だと聞いて飛んで来た。だいじょうぶかい?」
指に柔らかい金色がからみつく。手を滑らせて、頬を撫でる。熱があるのか、あつくて腫れぼったい。
「冷たーい。」
力なくアンジェリーナは彼の手を頬に押し当てた。
「苦しい?」
クリスティーヌも少女の額に手を当てた。その感触に顔をしかめる。
「まだお熱があるわ。冷やしましょうか。」
だが彼女は微かに首を振った。
「おじさんの手がきもちいいから……。ねぇ、おねえさん、お仕事って、どんなの?エリックおじさんがお歌を作ったの?」
「そうよ、とてもきれいな曲なの。」
エリックに尊敬と称賛のまなざしを向け、歌姫はほほ笑んだ。
「ききたいな………だめ?」
ひかえめな口調。それでも瞳のきらめきは隠せない。
「ここでかね?」
エリックは戸惑いを浮かべ、クリスティーヌを見た。
彼女もまた、首をひねった。     
「歌うとなると、……………ちょっと。」
「難しいんですか?」
マダムがけげんそうに、割ってはいる。
「実はきのう……。」
クリスティーヌが口を開いたのを見て、エリックは血相を変えた。
「実はね!練習不足なんだよっ!そんなのを聴かせるわけにはいかないよ!」
慌てて歌姫とマダムのあいだに立ち、まくしたてた。
にーっこりはするが、妙にしらじらしい。
つんつんと少女は怪人の袖をひっぱった。
「…………それでもいいから、ききたいなぁ……………。」
エリックはくたくたと全身の力が抜けていくのを感じた。
アンジェリーナのあの声にはとても逆らえない。だが、ここで歌うのは……。
しかし、さらに母親がすがりついた。
「わがままと思いますが、かなえてやってください……どうか……!」
「エリック………。」
クリスティーヌが、どうするの?と視線を投げる。もちろんそこには『歌ってあげましょうよ。』とあるのを彼は見逃さなかった。
怪人は心ひそかに溜め息をついた。
「………では、歌わせてもらうが、その前に壊れものを片付けてもらえないか。」
ポソポソとうつむいて言い、彼は決まり悪そうに、アンジェリーナの頭に手をのせた。
きょとんと婦人はクリスティーヌをふりかえった。
「どういうことですか?」  
歌姫はちらりと怪人の顔色をうかがい、わけを話してもいいか迷った。
だが、その表情を見ていると、とても本当のことは言えそうになかった。
「わけはいずれ…………。とにかくお願いします。あたしも手伝いますから。」
歯切れ悪くマダムにささやくと、クリスティーヌは深々と頭を下げた。
それをおしとどめ、婦人はウィンクした。
「おやめくださいな……無理をいっているのはこちらですから。さあ、片付けましょう。」二人は手際よく、危なそうなものをドアの外に運びだした。
「お待たせ、エリック。」
ところが怪人はいすに座ったまま動こうとしない。
「どうしたの?」
クリスティーヌが近づく前に、エリックは分からないほど微かに目を動かした。
『窓』。
彼女はハッとなった。あらためて確かめて、彼にささやく。
「外せないけど、だいじょうぶよ。」
一瞬不安がよぎったが頷くと、エリックは優雅なしぐさで立ち上がり、小さな淑女におじぎした。
「きょうこの日、あなたのようなレイディに歌を捧げることができるのは、私にとって最大のよろこびです。」
彼の言葉にアンジェリーナは顔を真っ赤にした。
エリックは嬉しそうに目を細めると、大きく息をすいこんだ。
それは歌というより、ひとつの物語だった。彼にしか生み出せない物語。
エリックは時に熱く激しく、時に静かに穏やかに語った。はじめはベッドに横になっていた少女も、いつの間にか身を乗り出して聴いていた。そんな様子を見ながら、怪人は純粋に彼女を楽しませようとしていた。
思わず、力がこもった。
「きゃっ。」
マダムが悲鳴を上げて頭を抱えた。
この時は声にかき消されて何が起こったが分からなかった。 
「あ、待って、エリッ…………!」
止めようとしたクリスティーヌの耳が鋭い音を捕らえた。
エリックは夢中で気が付かない。
物語はクライマックスに向かう!
歌姫は怪人に手を伸ばした。
声はさらに高みへ!
その時、一瞬にして窓ガラスが砕け散った。さすがのエリックも我に返った。両手で顔を覆った。
「やってしまった…………!」
「どうしたの?おじさん、もうおわり?いまのはなに?」
合点がいかないという様子でアンジェリーナは彼の手を引いた。
「あ、あれはね………。」
クリスティーヌは何か言おうとするが、とっさには思いつかない。
同様にエリックも口をパクパクさせるだけだ。
事態を理解しようと、マダムはせわしくなく辺りを見ていたが、急に拍手をはじめた。
「素晴らしいわ、声だけでガラスを割るなんて!」
「そ……そうか………?」
熱狂的に手をたたき続ける母親につられて、アンジェリーナも拍手をはじめた。
「そうかな……。」
あまりの熱烈さにエリックは顔を赤くした。「そうよね、あなたはやっぱりすばらしいのよ!」
心配していたが、親子は恐れていない。クリスティーヌも盛んに拍手をはじめた。
だが、釈然としないのはアンジェリーナだった。
少女は手を止め、歌姫に言った。
「なぜ、ガラスを割るとすばらしいの?」
「あのね、難しい話になるかもしれないけど、ふつう歌うだけではなにも起こらないでしょ?だけど、エリックほどの人になると、完璧な声を出せるの。声が体に響くでしょう?その震えがガラスを割ってしまったの。歌の神様とよばれるひとができるのよ。」
「おじさんは今日はじめてやったの?」
「ううん、きのうもね、練習をしていて窓を割ってしまったの。一枚残らず。」
彼女はニッコリと笑った。だがアンジェリーナは、不思議そうに首をかしげている。
「おじさんがすごいのは分かるけど、歌うだけでものを壊すのって…………怪獣みたい。」
ぴたりと、拍手がやんだ。拍手の残響がむなしく部屋にこだまする。
エリックは、複雑な表情になり、
「長い間、『怪人』とよばれたが、『怪獣』と言われたのは初めてだ………。」
がっくりと肩を落とした。

二週間後、オペラ座の舞台。
新作オペラのリハーサルで、主要なメンバーが集まっていた。
中央でスコアを片手にエリックが、カルロッタ、ピアンジに歌い方を教えている。
「ねぇ、フィルマンさん、今日のマエストロって、ずいぶん熱心にレッスンをしてますよね。赤い顔しちゃって……。きのうあまり寝てないって言ってたけど、元気ですねぇ。」
「上演まで日がないんだ。あと2週間と少しなんだ。熱心にやってもらうに越したことはないさ。相手が相手だ、下手なオペラでもやろうものなら……………。アンドレさん、二人でシシリーの海に沈められるぞ。」
低い声で言うフィルマンの頬を汗が伝う。しかしアンドレは分かっていないのか、いつもの調子で肩をすくめると、軽く相棒の肩を叩いた。
「もう、いくら暑いからって、そんな話では涼しくもなりませんよ。」

レッスンが終わって部屋に戻った時、エリックはふと右耳の下が、どんと痛んでいるのに気が付いた。鏡をのぞくと、そこがふっくらと赤く膨らんでいる。
「疲れているのかな。久し振りによく歌ったし……。まあ、そのうちによくなるだろう。」
だが、それは間違いだった。
その夜遅く、カリスト医師が怪人の家に呼ばれた。
「こんな時間に申し訳ありません、先生。」
「あなたが病人じゃないですね?だけどひどい顔色だ。彼はどこに?」
「こちらへ………!」
クリスティーヌは返事をする間を惜しむように足を速めた。
寝室の前で止まり、ノックをする。
「エリック、お医者さまが見えたわ。あけるわ、いいわね?」
カリストは彼女の口調にふと、妙な感じを受けた。もしかしたらカギが掛かっているのではないかとも考えた。
しかし、たとえそうであってもかなわないほどの勢いでドアは開けられた。カリストは急いでベッドに歩み寄った。
「ムシュウ・エリック、カリスト医師です。どうなさったのですか?顔を見せてください。」
だが、こんもりと膨らんだシーツの中から返事はない。
「エリック、診ていただかないといけないのよ。熱も痛みも引いていないし。」
クリスティーヌの強気の態度に、シーツの端からしぶしぶと指がでてきた。
初老の医師は、これから現れるものをひとつも見逃がさまいぞと、気を引き締めた。
それから、イライラするほどの時間をかけて、額が現れた。よほど熱があるのか、汗で湿り、赤くなっている。次に目が現れた。やはり熱が高いのだろう。潤んでいる。
目は一度医師を捕らえると、伏せられた。
そのまま動きが止まった。
「エリック、おねがい!!」
クリスティーヌが彼の枕元で、泣き伏した。泣きながらもシーツをわしづかみにすると、一気に引きはがした。
「ああっ!」
この時カリスト医師は、心の底から自分の職業を呪った。
医者でさえなければ、医者でさえなければ!
噴火のような勢いでこみあげてくる感情を抑えなくてもいいのに!!
カリストはギュッと目をつむり、唇をかみしめた。
おのれの中の誘惑と死にものぐるいで戦った。 
だが、けっきょく彼は分別のある、立派な医者だった。
彼はコホンと咳払いをすると、エリックのノドをのぞき、腫れた頬に触れた。
そしておもむろに告げた。
「おたふくかぜです。」
え?とクリスティーヌが泣きはらした目を上げた。
カリストはダメ押しでくりかえした後、言った。
「最近、そう……2週間以内に子供にあってませんか?彼ほどの症状は出ていなかったにしても、熱があって少し頬がはれているくらいの。」
歌姫はハッとなった。
「ええ、ちょうどそのころ見舞いに出かけました。フィユシエル婦人のところへ。」
「アンジェリーナ・フィユシエル?やっぱり!」
医師は何度も頷いた。しかし、なおもクリスティーヌには彼の言葉が信じられなかった。
「病気でこんなに顔が腫れるのですか?まるでスイカを丸ごと口に入れているみたいに。」
「大人がかかると、こんな具合ですね。スイカを丸ごと口に入れたような顔になります。なかなか良い表現だ。」
「スイカを丸ごと口に入れたような顔で悪かったな!」
二人のやり取りを黙って聴いていたエリックは、赤い顔をさらに真っ赤にして怒鳴ると、再びベッドにもぐってしまった。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて彼を揺するが返事はない。シュンとなったクリスティーヌをカリストが部屋の隅に招いた。
「まあご心配なく。一週間から十日で自然によくなります。熱冷ましを処方します。顔の腫れは冷やして、それからのどの痛みも出てくるでしょうから、食事は飲みこみやすいものがいいですね。うがいも勧めてください。………それと大切なことですが、あなたは、おたふくかぜはすんでますね?この病気は発病前後一週間のあいだ、人にうつす危険性があります。あと7日間は彼を部屋から出さないようにしてください。」
「はい、分かりました。ありがとうございました。」
彼女は心底ほっとした顔になった。
カリスト医師を見送って、天使はエリックの元へ戻った。
「エリック、だいじょうぶよ。一週間もすれば治るって。」
話しかけるが返事がない。まだ怒りがとけないかとシーツをめくったが、彼は眠っていた。アイラはベッドに腰かけ、彼の髪をすいた。
安心したせいか、落ち着いてものが考えられる。
天使なんだから、病気の種類ぐらい簡単に感じられるのに。エリックのかわりように驚いてしまって………とにかく良かったわ。
大きく息をつく。だが、なにかが引っかかっていた。
医師の言葉の中、そこに答えがあるのに見つけられない。
しばらく考えていたが、いつの間にか眠りにおちてしまった。


「暑くて寝れん………。」
ジュリアン・レイエは汗でじっとりした体を、冷やそうと窓際に座った。
微かな夜風にわずかばかりだが、涼しさを感じる。ところが風にまじって、なにかが運ばれてくる。軽快なスキップと、鼻歌。
「こんな夜更けにだれだ。………こうも暑いとおかしくもなるか……。」
つぶやきつつ、なぜか音が近寄ってくるにつれ、いやーな予感がしてきた。
ほどなく、『予感』は彼の窓の下に到着した。
「よぉ、ジュリアン!」
「何だ、ロランじゃないか?こんな時間に往診か?まあ、上がれよ。」
レイエはこれで自分の中でうずまいでいた予感が消えると思った。
だが、なぜかなくならない。
「おじゃまー。」
診療カバンを床に放り投げるやいなや、たまりかねたようにロランは笑いだした。
「おい、ロラン、なにやってんだ。近所迷惑だぞ!」
だが、彼はおかまいなしに笑い続ける。
「いいじゃないか!おまえだけなんだろ!」
「そうだけど、常識ってもんがある。おい、きいてるのか?」
「聴くもなにも…………おまえの方こそ聴けよ!そうしたらおれを責められんぞ!」
「分かった、聞けばいいんだな。」
オペラ座の演出主任はタメ息をつきつつ、医師の話に耳を傾けた。
だが、カリストの語る話は、レイエを骨の髄から震え上がらせることになった。
「この話はここだけにしてくれよ。劇場に知れたらパニックだ。」
深刻な顔でレイエは言ったが、ロランは手を広げて笑った。
「お前だから話してるんだ。そんなに心配しなくっても、おたふくかぜは子供の頃にやってるだろ、みんなは。」

「おたふくかぜです。」
ロラン・カリストは、いいかげん疲れてきた。
朝からここ、オペラ座の楽屋へ呼ばれてから、何度この言葉をくりかえしてきただろう。少なくとも10回はこえている。
断っておくが、一人につき、一回以上は言っていない。
思っている以上に、この病気をすませてない大人がいるものだなと、彼はカルテにペンを走らせながら考えた。
「………それで、先生、この病気はどれくらいで良くなるんです?」
たったいま診察をされたばかりの男が、なきそうな声でロランの腕をつかんだ。それをやんわりと外し、彼はいたわりをこめて告げた。
「一週間から十日ほどで自然によくなります。ご心配なく。」
言葉の終わりと同時に悲鳴が上がった。
「もうだめだ!」
「なにを大げな…………熱や痛みは辛いでしょうが、必ずよくなりますよ。」
しかし、男はソファーにうつぶしたまま、顔を上げない。
「まぁまぁ、フィルマンさん、元気を出してくださいよ。何とかなりますって。」
「な〜んとかなるだとぉ〜〜〜〜〜?」
恨めしそうに、スイカを丸ごと口に入れたような顔が、アンドレをにらみつけた。
「あんたは、あの男にあっておきながら、何でそんなのんきなことが言えるんだ!」
「あの男?」
相棒は思い出そうと首をひねった。しかし、そのまま動かない。
フィルマンは、何でこんな奴が相棒なんだろうと運命を呪った。
彼の脳裏に二日前のオフィスの光景がよみがえっていた。
『コルレオーネ伯爵様は、貴殿の次回公演をことのほか、楽しみにしておられる。レイチェル様もだ。それと、開演時間を一時間ほど遅らせてほしい。シシリーからヴィットーリオ様がいらっしゃることになった。よろしいな?それからこれは伯爵様からだ。貴殿が望んだ金額の倍が入っている。』
紳士然と話す男だったが、言葉とは裏腹に、瞳にゾッとする光が宿っていた。
伯爵の懐刀といわれる男。暗いウワサがつきまとって離れない男だ。
支配人の全身はいつの間にか冷や汗でじっとりしていた。
「それでは、皆さん、これで失礼します。どうぞお大事に。」
カリストは、ぐったりとソファーや床に横たわっているオペラ座の面々をいまいちど見渡すと、ドアへ向かった。
「ちょっと!かえっちゃうの?」
ほれぼれするようなコロラチュラソプラノが、医師の背中にぶつけられた。
「医者のくせにこの顔をほっておくつもり?私をだれだと思ってんのよっ!」
さらに声の主はフィルマンを突き飛ばし、医師につかみかかった。
「シ、シニョリータ、落ち着いてください。42度も熱があるんですよ!」
「だから治せっていってるでしょっ!きいてないの?」
やはりスイカを丸ごと口に入れたような女が、カリストを締め上げた。
「そうだ〜〜〜〜〜〜ぞぉ〜〜〜〜〜カーラのいうとぉぉおりだぁ……。」
むくりと、女の横でひっくり返っていた樽腹男が起き上がった。
彼もまた見事なビブラートを効かせながら、カリストに詰め寄った。隅っこでうずくまっていたブケーもふらふらと起き上がってきた。
「……そうだ………夏休み返上で働いているのに……何でこんな目に遭うんだぁ…。」
第一ヴァイオリン奏者も立ち上がった。
「俺たちがこんなに苦しんでいるのに…………見捨てるのか?医者だろ?何とかしろよ。」
何十人ものスイカを丸ごと口に入れたような人間が、次々と起き上がり、カリストに詰め寄った。
「ひえぇえっ!」
髪を振り乱し、おぼつかない足取りで転んでも起き上がり、立ち向かってくるその姿は。
「お化け屋敷になりましたね。」    
のほほんとアンドレが言うのを聞いて、フィルマンはがっしりとアンドレの肩を抱き、低く囁いた。
「沈められる時は、一緒だからな!」
しかし、相棒はきょとんと彼を見返した。
「やだなぁ、フィルマンさんたら、この間から変なことばっかり。何でいっしょに泳がなきゃならんのです?」
今度こそ、堪忍袋の緒が切れた。肩をつかんだ腕をアンドレの首に回した。
「いいかいアンドレさん、今度の公演はだれが依頼主か分かっているだろう?あのコルレオーネ伯爵だ!奴がどんな男かあんたも知っているはずだ。」
「知ってますよぉ、レイチェルちゃんていう可愛い孫がいるんでしょ?今回だって彼女がケガしちゃったから、慰めようってことで伯爵が依頼してきたんじゃないですか。優しいおじいちゃんですねぇ。あんな人がおじいちゃんだったらよかったなぁ。」
屈託なく笑う彼に、フィルマンは、本当にこれで人生終わったなと思った。
「支配人、ちょっと……。」
いつの間にかレイエがふたりの横に立っていた。演出主任は刷り上がったばかりのプログラムを持っている。それを指ではじいた。
「何とかしないといけませんよ。」
「君だけだよーまじめに考えてくれるのはっ!」
フィルマンは主任の態度を神に感謝した。思わず視界がうるむ。
「泣いている場合じゃありません。ほんとに何とかしないと、お互いなにをされるか。」
「だけどどうしたらいいと思う?カルロッタもピアンジも、ブケーもオーケストラも半分がおたふくかぜだ。公演は2日後だし、なにができるっていうんだ?」
レイエとフィルマンは背後でうごめいている亡霊たちを振り返った。
ロランはいつの間にか姿を消している。うまいこと逃げたらしい。
「こっちの問題も残っているのよ!」
突然、彼らの目の前に黒い封筒が差し出された。
「マダム・ジリィ、それは、マエストロからの、………?」
フィルマンのうわずった声に、マダムは黙ってうなずいた、
震える手で開封すると、白い便箋に赤い数行の文字が踊っていた。
目を通したフィルマンの顔色が赤から白にかわった。
『心配をかけたが、私の体調もよくなった。2日後はいよいよ公演だね。前回の手紙で伝えた通りのリハーサルをしてもらったなら、素晴らしい舞台になるはずだ。楽しみにしているよ。私たちの席はいつもどおり、ボックス5番だ。』
フィルマンの手から、はらりと手紙がおちた。
「もうだめだーっ!」
がばっと支配人はマダムに抱きついた。
「どさくさに紛れて!」
「なにをするのよっ!」
マダムに張り手を食らい、レイエに引きはがされ、フィルマンはソファーに沈んだ。
「あらぁ、フィルマンさんだいじょうぶ?」
なかば気絶している相棒をアンドレがつっついている。それを横目で見ながら、二人は深い溜め息をついた。
「伯爵が上演中止を許してくれるとは思わないが、マエストロはどうだろう?ミス・ダーエから話してもらったら?」
レイエは期待をこめてマダムの答えを待った。しかし彼女はきっぱりと返した。
「むりね。クリスティーヌは分かってくれると思うけど、あの人は伯爵と同じくらい手強いわよ。………とにかく、八方ふさがり。」
レイエは腕組みをして、まだ繰り広げられている騒動の方へ首を向けた。
病人たちはゆらゆらと歩く。そのせいで床がキィキィときしむ。それにまじる喘ぎや呻き声。
「お化け屋敷よね。」
「まさに。」
マダムは泡立った肌をさすりつつ、レイエのプログラムをパラパラとめくった。
「なにかやらないといけないわね!?」
「何かしないといけないが、……オペラは百パーセント無理だ!」
バレエ教師と演出主任は、みけんに深いしわを寄せた。
「マダム・ジリィ、ムシュウ・レイエ、何をそんなに悩んでいるんです?」
アンドレの怪訝そうな声に二人は目まいを覚えた。
「…………。」
マダムは凍りつくような視線をアンドレに投げ、レイエはぐっと拳を固めた。
しかしおかまいなく支配人は続ける。
「今度の公演はレイチェルちゃんを楽しませればいいんでしょ?」
この言葉に、二人はハッとなった。
「そうよね!そうだわ!その通りよ!」
せきをきったようにマダムは叫び、レイエを振り返った。
「そうだなっ!」
それからレイエはプログラムを破りすてると、自信たっぷりに言った。
「マエストロも、伯爵も真っ青になるくらいの公演をしてみせるぞ!」

公演当日、エリックの家。
怪人は鏡の前に立つと、上から下までいまいちど眺めた。そして満足げにうなずき、手袋をはめた。
「クリスティーヌ、もうすぐ時間だ。アンジェリーナの支度はすんだかね?」
間もなく二人の淑女が彼の前に現れた。
「おじさん、おまたせしました。」
少女がペコリと頭を下げ、花のように笑った。
エリックはアンジェリーナを抱き上げて、頬にふれた。
「もうすっかり元どおりになったね。」
少女も彼の頬を両手できゅっとはさんだ。
「おじさんも元気になってよかった。………ごめんなさい。あたしからうつっちゃったんでしょ?」   
怪人は彼女に帽子をのせてやりつつ、首を振った。
「もう、治ったからいいんだよ。……さぁ、劇場へ行こう。」
「うん!」
アンジェリーナは瞳をキラキラさせてうなずき、床に降りた。
「エリック、ちょっと待って。襟が折れているわ。」
クリスティーヌが彼の首に手を回した。
ふわっと清楚な香りが漂う。艶やかな金の髪。透きとおるおくれ毛。
エリックはうなじに口づけしたい衝動を抑えて、歌姫が作業を終えるのを待った。
だが、顔は正直だった。
「あれ?おじさん、顔が赤いよ。どうしたの?」
少女が不思議そうに見上げている。
「大丈夫?お熱かしら。」
「そ、そうじゃない……!」
彼の額に触ろうとする恋人の手をあわてて制して、彼は帽子をかぶった。
クリスティーヌは戸惑ったが、それ以上なにもしなかった。ただ、慈愛に満ちた声でささやいた。
「無理しないでね。」
彼女の声に、怪人は嬉しそうに頷いた。
「急ごう、もうすぐ開幕だ。」
エリックはさりげなく左の脇を開けて、クリスティーヌを待った。
望みどおり恋人は彼の腕に自分の腕をからめて、そっと体を寄せてきた。
「あー、いいなー、あたしも!」
アンジェリーナも彼のあいた腕にしがみついてきた。
勢いによろめきそうになるのをこらえて、怪人は胸を張った。
「今宵はきみたちに夢をおくるよ。」
誇らしげに言う彼を、クリスティーヌは嬉しそうに見つめた。

向かい側のボックスにブルネットの髪を可愛らしく結った少女と、銀のあごひげを蓄えた老人ふたり、座っていた。少女はエリックを認めると、老人に支えられながら立ち上がり、会釈した。アンジェリーナがエリックの袖を引いた。
「だれなの?」
「彼女はレイチェル・ラ・コルレオーネ嬢だ。となりにいるのが、コルレオーネ伯爵だ。その後ろにいるのは…………ドン・ヴィットーリオ氏だよ。」
「ごあいさつしなくっちゃ!」
アンジェリーナはいきなりボックスから身を乗りだすと、大きく手を振った。
「こんにちはーっ!」
「あぶないっ!」
慌てて怪人は少女を引き戻した。向かいへ目を向けると、レイチェルがくすくすと笑いながら、手を振りかえしている。
開幕を告げるベルが鳴った。
それから次々と明かりが消え、劇場は真っ暗になった。
ギュッと少女がエリックの手を握ってきた。
「アンジェリーナ、怖くないからね。これが始まりなんだ。」
落ち着くよう優しい声をだし、彼女の手をにぎり返した。
するすると幕の上がる音が闇の中に溶けていった。
マエストロは、舞台の奥に目を凝らした。
そこから高く澄んだ声がゆったりと流れてきた。
「カルロッタめ、まあまあの調子だな…………。」
ヴィオラが声に寄り添うように静かに奏でられている。
彼のスコアではまもなくピアンジがデュエットに入る。
だが、その時になっても歌っているのは一人だけだった。
「なにやっているんだ、レイエの奴!」
怒りをむき出しにしている彼に、クリスティーヌが心配そうに寄ってきた。
「エリック?」    
彼の様子に気をとられて、彼女は後ろのドアがこっそり開けられたのを知らなかった。
「何をやっているんだ!?」
怪人は猛然と立ち上がると、とめる間もなく部屋を飛び出した。
その時、向かいのボックスから悲鳴が上がった。
「なに!?」
とっさにクリスティーヌはアンジェリーナを引き寄せ、身構えた。
続いてガタンっ!と堅いものの倒れる音が響いてきた。
再び悲鳴。今度は男の声だった。
天使は警戒しながら舞台に目をやった。しかしそこからは何事もなかったかのように、歌が流れている。
「おねえさん、どうしたの?わるい事がおこっているの?」
アンジェリーナが泣きそうな声で、彼女にしがみついてきた。
「大丈夫よ、絶対に守ってみせるから!」
震えてくるのを必死で我慢して声を絞りだす。
いざとなったら正体を現してでも、この子を守ってみせる。
ぐっと唇を引き締めた時、彼女の肩が生暖かいものにつかまれた。
「ひぃっ!」
振り返るとランプで顔を照らした人間がゆらりと立っていた。
「プログラムです…ミス・ダーエ…………。」
あまりの恐怖にクリスティーヌは、その場に凍りついた。

「レイエ!どこだっ!」
オペラ座の怪人は、いつになく薄暗い舞台裏を走っていた。  
呼びかけるものの、返事はなく、また上演中というのにだれもいない。
「一体どうなっているんだ!?」
息が切れて、立ち止まった時、心細かった明かりが消えた。
それと同時にヌルヌルしたものが、エリックの首筋をなめた。
「!」
ぞっとして後ろを向いたとたん、すぅ………と小さな光が横切っていった。
「ふざけやがってっ!」
だがそれは5メートルほど先で消えた。エリックはそこに人がいるのを感じ取った。
つかまえようと近づいた時、仄かな灯がともり、人の姿を浮かび上がらせた。
「おい、き………!」
怪人はゆっくりと振り返った人物の胸ぐらをつかもうとして、凍りついた。 
叫びたいが、言葉がノドで詰まってあがいている。
人物はよろめきながら彼に迫った。
「くっ…………るなっ!」
「マエストロォ〜〜〜〜〜〜………。」
腕を振り回し、あとずさるエリックはあるはずのない壁にぶつかった。
しかし驚く間もなくがっちりとつかまえられた。
「は、はなせ!」
「つれないね………・」
怪人の肩ごしにニュッと、巨大な顔が笑いかけた。
「ヒィッ………化け物っ!」
「ひどいわね、誰のおかげでこうなったか………。」
「そうだぞ…………!」
闇の中からランプをもった人間がぞろぞろと現れ、ゆらゆらと怪人を丸くとりかこんだ。
「やめろ、近寄るなっ来るなぁっ!!」
エリックは半狂乱で叫ぶが、彼らはどんどん輪をせばめてくる。
「ほぉら………わしの顔を見ろ……。」
グイッとブケーによく似た男が顔を突き出した。
「私も見てぇ・」
「こっちも……。」
「おれも。」
スイカを丸ごと口に入れたような顔がずらりと怪人の目の前に並んだ。
そしてランプに浮かびあがった顔がにや〜と笑った時、エリックは絶叫した。
オペラ座の怪人は『歌の神様』と呼ばれていた。
その神様の声が劇場をいかづちのごとく突き抜けた瞬間、ありとあらゆるガラス製品が粉砕した。
豪奢なシャンデリアも粉々になり、破片がキラキラと空に舞った。
劇場はパニックに陥った。
「幕だ、幕を下ろせ!」
舞台のすみで成り行きを見守っていたレイエは、舌打ちしながら伯爵のボックスへ走った。

後日、フィルマンのオフィスにコルレオーネ伯爵からの使者が訪ねてきた。
男は上品な笑みを浮かべていった。
「伯爵さまからのお言葉だ。『まさか伝統あるパリ・オペラ座で、あんな大仕掛けのお化け屋敷を体験できるとは思いもよらなかった。実に楽しい公演だった。特に孫のレイチェルが喜んでくれた。感謝する。ドンもいたく気に入られて、来年もご覧になりたいとおっしゃっている。送ったものは来年の夏のためのものだ。役立ててくれ。』」
使者は封書を差し出した。そこには以前フィルマンが受け取った額の、さらに倍の現金が入っていた。
「それではこれで失礼するが……くれぐれも伯爵との約束を忘れないようにしたまえ。」
相変わらず氷のように冷たいまなざしを支配人に向けたあと、男は帰っていった。
だが、フィルマンは
「そんな無茶な……一方的に契約を押しつけるなんて………。」
と、封筒を見つめながらボーゼンとつぶやいていた。