夕闇にまぎれて
その知らせは3羽の伝書鳩、5頭の駿馬、7艇の軍船を使って届けられた。
ナーディルは迎えがいるのを素早く確かめると、船が錨を降ろすより早く飛びだした。
「将軍!こちらへ!」
手綱を手にした男が大声で手招いた。
「ごくろうっ!」
言葉の終わらぬうちに彼は鞍にまたがると、猛スピードで駆けだした。
途中過ぎ去る景色に目をやる余裕も、彼を認めて手を振る市民にもかまわず走り続けた。
ほどなく白くまっすぐにそびえる二対のモニュメントが見えた。
蒼穹に映える。
彼は少し速度をゆるめ、歩哨に合図した。
堂々たる体躯の男は一礼すると、叫んだ。
「お早く!」
ナーディルは先ほどから続いている不安が、さらに悪いものへ変わるのを感じた。
鮮やかな花で彩られた庭園を抜けたところで馬を下り、大理石の廊下を走った。
人気がなく、明かりもなく、ひんやりしていた。
彼は不安と必死で闘いながら、建物の一番奥、離宮まで進んだ。
突如視界が開け、一瞬目がくらんだ。
春の光満ちあふれる翠鮮やかな庭。正面にマホガニーで作られたバルコニーが張り出し、その奥に天蓋つきの寝台が見える。
薄暗い室内は静まりかえっている。
高い空で、ヒバリがさえずっていた。
ナーディルは早鐘をうつ心臓に目眩を覚えながら、中をうかがった。
その時。
「無礼者っ!」
声より早く、スリッパが飛んできて、彼の顔面を直撃した。
「陛下・・・・・ご機嫌よろしいようですね・・・」
顔に型を残し、ナーディルはひざまずいた。
「レディの部屋をのぞくとはなにごと?」
将軍は顔を上げると、仁王立ちになった。
「そちらこそ、スリッパを投げるとは何事です?私がそんなマナーをいつお教えしましたか?」
もう一方も命中した。
ナーディルは無言のまま、スリッパを拾い上げると、バルコニーまで歩み寄った。
「分かりました、私の負けですよ。冷えますからベッドにお戻りになるか、スリッパを履かれるかどちらかにしてください」
将軍は穏やかに言いつつも、眼下の少女を威圧するように睨んだ。
聞こえた様子もなく、少女はつややかな黒髪を束ねた髪留めを外すと前に垂らした。
そして、腕をつきだした。
「庭へ連れて行って。咲き始めた薔薇が見たいわ」
ナーディルは息をつくと、彼女を抱き上げて腕に抱えた。
身の軽さが胸に応えた。
バルコニーにケープが掛けられていた。それをとり、器用に彼女をくるんだ。
「それで、陛下、今度は何のご用で私を呼ばれたんです?まさか薔薇をごらんになるためじゃないでしょうね?」
だが彼女はむくれて、ぴしゃりと言った。
「ナーディル、あんたいったい何のつもりなの?こんな物であたしを包んだら、つかまるところがなくて落っこちるわ!」
将軍が口を開きかけるや、小さな手が飛び出して綺麗に手入れされた髭を鷲掴みにした。
「ふぇ、ふぇいか!」
「おだまり」
髭を頼りに右腕が男の首に巻きつき、残った腕が肩に巻きついた。
器用にもケープは体をちょうどよく覆っている。
「レディの扱いをもう一度おべんきょしなさいね!」
耳元で怒鳴られて、ナーディルは危うく転びそうになった。
「しっかりしてよ、ばかっ」
「はいはい、申し訳ありませんでした」
首に当たる皮膚の冷たさに、彼は自分の心臓も凍りつくような気がした。
「陛下?」
熱い物がかかるのに目を向けると、少女は男の胸に顔を埋めて荒い息を吐いている。
急いでドアに向かおうとしたとき、今度は耳を引っ張られた。
「まだ寝ないわ、薔薇を見にゆくの!」
喘ぎを必死で押さえて、彼女は反対側を指さした。
ナーディルは喉まで登ってきた言葉を、あえて飲みこんだ。
代わりに答えた。
「陛下、ちょっと我慢なさってください」
両腕でしっかりと華奢な体を抱きしめて、走り出した。
薔薇の庭は一番奥にある。
水仙、ランタナ、デイジー、ビオラ、スイートアリッサム、アネモネ・・・。
亡き彼女の父が植えた花の庭を駆け抜け、ついに見渡す限り薔薇の咲く場所へ出た。
ナーディルは一瞬、目がくらむと同時に足がすくんだ。
これ以上進めば、自分の大切な物を連れ去られてしまうような気がした。
後じさりかけた時、王は毅然と言った。
「降ろしなさい」
ためらいを許さない声だった。
将軍は動きを止めた。
少女はしっかりとした足取りで降り立ち、奥へ進んだ。
ナーディルは見守るように後へ続いた。
八重の花弁を持つインカルナータの前で止まった。
白薔薇に囲まれてすら、彼女の顔色は青白く見える。
いましも開こうとする蕾に手を伸ばした。
愛おしむように、憎むように、薄い手のひらに包んだ。
「向こうに満開の薔薇がありますよ」
将軍が言ったとたん、睨まれた。
「枯れるだけの花なんて興味ないわ!これがいい」
「でしたら、摘んで参りましょう」
「だめっ!だめっ!」
どこにこれだけの力が残っていたのかと思えるくらいの叫びだった。
むしろ悲鳴だと、ナーディルは思った。
少女は全身で蕾に覆い被さった。
「陛下、とげが・・・」
将軍はとっさに彼女を引き離した。
「離しなさいっ!殴るわよ!」
将軍はとっさに彼女を離した。
「分かりました。仰せの通りにします。ですが陛下、『殴る』はないでしょう?」
「おまえが余計なことをしようとするからよ」
ぷいっとそっぽを向いた。
だがそれはつかの間で、王は左の中指を突きつけた。
「ナーディル、約束の物は?」
「は?」
「忘れたなんて言わせないわ。この間帰ってきたとき、『薔薇が咲いたら贈り物をする』って言ったでしょう?もうろくしたわね」
あまりの剣幕に冷や汗をかきながら、将軍は必死で思いだした。
答えはすぐに見つかった。彼はポケットをまさぐると、レースでくるんだ物を取り出した。
「忘れておりません、お望みの物をここに」
ヴェネチアンレースをほどくと、中から鮮やかなピジョン・ブラッドが現れた。
取り出し、厳かに王の手を取る。
中指にはめたが、緩くて宝石がくるりと輪を描いてしまう。
さっと少女は青ざめたが、隠すように目をつり上げて怒鳴った。
「役立たず!全然サイズが合ってない!薬指しかはまらないわ!」
「申し訳ありません!」
ナーディルは跪いて深く頭を下げた。
彼は自分の仕事が間違っていないと知っていた。
だが理由を口にすることは、許されなかった。
それよりもあれほどまでにやつれてしまったことが、衝撃だった。
「もう・・・いいわ・・・、今日は許してあげる。その代わり、今度くる時はまともな物をもってくるのよ」
やっという感じで言葉をはき出すと、俯いたままの彼の肩に手を置いた。
「少し疲れたわ。休むから手伝いなさい・・・・・・」
「はっ」
ナーディルはいつものように少女の両手をとると、膝に乗せ、柔らかく抱きしめた。
「ゆっくりとお休みください。何があってもお守りします」
少女はぐったりと身を任せたまま、ぼんやりと遠い空を見た。
「そうね・・・お父様もおっしゃったわ。」
それきり、目を閉じた。
か細い息づかいを聴きながら、ナーディルは亡くした息子の顔を思い出した。
腕の中の王と同じくらい青白い頬。弱々しい息。力無い体。
なぜ?と、疑問がよぎる。
なぜ?この少女まで?
繰り返すたびに、鋭い痛みが心に走る。
なぜ?
見上げた空のまぶしさが目にしみた。
バルコニーにもたれて見るともなしに夕暮れを眺めていると、横へ中年の男がやってきた。
足取りが重い。
ナーディルにはその意味が十分過ぎるほど分かっていた。
男は懐から煙草を取り出し、彼に勧めた。
「すまん。持ってくる余裕がなかった」
「おれのじゃない。部屋にあったのを持ってきたんだ。あんたが好きなやつだ」
将軍は黙って頷いた。
「カーン、休んだらどうだ?向こうに食事と酒が用意してある」
顔色を見たのか、彼は語気を強めた。
だが、ナーディルは首を振った。
「ギー、悪いがそんな気分じゃない。私は・・・」
ぎゅっと、男は肩を掴んだ。そして部屋を振り返って言った。
「陛下があのご容体で手配されたんだ。おまえが喜ぶだろうと、色々な物を・・・」
「知っている」
ナーディルも部屋を振り返った。
室内は死のような静けさに支配されている。
あと何日、と言いかけて口を閉じた。ギーでなくても自分には分かる。
何度も経験してるのだから。
ナーディルは庭へ降りた。
「私はもう行くよ」
男は慌てて駆け寄った。
「待てよ、おまえがいなくなったら陛下がどんなに寂しがられるか・・・。今朝もおまえが来るまで、寝返りを打たれるのも難しいご様子だったんだ」
将軍は男の腕をぎゅっと掴んだ。
「分かってる、分かっているよ。私だってずっとおそばにいたい。・・・だが、陛下が私を呼びつけることで、少しでもお元気になるなら、何度でも帰る、何度でも戻ってくる、たとえ地の果てからでも・・・!」
懸命に感情を抑えた声が、ギーの胸を切なくさせた。
「カーン、陛下におまえが戻ったって伝えておくよ」
「・・・頼む」
ナーディルは腕を放すと、くるりときびすを返した。
陽はすでに落ち、あたりは夕闇に包まれている。
風も凪ぎ、静かだった。
夜明けは二度と訪れない気がした。
ナーディルは走り出した。
めちゃくちゃに走り、気が付くと、モニュメントの前にいた。
激しく喘ぎながら崩れるようにもたれ、うずくまった。
「神は残酷だ。私から息子も、陛下も奪ってゆく・・・・・!」
夕闇に紛れて、彼は泣いた。
彼が任地に戻ってまもなく・・・その知らせは届いた。