被災者支援活動報告 of 一関青年会議所 オフィシャルサイト


4月3日 被災者支援活動報告

4月3日、陸前高田に物資を運びました。

滝沢村アピオで積んだ生鮮野菜果物です。

まず、第一中学校に行き、先方の理事長がこんな時期だからこそ読みたい

「日本経済の未来」関係の雑誌を数冊お渡ししました。

その後、広田小学校と長部小学校にお伺いしました。

広田小学校では、昨日より電気がとおり、物資も充実していたようです。

ガソリンもいきわたってきたようで、車の往来も増えてました。

次に長部小学校に行きました。途中、高田松原新名所「一本松」を見ながら行きました。

長部小学校は自家発電でしたが、docomoも圏内になり、また物資もかなり集まっている

ようです。

取り急ぎご報告でした。

研修委員会副委員長

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4月1日 陸前高田 活動報告

お世話様です。

昨日、4月1日。高田第1中学校へ生鮮食料品等の

物資を千葉理事長、細川副理事長、私の3名で行って参りました。


いまだ700名近くの避難なされている方がおり、2100名分の食事を毎日

作らなければならず、生鮮食料品等は不足していたのでありがたいとのことでした。
「大根、久しぶりに見た。」 「おっ、油だ。」等我々にとっても運搬して

本当に良かったと思える1言もたくさんございました。

今欲しいのは、ケチャップ、ソース、マヨネーズ等のさしすせそ以外の調味料と

衣服など整理整頓するバックや小物入れ等のようです。

来週以降、再度生鮮食料品等物資輸送する場合はメンバーの皆さんにご協力を

お願いすることもございます。その際は、よろしくお願い致します。
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月19日 陸前高田 救援物資輸送

陸前高田方面への救援物資輸送の報告をいたします。

3月18日

理事長より連絡がありました「今秋田JCから物資をお預かりした。

明日、一関から陸前高田に救援物資を送りたい!!同行できないか?」

との依頼がありました。

正直迷いました。

報道では沿岸の悲惨な状況は観ていましたが実際に目にする恐怖というか、身の危険というか、、、

自分の店の復旧作業があるし、、、

それでもそこには困ってる人が居て、生きるか死ぬかの瀬戸際

ちょっとでも協力することができるのなら

そう思い、行くことを決心しました。



3月19日

メンバーより前日に救援支援物資輸送にいった時の情報をいただきました。

デジカメでとった現地の風景は報道と同じでしたが、捉える印象が違いました。

「本当にひどい状況、心の準備をしていったほうがいい 心が折れる」と言われました。

その後ルーム前に千葉理事長、細川副理事長と待ち合わせし三人で出発しました。

車中で現地の情報を共有し、行き先を陸前高田の高寿園(地域の避難場所の老人ホーム)、災害対策本部のある高田第一中学校に決めました。

道路には落石などがあるから注意するよう聞いていましたが、すでに除去されておりひび割れ等はありましたが道路路面状況は良好でした。

343を高田方面へ走り、気仙川付近一キロ手前くらいから瓦礫が見え始めました。

海までは四キロくらいある辺り「まさか、ここまで来てるとは」

気仙川付近のT字路は悲惨な状況で瓦礫が道路脇にうず高く積まれ、田んぼであっただろう地面には流れてきた家の残骸

タンクローリー、車、船、瓦礫があたり一面に散乱していました。写真や報道で観るのとは桁違いに違う壮絶で悲惨で、、、言葉では言い表せないそんな状況でした。ちょくちょく釣りに来たときにお世話になっていたコンビ二にも、、、

気仙川を逆流した津波の猛威がすべてを飲み込んだ。



T字路には、流された車のフロントガラスに突き刺さるように『迂回』の手書きの標識




前日、壱岐さん達も行った高台にある高寿園には臨時火葬場なる手書きの標識がありました

施設では電気が復旧したようで多少の笑顔はありました。水道はまだのようでした。
今すぐ必要な物資のみをおろしました。

今足りている物は他に回してほしいとのことでした。本当はいくらあっても足りない状況にもかかわらず。。。

物資の中にあった『さくらんぼ紅茶』は非常に喜ばれました。

その後救援物資の受け入れを行っている給食センターにいきました。

自衛隊車両、消防車、救急車、救援物資を運ぶ県外の車両がありました。

倉庫には物資がたくさんはこばれており、すでに満杯だと現地のボランティアの方に言われました。

その救援物資は十分ではなく避難所にもちゃんと運ばれていないことを後で知りました。

搬入は順番待ち

一刻を争う事態だという判断から直接もっていこうということになりました。



そこまでの道のり、沿岸に近づけば近づくほど悲惨な状況で、

三階建ての建物に定置網が覆いかぶさり、網には瓦礫がおびただしいほど突き刺さり見た

ことの無い想像を絶する光景でした。

長部小学校に着いて最初に目にしたのは、皆が道路でペットボトル片手に歯磨きをしてい

ました。後でわかったのですが、歯ブラシを皆に配って被災後初めての歯磨きだったよう

です。

長部小学校では近隣の避難所に物資を配る拠点になっているようでした。

ガス、水道、電気は来ていないようでした。ただ、東北電力より供給された発電機を使っ

ているようでした。(最低限の明かりのみ?)

避難者の方に手伝ってもらい荷物を小学校の体育館におろしました。

ここの物資はまだまだ足りていない様子でした。小学校に併設されたコミニュティーセン

ターの職員らしき若い方に対応していただき、今欲しい物資をききました。皆さん本当に

疲れている様子、表情も暗い感じでした。。。




状況は刻々と変化して、ニーズが変わっている、避難所により欲しい物資がちがう。未だに毛布を待っている避難所もあるそういう情報もあり、今後の支援は最低限の必要物資は行政。きめ細かい物資は民間で供給する。そう感じました。





現地を見て思うこと

我々はまず自分の仕事の復旧を一生懸命行う。一関の経済活動を止めないことが第一。
今われわれが出来ることを考える必要がある。(早急)


総務広報委員会 委員長

3月19日 秋田市での支援物資積載に関する報告

3月18日、仕事で秋田市に来ていました。
その日、一関青年団体交流会が陸前高田へ救援物資を搬送しました。
一関JCからの参加は壱岐副理事長、阿部事務局長、小野寺康君の3名。
壱岐副理事長、そして前日に高田へ物資を搬送された水沢JCの高橋理事長から
不足物資の情報を得ました。特に灯油は1日しか持たないとの事。
不足している物資は把握したものの、さて、知り合いも殆どいない秋田でどうしたものか?

とりあえず秋田JCさんのHPを検索。鈴木理事長の所信を読ませて頂きました。
理事長の熱い思い、郷土への愛情、未来への深い考えに胸を打たれました。
そして体育会系の匂いを感じ、決心。『この方を頼ろう』。勝手で一方的な話ですが。

3月19日、朝、秋田JCさんの事務所に電話。
お邪魔をするとHPの画像の方、鈴木理事長が暖かく出迎えて下さいました。
当日急にお邪魔したにも関わらず、初対面にも関わらず、親身になって話を聞いて下さいました。
秋田ブロック高谷会長、日本JCの小畑常任も駆けつけて下さり、メンバーの方々、OB先輩の方々に
一斉に連絡を取って下さいました。地震から8日後。物流が止まり、秋田にも物資が無い時なのに。
不足していた物資、灯油22缶、医療用アルコール、赤ちゃん用オムツ、ミルク、衣類、電池、カイロ等々を
集めて下さいました。メンバーの方々も一人また一人と物資を持ち寄って下さいました。

次に鈴木理事長は私を連れて秋田県庁へ。担当課長さんに直談判し県に集まった救援物資を積載しました。
担当課長さん始め皆さんで積み込んでくれ、2tトラックは9割方埋まりました。残るは女性下着と生理用品。

鈴木理事長と2人、ドンキホーテへ。女性下着売り場のド真ん中でかごを持ち、ホホを染め、佇む2人。距離を取る女性客の方々。
死ぬ気で女性客の方にアドバイスを求め、カゴ一杯にパンツと下着と生理用品を詰め込みました。売り場を出るときはゲッソリ。
トラックに女性下着、生理用品を積み込み積荷はギッシリ。2人でトラック運転席へ。気がつくと夕暮れ。
『いやー、死ぬほど恥ずかしかった。ハハハハ。』『いつか、この体験を思い出話に飲もう』『その時が来るように頑張ろう』約束をしました。

翌朝、貴重な物資と秋田の方々の気持ちで一杯のトラックは秋田JCの皆様に見送って頂き、高田へと出発。
鈴木理事長を始めとした秋田青年会議所会員の皆様、OB先輩の皆様、秋田の皆様の
熱い気持ち、優しさ、人情にただ、ただ、感謝申し上げます。本当にありがとうございました。
いつか思い出話で飲める時が来るように、頑張ります。

                                                理事長