逝く恋
ヴェネチア。パラッツォ・ドゥカーレ内総督の私室。
定例の会議が終わったら、待っていてほしいとアンドレア・ヴェンドラミン様がおっしゃった。
窓から差しこむ春の光は、眩しい中にも柔らかな麗らかさある。
誘われるように窓を開けると、一陣の風が吹き、机の上の書類を巻き上げてしまった。
「やぁだ」
慌てて拾い集めそろえてみると、懐かしい物が出てきた。
2年前に総督と交わした『契約書』。復活祭の翌朝、あたしは総督の専属の高級娼婦として契約を結んだ。
彼と過ごした季節を思い返す。総督はあたしを片時も離されず、とても大事にしてくださった。
あたしもおそばにいられて楽しかったし、なによりお声を聞くのが嬉しかった。
同時にある人を思い出して切なくなることも多かったけど・・・。
ふと、書類の端に目がとまった。今まで忘れていたけれど、契約期間が今月いっぱいになっている。
更新は総督が望まれれば、迷わず受けたかった。
ドアがノックされた。
胸がきゅっとした。
「アナベラ?」
「はい、ここに」
待ちかねた様子でドアが開き、金襴緞子のマントを翻して白髪交じりの男が入ってきた。
灰色の瞳が煌めいている。
あたしは両腕を広げて駆け寄った。
「ああ、疲れたよ」
言いながらひょいとあたしを抱き上げ、そのままゆっくりとソファに足を運んだ。
そして宝物を扱うようにあたしを降ろした。
「ヴェンドラミン様、お疲れでは?」
軽く睨みながら、広い肩に腕を回す。
「君が元気をくれるだろう?」
いたずらっぽく笑みを浮かべて、あたしの頬を撫でると唇を寄せた。
いつものように甘い口づけを交わし、見つめ合い、もう一度唇を重ねる。
最初は仕事の一つとしてこなしていたけれど、この頃自然にそうするようになっていて、時々自分の気持ちが分からなくなる。
でも今日はいつもと違って、総督があたしを抱きしめたまま動かない。
「ヴェンドラミン様?大丈夫ですか?」
はっとして、彼は腕を解いた。
「君があまり素敵だからつい・・・儂はこう見えても欲張りなのだよ」
「まぁ、・・・光栄ですわ」
嫣然と笑って見せた。そして総督の豊かな髪に指を滑りこませ、何度も頬ずりした。
「アナベラ、アナベラ、これ以上儂を刺激しないでくれ」
悲鳴を上げる男の頬を両手でそっと包み、唇をすぼめる。
「あなたも立派な殿方ですものね?」
しかし彼は苦笑しながら答えた。
「儂はもう老人だよ、だから忘れっぽい・・・。これ以上何かされると大事な用件を忘れてしまうのだ」
「大事な?良いことですか?」
「君にとっても、ヴェネチアにとってもね。・・・おめでとう、君の弟が大佐に昇格した。異例の早さだが全員の賛成があった。それから明日より儂の身辺警護に当たる、どうだね?」
最初、何を言ってよいか分からなかった。いろんな思いがこみ上げてきて、胸がいっぱいになる。
「よしよし」
彼もまた目を細め、子供をあやすようにあたしの頭を撫でた。
「嫌だわ・・・」
言いながらも声が小さくなり、視界が霞む。
総督はそっとあたしを抱き寄せ、優しく囁いた。
「君の願いは叶う。以前と同じようにマルコと暮らせるよ」
「はい・・・。あの子、頑張りましたね、誉めてあげなくちゃ」
「うん、うん。君もね、よく頑張った。君たち姉弟は儂の誇りだ」
あたしは総督の服を濡らしてしまう前に顔を上げた。
それを待ちかねたように彼は口を開いた。
「アナベラ、お祝いといっては何だが、儂とパリへ行かないか?もちろんマルコも一緒だよ」
開通したばかりの列車に乗って本土へ入った後、馬車での移動になった。
これまで総督のお供でフィレンツェや、ミラノ、ローマへ行ったけどパリは初めて。
マルコは初めての国外なのか、総督を前にしているためかずっと姿勢を崩さない。
遠慮がちに言ってきた。
「姉上楽しそうですね。何かお好きな物が見えますか?」
「ええ、とても綺麗だわ」
自然に声が弾んでしまう。いけない、いけない。弟と一緒だから気が緩んでいるわ。
でも、抑えられない。
生まれた国はそれは建築は見事だけれども、緑が少なくて寂しかったから。
だからパリに延びる路の途中、どこまでも続く麦畑はあんまり綺麗で胸がどきどきする。
「ああ、そういえば姉上の目の色にとても似ていますね」
「どれ?」
と隣の総督があたしの顔をのぞきこんだ。
いたずらっぽく目を伏せて、
「場所をわきまえくださいね」
と唇を寄せる。でも総督は
「儂は美しいものに目がないのだよ」
と屈託なく笑っている。
軽く睨んでみせ、再び景色に魅入る。
不意に思い出した。あの人の言葉。
『アナベラ、君の目の色は生まれたばかりの葉の色だね。綺麗だよ』
懐かしく、そして忘れられないあの夜。
今思い出しても、夢のようなひとときだったわ。
大切に大切に抱いてもらったの。はじめは怖かったけど、あの人をあたしの中に迎え入れたとき、どんなに幸せだったか、伝えたくて、でも言葉にならなくて、もどかしかった。
いつかあの人に会えますように、会えますように。いったい何度祈ったかしら。
あたしのただ一つの恋。
でも・・・。ふいに、願いが届かなくなりそうで怖くなる。
どんなに高価な贈り物をされても、必ずつけていたピアスが、この間壊れてしまった。
あたしとあの人を繋いでいた確かなものも千切れてしまったようで、切ない。
「・・君のピアスのことだけど、アナベラ?」
怪訝な声で総督が肩に触れた。
よほど深刻な顔をしていたらしい。 さりげなく笑顔を装い、目を向けた。
「馬車に酔われましたか?大丈夫ですか?」
弟が心配そうに身を乗り出した。
「違うわ、マルコ、少し考えごとをしていただけよ。だって、パリには素晴らしいモードがたくさんあるって聴いているから・・・わくわくしているの」
「そうですか・・・」
ほっとした様子で席へ戻った。
再び総督が話しかけてきた。今度は声が柔らかい。
「済まないが、ピアスを今一度見せてくれないかな?持ってきているだろう?」
「ええ、でも、壊れていますわ」
「かまわんよ」
彼は眼鏡を掛けるとあたしから宝石箱を受けとった。
代々のドージェ御用達で作られたそれは、持ち主にふさわしい豪華さを備えている。
きらりと、アレキサンドライトの象眼が差しこむ日に反射した。
アンドレアは指先で慎重にピアスを取り出し、かすかにうなりながら、赤色を陽にすかした。
かつてヴェネチアの全盛期を支えた総督グリッティに似て、彼の審美眼は鋭い。
そして、思いやり深いところはあの人と同じだった。
あのとき、総督は取り乱したあたしを慰めてくれた。それだけでなく、痛む腰をかがめてテーブルの下からなくした破片を見つけてくれた。
「そんな目で見ないでくれ。ときめきで、倒れてしまいそうだ」
白くなった睫をしばたく。
「あら、これは恋する女の特権ですわ」
「なるほど」
いかにもという顔で、おおらかな笑いが舞い上がった。
「そ、総督」
見ればマルコが耳まで染めて赤くなっている。
「ああ、若者には目の毒だ。大佐、これに目を通しておいてくれ。少しは気が紛れるだろう」
「は、はいっ」
老人から差し出された数枚の書類をひったくるように受け取ると、どう考えても読んでいると思えない距離に顔を寄せている。
総督はこみ上げてくる笑いを必死にかみ殺して、窓の外に目を向けた。
たった二十歳で大佐になったこの若者は、ここまでくるために恋をする時間も惜しんだのだろう。
たった一人の姉のために。
姉によく似た青年はその気になれば、どのような美女も手に入れただろうに。
その純粋さが、不器用さが、総督にはとても好ましく思えてならなかった。
「ありがとう、君の大切なものを見せてくれて」
丁重に箱をあたしの手の中へ戻してくれた。
でも、中にあるものが愛おしくて、なかなか仕舞う気になれなかった。
だが男は暖かなまなざしを向けた。
「まもなく道の悪いところにさしかかるから・・・。はずみで落としては大変だ」
その言葉にはっとなった。彼に微笑んで、鞄に戻した。
あたしが身を起こすと、総督はちらりとマルコに目を向け、こっそりと囁いた。
「儂は敬虔なキリスト者だが、今だけは信仰を捨てたくなるよ。なぜ君と二人きりじゃないのだ?」
あたしはくすぐったく思いながら、伏し目がちに答えた。
「あたしと出会ったこともお恨みに?」
声を潜めたつもりだったが、無駄だった。
マルコがさらに顔を赤くして、席から滑り落ちた。
その姿に総督はくすくすと笑いながらも、パリで逢う友人はマルコをこの点でも鍛えてくれるだろうと思うとちょっと惜しい気がした。
パリ郊外の貴族の別館にあたしたちは泊まることになっていた。
着く前にごくごく小さな屋敷と聴いていたのに、実物はパラッツォ・ドュカーレに匹敵するほど大きい。でも、洗練された落ち着きある作りで、持ち主の人柄を偲ばせた。
使用人に案内された部屋は、趣味のよい調度品で整えられた静かな一室だった。
初めから決められていたように、部屋は姉弟で使うよう言われた。
「君との逢瀬は夢で楽しむことにするよ」
総督は小さなキスをあたしの手に残し、屋敷の主人と去った。
足音が消えるやいなや弟が口を開いた。
「姉上・・・」
「昔のように『お姉ちゃん』がいいわ」
「うん、お姉ちゃん」
改まった声が幼さを残すものに変わった。声が終わらないうちに、すらりとした影が横に立つ。
「マルコ、背が伸びたわね。お父様と同じくらいよ」
五年ぶりにあった弟は、すっかり大人びて別人に見える。
だけど、首の細さが僅かに面影を残していた。
「まだまだ僕は低いんだ。上官は僕より一回りも大きいよ」
あたしは目を丸くした。
今でも弟の背はあたしの頭一つ分上だというのに、彼の上官はそれより高いなんて。
急におかしくなった。
「じゃあ、この部屋にはいるときに頭をぶつけちゃうわね」
マルコも小さく笑った。
その声には初めて肩の力が抜けたような明るさがあった。
「お姉ちゃんは、やっぱりお姉ちゃんだ」
「なぁに?あたし、そんなに変わった?」
いつもするように声を装い、大胆なほど身を寄せる。
窓から差しこむ夕陽に、ブルーダイヤのネックレスが煌めいた。
「お、おねえっ・・・」
悲鳴に近い声で弟は後ずさった。見れば火が点いたように顔が赤い。
「やだっ・・・!」
こっちまで頬がほてってしまった。
「おねえちゃん、お願いだからそんな声は出さないでよっ!ぼ、ぼくっ・・・」
皆まで聴く必要なはかった。
この五年間で身につけた仕草が彼を追いつめてしまったようだ。
だが、この反応。
それが彼の将来にどんな影を落とすか、すぐに分かった。
「マルコ、ちょっといらっしゃい」
有無を言わせぬ口調に弟はかちこちに固まって歩いてきた。
すかさず襟首を掴み、平手打ちを食らわせた。
「おねーちゃん、痛い!」
ひるまずもう一発。
「ねーちゃん!乱暴!」
「何が乱暴よっ!あんたのためにやってんのっ!」
マルコは目を潤ませながら、あたしを引きずって後ずさりした。
もう一度と思ったが、手を挙げる代わりに厳かに言った。
「よく聴きなさい。あなたは『大佐』なのよ。その若さでそれだけの地位を得れば、自分の年の十倍の敵を作ったと知りなさい。人間はあなたみたいに良心的な人ばかりじゃない。あなたは強く強くなって。決して油断しないで。いいこと?弱みを見せてはいけないわ。どんな時でも、たとえあたしにでも」
弟はびくっとして、それから手のひらで目をこすった。
彼は利発な男だった。あたしの真意を読みとったに違いない。
だが、マルコがどう考えを進めるかまでは分からなかった。
「マルコ・・・・」
しわくちゃになるまで掴んでいた襟首を離し、待った。
彼の利発さを信じること、それが重要だと分かっていたが、不安で胸がつぶれそうになる。
だが、後悔は許されない。
祈るような気持ちで見つめていると、弟は両手をすっと降ろし、きりっと顔を上げた。
そして膝を折り、震える手であたしの手を取った。
「約束します、姉上。私はもっと強くなります。誰も追いつけないほど強くなって姉上を守ります。・・・・ただ・・・」
勇ましかった声が急にしぼんだ。安堵の気持ちも一緒にしぼんだ。
あたしはぎゅっとマルコの腕を握り、身をかがめた。
「ただ?」
弟はまたもや頬を染め、弱々しく声を絞り出した。
「姉上、お願いです。ずっとそばにいてください・・・もう、私をおいてゆかないでください」
「もちろんよ、もう離れないわ」
あたしは愛おしくなって、ぎゅっと彼を抱きしめた。
あっと思ったが遅かった。
「おねぇーちゃーん・・・・」
あたしの胸の中、マルコは茹で蛸もかくやという顔で目を白黒させていた。
夜半。疲れているのに不思議と寝つけなかった。
何か飲もうと身を起こしたとき、ドアの向こうで小さく声がした。
「アナベラ、起きているかね?」
こっそりとベッドを抜け出し、クリーム色のティーガウンを羽織った。
音を立てないようにドアを開けると、総督が立っていた。
「どうなさいました?もうお休みかと・・・・」
「君のおやすみのキスがほしくてね」
言葉と裏腹に瞳が翳っている。
頬にも影が濃く宿り、別人のように老いて見える。
あたしはそっと背後を振り返り、穏やかな寝息のリズムが変わらないのを確かめて廊下へ出た。
ぎゅっと総督の手を握り、柔らかく見つめた。
「わざわざ・・・出なくても」
総督は次の言葉を飲みこみ、一度深く息を吸い、そして意を決したように口を開いた。
「一緒に散歩をしよう。マルコは眠っているのかね?」
あたしはくすっと笑った。
「ええ、寝ずの番をしてくれると言っていましたが、・・・椅子に座ったまま眠ってしまいました。これは内証です」
「そうか、君との秘密がまた増えたね」
いつもなら微笑んでくださるのに今夜は違う。
心臓を鷲掴みにされるような不安を覚えた。
「ヴェンドラミン様?」
あたしはたまらなくなって、彼の腕にしがみついた。
「アナベラ、君と出会って2年だね、・・・老いた身に月日は早い・・・」
誰に言うともなく呟き、あたしの肩をぎゅっと抱いた。
冷ややかな風が幾度も吹き抜けた。
遠くの森が低くざわめく。
十六夜の月が高くかかり、あたしたちの姿をおぼろげに照らした。
屋敷を忍び出て半時間。お互いに一言も発しないまま、総督を先頭に歩き続けた。
こういう時、余計な詮索をせずに耐えることを学んでいた。
やがて、小高い丘に出た。
総督は足を止め、振り返り、あたしに手をさしのべた。
矢も楯もたまらなかったが、平静を装って手を取った。
彼は両手であたしの手を包み、引き寄せた。
抱きしめられても不思議じゃない距離。見上げると薄い明かり中、灰色の瞳が痛いほどの視線を注いでいる。
ぼんやりとした不安が、確実なものに変わろうとした。
「ヴェンドラミン様、ヴェンドラミン様、どうなさったのですか?」
彼は答えず、握りしめていた手を離した。そして、目を伏せた。
重苦しい空気が漂う。あたしは無意識のうちに両腕で自分を抱きしめた。
やがて総督はゆっくりと口を開いた。
「アナベラ、儂との専属契約は今月で終了にする。君は自由だ」
言葉の最後まで、聞き取れなかった。
全身の血が一気に足から流れ出した気がした。
「な・・・ぜ・・・?」
声がかすれる。
力が抜け、立っているのがやっとになる。
それでも残った力を振り絞り、言った。
「なぜ、ですか?あたしにご不満があるのならおっしゃってください」
自分でも驚くほど声ははっきりしていた。
「不満など、とんでもない話だ。君はこの2年間、本当によく仕えてくれた。よく学び、名実ともにヴェネチア一の女性に成長した」
「それでしたら、どうしておそばにいられないんです?」
「儂がしてあげられることは全て終わったからだ。パリで君を待っている男がいる。アナベラ、君がずっと探していたナーディル・カーンだ」
あたしは自分の耳が信じられなかった。
弱々しかった鼓動が、一転力強く早鐘となる。
「あの人が・・・見つかったのですか?」
食い入るように総督の口元を見つめる。彼は黙って頷いた。
「信じられない・・・」
あたしはぎゅっと自分を抱きしめた。痛いほどの感触がこれが現実だと教えてくれる。
総督はそっとあたしの肩を抱いた。そして、誇らしげに囁く。
「アナベラ、君の夢は叶う。儂は君と過ごせた日々を光栄に思う」
しかしその響きにどこかうつろさが含まれていた。
あたしは訝しく彼を見上げた。その一瞬前に総督は目をそらし、あたしの前髪を優しく掻き上げると、暖かな唇を額に押し当てた。
「今や全ヨーロッパで君の名を知らぬ男はいない。君という優秀な生徒を持って、儂は幸せな男だった」
『生徒』という言葉に胸がずきりとした。
それだけの存在だったの?切なさがこみ上げてくる。
その思いは自分でも持てあましてしまうほど、強い。
あたしはもう一度彼の瞳を覗いた。
総督は暖かな笑みを浮かべた。
だが、返ってきた言葉は初めから用意してあったようにも聞こえた。
「どうしたんだね?嬉しくないようだが・・・」
自分でも、ぎょっとした。さっきまで震えていた心が今は暗く沈んでいる。
「そんなことは・・・ないです」
口にした言葉をもう一度心の中で繰り返した。
五年間ずっと追い求めていた人だもの。逢いたくないはずがない。
そうよ、あたしの努力が報われたんだわ。嬉しくないはずがない・・・。
理屈が表情を変えた。
輝くような笑顔だと、総督は胸が痛くなった。だが、自分の決心は変わらなかった。
総督は『安堵』の息を漏らした。
大きな手であたしの頬を柔らかく撫でた。
「美しい人を間近で見られなくなるのはとても残念だが、君の夢が叶ったのだから仕方ないな」
言葉の終わらないうちに、さっと心臓が凍りついた。
今の言葉の意味を確かめたいと願ったが、唇が動かない。
改めて・・・・意味は聴かなくても分かっていた。
ヴェンドラミン様の元を去る。二度と会えなくなってしまう。
それが唇を凍らせていた。
なぜ自分がこれほど動揺しているのか理解できなかった。
幼いマルコと別れたときも、ナーディルがいないベッドに独り残された時も、こんな気持ちにならなかった。
そして、激しい後悔に襲われた。
笑顔を作ってしまったことで、あたしは永久に引き返せなくなってしまったと・・・。
アンドレア・ヴェンドラミンは部屋に戻った後、考えていた。
以前から、アナベラを祝福しようと決めていた。
彼女はナーディルに逢うためだけに努力してきた。それは公平に見て賞賛したくなるほどのひたむきさで、いつしか彼も協力を惜しまなくなった。
目指す男が軍人だと聴いていたため、彼女の存在が知れ渡るよう、わざわざ軍の慰問活動に連れて行ったり、謁見に訪れる各国の大使と会わせてみたり、ダンドロを通してC・D・Xを使ったりもした。
しかし、探索は思いほか難航した。
アナベラが最初にいた娼館はすでに廃業していて、手がかりに乏しいだけでなく、同業者の口も堅かった。頼りは『ナーディル・カーン』という名前だけだった。同じ名前の人物を知っていたが、同姓同名や偽名の可能性もある。
報告のない毎日に苛立ちがあった。彼女の姿を見るたびに早く喜ぶ顔が見たかった。
だが3ヶ月、半年、一年と経つうちに、彼の心が微妙に変化していた。
部屋に届けられるC・D・Xの報告書を疎ましく思うときがあった。
これに目を通さなければ、一日でも長くアナベラを手元に置ける。幾度と無く、そんな考えが心を占めた。いつの間にか、彼女の存在がアンドレアの中で別の対象に変わりつつあった。
しかし、彼は分別のある大人だった。誘惑を押し殺し、書類に目を通し、彼女を教育した。
その一方で来るべき日のために覚悟を固めていた。
その日は、突然やってきた。
アナベラが探し求めていた男は『ナーディル・カーン』だった。アンドレアの長年の親友だった。
最初にわき起こったのは『嫉妬』だった。だが、次に『安堵』した。
何故ならナーディル・カーンは、彼が知るうちでもっとも勇敢で思いやり深い男だからだった。
あの男になら、アナベラを任せられる。
結論はあっさりと出た。しかし、これは理性の声で、彼はそれから何日も眠れない日が続いた。
アンドレアはようやく自分の気持ちに気が付いた。
だが、アナベラを想えば想うほど、道は一つしかない。
そして、ついに決心した。
「これで良かったんだ、良かったんだ。あの娘もようやく幸せになれる、これで良かったんだ・・・・・・」
ヴェネチアを発つ前に自分に言い聞かせたことを、改めて彼は呟いた。
いつもより早く目を覚ましたあたしは、鏡を見るより先に化粧道具を取り出した。
そして、いつもより華やかに装った。
「綺麗よ、アナベラ。今日は笑顔を忘れないでね」
豪奢なレースで飾られたデイドレスをまとう。ブロケードサテンのスカートがふわりとはためく。
「最新のデザインだけど、ヴェンドラミン様はお気に召すかしら・・・」
昨夜の帰り道、総督が黙りこんでしまったことが、心に重くのしかかっていた。
あの方の笑顔が見たかった。お声が聞きたかった。
宝石箱には総督からいただいたアレキサンドライトのイヤリングが入っている。
これまでナーディルからもらったピアスしか付けたことがなかった。でも、それを思い出す余裕もなく、耳を飾った。宝石箱にはおそろいのネックレスも入っている。ブルーダイヤで周りを囲まれたアレキサンドライトが煌めきを放つ。
もう一度鏡の中の自分を見つめた。
続き部屋から戻るとマルコがドア越しに誰かと話していた。横顔が緊張している。
「ヴェンドラミン様!」
叫ぶが早いか弟を押しのけて、総督の正面に立った。
「おはよう、アナベラ。今日は一段と綺麗だね」
一瞬灰色の瞳が見開かれた。だが、瞬く間に穏やかな微笑みに覆われて消えた。
その微笑みが、切なかった。
だけどあきらめたくなかった。あたしはぐっと身を寄せた。
総督はあたしの肩を柔らかく抱き、そして視線をあたしではなく、肩越しにマルコに向けた。
「マルコ・コルフェライ大佐、君は姉上から片時も離れず警護するのだ。儂が中止命令を出すまで。いいかね?」
「はっ」
あたしはいぶかしんで総督と弟を見た。
マルコはうれしさと緊張の入り交じった顔で敬礼し、総督は不自然なほど表情を崩さない。
あたしは思わず総督の首に腕を回した。
口づけがほしかった。確かなものがほしかった。
だが、ヴェンドラミン様は優しく腕をほぐすと、いたずらっぽくウィンクした。
「アナベラ、いけないよ、今度こそマルコが気絶する」
はっと我に返って振り向くと、言葉通りに弟は真っ赤な顔をしている。
「マルコったら・・・」
半ば呆れつつ、軽く弟の頬をたたいた。
背後で小さく笑い声が響く。
「じゃあ、アナベラ、出発は9時だ。また後で」
言い残すと総督は足早に去っていった。
結局ヴェンドラミン様は、パリに到着するまで潔癖なまでにあたしに触れようとしなかった。
物静かだが、どこか寂しげな顔で流れゆく風景を見ていた。
ヴェネチア領事館にあたしたちが到着した頃、霞がかった空を夕暮れがゆっくりと染めていた。
昨日と同じくマルコと同室になり、憂鬱な気分のまま珈琲を飲み終えたところで夕食になった。
奇妙に思えるほど厳かに夕食が終わった時、おもむろに総督が切り出した。
「疲れていると思うが、明日各国の大使を招いて内輪の晩餐会を行う」
マルコの目が輝いた。
「警備は自分が指揮を執ります。お任せください」
だが総督は軽くウインクして首を振った。
「君の手腕を見られなくて残念だが、明日はアナベラと一緒に参加してもらう」
「な、なぜですか?」
マルコは全く合点がいっていないと言う顔をしてあたしを見た。あたしも同じ顔で総督を見た。
そのよく似た顔立ちの姉弟に、思わず言葉の主は吹き出しそうになった。
あわてて息を整えつつ、口を開く。
「コルフェライ大佐、君は自分の容姿がどれほどご婦人方を惑わせるか、考えたことがあるかな?仮に君を警備につけたりなどしたら、儂はパリ中の御婦人の恨みを買ってしまうよ」
「自分は・・・さほど醜くも綺麗でもない顔だと認識しておりますが・・・」
弟はさらに首をひねっている。総督は面白がっているときの癖で何度も顎髭を撫でた。
「アナベラ、君も分からないかね?」
「容姿?」
改めて正面の弟をまじまじと眺めた。
あたしと同じ金色だけど少し堅めでウエーブのかかった髪、男の子にしてはきめが細かく透き通る白い肌。それくらいなら西欧でありふれている。しかし、精悍な頬のライン。引き締められた口元、明るく澄んでいて、強い光りを秘める瞳。深みのある声。こんな男性に微笑まれたら、あたしだってどぎまぎしてしまう。
「分かったかな?」
あたしは頬が熱くなって来るのを隠しきれないまま頷いた。
まだマルコは怪訝な様子でいる。
誇らしいと感じながらも、ここまで鈍いと情けない。
「ヴェンドラミン様、私は一介の軍人です。なぜそのようなことが起こるのです?」
明日の主賓はくすくすと笑いながらも、もったいぶって答えない。
ちらりとあたしに視線を投げた。
ああ、もう。
くいっとマルコの腕を引っ張り、耳打ちした。
「夕べあたしと約束したわね?あなたは誰よりも強くなるのよ。いい?理解できなくても良いから、あなたはとても魅力的だと信じなさい。そういった殿方は晩餐会ではご婦人のお相手をするのがつとめなの」
みるみる弟の顔が引きつった。
「ご婦人の・・・・お相手ですか?あの、挨拶するだけですよ・・・ね?」
すがるような眼差しだったが、受け止めないで首を振った。
「ご挨拶から始まって、お話相手、舞踏のお相手、それから・・・・」
マルコの顔から血の気が失せてきた。
このままでは総白髪になりかねんなと総督は思った。
視界にはいるように唇に指を立てた。あたしが口を閉じると同時に席を立った。
「大佐、儂と一緒においで。失礼のないようご婦人とのつきあい方を伝授してあげよう」
「あ、ありがとうございますっ!」
椅子から飛び上がると弟は歩き始めた総督の後を追った。
見送りつつ、呟いた。
「あそこまで女性が苦手だなんて・・・明日は大丈夫かしら・・・今度こそ気絶するかも・・・」
ナーディル・カーンはヴェネチア領事館へ向かうベルリーヌに乗っている間、ずっと目を閉じていた。
「将軍、眠っているんですか?」
「違うよ、考え事をしている」
向かい側に座ったパオロは、ピンときた。
「さっきは話されていたコルフェライ夫人のことですね?」
とげのある口調にナーディルはちらと目を開けたが、すぐに閉じた。
ここで白状すれば、モラリストの部下から明日の夜までお説教を食らうのが目に見えている。
大げさなほどにため息をついた。
「アウレア陛下のことだよ。あのお転婆娘もそろそろお年頃だからね。どっからか暴れ馬を調教できる男をさがさにゃならん」
ぐっとパオロが言葉を詰まらせる気配がした。
顔に『史上最大の難問だ』と出ている。
これでしばらくは黙ってくれるだろうと、彼はほくそ笑んだ。
こうしていると、初めて彼女と出会った夜を思い出す。
やせぎすの腕、肋骨の浮いた脇腹、貧弱な胸・・・、魅力的とはほど遠い彼女の肢体。だが、輝くような緑の瞳に相応しい意志の強さ、優しさがナーディルを引きつけてやまなかった。
五年を過ぎても、彼女の言葉一つ一つを忘れられない。
今は親友の元に弟と一緒にいると聴く。
どのようにアナベラを祝福してあげようかと、ナーディルは考えた。
開催前はがらんとして薄気味悪いほどだった大広間が、いまや蟻の這い出るすき間もないほど人々で埋め尽くされている。招待客はいずれも名のある貴人ばかりで、それぞれが贅をつくした装いで招待主の傍らにいる人物を見つめている。
誰も、一言も、しゃべっていなかった。
社交界の女王エフリュス夫人はこの日のためにパリでも指折りの仕立屋と宝石商を呼び、かつてないほどの時間と金額を掛けた。彼女の濃い金色の髪には星のようにダイヤが編みこまれ、デコルテでむき出しになった胸元には大粒の真珠の首飾りが光っていた。純白のドレスは最上級のブロケード織りでふんだんに刺繍が施され、袖口のアンガシャントにはヴェネチアンレースが一層の華やかさを添えている。
当然のように館の入り口で同じく来客者に優雅な笑みを向け、当然のように誰からも賞賛の眼差しを捧げられていた。世界の全てがエフリュス夫人を中心に回っていた。
だが、大広間に一歩足を踏み入れたとたん、彼女の瞳は上に釘付けになった。
静まりかえった会場に、彼女の落としたチュールレースの扇子の音が響いた。
大理石の大階段を上ったところに招待主である、アンドレア・ヴェンドラミンが立っており、その傍らに若い男女が寄り添っている。
夫人はそれが誰だか分かる前に、激しい嫉妬にもかかわらず頬を上品に染めた。
彼女はつぶさに若い女を観察した。
品よく編まれた柔らかな金髪。白雪の肌。長いまつげに縁取られた緑の瞳。豊かな胸、たおやかな腕。
まとっているドレスも宝石も顔も身体も平凡だと、思いこもうとした。
しかし、そうしようとすればするほど彼女は惨めになっていくのを感じた。
身を飾っている物が引き立てているのではなく、若い女性自身に、匂い立つようなあでやかさがあった。
エフリュス夫人はやっとの思いで顔を逸らした。
しかし瞳の裏に鮮やかに焼き付いてしまっている。
悔しいと思いながらも惹かれずにいられない。
「美しい・・・・彼女を胸に抱けるのなら・・・命など惜しくない」
夢見るような眼差しで隣の紳士が呟いた。
「そうね・・・」
自分の口から出た言葉に、彼女は愕然とした。
そして改めてあたりを見回した。彼女を見ている人物は一人もいなかった。
見知った崇拝者も何人もいたが、彼らの目もまた、階上に吸い寄せられている。
エフリュス夫人は終焉を悟った。
ダンディーたちの愛も、貴婦人たちの嫉妬も羨望も、何もかも過ぎ去った日々の想い出になった。
しかし、引き際も心得ていた。
彼女は片方の瞳に涙をためると、人知れず館を後にした。
「アナベラ、気分が悪いのかね?」
貴賓と握手を交わしながら、こっそり総督が囁いた。
本心が顔に出そうになるのを堪えて、優美な笑みを浮かべた。
「ご心配には及びませんわ。私には夢のようです。誰もかもお美しくて、ここは地上の楽園ですわ」
自らに戒めをこめて答えると、彼は安堵をたたえた笑顔を見せた。
でも、本当はこんなに会場が静まりかえっていることと、男女問わず目を向けられていることが、恐ろしい。殿方の上品な笑みの裏に潜む物が嫌と言うほど感じられるし、ご婦人方のむき出しの羨望と嫉妬も落ち着かない。
「あ、姉上」
息切れに似た悲鳴が響いた。振り向くと、マルコが透き通るような肌をさらに青白く変え、唇までふるわせている。
彼の視線を追うと、階下のとびきりの美女数十人が鬼気迫る勢いで秋波を投げていた。
一晩かけて総督が弟に着せた鎧は、いとも簡単に破壊されている。
「マルコ、大丈夫よ」
あたしは咄嗟に右手を後ろへ回して小指を立てた。すぐさま汗ばんだ青年の手が絡んできた。
幼い頃からの姉弟のおまじない。
ふっと小指にかかる力が緩んで、弟が落ち着きを取り戻したのを感じた。
でも、自分の方はまだ気が抜けない。だけど、総督に恥をかかせるわけにはいかない。
息が苦しい。
来客が途絶えたのを見計らって、ヴェンドラミン様がぎゅっとあたしの手を握った。
そして心を包みこむような声で、耳打ちした。
「アナベラ、君のとなりにいる儂がどんなに誇らしいか分かるかね?」
「身に余るお言葉ですわ」
言葉の意味より、彼の思いやりが胸が痛くなるほど、愛おしかった。
離れたくないと、切実に願った。
言葉がのど元まで登ってきたとき、会場がざわめいた。
目を向けると人々が左右に分かれ、現れた大理石の道を二人の男が歩いてきた。
一人は若く、一人は総督と同年輩に見える。共に真っ白な軍服に身を包み、颯爽とした足取りで階段を上がってきた。
「あっ」
総督がきつくあたしの手を握りしめた。
「ヴェンドラミン様・・・?」
顔をしかめつつ、灰色の瞳の行く先を辿ると、先頭の軍人にたどり着いた。
その人物と目があった。
「ナーディル・・・?」
声が震える。
あたしの脳裏に五年前のあの夜が鮮やかに蘇った。
近づくにつれ、男の顔がはっきりとする。
ナーディル・カーンは階上の女性を見つめて、目を細めた。暫時、人違いかと思うほど彼女はまばゆい。
だが、瞳の輝きは変わっていなかった。
彼の鼓動は足と共に速まった。
あたしは身を乗り出しかけた。マルコの手は簡単にほぐれた。だが、総督の戒めがきつく、動けない。
「ヴェンドラミン様?」
振り向くと、灰色の瞳が漆黒にみえるほど陰を帯び、唇は悲しげに結ばれている。
「どうなさって・・・・?」
不安が心臓を鷲掴みにした。
だが、総督は俯いたまま、答えない。
「お具合がすぐれませんか?」
彼を支えようと身をかがめたが、背後から響いた声があたしを止めた。
「シニョリータ・コルフェライ」
はっとして振り向くと、そこに純白の軍服を着た堂々たる人物が立っていた。
「あ・・・」
心臓が早鐘を打ち出した。
名前を呼びたいのに声が出ない。視界がかすんでしまう。
総督はかたわらの女性の横顔を見て、喉元まででかかった言葉を飲みこんだ。
時が来た。自分が守り慈しんできた彼女を手放す時が来たのだ。
「・・・・・、アナベラ」
総督は何事もなかったように身を起こすと、胸を張った。
「カーン将軍、シニョリータ・アナベラ・コルフェライだ」
ナーディルは優雅に膝を折り、柔らかな微笑を浮かべた。
「お目にかかれて光栄です、シニョリータ」
あたしはハッと我に返ると、右手を将軍へ差し出した。
親友が手を取ったのを見て、総督は握りしめた手を差し出した。
「おまえのアナベラをお返しするよ」
そして、あたしの左手をナーディルの手に重ねた。
「私の・・・?」
ナーディルは怪訝そうに言葉の主を見上げたが、あたしにはもうどうでも良かった。
心が震えて震えて、涙がこぼれそうだった。あの夜と同じに抱きしめてもらいたかった。
だが、残った理性が叫んでいる。
ここでは許されない。総督に恥をかかせてはいけない。子供じみた振る舞いをナーディルも望んでいないわ。
あたしはまっすぐナーディルを見つめ、そして凛とした声で言い、微笑んだ。
「カーン将軍、あなたのご活躍はヴェネチアまで届いています。あたしこそお目にかかれて光栄ですわ」
階上で起こったことを見守っていた貴族・紳士たちが知るよしもなかったが、その中でも数少ない恋愛の名手たちは、微妙な雰囲気の変化を感じ取っていた。
彼らは一様に肩を落とした。
出会うべき二人が、出会った。もう、彼らに何一つすべはないのだ。
総督の合図で軽やかなカドリーユが流れた。
「行っておいで。ヴェネチア一の舞姫。ナーディルを唸らせてごらん」
あたしの肩を軽く押し、総督はウインクした。
「はい」
頷いて、すっと手を差し出す。
「私でよろしければ」
カーン将軍は恭しくあたしの手を取ると、階段を先導した。
「あ、姉上・・・・」
マルコは心細げに階段を降りかけたが、その前を異様なほど気合いの入った微笑をたたえた貴婦人らが立ちふさがる。彼女たちはシナを作り、にじり寄った。
「コルフェライ大佐、なんて透き通った目をしているの。まるで地中海の海の色だわ。わたくし、あなたに見つめられるだけで気を失ってしまいます」
「薔薇色の頬・・・・もっと間近で拝見したい・・・・ああ、嫉妬してしまう・・・・」
「信じられないわ。この世にあなたのような殿方がいらっしゃるなんて!私、夫と結婚したことを心の底から悔やみますわ!ええ、悔しいっ!」
マルコは全身の毛が逆立ってくるのを感じた。引き返そうにも足がつって動かない。
「あらあら、可愛らしいこと・・・ほほほ」
妖気漂う真紅の唇をゆがませて、シワだらけの指が若者の頬をねっとりとなで上げた。
「あら・・・ずるいわ、バルドン公爵夫人」
マルコの背後を吐息が這い登り、むっちりとした腕が彼の首に巻き付いた。
「独り占めは、許さないわ!」
「そうですともっ!」
マルコは失神寸前だった。だが、どこからも救援は駆けつけない。ましてやこの騒ぎを見ていた人も次第に遠巻きになり、マルコの運命は風前の灯火・・・。
カドリーユは指先のほんの僅かな部分しかふれあわない、ダンス。
そこから伝わるナーディルの体温があたしを痺れさせる。
ふと、覚えのある悲鳴を聴いたような気がした。
「どうかした?」
「いいえ、気のせいですわ」
うわの空で唇を動かしながらも、目は彼から離れない。
明るいところで観るナーディルは想い出の中よりずっと魅力的で、胸の高まりが息を詰まらせる。
足がもつれて転びそう。
それでも、一曲踊り終わるまで辛うじて堪えられた。
「アナベラ?疲れたのかい?」
ステップが止まったとたん、よろめき掛けたあたしを危うくナーディルは支えた。
背中に回された腕の感触が、頬を熱くする。
あの夜が鮮やかに蘇って、苦しい。
「いいえ、大丈夫です、ありがとう・・・ナーディル」
想い人はにっこりと笑った。
「ようやく名を呼んでくれたね。その方が、ずっといい」
このまま胸に飛びこみたい。強く抱きしめられたい。今ほど自分の肩書きが疎ましく思えたときはなかった。
自分を押さえるために目を伏せた。そして、さりげなく男の腕から逃れた。
「あたし、弟の様子を見てきますわ。あの子ったら、素敵なご婦人を見つけたらしいんです。うまくダンスにお誘いできたか心配で・・・」
「君が変わらなくて嬉しいよ、行っておいで。私もアンドレアと少し話がしたい。なにせ、五年ぶりだ」
頷いて、きびすを返した。気取られない程度に足を速め、人々の間を抜ける。
飛びこむように部屋に入ったとたん、床に崩れた。
恋しさや切なさ、この五年間の辛さや苦しさ、あらゆる思いがこみ上げてきて、涙に変わった。
両手で顔を覆う。指の間から幾筋も暖かい涙が落ちる。後から後から溢れてきて、止まらない。
「ナーディル、ナーディル!」
他に言葉が出てこない。
涙が止まらない。
マルコはご婦人方に揉みくちゃにされながらも、姉が広間を駆け行くのを見た。
「あ、姉上っ」
這々の体でご婦人らから逃れると、後を追って姉のいる部屋へ飛びこんだ。
「姉上ぇ〜助けてください〜、もう駄目です・・・」
部屋に入るやいなや、がっくりと膝を折ったが、その先にある光景に息をのんだ。
「どうしたの、おねえちゃん!」
あたしは弟が血相を変えているのに気が付いた。激しく肩を揺さぶられる。
「マ・・・ル・・・」
だが、自分でもどうしようもなかった。それ以上声がでず、涙も止められない。
しかし、マルコはピンと来た。引き締まった頬に朱がのぼる。
「あの男が・・・っ!」
肩を怒らせ、ぐっと拳を固めると、猛然と部屋を飛び出した。
華奢な飾りのグラスに白葡萄酒を注いでやり、総督は親友に差し出した。
2階の奥まったところ、来賓たちはみな階下に降りてしまい、ざわめきが立ち上って壁に反響している。
受け取りながら、ナーディルは感慨深げな顔をした。
「世の中は狭いな。まさか自分がこんな経験をするとは、考えもしなかった」
「それは儂も同じだ。あの子の探す男がお前とはね」
飲み干し、グラスを手の中に大切に納めた。
「アナベラ・・・美しくなったな、まるで大輪の花が咲いているようだ。彼女がいるところだけ、光が射しているようにみえる」
そうだなと、独り言のように呟いてヴェンドラミンは階下へ視線を泳がせた。
同じくナーディルも身を乗り出して着飾ったご婦人たちを眺め、再び視線を総督へ戻した。
「年来差はあるが、お前さんと似合いのカップルだ」
心からの祝福をこめた言葉だったが、ヴェンドラミンは大げさなほど目を見開いた。
「馬鹿なことを!儂とアナベラでは孫と祖父の年齢だ。お前ならまだしも、儂にはあんな若い娘の相手は務まらんよ」
奥歯に物が挟まったような言い方だと、ナーディルはいぶかしんだ。
だが初めて二人を観たときに感じとったことを、彼はみじんも疑っていなかった。
「何をいっているんだ。お互い、そんなに歳は変わらないだろう」
しかし親友は微妙に目線を外して、困った顔で笑っている。
「お前とは違うよ、儂はすっかり歳をとった」
ふっと息をついた背中が、加齢のためでなく、重苦しく陰をしょっているように思えた。
ナーディルは元気づけるつもりで、ヴェンドラミンの背中をぽんとたたいた。
「じじむさい事言うねぇ。以前はヴェネチアじゃ他の追随を許さないダンディーだったくせに。そんなに遠慮していると、私がアナベラをさらってゆく・・・よ?」
冗談のつもりで親友の顔をのぞきこんだが、返事を聴く前に彼は背後の叫びに振り返った。
「カーン将軍っ!よくもおねーちゃんをいじめたなぁ!」
見れば金髪の若者が怒りで顔を真赤にして、猛烈な勢いで階段を駆け上がってきていた。
突然のことで階下の貴賓たちは驚愕の眼差しを若者に向けるだけだ。
ただひとり、美女に囲まれて辟易していたパオロが、絶好の機会とばかり、男を追って階上に急いだ。
「マルコ?」
ヴェンドラミンは何が起こっているか、全く分からなかった。
「大佐?」
ナーディルもぽかんと突進してくるマルコを眺めていた。
が、次の瞬間。
鈍い音ともに、強烈な一撃が将軍の右目に打ちこまれた。
「きゅー〜」
満天の星が目から飛び出した。
「カーン将軍っ!」
部下の声を遠くで聴いたと思った。それっきり、ナーディルは意識を失った。
「申し訳ありません!申し訳ありません!申し訳ありません!申し訳ありません!申し訳ありません!申し訳ありません!!!」
両頬を指の痕も鮮やかに真っ赤にはらして、金髪の若者が土下座していた。
あたしは怒れるやら情けないやら、とにかく複雑な気持で背後の声を聴いていた。
「コルフェライ大佐・・・、もう充分謝ってもらったから、良いよ。部屋に戻りなさい・・・」
ナーディルが努めて声を和らげていると、思った。この人は少しも変わらず、優しい。
でも、きっと怒っていると信じていた。
事件が起こったとき。総督が得意の話術とユーモアでその場を見事に取り繕ってくださったけど、孫のような年下の男に恥をかかされて、黙っている男はいない。ましてや、彼は『白き傭兵』の最高幹部。プライドの高さも並じゃない。
それにマルコの早とちりが原因としても、元はといえばあたしがマルコにきちんと説明できなかったことが、全ての原因。
だから、きっとあたしを怒っていると信じていた。
ソファに横たわるナーディルの目をぬれタオルで冷やしながら、次第に震えてくる手を止められなかった。
この人に、嫌われたらどうしよう・・・。マルコに対する気持は萎えて、今は不安と切なさで胸がつぶれそうになる。
こんな時、総督はさりげなくそばに来て、肩を抱いてくださった。なぜ、今はあたし独りなのだろう。
あたしは唇をかんだ。子供じみた要求はいけない。今、総督は全てをあたしに任せて、ご自分は晩餐会を取り仕切ってくださっているのだから。
「ナーディル、あの・・・・・ごめんなさい、あたしが・・・」
不意に将軍は指先を自分の唇に当てた。そして、綺麗なウィンクをした。
「女性を守るのは男のつとめですよ、シニョリータ」
心臓がどきりとした。
「・・だから、私は怒っちゃいない。マルコにも、君にもね・・・」
この人はやっぱり五年前と少しも変わっていない。
「その言葉・・・前にも聴いたわ・・・」
声が震えている。
ナーディルは五年前と同じように微笑んだ。
「そうだ、君と初めてあった夜に・・・」
鼓動が次第に速まる。
この人はやっぱり五年前と少しも変わっていない。
そしてあたしの気持ちも少しも変わっていない。
ナーディルが好き・・・。あの夜から、彼だけを愛している。
翌日の昼近く、総督に招かれたと言って、ナーディルが再び訪ねてきた。
今日は粋な黒のサック・コートを着こなしている。彼に太刀打ちできる男は、誰もいないと思えるほどだった。
4人で昼食を楽しみ、一息ついたところで総督が席を外した。
「ヴェンドラミン様?」
「すぐに戻る」
いたずらっぽく笑って、足早に部屋を出ると、カフェの冷めないうちに 戻ってきた。手にあたしのリュートが握られている。
あたしに差し出しがてら、ナーディルに目を向けた。
「アナベラはリュートをつま弾かせたら、ヴェネチアで右に出るものがいないと言われたのだ。知らなかっただろう?」
得意げに言う総督に、ナーディルはにやりと笑って見せた。
「残念ながら、昨年のオスペダーレ・デレ・インクラビラの演奏会にこっちの部下がいてね、報告書が届いているんだ。ぜひ一度この耳で確かめたかった」
言い終えて、ナーディルはあたしに向き直った。
緊張でぞっとした。それでも、彼の期待のこもった眼差しが嬉しかった。総督に目を移すと、頷いている。
「ご期待に添えると、良いのですが」
心をこめて、一弦弾いた。
ピンと張りつめていて、それでいて優雅な音色がリュートを中心に広がった。
立て続けに2音。ナーディルもヴェンドラミンもマルコも期せず、目を閉じて、音に揺られている。
あたしはくすぐったく思いながら指先に力をこめた。その時、異様な音が空気を裂いた。
とっさに音の源を探って、驚いた。
「な、なぜ?」
「どうした?」
「姉上?」
皆が周りに集まってきた。あたしは途方に暮れてリュートをテーブルに置いた。
弦楽器の前面に一筋、亀裂が走っている。
「ヴェンドラミン様・・・どうしてこんな・・・」
「これは・・・ひどいな」
ごく自然にあたしに伸ばされた総督の手が、不自然に止まった。
ナーディルは微かに親友が唇をかみしめているのを認めた。だが、後回しにした。
「どうしましょう・・・」
あたしは狼狽えてしまった。総督を見上げるが、彼も困惑したまま首をひねっている。
「参ったな、ここには宝石商や仕立屋の出入りはあっても、楽器を直せる者につてはないんだ。ナーディル、心当たりはないか?これはアナベラの大切な持ち物で、何としても直したい」
皆の視線が一斉に将軍に集まった。ナーディルは顎髭を撫でながら思案していたが、間もなく、ぽんと手をたたいた。
「大丈夫だ、一つだけあてがある。オペラ座に知り合いがいるから頼んでみる」
部屋中がぱっと明るくなった気がした。総督はナーディルの肩をぽんとたたき、リュートを渡した。
「そうと決まれば、今から行ってくれないか?そうだ、アナベラも一緒に」
どきっとした。
ナーディルと二人っきりで出かけられるの?あたしは頬が火照ってくるのを隠そうと俯いた。
でも、耳はいつもの倍くらいに大きくなっている気がした。
断られたらどうしよう、どうしよう、それだけしか考えられない。
答えが出るまでが、ひどく長く思えた。
「その方がいいね。持ち主が立ち会えば、向こうも修理の注文を受けやすいだろうし」
「すまんな。じゃあ、そのまま彼女をどこかへ連れて行ってくれないか。パリは初めてだし、楽しませてやりたい・・・儂は仕事があるのでね」
「こんな美女をご案内できるのは、光栄の極みだね」
あたしははっと顔を上げた。胸がときめきではち切れそうだった。
ナーディルは喜びを隠せないように笑っている。
「アナベラ、どこへ行きたい?私が君の望むままにパリを案内するから」
あたしが何も答えられないでいると、横からマルコが身を乗り出して来た。
「しょ、将軍、私もお供させてください!私は総督から姉の警護を任されております!」
ナーディルが何も答えられないでいると、後ろから総督が身を乗り出した。
「コルフェライ大佐、警護は将軍に任せておけばよい。それより君が街をうろつけば、ご婦人方が放ってはおかないぞ?さばける自信はあるのかな?」
マルコの全身から、ざーっと音を立てて血が引いた。代わりにざーっと音を立てて冷や汗が流れ落ちる。
「さ、儂と向こうへ行こう。ナーディル、馬車を用意させる、玄関へ降りてくれ」
カチコチに固まった弟を引きずって行きながら、総督は部屋を出ていった。
あつらえたばかりの薄紅のモスリンの外出着に着替え、ふわりとボネをかぶった。
急いで玄関に降りるとすでに幌を張ったカレーシュが止まっている。乗りこむが、ナーディルが来ない。
気を揉んでいると、突然馬車が走り出した。
「あ、待って、まだあの人が・・・」
御者に合図しようと幌から顔を出すと、御者席で彼が手綱を握っている。
ナーディルはさわやかに笑うと、軽やかに告げた。
「美しいお嬢さん、私の手綱裁きをごらんあれ」
カレーシュは風のようにオペラ通りを駆け抜け、裏口へ横付けされた。
「さぁ、こちらへ」
導かれて馬車を降りたとき、小太りのいかめしい紳士が出てきた。
「やぁ、ムシュウ・フィルマン」
その名前を知っていた。オペラ座の支配人のひとり。
「これはこれは・・・お久しぶりですね、ムシュウ・カーン。今日は素晴らしいお連れさんとご一緒で」
あたしは優雅にお辞儀した。ただそれだけのことに、支配人は眩しそうに目を細めた。
「私ごときにもったいない・・・今日は何のご用でしたかな?マエストロに?」
ナーディルが頷くと、支配人は奥を指し示した。
「あなたは運が良い。今日のマエストロはとびきりご機嫌が麗しいですよ。我々は大助かりです」
ほくほくと顔を綻ばせる男にむかい、ナーディルが顎髭をいじりながらにやりと笑った。
「ふぅぅぅ〜ん。あいつの機嫌がいいとはね、初耳だ。よし、たっぷり拝んでやろう!さぁ、アナベラ」
フィルマンはぎくっとした。歩きだしたナーディルの袖をひしっと掴む。
「ムシュウ〜お願いですから妙な事はしないでください〜」
今にも泣き出しそうな支配人に向かい、ナーディルはさも驚いた素振りを見せた。
「何をいったい心配しているんだい?私が君を困らせるわけ、ないだろう?」
「でも・・・」
「この美しいご婦人を不快にさせるような真似、しないよ」
「ほんとでしょうね〜?」
「ホント」
将軍は綺麗に片目をつむってみせると、すがりつきたいような目をしている支配人を後に歩き出した。
大理石の階段を彼を先にあがる。はしたないと思いつつも手すりや壁、天上の装飾に視線をさまよわせてしまう。総督宮殿にも劣らない高雅な作りにため息がでる。
マエストロと呼ばれる方は、ヴェンドラミン様のように高貴な人に違いないわ・・・。
あたしの表情を読みとったのか、ナーディルが足を止めた。
「アナベラ・・・、」
見上げると複雑な顔をしている。
「今から会いに行く男はかなり風変わりだから・・・驚かないでくれ」
芸術家と呼ばれる人たちが一癖も二癖もあるのは知っている。でも、彼の意味するところは、どこか違うように感じる。
不安になって視線を落とした。それに気が付いて、ナーディルは努めて落ち着いた声音で言った。
「済まない、君を怖がらせるつもりはないんだ。本当だ、あいつは、エリックは、顔もへんちくりんで性格もねじくれて、我が儘で、高飛車で、横柄で鼻持ちならないヤツで、私しか友達がいないんだが、本当はただの寂しがり屋なんだ」
あたしはあっけにとられて聴いていた。でも、彼が話し終えると急に愉快になってきた。
「ナーディル、それじゃあお友達をかばっていないわ」
「あ、そうか、ついつい・・・本当のことだから」
彼はバツが悪そうに頭をかいた。
「ナーディル・・・」
記憶の中の彼はどんなときも優しくて颯爽としていた。こんな顔をするなんて思いもしなかった。
でも、誰よりも素敵にみえる。
「笑ってるの?」
「いいえ、大丈夫よ。あたしをシニョール・エリックに会わせて」
頷いてくるりときびすを返した背中が印象的だった。
白状してしまえば、なぜ『大丈夫』と言えたか分からない。ただ、今は彼の言葉全てを、水が土にしみこむように受け入れている。ああ、そう、これは恋の仕業・・・。
二階に上がり磨き上げられた廊下を進み、突き当たりのドアの前で止まった。
ノックをして、
「エリック、私だ。入るよ」
向こうの返事も待たずノブをひねる。
「ダロガか?この無礼者!きさまの顔など見てはせっかくの気分が台無しだ!」
威圧的な声がぴしゃりとたたきつけられた。あたしはぎょっとした。だが、ナーディルはお構いなしに足を進めた。
「長の友人につれないねぇ。今日は頼みがあってやってきたんだよ〜」
あたしに笑顔を見せると手招いた。
部屋は南側が全て窓になっていて、春の柔らかな光で部屋中が満たされている。
一つだけ窓が開いていて、そよ風がカーテンを揺らす陰に天使の絵があった。
その絵が振り向いたと思った。
「彼女はマドモアゼル・ダーエだよ」
目を凝らすと、天使ではなく生身の女性だった。柔和な笑みを浮かべてこちらへ歩んでいる。
「まぁ、ムシュウ・カーン。ようこそ」
ナーディルは恭しく腰を曲げた。彼の態度にふっと胸に湧くものがあったが、それを押しのけて別の感情があたしを支配する。
それは彼女の匂い立つような美貌と、それを冷たく感じさせない聖母のような雰囲気。
あたしは密かに嘆息をついた。
彼女はやがて、いっそう顔を輝かせて部屋の主の横へ立った。
自然に視線はそこへ流れた。
その暫時、ナーディルがぴりっとするのが感じられた。
「まぁ、すごい」
聴いた人が恥ずかしくなるほど不躾な声だった。だが、あたしはそんなことは気にもせず、じっくりと正面の顔を眺めた。
「なんて不思議な作りかしら。片方の顔が普通で、片方が崩れている」
指で頬をつんつんしたり、がちっと握って横へびろーんと伸ばしてみたりした。
「すごい、なんて柔らかいの。ピッツア生地みたい!歯並びも綺麗。虫歯はないわね」
「あ、アナベラ?」
ナーディルの声が裏返っていた。あたしはそこでようやく我に返った。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて手を引っこめ、何度も頭を下げた。頭の先から足の先までかぁっと赤くなっている。
しかし、謝られた方は一言も発しないばかりが、微塵も動かない。目をこれでもかと開いて硬直している。
「エ、エリック?」
ナーディルとクリスティーヌが同時に呼びかけた。
そこでようやくエリックは正気に返った。とっさにナーディルはあたしを後ろへかばった。
「許してやってくれ、悪気はないんだ、彼女はヴェネチアから出てきたばかりで・・・・・」
同時にクリスティーヌもエリックの腕を柔らかく掴んだ。
「エリック、気を悪くしないでね、ムシュウ・ナーディルの言うとおりだと思うわ」
恋人と友人の顔を交互に見て、エリックは冷徹なまでの口調で答えた。
「二人ともそんなに私が信用ならないのかね?」
それからどこかぎこちなく紳士然と会釈すると、ヴェネチア方言のイタリア語で言った。
「お目にかかれて光栄です、シニョーラ。今日ここへいらしたのは、何か私にご用があってですか?」
「ええ、はい・・・」
あたしはまだ顔を赤くしたまま、蚊の鳴くような声で答えた。それを次いでナーディルが口を開いた。
「実はお前さんにこれを頼みたいんだ」
言って、手に持っていたリュートを見せた。
一瞥してエリックは酷薄なほどの軽蔑のまなざしを向けた。
「愚か者!ダロガ、お前がそこまで馬鹿とは知らなかったぞ!ペルシャで私が口を酸っぱくして教えただろうが!楽器は女性のようにデリケートなんだ。胴体が割れたのは空気が乾燥しているからだ。それが分かっていながら、何の手入れもしなかったんだろう?音痴のくせに余計なものに手を出すからだ!この身のほど知らず!」
聴いているうちにあたしは益々身の縮まる思いがして、ナーディルの後ろへ隠れた。
「いいかっ、この阿呆ダ・・・わぷ」
青筋立ててる男の口を、ナーディルとクリスティーヌが同時に塞いだ。
「エリック、もういいでしょう?お嬢さんが驚いているわ」
恋人のささやきに気まずい顔をした。そこへナーディルがこっそり、言った。
「リュートは、アナベラのものだ。これ以上は責めないでくれ。彼女、大切な楽器を壊してしまって、ずいぶん気に病んでいる・・・」
エリックは明らかに後悔しているという顔になり、そっとリュートを受け取った。
「これは・・・私の失言でした。どうかお許しください、シニョーラ。あなたのリュートは私が必ず元通りにします」
彼の誠意のこもった態度と自分の失態を重ね合わせると、あたしは恐縮するだけだった。
しかし、応えねばならない。
あたしは息を一つ吸って気持を整えた。自然と微笑みが浮かんだ。
ナーディルの横へ進み出、優艶に腰を折った。
「あたしこそ、大変な失礼をお許しください・・・」
エリックは上品な微笑をみせて、あたしとナーディルをソファに誘った。
自分とクリスティーヌは向かい側にすわった。リュートを抱え、慎重につま弾く。
響く音にじっと耳を澄ましている。
やがて、安堵の表情で顔を上げた。
「シニョーラ、これなら二日もあれば直せます、もちろん完璧にね」
「嬉しいですわ。ありがとうございます」
あたしは頼もしく思いながらかたわらのナーディルを振り向いた。
ナーディルは片目をつむって応えてくれる。
「クリスティーヌ、彼女を連れてシャンティラスのところへ行ってくれないか。あの男なら任せられる」
エリックは紙切れにペンを走らせ、それとリュートをクリスティーヌに託した。
「分かったわ。・・・アナベラさん、一緒に来てくださるかしら」
あたしは席を立つと、手を振るナーディルに頷いて部屋を出た。
エリックはドアが閉まると同時に今までの紳士的な相好をを崩し、いつもの不機嫌な態度に戻った。
「あの娘・・・何者だ?」
ナーディルは思いついた。得意げに口を開いた。
「シニョーラ・アナベラ・コルフェライ。私の・・・恋人だよ」
エリックは言葉の内容を無視して、上目遣いに男を見た。
「彼女、若いのにずいぶん修羅場を踏んでいるな・・・私にあんな態度をとった女性は初めてだ」
その言葉にナーディルからいつもの陽気さが消え、彼らしくない沈んだ表情になった。
「ああ」
それきり彼は沈黙した。エリックはこんな彼をずいぶん久しく見てないと気がついて、悔やんだ。
最後に見たのは、そう・・・、ペルシャにいた頃、ナーディルの息子が逝った夜・・・。
彼らしくなくカフェを自ら運んで、勧めた。
「飲め。最高級の豆だ。それともキアンティが良いか?」
「すまんなぁ」
声にいつもの調子が戻りつつあって、エリックは安堵した。
「ダロガ、彼女の過去がどれほど重くても、心配するだけ無駄だ。女はいつの時代もしぶとくて、それでいて輝かしいほど崇高な存在だ」
「・・・お前さんに慰めてもらうなんて、考えもしなかったよ」
おどけた調子で言いつつも、ナーディルは満ち足りた表情になった。
エリックは気色悪いようなむずがゆいような心地になって、窓から外を眺めた。
「これからどんな予定なんだ?チュイルリ公園でも行くのか?やめておけ」
当時、この公園はデートスポットであると同時に、貴婦人たちの美を競う場でもあった。
「賛成だね。私はあの子を見せ物にするつもりはさらさら無い。お前さんだって、恋人を連れてきやしないだろう?」
エリックは意地の悪い視線を向けた。
「・・・少しも自分が分かっていないんだな?きさまのような老いぼれが一緒だと、彼女が恥をかくんだ。あれほど美しくて聡明な女性と、どれだけ不釣り合いか、考えたことはあるのか?」
しかし、いっこうに気にした様子もなく、ナーディルは言った。
「エリック、私に嫉妬しているのか?かわいいねぇ」
「馬鹿者っ!私にはクリスティーヌがいる!何の不足もない!」
「はははっ」
ナーディルは屈託なく笑い、頭の先から足の先まで真っ赤になっている怪人を優しく見つめた。
ようやく笑いが収まったとき、ドアの外に気配がした。
エリックはつかつかっと歩み寄ると、さっとドアを開けた。
「ただいま、エリック」
「お帰り、クリスティーヌ」
歌姫は頬を染めて怪人に寄り添った。それからエリックは奇妙に平坦な声で告げた。
「ダロガ、恋人のお戻りだ。さっさと迎えに行け!」
「はいはいっと」
軽快なスキップを踏んでナーディルはやってくるとあたしの手を取った。
「お疲れさま、アナベラ」
そして、包みこむような笑みを浮かべた。
あたしは自分の耳が信じられなかった。
『恋人』って、そういった?かぁっと頬が熱くなる。隠すのも忘れて目の前の紳士を見上げた。
あたしの気持ちを読みとったかのように、綺麗なウインクをくれる。
ナーディルは微笑みを優しい色に変えて、唇を寄せた。
「そろそろお暇しよう。エリックが私に嫉妬して、意地悪するんだ」
「まぁ」
あたしは男の肩越しにムシュウ・エリックをみた。彼は居心地悪そうに目をそらしている。
「じゃあな、エリック」
ナーディルは軽く振り向いて手を振ると、あたしを先に外へ出した。
その背後へ優しく声がかかった。
「シニョーラ、リュートの修理が終わったら使いを出す。そうだ、明日クリスティーヌが主演の舞台がある。招待しよう。私のボックス席を用意する」
ナーディルがいたずらっぽく声を上げた。
「私も招待リストに載っているんだろうね?」
ぴしゃりと声がたたきつけられた。
「きさまは引き立て役だっ」
カレーシュをゆっくりと走らせてくれたおかげで、あたしはパリの町並みを十分楽しんだ。
石畳はヴェネチアとほとんど同じだけれど、道幅は何倍も広い。ほんの小道ですら、広く感じる。それに緑がとても多い。石造りの間に木々がその一部のように彩りを添えている。
「綺麗だわ・・・ここに住む人は幸せね」
馬車はオペラ通りを東に折れ、プチ・シャン通りへ入った。進むほど人が多くなる。こざっぱりした身なりの人たちが手に荷物を抱えているのをみて、近くに市場があると思った。
はっとした。この先にはパサージュ『ギャルリー・ヴィヴィエンヌ』があったはず。まだこの仕事に入る前、よく香草市に行った事が懐かしく蘇ってきた。
ヴィクトワール広場を南に折れてシテ島を渡り、セーヌ川を左に見ながらしばらく行くと、右に広大な、それでいてきちんと手入れされた庭園が現れた。その前で止まった。
入り口に『ムシュウ・マルタンはこちらです』の洒落た看板が立っている。
覚えのない名前に首をかしげていると、ドアが開いた。
「着きましたよ、マドモアゼル」
ナーディルが気取って、手を差し出す。納得いかないまま降りると、すかさず尋ねた。
「ムシュウ・マルタンって、どなたなの?聖人や政治家の方なら知っているけれど・・・。ここはどこかの庭園でしょう?植物園?人の住む場所ではないはず・・・」
「今パリで一番有名な紳士だよ、ちょっと毛深くて大柄だけどね」
笑いをかみ殺しているという感じで告げると、歩き出した。
「え?よく分からないわ、待って、ナーディル!」
瑞々しい芝の小道を彼と一緒に歩いていく内に、幾組もの家族連れやカップルに行き会った。
服装からして、庶民から貴族まで。皆楽しそうに笑っている。
「ムシュウ・マルタンは、身分関係なく、お会いになる方なのね?」
「まあね。彼はとても気さくなんだ」
あたしがしきりに感心しているのが、おかしいのかクスクス笑っている。
「どうして笑っているの?あたし、変なことを言っているつもりないわ」
「笑ってないよ、アナベラ」
もったいぶった言い方が気になる。でも、追求しても無駄なように思えて、口をつぐんだ。
緩くカーブを描いていた小道が急に終わると同時に空を遮っていた木々が消え、視界いっぱいに青空が広がった。
さっと風が吹いてきて、つんと獣臭さが鼻を突いた。
臭いの元を辿ると、人だかりがあり、すき間から土壁が見えた、皆その下を覗き、歓声を上げている。
「アナベラ、行こう」
ナーディルはあたしの手を握った。どきまぎしながらついて行く。人垣をかき分け、先頭までたどり着くと
そこは3メートルほどの深さの幅広い堀になっていた。内側が煉瓦で綺麗に固められており、正面には半円に縁取ったアーチの中に開き戸があった。そばに水飲み場がこしらえてあり、何か巨大な毛むくじゃらなものが4つ、ペアになってじゃれていた。
あたしには、それが何だかすぐに分かった。実際に観たことはなかったが、ヴェンドラミン様の書斎で読んだ本に載っていた。
そして、ここへ来る前に読んだ『外国人のための新パリ・ガイド』の挿絵も思い出した。
軽く連れを睨む。
「ひどいわ、あたし知っていたらマルタンにおやつを持ってきたのに。でも、どの熊さんが『マルタン』なのかしら」
ナーディルはちょっと肩をすくめた。
「この熊はみんなマルタンなんだよ。でも、残念。知っていたなんて。びっくりさせられなかった」
あたしは勝ち誇った笑みをちょっとだけ見せた。
「だって、有名ですもの。でも、嬉しいわ、本当はこの目で観たかったの!」
あたしはモスリンの服が汚れるのもかまわず、堀から身を乗り出した。
その時、ナーディルは背後に醜悪な気配と囁きを耳にした。
「危ないよ」
さりげなくナーディルは背後に回り、両手を縁においた。
その内側にあたしの身体がずっぽりと収まっている。
初めはマルタンに夢中で気が付かなかった。知ったのは、堀の底に光るものを見つけたときだ。
「あ、あれは何かしら?金貨みたいだわ」
「彼らは光り物が好きなんだ。誰かがおもちゃ代わりにいれたんだろう。でも、気をおつけ。この間も巡回中の夜警が、マルタンが眠っているのに油断して、拾いに降りてかみつかれた」
「こわいわね、ナー・・・」
言いかけて、ふっと肩の上に気配を感じて振り仰いだ。そこにナーディルの引き締まった、それでいて柔和な顔があった。
「やだ・・・っ、驚いたわ」
ぽーっと全身が熱くなった。ナーディルは照れくさそうに笑った。
「君が落っこちないようにね。紳士のつとめだよ」
「あ、ありがとう・・・」
あたしは視線を落とすと、そっと両腕で自分を抱きしめた。そうしないと身を返して彼にすがりついてしまいそうだった。
すぐ後ろにいる彼の息づかい、体温、心臓の鼓動までも感じられる。
包まれているように思えて、ときめく。
あたしはナーディルをそっと振り返り、眩しく見つめた。
彼は一瞬不思議そうな顔をしたが、照れくさそうに笑みを返した。
あたしたちを取り囲む喧噪はすでに意味をなくしている。
唯一意味があるのはナーディルの存在。
今、彼と二人でいる。何という濃密な時間!あの夜より遙かに強く愛を感じる。
このまま彼と一つになってしまえたら・・・!
想いがわき上がって苦しい。今すぐ、言ってしまいたい。
『愛しています』と。でも、場違いな事は十分承知していた。
落ち着かなくては。素人娘じみた振る舞いは、許されないわ。
あたしは視線をマルタンに固定して、意識して動きを追った。
どれくらいそうしていたのか、ふと気が付くと周りの見物人がまばらになっていた。
それを待っていたかのようにナーディルは足下の小石を拾った。
「観ていて」
構えたと思った瞬間、小石はそれ自体が生きているかのように解き放たれ、正確に堀の底の金貨目指して飛んでいった。
鋭い音を反響させて、金貨は弾かれ、あっと思った時には射手に向かってきていた。
「ほら」
さりげなく、彼は手を開いた。そこにきらりと光るルイ金貨が収まっている。
あたしは自分の目が信じられなくて、金貨とナーディルの顔を何度も見た。
彼は照れたふうに笑い、金貨を堀のすき間に差しこんだ。
「夕暮れになると、この場所にある老婆がやってくる。彼女はマルタンが大好きで、貧しい暮らしなのに、苦労して彼らの大好物を持ってきてくれる。これは、私からの」
あたしは優しい笑みを浮かべずにいられなかった。
「あなたからの応援ね」
うん、と彼は嬉しそうに頷いた。
「内証だよ」
あたしはいたずらっぽく言った。
「あなたとの秘密が増えたわ」
言って、何かが引っかかった。これは前に聞いたことのある言葉。
誰がおっしゃったのか、とっさに思い出せないけど、気になる。
「どうかした?」
はっと我に返った。あたしは探索を打ち切った。
今はナーディルだけを見つめていたいわ。
「なに?」
あたしの眼差しを受けて、愛しい人がとまどいを見せた。
「あ、何でもないわ、ナーディル・・・」
彼の名前を抱きしめるように、もう一度呟く。その一つ一つの言葉に胸がざわめく。
そして背を向けた。
「あ、マルタンが・・・」
「また、姉弟げんかしている」
「お姉さんと弟の熊さんなのね」
無邪気に振る舞ってみせても、心の中は別のことでいっぱいだった。
さりげなく、あたりに気を配る。
誰もいない、今なら言っても良いわ。ナーディルを抱きしめてもかまわないわ。
一歩下がればあの人がいる。その距離まで、あたしは五年かかった。でも、もういい。
のど元まで、言葉がのぼってきて。
しかし。
ふと、不安がよぎった。くっと、唇をかんだ。
いくら何でも都合が良すぎる。人の心の移ろいやすさは十分に知っているつもりだし、ナーディルはマエストロの前であたしを『恋人』と言ってくれたけど、唐突すぎる。ちょっとふざけたのかもしれないし、見栄を張ったのかもしれない。多くの顧客がそうだったように・・・・。
暗然となった。
唇が凍りついている。
『愛しています』と口にして笑われたら・・・。いいえ、彼はそんな無惨な真似はしないわ。きっとあたしを傷つけないように気を配ってくれる。でも救われやしない・・・。
知らず、震えてきた。
「アナベラ、寒いかな。少し風がでてきた」
背後で衣擦れの音がして、肩に温もりの残った重みが掛かった。
唐突に迷いは吹っ切れた。勇気をもらうように、あたしを包む彼のコートをきつく前で合わせた。
あたしは彼に愛されるために、ここまで来たのよ!
「どうかした?あ、煙草の臭いがいやだったかな・・・」
ナーディルは済まなさそうに髪に手をやった。あたしは無言のまま、彼を正面から見すえた。
もう迷わなかった。
そして、そして、口を開いたとき、唐突にそれはやってきた。
「よぉよぉ、じじい。お楽しみだねぇ。俺たちにも分けてくれよぉ」
いつの間に近寄ってきたのか、上等の服に身を包んだ貴族の子弟らしい男たちが6人、あたしたちを取り囲んでいた。
ナーディルにはさっき人垣の中で、自分たちの背後をうろついていた連中だと分かった。
男たちはニヤニヤと笑い、ぎらつく目であたしを嘗めるように観ている。
「そんなよぼよぼで、満足に立つんかい?てめえはすっこんでいろよ、代わりに俺たちが彼女の相手してやるよ!」
「なんなら一緒に来るかい?あんたの目の前で女のよがり声をきかせてやるよぉ!聞いたこともないようなやつをよ!」
耳を覆いたくなるような卑猥な言葉が続いていたが、ナーディルは動じた様子もなく静かに微笑んだ。
「アナベラ、何も心配しなくていい。すぐに終わらせる」
「ナーディル・・・!危ないわ、逃げて!あたしなら平気だから!」
彼は綺麗なウィンクをみせた。
「私が君をおいて逃げるわけ、ないでしょ?」
そしてボネを目深にかぶらせて、あたしの視界を塞いだ。
「耳を塞いでいなさい。ここを動かないように。アナベラ、何も心配しなくていい。すぐに終わらせる」
これまでとうってかわって力強く、十分安心させる声だった。
あたしは頷いて、耳を塞いだ。
彼の気配が消えた。
それでも微かに音が漏れてくる。
「なんだ?老いぼれの分際で俺たちとやろってのか?」
「馬鹿なジジイだな!おとなしく女を渡せば怪我せずに済むんだぜ?ちょっとは頭を使えよ。6対1だ。無事にゃ帰れねえぜ?それとも命をかけても良いほどの女なのか?」
「・・・、ああ、彼女は私の大切な、」
不意に声がとぎれた。続いて若い男の罵声。
そして立て続けの地響き。
たぶん1分過ぎないうちに、彼は息一つ切らず戻ってきた。そして柔らかくあたしの手を外した。
どきりとした。いつもと変わらぬ優しい笑みがあっただけだったが、どきりとした。
耳に彼の言葉が熱く残っている。
「お待たせ。行こうか」
「あ、あの人たちは?」
傭兵の将軍はちょっと心配そうに背後を指さした。
「昼寝をしている。風邪を引かないと良いけどね」
恐る恐る覗くと、全員唸りながら地面に転がっている。あたしは胸をなで下ろした。いち早くこの場を去ろうとした。
だけど、足がすくんで動けない。
察して彼がひょいとあたしを抱き上げた。
「軽いね、柔らかな羽のようだ。アナベラ、しっかりつかまっていて。走るよ」
「は、はい」
両腕を彼の首に回した。初めは遠慮がちに、すぐに切ないほど強く。
全身が喜びで震える。
「ナーディル・・・」
あたしは目を閉じ、うっとりと彼の肩に頭を預けた。
願いは叶った。あたしは「ナーディルの大切な人」・・・!愛されている。愛している・・・。
このまま二人だけの世界に行きたい。
ナーディルは走りながら、直に伝わってくる温もりに激しい戸惑いを覚えていた。
だが、それは今始まったことではなかった。
戸惑い、それはアナベラに再会したときから、彼の中で芽生え、少しずつ成長していたものだった。
そして、心臓が早鐘を打っているのも、走っているせいばかりでないことも、知っていた。
全てが悪い方向へ向かっている。
そう思った。
走馬燈のように五年前の記憶が、彼の頭の中を駆けめぐっている。
あの夜の彼女の眼差し、声、肌の温もり。愛した記憶。
彼はわき上がってくる思いから必死に目をそらした。
幸い、道はほどなく終わり、前方にカレーシュが見えた。
ナーディルは肩で大きく息をついた。
「マドモアゼル、いささか乗り心地が悪かったでしょうか、今度はご満足頂けますよ」
大げさなほどおどけた声をだし、彼はあたしを降ろした。
「もっと乗っていても大丈夫よ」
はしたないと思うより先に応えてしまった。ナーディルは苦笑して、ドアを開けた。
「どうぞ」
素直に乗りこみ、ビロードの背もたれにゆったりと身を任せた。
その時微かに車体が揺らいで、彼が御者席に乗りこんだと知った。
カレーシュが走り出す。
恋人のいるあたりに熱く眼差しを向ける。
『愛している想い』は止められない。
『想いは止められない』。ナーディルは自分に強く警告した。
「わかっているさ」
低く呟き、鞭を入れたい気持を押さえて静かに馬車を駆った。
全てが悪い方向へ向かっている。改めて強く感じた。
アンドレアとアナベラを見たとき感じた、二人の間にある強い絆を信じていた。
自分がどうだろうと、親友の恋人に想いを抱くなど許されない。しかし。
男たちに絡まれたとき、『私の大切な』の後を続けられなかった。
『客人』と続くはずが、別の言葉がのぼって来たのだ。
ナーディルは鞭を振り上げた。一刻も早く、ヴェネチア領事館へ着かなければならなかった。
夕暮れが迫っている。闇は胡乱な輩を呼び寄せる。
領事館の門がランプの眩しい光に浮かび上がっていた。目にしたとき、彼は安堵を覚えるより、切ない気持を抱く自分に唇をかんだ。
彼の気持ちとは逆に、静かに馬車は横付けされた。
「帰ってきたのね」
あたしはひどく寂しく、悲しく思いながらそれを認めた。
車体が揺れて、ナーディルが砂利を踏みしめながらドアの外に立った。
「アナベラ、着いたよ。今日は楽しめたかな」
優雅にドアを開くと、降りるあたしに手をさしのべた。手を取り、きゅっと握ったまま馬車を降りる。
「忘れられない一日よ・・・」
そしてあでやかな微笑みに切なさを滲ませて、恋人の目を見つめた。
暫時、ナーディルは我を見失った。
握っていた手を力をこめて引いた。
「きゃ・・・」
あたしの悲鳴はたちまち彼の胸の中で消えた。
彼の両腕がきつくあたしを抱きしめる。早鐘を打つ胸。指があごを優しく捕らえた。
そして、唇は甘く、熱く重なる。
ナーディルは突き上げてくる激情に翻弄されながら、これまで自分が目を背けてきた言葉を、はっきりと意識した。
・・・そう、これは恋だ。
ヴェンドラミンはファサードに面した窓に背を向けた。彼の耳は遠ざかってゆく馬車の音と、階段を上がってくる足音をぼんやりと捕らえていた。
足音が近づいてくる。間もなくアナベラがやってくるだろう事は間違いない。
そして彼女がどんな態度でどんな言葉を言うかも、彼には十分予想できた。
ドアがノックされた。
「ヴェンドラミン様、アナベラです。今、戻りました。・・・おやすみですか?」
一瞬、躊躇した。だが、冷静に声を装った。
「ああ、お帰り。入っておいで」
放った声を吟味して、しっかりしろと、自分を叱責した。儂は商人の国の主。目的を達するための演技は、他の追随を許さない。
ドアが開かれた。
「ヴェンドラミン様」
彼は息をのまずにいられなかった。出かける前の彼女と雰囲気も美しさもまるで違う。
恋はこんなに女性を変えるものなのか・・・。
これこそヴェンドラミンが求めた結末だった。だが、彼は空しさと共に嫉妬も覚えた。
しかし、自分を押さえる術は心得ている。
彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
あたしは総督の元に急いだ。
胸が感謝でいっぱいで、それを一刻も早く伝えたかった。
「楽しかったようだね」
「ええ、ナーディルが色々なところへ連れて行ってくれました。あたし、クマを初めて見ましたわ。毛むくじゃらで、大きいんです」
総督はさも驚いたように、窓を振り返った。
「熊?ロンシャンや、チュイルリ公園でなく?また、変わったところへ行ったね」
「それから・・・」
言いかけて口を閉じた。大切なことを言っていないわ。
あたしは一歩前に進んだ。そして総督の灰色の目を見つめた。
「・・・心から感謝しています。あなたがいらっしゃらなかったら、この日を迎えることはありませんでした」
気のせいだったのか一瞬、灰色の目が翳った。しかし、次の言葉は喜びに溢れていた。
「儂はそばにいただけだ。全ては君の実力だよ、アナベラ。ナーディルは君があんまり綺麗だから、かすんでしまっただろう?」
自然と顔が綻んでしまった。
「いいえ、違いますわ。あの人にかなう殿方がいるなんて考えられません。未だお独り身なのが不思議なくらい」
総督が見透かすように言った。
「それも時間の問題だろう?」
どきっとして顔が熱くなった。総督は笑いを殺そうと必死で口を押さえている。
「もうっ・・・ヴェンドラミン様、ひどいわ!」
「いやいや、悪かったよ。続きをどうかおしえておくれ。それから何をしたんだい?」
あたしは目をしばたいて今日一日を辿ってみた。どの場面もナーディルの姿があって、胸がどきどきする。
ヴェンドラミンは目の前にいるはずの女性が急に遠くにいるような、ガラス一枚隔てた向こうにいるような錯覚を覚えた。
強い愛惜に駆られ、両腕が前に出ようとする。寸前で止めた。
「ヴェンドラミン様?」
あたしはふと彼の顔色がくすんでいると、気が付いた。
「お疲れではないですか?」
言われて総督はハッとした。そして、暫時の奇妙な間があって、答えが返った。
「残念、分かってしまったね。白状すれば、今日の午後、リューベックの大使との交渉がこじれて・・・」
そこで唐突に彼は口を閉じた。そして、あたしの肩を柔らかく押して、ドアを指さした。
「アナベラ、部屋にお戻り。老人の愚痴などで楽しい一日の終わりを汚したくない」
「でも」
あたしは総督が心配だった。
ヴェンドラミンは注がれる視線が嬉しいと同時に切なかった。だが、立場はわきまえていた。
彼は軽く笑い、もう一度ドアを指さした。
「心配は無用だ。こう見えても大使を負かす自信はあるのだよ。・・・さあ、お戻り。明日も出かけるのではないのかね?」
「ええ、ナーディルとオペラ座の公演に・・・」
「それは素晴らしい。楽しんでおいで」
「はい・・・」
後ろ髪引かれるような思いで背を向けた。
足音がして、ヴェンドラミン様が遠ざかっているのが分かった。これからお仕事をなさるのだろう。
どんなに気がかりでも、邪魔はできない。
二人の間にあるのは厳然とした契約。主人と従者。それを越えるのは許されない。
あたしは黙って部屋を出た。
「姉上!」
自分の部屋の前でマルコが声を掛けてきた。
「どうかしたの?」
こんな嬉しい顔をした弟を見たことがなかった。まるで足が地に着いていない。
さてはデザートに大好物のプディングでも出たのかしら。それもパンチボール一杯とか。
あたしは落ち着かせようと、彼のおでこを軽く指で弾いた。
「聴いてください、姉上!」
効果がない。つられてあたしもうきうきしてきた。
ふいに彼は真面目な顔になって姿勢を正すと、敬礼を決めた。
「本日、私、マルコ・コルフェライ大佐はヴェネチア海軍の特別兵としてナーディル・カーン将軍の元に配属されました!」
「すばらしいわ!」
思わず彼を抱きしめた。マルコも喜びで胸が一杯なのか、いつもみたいに恥ずかしがらずに抱き返す。
「これからずっと、ずっと一緒にいられます。姉上は将軍閣下と結婚なさるでしょう?私は長い間あの方に憧れていたんです。義兄上になられるなんて、夢のようです!」
結婚という言葉が耳に熱っぽく響いた。でも、それは叶う夢。
再び、おでこを弾いた。
「あわてんぼさん、まだ決まっていないわ」
「いいえ、総督がおっしゃっていましたよ!」
「まあ・・・」
総督はなんて優しい方なのだろう。あたしが寂しくないように、マルコをそばに置いてくださる。
あたしは総督の部屋に続く道を振りかえった。感謝で涙が溢れそうになりながら。
そのころヴェンドラミンは暗い部屋で独り、声を殺して泣いていた。
夕闇を蹴散らすように、カンテラドルの光がささやかな抵抗を試みている。
ナーディルはすっかり人通りの絶えてしまった、リシェリー通りを歩いていた。
領事館で別れてからずいぶん時間が経っているというのに、彼はまだ気持の整理が着かないでいた。
罪悪感と、それを上回る、強い恋の喜び。頭の中はアナベラのことで埋め尽くされていた。
何を見ても彼女を思い出す。そして服に彼女の香が残っている。
五年前と同じ、金木犀の香。
プチ・シャン通りを左にはいり、オペラ通りへ突き当たった。
石畳の広い道の両脇に建物が並び、等間隔に灯された光がその重厚なファサードを浮かび上がらせている。そして、その果て、この都市の美を全て従えたオペラ座がそびえ立っていた。
ナーディルはしばし、オペラ座の主を思った。
抗えなかった。あの男と関わったのは、抗えない運命だった。
自問した。
では、アナベラとは?
答えは分からない。しかし、自分が気が狂うほど彼女を渇望しているのは分かっていた。
全てが悪い方へ突き進んでいる。それも分かっていた。
ナーディルは足をオペラ座へ向けた。
陽気に賑わうカフェ・ド・ラペの前を通り抜け、裏口から大理石の階段を登る。一段上る毎に、自分がペルシャ時代へ戻るような奇妙な緊張を覚えた。あるいは、自分を縛り付けている運命の輪郭をなぞるような。
あたりに人影はなく、声も聞こえない。関係者のほとんどは家路についたようだ。
ナーディルはやれやれと思いながら目的の部屋の前で足を止めた。
明日が初舞台でナイーブになっている団員たちに、エリックの罵声を聞かせるのは忍びないからなぁ。
彼はかるーくドアをノックした。そして返事も待たずにドアを開けた。
「エリックくぅーん、今夜、泊・め・て?」
返事の代わりにパンジャブの縄が飛んできた。
それをかるーくかわし、無邪気な笑みを浮かべて中へ入った。
「ダーローガー、貴様、今度こそ殺すぞ!」
エリックは目をつり上げて、2本目の縄を構えた。
「まぁまぁ、そう言わないでハニー。今夜行くところが無いんだ。それにとても心が寒くて・・・君と一緒に眠りたいんだ。抱いて暖めてほしいんだ・・・。それともこの哀れな恋人を追い出して、辻強盗の餌食になれっていうのかい?君はそんなに冷たい男じゃないだろう?」
ナーディルはポっと頬を染めて、ぞくぞくするようなウインクを投げた。
エリックは反射的に窓にへばりついた。
「や、やめろ、気色悪いっっ!誰が恋人だ、私にはクリスティーヌがいるっ!お前など辻強盗でも女衒でも、借金取りでも何でもいいから襲われるがいいっ!」
容赦ない怒鳴り声に、ナーディルの顔がみるみる青ざめた。
「そ、そんなひどい事を君の口から聴くなんて・・・」
ポケットのハンカチーフを引き抜くと、くっと噛み、よよよと、泣き崩れた。
エリックは総毛立ち、固まった。
それでも残った力を振り絞って、机にたどり着くと、愛用の指揮棒を掴んだ。
「おい、ダロガ」
できるだけ近寄らないように最大限に腕を伸ばして、棒の先で男を突っついた。
それから高慢に、しかし調子はずれに声を放った。
「出て行け。人を呼ぶぞ」
ナーディルは俯いたまま返事をしなかった。もう一度、突いた。
唐突に弾かれたように男は立ちあがった。ささっと目元をぬぐうと、あっけらかんと言った。
「じゃあ、マドモアゼル・ダーエのところに行くよ。彼女は優しいから何も聴かずに泊めてくれる。泊めてもらうだけじゃなく、あんな事もこんな事もしてもらおうっと」
何を想像してか彼は意味ありげににっこりすると、スキップしながら部屋を出た。
エリックは蒼白になった。
クリスティーヌが天使のように優しく、ダロガが望むままに慰めるだろう事は容易に想像できた。それにつけこんで、ヤツが彼女を誘惑でもしたら!二人の愛の最大の危機!
「ま、まてっ!貴様!」
エリックはこのところデスクワークが多く運動不足だったが、信じられないような早さで飛び出すと、『恋人』を羽交い締めにした。
「私の真意が見抜けないとは間抜けなヤツめ。今夜は泊めてやる。ただしソファーで我慢しろ!」
「やっぱり優しいねぇ、ハニー。朝食はカフェオレと、クロワッサン。スクランブルエッグもつけてね。」
「・・・・・」
エリックは無視のままナーディルを引きずって部屋に戻すと、乱暴にソファーに投げた。
「さっさと寝ろ!私はまだ仕事をするんだ。邪魔するな」
「はいはい」
素直に返事をすると、クッションを枕にゆったりと横たわった。それから色っぽい視線を向けた。
「おやすみのキスがほしいな」
「だまれ」
エリックは首を絞める素振りをして机に戻った。恋人はキャッと悲鳴を上げた。
ちろりと視線を横に流すと、ナーディルはもう寝息を立てている。
なんて寝付きのいい、と半ば呆れながら邪魔者が来る直前に入れたカフェを口に含む。
「・・・」
すっかり冷えている。
エリックは静かにカップを置き、音もなく椅子を引くと、隣の部屋へ入った。すぐに戻ってきた彼の手にはふわりと軽い、それでいて保温性に富んだ掛け物が抱えられている。彼は眠りを妨げないように、親友に掛けた。
しばし、寝顔を見つめた。
呟く。
「何か相談事があったのか?」
無論、答えはない。
エリックは足音を消して、机に戻った。
静まりかえった室内に楽譜を走るペンの音が響く。それを聴きながら、ナーディルはエリックが自分の立場だったらどうするだろうと考えた。
あの男なら、ためらうことなく彼女を愛し、さらって行くことも厭わないだろう。
だが、私は。
ナーディルはそれ以上考えるのが恐ろしかった。
無論、答えは見えていたが・・・。
翌日の夕方、ナーディルは落ち着いた表情でオペラ座の5番ボックス席にいた。
よく眠り、よく食べ、かなりな努力をして冷静さを取り戻した彼は、昼少し前ヴェネチア領事館へ使いを出していた。
『パリの良き文化は人生を豊かにする。マルコ・コルフェライ大佐も同伴されたし』。
階下に目を移すと、オーケストラボックスでなじんだ顔が、きびきびと指示を出している。
細かな事に団員たちがてきぱきと動いている。
その様子に、ナーディルは深い感慨を覚えた。
彼は真紅のカーテンをさりげなく引いた。
これから起こることは、極力人目を避けたい。
「ムシュウ・カーン。お連れ様がお見えです」
不意に響いた客席係の声に、彼は身を固くした。
彼の気持ちは決まっていた。アナベラとこれ以上関わらない。
それこそが最良の方法だと理性が判断していた。
しかし。
「ナーディル!」
男はかっと全身の血が熱くなるのを感じた。戸口に人影を認めたのもつかの間、その人物が彼の胸に飛びこんだ。ナーディルは一瞬で全てを忘れた。
あたしは彼の姿を見たとたん、自分が押さえ切れなかった。駆け寄り、彼の厚い胸に飛びこんだ。
「会いたかったわ、あなたに会えるまでひどく辛かったわ」
「ああ、アナベラ・・・」
ナーディルの両腕がきつくあたしを抱きしめた。
そして、待ちきれないように指先であたしの頬を撫でると、顔を寄せた。
かつて無かったほどの激しい口づけを交わし、見つめ合う。
身を絡ませたまま、腰を下ろそうとして、ナーディルは苦笑した。
「残念ながら椅子が小さいね」
「そうね」
くすくすと笑いながら、あたしは彼の隣へ座った。温もりが恋しくて、そっと彼の手を握る。ぎゅっと、返される喜び。
もう一度唇を重ねる。
名残惜しげに離れた後、ナーディルはもう一人の連れの不在に気が付いた。
「コルフェライ大佐は?」
「あの子は・・・朝早くから総督と出かけています」
「それは残念な・・・」
さらりと受け止めた自分をナーディルは咎めなかった。さてはアンドレアがしくんだなと心憎く思いもした。
「始まるわ」
あたしがカーテンを開けると同時に、客席の照明が落ち、幕が開いた。
舞台に中央に立つのは、歌姫。短い前奏が終わり、至高の声がこの広い空間を優しく満たしてゆく。
それは、愛の歌。
甘く、切ない調べに耳を傾けながら、ナーディルは『これから』を思い描いていた。
彼女を連れて行こう。今の家は独り身には広すぎるが、彼女と暮らすにはちょうど良い。誰もが訪れたくなるような家庭を築くのだ。子供が生まれたら、美しい名前を付け、アナベラと共に慈しむ。このまま本国に戻るのもいい。今ごろ庭は花でいっぱいだし、アウレア陛下のよい話し相手になってくれるだろう。ちょっとはじゃじゃ馬が治るかも知れない・・・。
考えながら一方では、自分が恋におぼれているのも知っていた。
だからどうだと思う。親友がアナベラに恋していようと、関係ない。アンドレアは私とアナベラが共に行くのを、後押ししているじゃないか。
ナーディルは夢見るようなまなざしで、傍らの恋人を見つめた。
これは長い間願っていた夢だ。決して覚めることのない夢だ。
「どうしたの?」
恋人の視線が嬉しく、恥ずかしかった。頬が自然と熱くなる。あたしはチュールレースの扇で顔を覆った。
「隠さないで・・・君は綺麗だ」
囁きながら、ナーディルは扇を持つあたしの手を握り、唇を押し当てた。
ちくっと鋭い視線が、男を射った。ナーディルは射手を探る。
指揮台の親友が口パクで怒鳴っている。
『私の舞台をきちんと観ろ!ばかもの!』。
ナーディルはウインクを返し、見せつけるように握った手を引き寄せた。
エリックは呆れて向き直った。
握られた手から彼の確かな愛が伝わってくる。あたしは甘く息をつき、彼の想いを抱きしめた。
いま、夢を見ているんだわ。決して覚めない夢を・・・。
このままあたしを連れて行って。もう、離さないで。
こちらの心を読んだように、恋人が情熱的な笑みを浮かべた。
ナーディルは堅く心に決めていた。
幕間になったら、アナベラに結婚を申しこもう。
きっと承諾してくれる。きっと。
マエストロが指揮棒を置くと同時に、盛大な拍手が巻き起こった。鳴りやまぬ拍手の中、ナーディルは席を立ち、ドアの外にいる客席係に声を掛けた。
「飲むものを持ってきてほしい。私はアニスを。ご婦人には・・・アナベラ、何が好きかな?」
彼はアルコールの力を借りようと思い立った自分が、ちょっと情けなかった。
まあいいかと呟いて、あたしを振り返った。
「・・・、カフェクレームをお願いします」
ナーディルは戻って来ると、視線を階下へ泳がせた。珍しくオーケストラボックスにエリックが残っていて
観客から握手責めにされている。
「よくまあ、努めているなぁ」
「どうかして?」
あたしも彼の視線の先を追った。
「うん、エリックは人付き合いが苦手でね、いくら仕切があるといっても、あれだけの人間に囲まれたら、さぞかし大変だろうなと。今日は頑張っている。・・・そう言えば、君も総督の供で色々な集まりに参加するのだろう?」
「ええ、総督宮殿に外交官をお招きすることが多いから」
ふっと、暗い影が胸をよぎった。あたしの顔が曇ったのをナーディルは見逃さなかった。
そっと頬に触れた。そして労るように優しく撫でた。
「辛いことがあったんだね」
愛おしく彼の手に自分の手を重ねながら、首を振った。
「心配しないで・・・いつもヴェンドラミン様が・・・」
言いかけて、胸に浮かんだ面影に切なさを覚えた。その時、ドアが開いて飲み物が届けられた。
カフェを手渡し、自分が真紅のアニスを手にしたとき、彼はあたしの耳を飾る物に目を留めた。
そして、懐かしげに触れた。
「まだ、持っていてくれたんだね」
「なくすはず、無いわ。ずっと大切に持っていたの。あなたと過ごした夜の、たった一つの想い出だから」
言いつつ、恥ずかしくなって俯いてしまった。恋人もほんのりと赤い顔になっている。
「そ、そうだ。カフェを頼んでいたけれど、ワインは嗜まないのかい?あのときも、すぐに眠ってしまったけど・・・」
しゃべり終わって、ナーディルはしまったという顔になった。さらに気恥ずかしくなって顔に赤みが増している。あたしは懸命に気持を奮い立たせると、顔を上げた。口調を明るく変える。
「そうなの。何度か試してみたの。でも、いつも一口で眠ってしまって。きっと、身体にあわないのね」
その時、開幕を知らせる合図があがった。
ナーディルはぎょっとした。プロポーズは、幕が上がってしまうと音に邪魔されてしまう。
ひとまず、自然に会話を続けることにした。
「仕事では苦労するだろう?もてなすときは、君も飲まないと不自然だろうし・・・」
「でも、一滴も飲まなくていいように、いつもヴェンドラミン様が配慮してくださるの。いつだったか、プロシアの大使があたしにコルヴォのグラスを差し出されて、困っていると、あの方がすれ違いざまにグラスを紅茶とすり替えてくださったわ。他にも飲んだ振りを上手にする方法を教えてくださったり・・・。アルコールが身体に入ると、気分が明るくなるから、しゃべるときはトーンを少し上げると自然だとか、他にも色々」
ナーディルは愉快そうに笑った。
「ああ、あいつらしい。だけど・・・よほど君を大切にしていたんだね」
「ええ。いつも大切にしていただいわ」
その時にっこりと頷きながらも、あたしの中にはこれまでヴェンドラミン様と過ごした2年が、一気に蘇ってきていた。
あの方の優しい瞳、力強い大きな手、ナーディルとよく似た声。誰でも包みこむような暖かい笑顔。
「ヴェンドラミン様・・・」
言葉が自分の中で反響する。そのたびに切なさに胸が締め付けられる。
矢も盾もたまらずあの方に会いたくなった
同時に戸惑う。
あたしが愛しているのは、ナーディルだけのはず!それなのに、どうしてヴェンドラミン様に会いたいの?
否定しようとすればするほど、思いが強くなる。
落ち着かせようと、カフェを含んだ。だが、変わらない。
ナーディルは急に黙りこくった恋人に、不吉なものを感じた。
同時に別離の予感。
不吉を追い払うように、彼は身を乗り出すと、あたしを抱き寄せた。
はっと、我に返った。
その時、幕が上がり、客室が闇に沈んだ。
静かに曲が始まった。
「アナベラ、私と」
ナーディルは真剣な眼差しを向けた。次の言葉を待った。
「・・・私と」
突如、曲は荒れ狂う波となってボックス席になだれこんだ。
彼の唇が動いていた。とぎれとぎれに聞こえたのは・・・『私と死ぬまで共に暮らそう』。
ナーディルは口を閉じ、あたしの答えを待った。
だが、声が凍りついていた。
あたしを凍りつかせたのは、彼と結ばれるという喜びからではなく、ヴェンドラミン様と離ればなれになるという事実だった。
耐えられない。そのことだけが、心を占めた。
「アナベラ・・・」
ナーディルはあたしの瞳の奥に、答えを悟った。
一瞬、彼の顔が悲しみに染まった。
「なぜ・・・?」
その一言が胸に突き刺さった。自分でも答えようのない疑問。でも、もう・・・。
5分前の自分には戻れない。
もう、元に戻らないとナーディルは知ってしまった。
恋の幕は下りた。だが、諦めきれない。
それでも彼は自分を見失うほど愚かでなく、愛する女性を責めるほど愚かではなかった。
ナーディルは昔から自分よりも人の幸せを願う男だった。
彼は腕を解いた。
「アナベラ」
とても優しい声音で、彼は呼びかけた。
「君は領事館へ戻った方がいい。馬車を呼ぶよ」
「ヴェンドラミン様の元へ・・・」
総督の顔が浮かび、喜びに胸が躍ったのもつかの間、あたしは激しく首を振った。
「だめ、できないわ」
「なぜ・・・?」
「できないわ」
「君はアンドレアを愛している。彼の気持ちも同じだ。何も案ずることなどない」
ナーディルは力強く諭した。
しかし、あたしはもう一度首を振った。
「だめよ、ナーディル。どこにも、帰れないわ」
視界が潤み、幾筋も涙が頬を伝った。
箱馬車をマレ地区一角に止めたナーディルは、あたしを支えつつ、豪奢な邸宅へ入った。
「ここは、どこ?」
彼は玄関先においてあった小さなヴェネチアガラスのランプを灯し、高く掲げた。
まばゆいが小さな光が、あたりを照らす。しかし、それだけでも室内は優雅な装飾が施され、高価な調度品で整えられているのが伺えた。
ナーディル自身も驚いている。
「ああ、ここは、アンドレアの別邸だ。最近手に入れたと言っていた。あいつは『ちょっとしたアパルトマン』といっていたが、とんだ冗談だ」
光が届かないところは、漆黒の闇に沈んでいる。
あたしは心細くなって、ぎゅっと自分を抱きしめた。
「誰もいないの?」
彼はもう一つランプをつけて、あたしに渡した。
「管理人がいるが、来週まで来ないと聴いた」
「そう・・・」
ナーディルは幾方向に腕を上げて、右にドアを見つけた。
「こっちへ」
あたしを手招きすると、先頭に立ってドアを開けた。応接間のようだった。
刺繍の施されたビロード張りの椅子が二脚と、ガラスのテーブルがある。
あたしを一脚に座らせ、道の途中で買った『カドラン・ブルー』の包みをテーブルに置いた。
「おなかが空いているだろう?」
力無く首を振る。彼はまだ温かみの残る包みをあたしの膝に乗せた。
「よく食べて、よく眠らないと、悪い考えばかり浮かぶよ。アナベラ、分かるね?」
いたわりが、苦しかった。どうしてこの人は、こんなに優しいのだろう。
また涙がこぼれそうになる。ぐっと堪えて、彼を見上げた。
「眠りたいわ・・・・。今はそれだけが望みよ」
言葉の真意を悟られないようにしたつもりだった。
ナーディルはしばらく黙っていたが、やがて袋をテーブルに戻すとランプを持った。
「そうしよう。もう夜が更ける。君もランプを持っておいで」
彼を先頭に階段を上がる。これからを考えると、ひどく複雑な気分だった。
大理石の階段を一段上るたび、冷たく音が響く。それがさらにあたしを緊張させた。
突き当たりの部屋まで行くと、ナーディルは足を止めた。ノブをひねって、開ける。
閉め切っていた部屋とは思えない、清楚な花の香が漂ってくる。
「ここで眠るといいよ」
「ええ、そうね」
ドアを開けた彼の前を抜け、中へ足を進める。ランプをベッド横のテーブルに置いた。明かりの届かない隅へ行くと、素早く次の行動に移った。
「アナベラ?どこへ行ったんだい?」
彼が訝しげに声をかける。その時ばさりと、何かが床に落ちる音が響いた。
あたしは闇の中からゆっくりと姿を現した。
柔らかな絨毯を踏みしめ、一歩一歩ドアへ近づく。
「ア、アナベラ」
ナーディルは狼狽えて、後ずさりした。きびすを返される前に、あたしは彼の腕をしっかりと掴んだ。
「来て・・・」
声が震える。こんな形で彼を迎え入れるなんて、考えてもいなかった。でも・・・。
彼はぎゅっと目をつむり、足を踏ん張った。あたしは、ひるまなかった。
「ナーディル、行かないで」
この声を聴かされて拒絶した男はいない。
あたしは一瞬震えるのをみて、両腕を彼の背中へ回した。
ぎゅっと乳房を押しつける。服を通して、男の激しい鼓動が伝わってきた。
あたしは腕を伸ばして何度も彼の頬を撫でた。
唇に触れると、熱い息が漏れた。
「抱いて」
声音をさらに切なく悩ましく変えた。その一言に男の身体がびくりとした。
あたしは目を閉じて、待った。
「アナベラ・・・・私は」
ふっと身体が軽くなったと思った。気が付くと寝台に横たわっていた。
目の前に男が立って見下ろしている。
覚悟を決めた。
あたしはヴェンドラミン様を裏切っている。辛いけれど、これしかナーディルに償う方法がない・・・。
辛いと思う自分が不思議だった。これまで幾人もの殿方と夜を過ごしていたのに。
そう思っても少しも気持は軽くならなかった。
ばさりと、音がした。
ふっと身体に重みが掛かった。
抱きしめようと腕を伸ばしたが、むなしく空を切る。
確かめると、あたしの肌はすっぽりと上掛けに包まれていた。
横を見ると、ナーディルが困ったように呆れたように笑っている。
「アナベラ、君は『白き傭兵の将軍を夢中にさせたうえ、結婚まで申しこませた世界最高の女性』の栄誉に輝いたのに、こんな事で『引き分け』に持ちこむ気かい?」
あっけにとられていると、彼はさらに付け加えた。
「もちろん、これは『負け惜しみ』じゃないよ」
綺麗なウインクもオマケしてみせた。
あたしは、頭まで上掛けを引き上げた。そして叫んだ。
「あなたって人は・・・ひどい人だわ」
そうでも言わないと、泣いてしまいそうだったから。
ぎしと寝台がきしんで、枕元が下がった。
明るい声が降る。
「アンドレアには内証にしておいて。君をいじめたと分かったら、セーヌ川に突き落とされる。・・・そうだ
アナベラ、『私の願いをきいてくれるかい?大したことじゃないんだ。ここにいて、君の寝顔を観ていたい。いつもむさ苦しい男ばっかりだから、飽き飽きしているんだ。いいだろう?』」
あたしはその言葉に胸が震えた。
忘れもしない。ナーディルと出会った夜に交わした言葉。
あのとき、生まれて初めて優しい男の人もいると知ったんだわ。
あたしは上掛けから目だけを出して、答えた。
「お客さん、『あなた・・・男色家なの?』」
ナーディルはにやりと笑った。
「今夜だけね」
「了解」
弟の真似をして、敬礼した。ナーディルはウインクを返す。
あたしはゆったりと目を閉じた。
少しだけ、ほんの僅かだけ、気持が凪いでいる。
不思議だわ。この人は最悪の時でも和ませる力を持っている。
一時でも愛されたあたしは幸せね。
「おやすみ、明日はきっといい日になるよ」
額に暖かく唇が触れた。
「おやすみなさい」
寝台が再びきしんで、足音が遠のいた。やがてドアの閉じる音。
ランプがほんのりと明るく部屋を照らしている。
それは彼と過ごした夜を思い出させた。
しかし今は想い出に逃げるより、現実を見つめる時だった。
「ヴェンドラミン様・・・」
自分の本心を知ってしまった時から、総督を愛する資格を失ってしまった。
それなのに、誰よりも彼を求めている。
あたしは、何という浅ましい女だろう。おぞましい女だろう。ナーディルを傷つけ、総督を傷つけ、それでもあの方を愛する気持を捨てられない。
二度と会うことは叶わないと言うのに。
ナーディルは部屋を出ると、ランプを手に階下へ降りた。応接間に気になるものがあった。
部屋に入り、まっすぐマントルピースに向かう。白い封書が置いてあった。ナーディルの名前が記されており、裏はヴェンドラミン家の蝋印が押されている。
懐に忍ばせたナイフで、ためらわずに開封した。
中に上質な便せんが入っている。ランプの光で文字を追った。
『アナベラを託す。彼女は五年間ずっと君を愛していた。幸せにしてやってほしい』。他にも、この屋敷は彼女の名義になっている。ヴェネチア銀行から毎月一万フランを送るとあった。
ナーディルは深く息をついた。
「昔から気の利く男だったが・・・もう少し自分の幸せを考えればなぁ」
ぼやきながらも彼は玄関へ向かった。
事は急を要する。
外へ出ると、闇がひんやりと街を覆っていた。
「ボンゴ、いるかね?」
よほど集中していなければ聞こえない声だったが、答えは白い影になって現れた。
「お久しぶりです、将軍。お元気そうでなによりです」
腹心の部下は、恰幅の良い体を揺さぶりながら勇ましく敬礼した。
頷いて、ナーディル・カーン将軍は凛とした声を放った。
「マルコ・コルフェライ大佐を秘密裏にここへ。ただし、パオロにも内証だぞ。どんな説教を食らうか分からんからな」
ボンゴは今にも吹き出しそうになりながら答えた。
「相変わらずですねぇ。将軍」
「全くだ。口うるさい古女房だから、かなわんよ」
うんざりと肩をすくめている間に、部下は闇に消えた。
ナーディルは煙草を取り出すと、火をつけた。
青い煙が立ち上り、夜に溶けてゆく。
彼は亡き妻を思い出していた。
サフィニア。私の愛しい妻。呟いて、静かに息をついた。
ナーディル・カーンは出会ったときからサフィニアを愛していた。婚礼の晩に彼女が処女でないと分かっても、気持は変わらなかった。サフィニアは夫に尽くし、求めても決して拒まなかった。満ち足りた生活のうちにレイザーが生まれた。
しかし、赤子を見つめる彼女の目に、誕生を喜ぶ以上にもっと激しい何かが宿っているのを、ナーディルは感じていた。
サフィニアはまるでレイザーをこの世に送り出すために命を使い切ったかのように、子供を腕に抱くことなく去り、子供もまた、短い生涯を閉じた。
妻に恋人がいたこと、その名が息子と同じだったことをナーディルが知ったのは、ずっと後だった。
彼はこれだけ時間が経っても、妻が本当に自分を愛していたか、戸惑う。そして幸せだったかも・・・。
小一時間も待っただろうか、彼方にちらちらと影が踊った。それは瞬く間に大きくなり、やがて一人の青年将校の姿を浮かび上がらせた。
「カーン将軍!」
将校はすらりとした身体を折れそうなほど張りつめて、敬礼した。
ナーディルも仰々しく敬礼を返し、口を開いた。
「このような時間にご苦労、コルフェライ大佐」
「いえっ、兵士に時間は関係ありません!」
「よろしい」
ナーディルは親しげに青年の肩に手をやり、付いてくるよう示した。
一歩後ろをマルコが従う。
将軍は屋敷の庭を通り、玄関を静かに開けた。
入り口に置かれたランプが、おぼろげに豪奢な部屋を浮かび上がらせている。
しかし、マルコはさほど驚いた様子も見せなかった。
ナーディルはいぶかしんで、尋ねた。
「ここへ来たことがあるのかね?」
「いいえ、初めてですが、総督からくわしく伺っておりました」
ナーディルはそれ以上、聴く必要が無かった。ヴェンドラミンがどのようにここを紹介したかなど、容易に想像が付く。密かに舌打ちして、彼は二階を指し示した。
「姉上が、・・・おやすみだ。今からその部屋を警護してもらう」
「了解!」
背を向けたままの会話だったが、ナーディルは、やはりと思った。
この弟はある程度を予想して、ここへ来た。おそらくこれもヴェンドラミンの手配りだろう。
彼は自分を取り巻いているものが、じわじわと狭められているのを感じた。
明かりを差し出すと、言った。
「行きたまえ。姉上を起こさないように、静かにね」
一歩踏み出しかけて、マルコは振り返った。暗い中でもはっきりと分かるくらい顔が赤い。
「しょ、将軍、あの、差し出がましいと・・・僭越であることは、重々承知しておりますが、教えてください!いえ、教えて頂きたい事があります!」
「なんだね?」
「あ、姉、おねーちゃん、・・ええと、姉上とはいつご結婚なさるのですか?」
自分でも感心するくらい、ナーディルは冷静さを失わなかった。
穏やかに、しかし威厳をこめて答えた。
「君は大事な身内だ。全てまかしておきたまえ」
『身内』という言葉に、マルコは舞い上がった。
「将軍が義兄だなんて、夢のようです!」
興奮で目をきらきらさせながら敬礼を決めると、足早に階段を上っていった。
彼の姿が消えると、ナーディルは再び外へ出た。
煙草を取り出し、燻らす。
闇の中から溶け出すように、ボンゴが現れた。
近寄ってきた部下に煙草を差し出した。
受け取り、くわえた大男に自分の火を分ける。
ボンゴはため息混じりに紫煙をはき出した。そして虚ろな目で背後の屋敷を振り返った。
「コルフェライ大佐は、男にしておくのはもったいないくらい・・・綺麗ですよねぇ・・・」
力の抜けた声に、ナーディルはまじまじと部下の顔を見た。
「何か、あったのかな?」
しかし、全く耳に入っていないらしく、蚊の鳴くような声が漏れる。
「あんな顔だったら、フラれるってないだろうなぁ」
そのまま、大きな体を折り曲げるようにうなだれてしまった。
将軍はポンポンと部下の背中をたたいた。
「また、返事をもらえなかったのかい?」
顔を上げないまま、ゆっさゆっさと首が上下した。
「そうか・・・7度目?」
不意に津波が襲いかかるように、ボンゴは身を起こした。
勢いとは逆に顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「将軍〜俺たちの間には6人も子供がいるんです!それなのに結婚してくれないんです。やっぱり俺が不細工だから?体重が彼女の3倍もあるから?そうですよね、他に考えられない!」
ナーディル・カーン将軍は、いたわりをこめてボンゴの肩に腕を回した。
「ボンゴ、それは違う。君を愛していなかったら、6人も子供を産んでくれないよ。結婚できないのは、まだ時期じゃないからだ。それまで待たないとね」
少しだけ部下の表情が和らいだ。
「そうでしょうか・・・だけど、コルフェライ大佐なら、あんなに綺麗なんだから、誰もが結婚したがりますよね」
ナーディルは屋敷を振り返った。
それから諭すように言った。
「彼はまだまだ、子供だ。君の方が数倍も男らしい。我々は外見で闘うんじゃないって事は、知っているだろう?部隊の中で君にかなう戦士がいるかい?いずれコルフェライ大佐は君の下で鍛えてもらうから、そのつもりでいるんだぞ」
最後を力強く締めくくると、それに呼応したようにボンゴはびしっと胸を張った。
「お任せくださいっ!将軍のご期待以上に仕上げて見せます」
ナーディルは親指を立てて笑うと、短くなった煙草を消した。
部下は急に態度を改めた。
「ところで・・・将軍、ご結婚なさるんで?」
「情報の出所は?」
回答者の顔にぴりっと緊張が走った。
その様子にボンゴは不思議そうに答えた。
「ほら、あの男、C・D・Xのカロルドですよ。彼が俺を見つけて『ナーディル・カーン将軍はどこにいる?』って、聞くから、探りを入れたら『将軍とコルフェライ嬢が結婚すると総督が話していて、すでに色々な準備に取りかかっている。3日後に総督は帰国するから、それまでに式を済ませる』と。こっちは知らぬ存ぜぬで通しましたけどね」
ナーディルは部下の手際の良さに感心しつつ、同時に深刻な気分になった。
自分が考えているより速く、物事が進んでいる。
無口になってしまった将軍に、部下は大声を上げた。
「あれ?違うんですか?そうですよねぇ、あんまり年が離れてるし、彼女はあんなに美人だし、釣り合いがとれませんね。うーん、どう考えても現実離れした話だと思ったんですよ。こりゃあカロルドにかつがれたかな」
これにはさすがのナーディルもむっとして、結婚寸前まで行ったことを話してやろうかと思ったが、やめた。ナーディルがなおも黙っていると、はっとなったボンゴが大きな体をぶるぶる揺さぶりながら、後ずさった。
「だ、駄目ですよ、俺にはちゃんと好きな女がいるんですから!」
「ちがう、ちがう、残念ながらね。アナベラの相手は君じゃない」
彼は吹き出しそうになるのを堪えて、何度も首を振った。
「あーよかった・・・メアリー、メアリー、一瞬でもこんな考えが浮かんだことを許して・・・俺の心は君のものだよ・・・・」
男が冷や汗をかきながら何度も十字をきるのを見て、ナーディルは再び煙草をくわえた。
「君の恋人は実に幸せだねぇ」
「えへ、そうですか?」
ボンゴが茹でタコのように真っ赤になった。頭から湯気がのぼっている。
「ああ、そうだとも・・・」
にっこりと笑った。
だが、瞳は翳る。察してボンゴは急に真顔になった。
「将軍、えらく難しい問題を抱えているのではありませんか?あまり悩むとハゲますよ。ほら、このあたりが薄い・・・・・」
部下は容赦なく将軍の頭のてっぺんをつついた。すかさずそこを押さえつつ、彼は切り返した。
「お気遣いありがとう。その言葉はそのままお返ししよう。軍曹、耳の後ろが禿げているよ。これくらい」
ナーディルは親指と人差し指で輪を作った。
「わぁ、メアリーに嫌われるっ!だ、だから結婚してくれないんだ!」
蒼白になっている大男の肩をナーディルは優しくたたいた。
「ほら、もう彼女のところへ帰っていい。男は見かけじゃないでしょ?恋人にいいところを見せておいで」
「し、失礼しますっ」
敬礼もそこそこに、ボンゴは走り出した。
驚異的な早さで姿が見えなくなる。
ナーディルはようやく戻った静けさに、身を任せるように目を閉じた。
これからどうなるのか、彼には見当が付かなかった。どうしたらいいのかも分からない。
こうなった原因は自分にある。初めからアナベラの心がどこへ向いていたかを知っていながら、恋に落ちた。
制止しきれなかった、己の未熟さが彼女を追いこんだのだ。
激しい後悔がナーディルを容赦なく責め立てる。
だが、全ての道が閉ざされようとしていた。
「・・・上、姉・・・」
あたしは聞き慣れた声に目を覚ました。
見回すと、すでに陽が昇り、窓から清かな光が差しこんでいる。
見慣れない景色にはっとなって、そしてすぐに記憶が戻った。
「ここは、ヴェンドラミン様のお屋敷だわ」
昨夜の事も蘇って、同時に身体の中に鉛の塊を抱えたような気持になった。
「ヴェンドラミン様・・・」
名を呼ぶことさえ、ためらいを覚えた。
再び声がした。
「お・・・ねーちゃん?起きてますか?」
「マルコ?」
あたしは注意深く呼びかけた。混乱も覚えつつ、ベッドから出て、ネグリジェの上に部屋着を羽織った。「マルコ、あなたそこにいるの?」
「はい!昨夜からずっとここにいました!」
ドアの向こうから少しも疲れを感じさせない声が返ってきた。
どうやら本物らしい。訳は分からなかったが、ドアを開けた。
「おはようございます!カーン将軍夫人!」
威勢よく踵を鳴らし、敬礼を決めた弟に、あたしはひどく戸惑った。
「あわてんぼさんね。まだ式は挙げていないわ」
伏し目がちに呟いたが、弟は耳に入った様子もなかった。
彼は嬉しくてしょうがないと言う顔で、あたしの手を引いた。
「姉上、おなかが空いたでしょう?下で将軍がお待ちですよ!」
身を翻す暇もなく、あたしはマルコと一緒に食堂へ降りた。
「おはよう、アナベラ」
ナーディルがいつもと変わらぬ優しい笑顔を向けた。
胸がずきりとしたが顔に出さぬよう努めた。彼が引いてくれた椅子に腰を下ろした。
ナーディルはあたしの正面に座り、マルコがあたしの隣へきた。
テーブルに目を落とすと、焼きたてのパンや、カフェ、卵料理が並んでいる。
弟は席に着くなり、声を上げた。
「もう、おなかがぺこぺこです!あ、すみません・・・」
マルコが真っ赤になって身を縮めた。
「いいんだよ。兵士はよく食べるのも仕事だ」
おおらかに笑い、将軍はパンをいくつも弟の皿にのせた。
「わ、恐縮です!いただきます!」
弟がパンを頬ぼるの見届けて、ナーディルはあたしにもパンを分けた。
そして、いたわりをこめて言った。
「アナベラ、食べなさい。気が進まないかも・・・知れないが・・・」
「ええ・・・」
あたしは温かみの残るパンを一口分ちぎったが、それ以上、手が動かなかった。
瞬く間に3個を平らげた弟が、怪訝なまなざしを向けた。
「姉上?どうしました?」
あたしは反射的に笑みを作った。
「何でもないわ。ちょっと考え事をしていただけ」
「駄目ですよ、ちゃんと食べないと!総督は姉上のために素晴らしいドレスを準備なさっています。結婚式の時、足下がふらついてはみっともないですよ」
危うくパンを落としそうになった。注意をそらすように、ナーディルが話しかけた。
「コルフェライ大佐、君はそれを見たのだね?どれほど素晴らしいか、教えてくれるかな?」
「はいっ。ちょっと覗いただけでしたが、夏の雲みたいに真っ白でふんわりとスカートが広がっていました。袖口はレースがふんだんに使ってあって・・・とにかく晩餐会でみたどのドレスより素晴らしかったです。シャルル=フレデリック・ウォルト氏がデザインしたとか・・・。姉上が着たらどんなに綺麗でしょう!」
「ウォルト氏はいまパリでもっとも評判の男だ。この目で拝見できないのが残念だ」
「式の当日にごらんになれます!」
ナーディルは 肩をすくめて苦笑いした。そしてちらりとあたしに視線を投げた。
あたしは彼を見返すこともできなかった。マルコの次の言葉も恐ろしかった。
しかし、ナーディルはさらに続けた。
「他には何を?」
マルコはしかめ面で記憶を辿っていたが、ふいにあたしをつついた。
「姉上、ほら、あれは何でしたか?昨日の午前中、総督と式に使う小物を選んでいたでしょう?手袋でしたか?」
回答を求めて弟が見つめていた。あたしはもう、胸の痛みに堪えきれなかった。
無言のまま席を立った。
「姉上?おねーちゃん!」
驚きと戸惑いの入り交じった声が追いすがってきたが、振り切って部屋を飛び出した。
「どうして・・・?」
マルコは腰を浮かしたまま、将軍を振り返った。
ナーディルは訳知り顔で頷くと、彼に座るように示した。
「コルフェライ大佐、女性はね、結婚前はとてもデリケートなんだ。ヴェネチアのグラスよりもっと、気を遣ってあげなければいけない。しばらくそっとしておいてあげなさい。私があとで話しに行くから」
ナーディルはマルコと急いで食事を済ませると、ひとり分を銀のトレーに乗せて階段を上がった。
情報がほしかったとはいえ、場所を選ぶべきだったと後悔していた。
3階まであがった時、ドアが開いているのが見えた。
「アナベラ?」
響く声に胸が暗くざわめいた。あたしは窓辺からうつろに声の主を振り返った。
ナーディルはトレーをテーブルに置くと、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってきた。
彼はもう一度呼びかけた。
「アナベラ」
懇願するような声音も、すまなそうな様子も理解できなかった。
彼はあたしと並んで窓辺に立つと、頭をたれた。
「さっきは・・・・君に辛い思いをさせてしまった。悪かった。許してほしい・・・」
「・・・嘘ばかり」
自分でも恐ろしいほど冷え切った声が出た。
ナーディルは瞠目して、口を閉じた。かまわずに続けた。
「本当はあたしを苦しめたいのでしょう?結婚を承諾しないのを恨んで、復讐を企んだのよ、あなたは!ええ、そうよ、マルコの言うとおり、昨日ヴェンドラミン様と結婚式の手袋や花、お招きする方の招待状まで、全てを決めたわ!いまごろ全てが整っている!それなのにあなたは私と結婚できない!こんな小娘にいいようにあしらわれて、とんだ恥さらしだわ!」
彼は黙って聞いていたが、あたしが口を閉ざしても何も言わなかった。
容赦なく続けた。
「どうしたの?何も言い返さないの?悔しくないの?それとも年を取りすぎて何も感じないのかしら?それでも『白き傭兵』の将軍なの?とんだお笑いだわっ!」
言葉の一つ一つが鋭いナイフになって、あたしの胸を切り裂いた。
だが、止められない。
あたしは自分の愚かさが許せなかった。ナーディルから、誰よりも彼から、罰を与えてほしかった。
だが、なおもナーディルは困惑したまなざしをあたしに向けたままでいる。
「そこまで腰抜けとは知らなかったわ!あたしこの窓から叫ぶわよ?見て、外の通りには人が溢れているのよ。噂好きな人ばかりだわ。全てをぶちまけてあげる。そうしたら、あなた、恥ずかしくてパリにいられないわね?」
もうこれ以上、しゃべり続けられなかった。偽りで彼を睨む気力も尽きた。全身から力が抜けて、壁に背を持たせる間もなく、崩れかけた。
「アナベラ!」
がっしりと両肩を支えられた。だが、その力強さには怒りも感じられた。
ああ、とあたしは不安と安堵の入り交じった息を吐いた。
ナーディルはあたしを椅子に座らせると、あごを掴んで上を向かせた。
殴られると、思った。ぎゅっと目をつむった。
だが、何も起こらない。
おそるおそる目を開けると、そこに静かにあたしを見下ろす顔があった。
彼は膝を折り、正面で向かい合った。黒い瞳は静かで、慈愛すら湛えていた。
ナーディルはヴェンドラミンによく似た、穏やかに深みのある声で言った。
「もう、自分を傷つけるのはよしなさい・・・。私は何一つ、怒っていない」
そして、優しく頬を撫でた。あたしは彼の手に自分の手を重ねた。
「傷つけたわ」
視界が潤む。
「傷つけたわ。許されない」
かつての恋人はなおも優しくあたしを見つめて、首を振った。
「傷ついていない」
それが嘘だと分かっていた。
ナーディルの思いやりが苦しかった。もうこれ以上、彼を見ていられなかった。
「泣かないで」
囁いて、彼は腕を両腕を広げ、ためらいつつあたしを柔らかく抱きしめた。
あたしの中に、ためらいが訪れた。だが、動けなかった。ようやく絞り出した声は、こうだった。
「・・・・あなたは優しすぎるわ・・・」
「私は・・・」
かつての恋人は腕や肩にかかる感触に、激しい動揺を覚えないではいられなかった。
だが、じっと、耐えた。
そして声を絞りだした。
「君は私の大切な人だから・・・」
彼の言葉一つ一つ、余韻さえも切なかった。
それでも伝えたいことがあった。
「ナーディル、聞いてほしいことが」
罪悪感に苛まれながら、あたしは昨夜からずっと秘めていた考えを口にした。
「あたしを大切に思ってくれるなら、・・・あたしをもう一度、愛せる?結婚してほしいの」
ナーディルの心の中に、消え去ったはずの夢が蘇った。
抱く腕に力がこもる。
あたしは答えを待って、彼の肩に顔を埋めた。
やがて、ナーディルは口を開いたが、口調は厳しかった。
「なぜ?」
一瞬、しゃべってはいけないと思った。だが、隠し事はしたくない気持が強かった。
「そうすれば、ヴェンドラミン様が喜ばれるから・・・・・・」
ナーディルは気を取り直すように訊いた。
「それはたった今、思いついたんだね?」
顔を上げた。そして、彼の目を見て、はっきりと首を振った。
その悲壮なまでの毅然さが、ナーディルには息をのむほど、美しかった。
同時に、彼はぐっと胸が詰まった。
今、目の前にある光景は、五年前のあの夜と寸分も違わなかった。
しかし、あの時と明らかに違うのは、その判断だった。
ナーディルはあたしの両肩を鷲掴みにすると、引き離した。
あまりの力に顔をしかめても、彼を見据えるのはやめなかった。
そして言った。
「お願い」
ナーディルは厳しいまなざしを向け、ゆっくりと首を振った。
あたしにはそれが悲しくもあり、嬉しくもあった。
「アナベラ、君はそれで良いかもしれないが、私は賛成しない。君は自分ばかりでなく、アンドレアも裏切っている。私が君の力になる。二人で別の方法を考えよう」
振り切るように、首を振った。
「いいえ、必ずあなたの良き妻になるわ!」
彼は柔らかく声音を換え、諭すように続ける。
「君の言うとおり、共に暮らし、尽くしてくれるだろう。子も成してくれるだろう?だけど、アナベラ、偽りから決して愛は生まれない。私は知っているんだよ。それにあんな思いは・・・・・もうしたくない・・・」
「あんな・・・?」
うっかり訊いてしまって、後悔した。だが、ナーディルは微かに笑うと答えた。
「私は身罷った妻を心から愛していた。彼女は良き妻だった。だが、死ぬまでひとりの男を忘れられなかったんだ」
「怒っているのでしょう?侮辱だもの」
彼はあたしを見たが、その目は遠く、別の人を観ていた。
そして、うつむき悲しげに呟いた。
「妻が哀れだった・・・今でも後悔している。きっと死ぬまで後悔する」
そのころマルコ・コルフェライ大佐は結婚祝いを取りに戻るため、領事館への道を急いでいた。
アンドレア・ヴェンドラミンは領事館の窓から、端正な若者が裏門をくぐるのを眺めていた。
「戻ってきたか」
つぶやき、傍らに控えているカロルドに向き直った。
「君の報告通り、コルフェライ大佐が帰ってきた。彼を呼んでくれ」
C・D・Xの男は無言で頷くと、足早に部屋を出た。
ほどなくドアがノックされた。
「コルフェライ大佐です」
「はいりたまえ」
敬礼をし、若者が不安げな面持ちでヴェンドラミンの前に進んだ。
しかし予想と裏腹に、総督は彼の気持ちをほぐすように、穏やかな笑みを浮かべた。
「アナベラとカーン将軍はどうしているかね?何か困っている様子はないだろうか?」
マルコはしばらくの間、総督の言葉の意味がくみ取れなかった。
きょとんとしている若者を促すように総督は続けた。
「何を驚いているのかね?二人がマレの屋敷にいることは、昨夜のうちにカーン将軍から連絡を受けているのだ」
マルコはまだ納得がいかないという顔をしている。
総督は気の毒そうにしかし、愉快そうに言った。
「大佐、やられたな?実はカーンはちょっと人の悪いところがあってね。君をからかったんだ」
「え?え?それでは将軍がおっしゃった『総督には内緒』との命令は・・・?」
ヴェンドラミンが必死で笑いをかみ殺しているのをみて、マルコは恥ずかしさで顔が赤くなった。
「ひ、ひどいです、わ、自分はっ・・・!」
「まあまあ」
総督は若者の肩を軽くたたいてなだめた。
「君が実直な若者だと彼は評価したはずだ。そんなに気に病む必要はない。さぁ、屋敷に戻りなさい。
何か必要な物があれば、カロルドに伝えておくといい。夕方までに届けさせる」
その言葉にようやくマルコはようやく元気を取り戻した。ピンと背筋を伸ばし、敬礼する。
「お心遣い、感謝いたします!」
総督は満足げに頷いた。
「それから・・・」
言いかけて、声が消え入った。
総督の瞳に影が差す。
「どうかなさいましたか?」
しかしそれはマルコが言い終わる頃には消えていた。彼はさも嬉しげな表情を作った。
「とても大切なことを忘れていた。カーン将軍に伝えてくれ。『打ち合わせ通り、結婚式は明後日の十九時にマレ地区の屋敷で執り行う。それまでゆっくりすごすように』と」
「確かにお伝えします」
「それから・・・アナベラに」
「姉上に?」
ヴェンドラミンは万感の思いをこめて言った。
「君の幸せを心から願っている、と」
「・・・ちょうどシニョール・カロルドの部屋へ伺ったときに、姉上のドレスが仕上がって運ばれてきたんです。それはもう・・・なんて言ったら・・・きれいできれいで夢のようでした。あと・・・」
弟は帰って来るなり、はじめにナーディルに結婚式の日程を伝えた後、領事館で観てきた事について、目をキラキラさせながらしゃべり続けた。
ナーディルは楽しそうに相づちを打ちながら聴いていたが、あたしは立っているのがやっとだった。
やがて、その時はきた。
「あ、大事なことを忘れるところでした。姉上、総督から御伝言です。『君の幸せを心から願っている』」
もし人の心が目に触れる物だったら、マルコは無惨に切り裂かれ、血を流すあたしの心を見ただろう。
ふっと、足の力が抜けた。
「アナベラ?」
あたしが倒れる寸前に、ナーディルはさりげなく抱き留めて、くるりとマルコに背を向けた。
素早く囁く。
「マルコに悟られる」
はっとなった。とっさに彼の背中に腕を回した。
「あ、あのっ・・・!」
ナーディル・カーン将軍は首だけ回してマルコを振り返ると、これ以上ないくらい魅力的なウインクをした。
そして、さりげなくドアを指さした。
「悪いが二人だけで幸せを感じたいのだ。しばらく外で時間を潰してくれたまえ」
「は、はい!」
マルコはこれ以上ないくらい顔を真っ赤にして、飛び出した。
彼が出て行くと同時に、ナーディルは腕を解き、あたしを椅子へ座らせた。
「・・・」
慰めになるだろうと、大佐をここへ呼んだつもりが裏目に出てしまったことを、彼は後悔していた。しかし、今は何も言えなかった。
ナーディルは注意深くあたしの肩に触れた。
「アナベラ、何も心配しなくていい。君がアンドレアと幸せになるよう、私が力を尽くすから」
しかし、懸命な言葉はあたしの心に何一つ届かなかった。
あたしはぼんやりと彼の顔を見つめた。泣きたいのに涙がでなかった。
「お願い・・・独りにして。考え事をしたいの」
ナーディルは心配そうな視線を向けたが、無言で頷いて部屋を出て行った。
全てが悪い方向へ向かっているのに、止めようがない。
ヴェンドラミン様を傷つけ、ナーディルを傷つけたあたしに幸せになる資格など、どこにもない。
罪は贖わなければならない。
それだけが心を占めた。
結婚式の前日の朝まで、何事もなく過ぎた。相変わらずマルコは何の憂いもなく楽しく日を過ごし、あたしも幸せでたまらないと言う素振りを通した。そんなあたしにナーディルもそつなく合わせていた。
二人きりになった時、全て彼に任せると伝えたことが大きな手助けになっていた。
思わぬ来客があったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
客は対応に出たナーディルを見るなり、怒鳴りかけた。
「ダロガっ!よくも・・・」
「あ〜ら、エリック!お久しぶり。ちょっと外で話そうか?」
にこやかに笑みを浮かべながら、ナーディルはエリックを羽交い締めにすると、庭へ引きずっていった。
そして柊のしげるあたりまで来ると、怪人を解放した。
離されるやいなや、エリックは掴みかかった。
「返す返すも無礼なヤツだ。貴様、私の舞台を途中で抜け出しただろう?人のせっかくの好意を踏みにじりおって!さあ、言い訳してみろ!私が納得できるものをな!」
エリックは身構えた。しかし、親友は拍子抜けするほど、あっさりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
聴力は人の数倍も優れていたが、自分の耳を疑った。彼は慌ててナーディルのおでこに手を当てた。
「な、なんだ?どうしたんだ?熱でもあるのか?悪い風邪でも引いて脳みそがふやけたのか?それともお前は本当はダロガじゃなくて、誰かが化けているのか?」
エリックの狼狽ぶりにナーディルは小さく笑った。
そして、再び沈黙した。
ナーディルの親友は自分でも予想しなかったほど、心配になってきた。
ぎくしゃくと男の肩を抱いた。
「な、何か困っているんなら、相談に乗ってやってもいいぞ。ただし一回だけだ。私も忙しい身だからな」
「優しいねぇ・・・別段、困ってないよ」
ナーディルは力無く答えた。しかし、エリックは彼の頭をこづいた。
「うそつけ」
「ばれたか。ははは」
再び沈黙が訪れた。
しかし、エリックは辛抱強く待った。
春の明るい日差しがナーディルを照らしていたが、その顔色はひどく青ざめていた。
彼はそばのベンチに腰掛けた。エリックも横へ座った。
「実はひどく困っている」
いつになく深刻な様子にエリックも真剣になった。
ナーディルは親友にこれまでの経緯を全て話した。そして最後にアナベラが何か行動を起こすはずだと、言った。彼女の態度にずっと不安を覚えていたのだ。
話が終わって、エリックは首をかしげた。
「その総督も情けないヤツだな。お前もな。さっさとシニョーラ・コルフェライを送ってゆけばいいじゃないか?彼女が言いにくいなら、お前が代わりに気持ちを伝えてやればいい。総督も彼女を愛しているんだろう?」
ナーディルは息をついた。
「それは考えた。だが、アンドレアは昔から頑固なヤツで、私とアナベラが結婚すると決めつけている。何を言ってもききやしない。それに、アナベラが戻りたがらない。無理だ」
エリックも息をついた。
「くだらん。大の男がうじうじと!好きな女をどうして手放せるのだ?私が総督の立場なら、奪い返しに行くぞ?」
「お前らしい回答だ」
ぼやきつつも、ひらめくものがあった。
「奪い返す、そうだなっ」
ナーディルは力強く立ちあがった。つられてエリックも腰を上げた。
見下ろした男がにやりと、笑った。
見下ろされた男は不吉な予感を覚えた。
たらりと、冷や汗。
「どうし・・た?・・・」
「うーん!エリック愛してるよぉ!」
さすがの怪人も避ける暇がなかった。
ナーディルは2本のごっつい腕で怪人をぎゅーっと抱きしめた。
「ぎゃー!変態っ!」
じたばたもがくがエリックは逃げられない。
しかしエリックも男。勢いで二人ともひっくり返り、柊の茂みにつっこんだ。
「あいたー」
ようやく腕が緩んだすきをみて、怪人は素早く身を起こした。
「きーさーまー人が真面目に相談に乗っているときに!」
ダロガを下敷きにしたおかげで、エリックに怪我はない。しかし、ナーディルは尖った葉で、顔に幾筋もひっかき傷を作ってしまった。
「はっはは、すまん、嬉しくてね」
心の底から笑っている友の様子に、エリックも知らず笑みがこぼれた。それを押し殺し、彼は懐から時計を取り出した。
「話は終わりだな?もう行くぞ」
きびすを返した親友の背中にナーディルは声をかけた。
「エリック、待て」
振り向いた怪人に向かって、これ以上ないくらい魅力的なウインクと投げキス。
エリックは必死の形相で両手を口に押しつけ、
「私の唇はクリスティーヌだけのものだっ!」
それから半時間後。ナーディルはボンゴを呼びだし、打ち合わせをした。全てが終わった後で、ボンゴは怪訝そうに尋ねた。
「なぜコルフェライ大佐は外すんです?こういう場合、身内がもっとも強力な戦士でしょう?」
「セオリーはその通りだ・・・。ずいぶん迷ったんだが、微妙な問題だから今回は参加させない」
だがこの判断の誤りが、後に取り返しのつかない悲劇を産むことになった。
手筈は整えた。いまごろドーヴィルのカルメル会修道院に、あたしの手紙が届いている。
荒れ狂う北の海を臨む崖に建ち、もっとも戒律の厳しいそこは誰も拒まないという。
そして、どのような理由があっても二度と還俗はできない。
あたしはガラスペンを置き、封筒を閉じた。
窓から通りを眺めると、マルコがあたしを見つけて手を振っている。
無邪気さの残る笑顔が愛らしいと同時に悲しかった。
あたしも手を振り、部屋にあがるよう示した。
「おねえちゃん、何か用事?」
部屋にはいると、いつにもまして明るい声で言い、あたしの隣へ座った。
「そうなの」
柔和な微笑を浮かべ、そっとテーブルに置いてある封筒に視線を移した。
あたしは最後の自問をした。
これで何もかも失うわ。高級娼婦としての栄誉も家族との絆も、一つ残らず。
ええ、分かってる。これで満足だわ。
「マルコ、これをナーディルに渡してほしいの。ただし、お式が終わってから」
震えもせず、封筒を差し出せた。
弟は不思議そうに首をかしげた。
「そうなると明日の夜でしょう?将軍はもうすぐ戻られますよ。直に話しをしたら?」
あたしは小さく首を振った。
「それでは役に立たない。タイミングが大切なの。分かるかしら」
意味深な響きにマルコはまだ不可解な表情をしている。
「カフェはどう?」
あたしはセーヴルのカップを満たし、彼に渡した。
「変わった模様ですね」
金で独特のうずまき模様が描かれたカップを、珍しそうに眺めている。
あたしは無意識のうちに彼を見つめていた。
たったひとりの弟の姿を心に焼きつけるように。
マルコは視線に気づいて、ポッと頬を赤らめた。
ごめんね。ずっとそばにいるって、約束したのに。
泣きたくなるのを堪えて、そっと心の中で呟いた。
椅子に座り直し、そして、毅然と言った。
「マルコ、聴いてほしいの。あたしはお式が終わったら、その足でパリを出るわ」
「義兄上とでしょう?新婚旅行ですね。いいですね。どこへ行くのです?」
あたしは何度も首を振った。
「違うわ、そうじゃないの。マルコ、あなたは大切な弟だから、正直に打ち明けるの。・・・ヴェンドラミン様を悲しませたくないからお式は挙げるけど、ナーディルとは暮らせないの」
マルコは全く理解できなかった。
彼はきょとんとした顔を封筒とあたしの顔に往復させた。
二つを結びつけようとするが、答えが出ない。
しかし、唐突に明るい声があがった。
「将軍は仕事の時はパリを離れるから、ああ、分かりました!でも、ぼくはおねえちゃんと一緒にいたいなぁ!」
ようやく納得のいく理由が見つかって、マルコは屈託のない笑顔になった。
人なつっこい笑顔を曇らせるのは、やるせなかった。しかし。
「あなたに男女の理を説明するのは難しいけど・・・。あたし、自分の本当の気持ちに気が付いたの。
ナーディルでなく、ヴェンドラミン様に恋していたと。でも分かったときにナーディルもヴェンドラミン様も傷つけてしまった・・・。取り返しがつかない事をしてしまったのよ。これは贖わなければならないの」
マルコは驚きで笑みが消えている。何が言いたげだったが、唇が凍りついていた。
残酷にも目をそらさずに続けた。
「だから、あたしは一生かけて償うことにしたの。ドーヴィルのカルメル会修道院に行くわ。・・・ごめんね、マルコ。これからはずっと一緒に暮らそうねって約束したのに。あなたはナーディルの元で立派な軍人になって。天国の父様や母様を喜ばせてあげてね」
最後は涙声になって消えた。耐えきれなくなって、両手で顔を覆った。
弟の返事はなかった。代わりにカチカチカチという耳慣れない音が響いていた。
いぶかしんで顔を上げると、マルコが真っ青な顔で全身をふるわせていた。
音は彼の手の中のカップがソーサーに当たる音だった。
「お、おねえちゃん、考え直せない?嘘でしょ?からかっているんだ、きっと、そうだ」
彼の気持ちが苦しくなるほど迫ってきた。それでも厳かにはっきりと答えた。
「いいえ」
マルコは激しい勢いで立ちあがると、カップを床にたたきつけた。
「うそつき!うそつき!もう離れないって、離れないって、言ったのに!僕はおねーちゃんと一緒にいたくてここまで頑張ってきたんだよ?」
彼の言葉一つ一つが胸に突き刺さった。
「マルコ、お願い、怒鳴らないで」
なだめようと彼の腕を掴む。その手を、弟は乱暴に振り払った。
「落ち着いて、もう一度あたしの話を聴いて」
それでも彼の声は緩まなかった。
「嫌だ!絶対に嫌だ!」
「あたしの気持ちを分かって、あたしを許して、マルコ!」
ぴたりと、弟の動きが止まった。緑の瞳があたしを見据えた。涙で潤んでいる。
しかし、その中ですさまじい怒りが燃えていた。
マルコはぐっと手の甲で目をこすると、手紙を破り捨てた。
「許さない、お姉ちゃんは全然ぼくの気持を分かってくれない!」
それ以上耐えきれなくて、弟をきつく抱きしめた。
「許して!」
涙が溢れて止まらなかった。しかし、彼は力任せに逃れた。そして乱暴にあたしを椅子に押しこんだ。
掴まれた肩や腕が折れたと思えるほどの痛みが走った。
「マ・・・」
痛みで呻いている間に、弟は後ずさりながらドアへ向かった。
「おねえちゃんが考え直すまで、この部屋から出さないからね!」
「待って・・・!」
壊れるかと思うほどの勢いでドアが閉められた。
急いでドアへ走り、ノブをひねった。
しかし外側から押さえられびくともしない。そのうちに激しい衝撃が伝わってきた。
不意にドア向こうの気配が消えた。あたしは勢いよくノブを回した。
だが、空回りするだけでドアは開かない。
「閉じこめられたわ・・・。マルコ、マルコ、戻ってきて!」
階上の部屋から微かに声が漏れてきていた。一度だけマルコは足を止めたが、決心は変えられなかった。ノブを壊した衝撃でへこんだ剣の柄に注意を向けて、足早に階段を下りた。
外へ出ると辻馬車を拾い、ヴェネチア領事館へ急ぐように告げた。
いつの間にか日は陰り、夜の気配が濃くなっていた。
街路では点灯夫が、ガス灯にまばゆい光をともして歩いてゆく。
あたしはドアを開けようと思いつく限りの努力を試みた。しかし、鍵は開けられず、ましてや女の力で重いドアを打ち破るなど、できようもなかった。
それにあたしは弟が心配で仕方なかった。
「ナーディルや総督を怒らせて職を解かれてしまったら、どうしよう・・・。あの子の未来を台無しになんてできないわ。あたしが何とかしなければ」
途方に暮れてなどいられなかった。ふと手元が暗いのに気が付いた。
見渡すとランプがテーブルに置いてあった。火を入れた時、思い立って、窓を開けた。
「ああ・・・・・」
見下ろしたとたん、あまりの高さに足がすくんだ。落ちたら間違いなく死んでしまう。
湿り気を含んだ風が、カーテンをひらひらと揺らした。
見上げれば薄闇の中、雲が立ちこめている。
「雨が降るんだわ・・・。マルコ、濡れないといいけど・・・・・・・」
窓辺にランプを置いて、街路を遠くまで辿るが、いくら探しても弟の姿は得られなかった。
その時、ドアの向こうから何かが響いてきたと思った。
「マルコ?マルコなの?」
とっさに駆け寄って、激しくドアをたたいた。
「開けて。開けなさい!」
しかし、どれだけ叫んでも返事はない。冷たい表面に耳をつけるが、恐ろしいほどの沈黙が伝わってくるだけだった。
「・・・・・」
あたしは力無く、床に身を沈めた。
「どうしたら・・・・・いいのかしら・・・」
ひどい疲れが襲ってきた。もう、何も考えられなかった。
ぼんやりと窓辺に目をやると、ランプが暖かな光を投げかけていた。
五年前と同じように。
「ヴェンドラミン様・・・・あたしはどうしたら・・・いいんでしょう」
答えるようにランプの激しく炎が揺らめいた、その瞬間。
一陣の風が吹き抜けた。カーテンが大きく翻った。
はっと思ったときには、すでに手遅れだった。
ランプは煌めきながら宙を舞い、床に落ちて粉々に砕けた。
「きゃあぁぁっ!」
飛び散った油に炎がちらちらと踊っていた。
炎は最初小さく床を嘗め、そしてあっという間にカーテンを伝い、天井へ駆け上がった。
「こんな感じでどうだ?ちょっとは荒んでみえるか?」
ナーディルは無造作に髪を乱して凄むと、パオロに向き直った。
「センスないですね。まだまだ、甘い」
不機嫌さもあからさまに評価する。
「そうかな、俺はこれで賛成」
ボンゴを無視して彼は朱塗りの箱から刷毛を取り出した。
「お前も、甘い。少し塗りますよっ」
「え、化粧?」
「ボンゴ、押さえろ」
「ほいきた!」
「うぎゃぁ」
准将は刷毛を構えると、さささっと将軍のまぶたに影をを入れ、さらに頬にも色を入れた。
完成した顔を見て、ボンゴが眉を寄せた。
「うーん、悪人面。顔の傷も効果的だなぁ」
「土台が御立派ですから」
ふんと鼻を鳴らして、パオロがそっぽを向いた。
「・・・パオロ〜セクハラ発言だ〜」
しかし、准将はしてやったりという顔をしている。
「この間、むりやり女装させたお返しです」
将軍は情けない声を上げて、両手をくんで祈りのポーズをとった。
「あれは、作戦だってばー。相手があのロシュフォールさんだもん・・・君もとーっても美人だったよ」
「はいはい、でもね、いくら作戦でも私は品位を保ったものを好みますね」
部下の冷たい視線に身を縮めて、ナーディル・カーン将軍は背を向けた。
その時、ヴェネチア領事館の玄関から黒衣の男が出てきた。
男はマロニエの影の箱馬車に気が付くと、右手を僅かに内側へ曲げた。
「将軍、カロルドです。『報告は無事に終了。疑われず』うまくいったようです」
ボンゴが緊張の中に安堵の混じった声で告げる。
ナーディルは二人の部下を交互に見て、頷いた。
「はじめよう」
ふくれっ面をしていたパオロも、瞬く間に誇り高き戦士の顔に戻った。
ナーディルは馬車を降りると、肩をそびやかし門へ向かった。一歩遅れて部下が出、少し離れて将軍を追い抜くと、人目に付きにくい場所から領事館へ忍び入った。
足早に階段を上り、総督室の前で足を止めた。
廊下の端に目をやると、カロルドの同僚のプリコラが意味ありげに会釈した。反対側の廊下にはパオロとボンゴが身を潜めている。
ナーディルは深呼吸をし、そして乱暴にドアを開けた。
「ナーディル!」
ヴェンドラミンが驚きの声を上げた。訪問者は素早く部屋中に目を走らせた。
部屋には総督独りがいて、彼の机上には報告書とおぼしき書類が乱雑に散らばり、その上に倒れたカフェが染みを作っている。豪奢なマントも乱れて肩に辛うじて引っかかっている状態だった。
几帳面な男には似つかわしくない光景だった。
ナーディルは非常に嫌な気持になったが、おくびにも出さすに親友に歩み寄った。
「やぁ、アンドレア。元気か?・・・・・ふん?何かあったのか?顔色がすぐれんな」
さも心配そうな素振りに、総督はひそめていた眉を開いた。
彼はいつもの親しみのこもった笑顔になった。
「ああ、お前とアナベラの結婚式の準備できりきりまいだ。だが、もう済んだ」
「結婚式ねぇ」
ナーディルは陰険な笑いを浮かべた。
「そうだが・・・」
笑みは数秒だったが、総督の中に消えかけていた疑問を蘇らせるには充分だった。
「ところで、彼女は元気か?何か困っていることが、あれ・・・」
「もう解決した。・・・観ろよ」
アンドレアの言葉を、うっとうしげにナーディルは遮った。
彼は居丈高に顔の傷を示した。
「怪我をしたのか?ひっかき傷か?」
総督が伸ばした手を、ナーディルは乱暴に払いのけた。そして不愉快そうに吐き捨てた。
「高級娼婦が聴いて呆れる。まったくしつけの悪い女だぞ。お高くとまりやがって」
「何を言っているんだ?」
総督が怪訝そうに尋ねるのを無視して、今度は愉快でたまらないという顔をした。
「抱いてやるって言ったら、猫みたいに暴れたのさ。・・・・もっとも何発が殴ったら、おとなしくなったがね。その後は、一晩かけてたっぷり嬲ってやったよ。泣きわめくのが面白くてなぁ。お前に見せたかったね」
アンドレアは机の上の書類に目を向け、それから親友を見た。
ナーディルは喉の奥でくくっと笑った。
「なんて顔をしてるんだ?」
総督は壁に掛けられた鏡に映る自分を見た。蒼白な顔がそこにある。総督は震える手で書類を鷲掴みにすると、ナーディルに差し出した。
「カロルドの報告は嘘だと思っていた」
ナーディルは大げさなほど肩をすくめた。
「ヨーロッパ一のスパイ網を誇るC・D・Xを信じないのか?・・・その通りだ」
ばさりと書類を床に落とし、総督はよろよろと『親友』に近寄った。
「では、では・・・娼館を開くのも真実なのか?アナベラと結婚するというのは嘘か?」
「そう、その件だ」
うってかわってナーディルは親密な口調になった。
「なんと言ってもお前は俺の親友だし、お前の立場を守ってやりたい。だから、ありがたく式を挙げさせてもらうよ。安心しろ。お前が帰国してからあの屋敷で娼館を開く。極秘にやるから、絶対にお前の恥にはならんよ」
「お前はアナベラを愛しているのだろう?」
すがる思いで総督は言ったが、ナーディルは残酷に唇をゆがめただけだった。
「おめでたいね。どこまで人を信用したいんだ?俺がいつまでも変わらないと思うのか?アナベラを愛している?ははっ!何人の男と寝たか分からんような淫売と結婚なんてごめんだね!あの女の取り柄はカラダだけさ。お前に押しつけられるんだ。元は取らせてもらう!」
ナーディルは正直なところ吐き気がしてきた。だが、やめるわけにいかなかった。
「アナベラは・・・彼女は承知・・・しているのか・・・?」
総督は切れ切れに声を絞り出した。
「魂だけは高潔だそうだよ、彼女は!高潔すぎるのは売れないからね、屋敷で部下が3人がかりで『お相手』を務めているよ。ずっと戦地で女にご無沙汰だった連中だ。いまごろどうなっているか・・・」
「貴様というヤツは!」
青ざめていた顔が強烈な怒りにゆがんだ。総督はナーディルにつかみかかった。
「ご老体、無理をしなさんな」
赤子の手をひねるより易く、ナーディルは彼を床へたたきつけた。
衝撃で机の上のランプが落ちて砕けた。
「う、う・・・」
総督は必死に起きあがろうとするが動けない。
ナーディルは彼を見下ろし、膝を折ると総督の顎髭をむしった。
「じゃあな、明日を楽しみにしているよ」
そして低く笑いながら部屋を出た。
廊下へ出ると足早に部下たちの元へ急いだ。
「将軍」
パオロ准将が心配そうに近づき、彼に肩を貸した。
ナーディルはされるままにぐったりと身体を預けた。
「参った、参った。私は役者には向かない」
「あなたは大根でいいんですよ」
パオロのきつくそれでいて温かみのある声にナーディルは微笑んだ。
「プリコラが行きます」
ボンゴの低い声にぴりっと緊張が走った。3人は息を詰めて黒衣の者が出てくるのを待った。
あっけないほど、短い時間で総督室のドアが開き、プリコラが出てきた。
素早く3人に向き直り、細くしなやかな指を巧みに動かした。
ボンゴが解読する。
「『成功。決行は今夕』」
3人は、特にナーディルはほっと息をついた。
「よし、出よう」
ナーディルとパオロが立ちあがった。しかし、ボンゴはゆでタコになって動かない。
「どうした?あ・・・」
ボンゴの視線を辿った准将も口を開いたまま、頬を上気させている。
「『ボンゴ中佐、今日は楽しかったわ。今度はいつお会いできるのかしら?』ですって、えへ」
C・D・Xは胸元のボタンをいくつか外して、身をくねらせた。妖艶な投げキッスを一つ。
「ああ、もう、こんな時に!勝手によろしくやってくれ。行くぞ!」
将軍は二人の部下の襟首をむんずと掴むと、引きずっていった。
彼らの馬車がが出発した時、一台の辻馬車が玄関に横付けされた。
ナーディル一行と入れ違いに、マルコは領事館に到着した。
玄関をくぐるやいなや、階段を駆け上がった。
先日戻ったときと同じように、うきうきと楽しげな様子を装っていた。
まだ喧嘩の余韻が残り、落ち着かない気分のままだったが、彼の強情さの方が勝っていたのだ。
「総督、コルフェライ大佐です。お願いがあって参りました!」
焦りが彼を突き動かしていた。
マルコは迂闊にも返事を待たずに総督室に入った。
しかし、部屋は書類が散乱し、その中で取り乱した様子で総督が立っていた。
マルコはあまりのことに言葉を失った。
総督が彼に気が付いた。青ざめた頬にゆっくりと色が戻ってきた。
だが、それは怒りの色だった。
「大佐、なぜここにいる?」
地獄の底から響いているように感じて、彼の背筋が凍りついた。
声がのど元を容赦なく締め上げてくる。
しかし、マルコには怒りを向けられる理由がないと信じ切っていた。
彼はぐっと胸を張り、明快に答えた。
「はい、総督!お願いの儀があって参りました。戦地に同伴できない決まりを知って、姉上が将軍と離れたくないと申しております。姉上が落ち着かれるまで、パリを離れることが無いよう、総督から将軍に話して頂けないでしょうか?」
答えの終わるやいなや、ヴェンドラミンの肩が小刻みに震えはじめた。
「そ、総、督・・・?」
マルコは言い様の知れない恐怖にとらわれて、後ずさった。
それでも勇気を振り絞って尋ねた。
「あの、私、何かお気に障りましたでしょうか・・・?」
総督は答えなかった。代わりに書類をむんずと掴むと、思い切り彼にたたきつけた。
「この馬鹿者が!恥知らずにもよく現れたな!」
「う、ひぃい・・・」
大佐はへなへなと床に座りこんだ。逃げようにも腰が抜けていた。
総督は足音も荒くマルコに近づくと、片手で彼の頭を床へ押しつけた。
「や、やめて、くださっ・・・!」
マルコは半狂乱になって暴れた。だが、どれだけもがいてもヴェンドラミンの腕はびくともしなかった。
その時、いきなりドアが開き、カロルドが真っ青になって飛びこんできた。
「大変です!マレのお屋敷が火事です!」
炎は瞬く間に燃え広がり、レースのカーテンを焼き落とし、壁を伝ってヴェロネーゼの絵を燃やし、ついで本棚へ手を伸ばし稀少本を次々と灰に帰しめていた。机の上のカップも金模様が熱で剥げて割れ、炎に包まれた。
あたしは熱と煙を必死で避けながら、まだ火の手がのびていない、ドアの下に蹲っていた。
「誰か、誰か、助けて、開けて!」
何度も何度もドアをたたいた。だが、どれだけ待っても決して救助は現れなかった。
きしむ音がした。反射的に振り向くと、本棚が今まさに倒れようとしていた。
「きゃあっ!」
身体を引きずるように横へ逃げたと同時に、本棚はあたしの元いた場所に倒れ、バラバラになった。
しかし、それは僅か数分だけ命を長らえたようなものだった。
唯一の逃げ道、ドアがふさがれてしまったのだ。
容赦なく吹き付けてくる熱風にむせびながら、もう一度出口を探した。
だが、見渡す限り全てが炎に包まれ、窓にも近寄れない。
ちりちりと髪の焦げる臭いがする。
猛烈な熱と煙で目も開けられず、息もつまりかけていた。
もう・・・助からないと、絶望した。
そのころ、ナーディルたちは一足早く屋敷に駆けつけた。
屋敷の周りには野次馬が集まってきていたが、まだ消火活動は始まっていない。
遅れてヴェンドラミンとマルコも馬車で到着した。
ナーディルはめざとく二人を発見して合流した。
「コルフェライ大佐!アナベラはどこだっ?」
「姉、姉上は・・・・」
明るい炎の中でさえ分かるほど、彼は青ざめていた。
彼はがたがたと震えながら、三階を指さした。
その先を追って、ナーディルもヴェンドラミンも心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
四つの窓全てから激しく炎が吹き上げ、空を焦がしている。
だが、ナーディルは力強く言った。
「大丈夫だ、彼女は必ず脱出している。庭のどこかにいるはずだ、探そう」
「いいえ、いいえ、違う、違います!姉上は部屋から出られません!ぼ、ぼくが・・・・・」
マルコは泣きながら、ナーディルにしがみついてきた。
「助けてください、お願いです!姉上を、姉上を!」
なぜ彼女が逃げられないのか、問う時間は皆無だった。
「アナベラっ!」
ヴェンドラミンがマントを翻し、群衆をかき分け走り出した。
「ボンゴ、パオロ、来い!」
総督の後を追って、三人も全力で疾走した。
苦しかった。もう、息ができなかった。あたしはできる限り身を丸めて、顔を腕の中へ埋めた。
急速に考えもまとまらなくなってきた。
ただ、心に浮かんできた総督の面影を見つめていた。
・・・ごめんなさい、ごめんなさい、ヴェンドラミン様。あたしを許してください。
幾筋も涙が頬を伝った。それも途中で乾いて皮膚がひりひりした。
さよう・・・なら・・・。せめてもう一度・・・・・お会いしたかった・・・。
紅蓮の炎がじりじりと足下へ迫ってきていた。
ひとりの男が階段を駆け上がってきた。彼は熱と煙にむせびながら、目的の部屋の前にたどり着いた。
開けようとしたが、ノブが壊されて足下に転がっている。
素早く一歩下がると、あらん限りの力で体当たりした。
「アナベラ、生きているのかっ?」
勢いの激しさに亀裂が走った。だが、足りなかった。
間髪を入れず、もう一度。ドアが大きく割れた。
振動が壁を伝ってあたしを揺さぶっていた。それに呼ばれるように少しだけ意識がはっきりした。
その時、何かが砕け散る音がした。
あたしは微かに頭を向けた。炎の中、誰かが立っていた。
目はすでにかすんでおぼろな影しか捕らえられなかったが、ぼんやりとナーディルが来てくれたと思った。
影はあたしを抱き起こした。
「アナベラ、アナベラ、しっかりするんだ!」
揺さぶられ、頬を叩かれる。
聞き覚えのある暖かな声。やっぱり彼しかいない。
「逃げて・・・・ナーディ・・・」
これ以上、誰も犠牲にしたくなかった。
ただ、最後に一つだけ願いがあった。
あたしの本当の想いをヴェンドラミン様に伝えてもらいたかった。
「ナーディル逃げて・・・お願い・・・あたしはもう助からないわ・・・」
男は退路を探した。しかし、来たはずの道はすでに炎に呑まれていた。
もう、救助は絶望的だった。
だが彼は懸命に声を張り上げた。
「あきらめちゃいけない!儂がいつも言っているだろう?しっかりするんだ!きっと助かる!」
耳元で言われているはずなのに、切れ切れにしか聞き取れなかった。
あたしは残った力を振り絞り、ナーディルを押した。
「逃げて・・・・そしてヴェンドラミン様に伝えて・・・・・『あなただけを愛していました』・・・って・・・」
それだけ言うのが精一杯だった。
目を開ける力も失った。
もう、何も聞こえず、肌を焼く熱さえ感じられなかった。
男は愛おしげにあたしを抱きしめた。
「確かに・・・受け取ったよ、アナベラ・・・・」
彼は身にまとった金襴緞子のマントで、自分と腕の中の女性をすっぽりとくるんだ。
天井が不吉な音を立てていた。
見上げると幾筋も亀裂が走っている。
もう助からないと思った。だが、彼は満足していた。
たった一つ心残りなのは、愛する女性を救えなかったことだったが。
「アナベラ、儂がそばにいる。君と死ねるなら本望だ・・・」
ぱらぱらと漆喰がこぼれ落ちてきた。マントの隅がくすぶりはじめる。
彼は静かにその時を待った。
轟音と共に天井の一部が落ちた。
そう、ヴェンドラミンは思った。だが、実際は彼の真横に穴が空き、底から太い腕が飛び出していた。
続いて無骨な顔がのぞいた。
顔はヴェンドラミンと目が合うなり、叫んだ。
「将軍、ここです!生きてます!」
「よし、ボンゴやれっ!」
壁の向こうで耳慣れた声がしたと思うまもなく、激しい振動と共に穴が広がっていった。
大人が身をかがめて通れるまでにものの十秒もかからなかった。
「大丈夫か、アンドレア!」
別の男が穴をくぐり、ヴェンドラミンに肩を貸した。
「ナーディル、アナベラを頼む!」
「パオロ!」
若い男が彼の腕からぐったりとした女性を受け取った。
救出が終了した直後だった。
耳をつんざく音が響き渡った。
危機一髪、天井全体が崩れ落ちた。
数日後、ナーディルはオペラ座の一室でエリックとお茶を飲んでいた。
窓から麗らかな日差しが心地よく降り注いでいる。
エリックはカフェを一口飲むと、待ちかねたように尋ねた。
「それで、彼女はどうなったんだ?」
ナーディルは羨ましげに答えた。
「いまごろヴェネチアに向かう馬車の中だよ」
それを聞いて、エリックは驚いた。
「・・・シニョーラ・コルフェライがよく承知したな」
「アンドレアが彼女を離さないんだ。私から守ると言って、引かない」
だが、返答を受けても、彼は今ひとつ納得がいかない。
「お前、嘘だって説明したんだろう?」
ナーディルは右の赤くはれた頬を指さして、苦笑した。
「したけど、しっかり殴られた。こんな事なら、黙っていれば良かったよ」
エリックは半分同情、半分悪戯っぽい視線を向けた。
「自業自得だ。お前、惜しいことをしたと悔やんでるだろう?」
質問をさらりと受け止めて、ナーディルは大げさに手を広げて見せた。
「ぜんぜんだね。・・・・ところで私の肩書きを知っているかい?」
意外な質問だったが、怪人は真面目に答えた。
「今更何を?元警察長官だろ、メッセンジャーだろ、傭兵の将軍だろ?他に何があるんだ?」
ナーディルは子供みたいに胸を張り、可愛らしく片目をつむった。
「実はね・・・」
その時、窓の外が急に騒がしくなった。その中に名を呼ぶ声が混じる。
「パオロかな?」
彼は窓から道路へ身を乗り出した。
オペラ通りの一角に数人の男たちがたむろして、盛んに手を振っている。
パオロの他にボンゴ、カロルド、プリコラ、そしてマルコの姿があった。
「悪い、約束の時間だ」
ナーディルは慌てて上着を肩に引っかけるとドアへ向かった。
エリックは彼の腕をすかさず掴んで引いた。
「こら待て、答えを言ってから出てゆけ」
「あ、そうだな」
振り返った拍子に上着がふわりと風に舞った。
さながら翼のごとく。
そしてナーディルは得意げに言った。
「実は『愛のキューピット』なんだ」
一月後、ヴェネチアのサン・マルコ教会で盛大な結婚式が執り行われた。美しいサン・マルコ広場は祝福する市民たちで溢れたという。
その後夫婦は三人の息子、二人の娘に恵まれて、幸せな一生を送ったと言われる。
ナーディル・カーンが彼らに再会することは二度となかった。
indiraより
本にすると100pを越す話で、我ながら良く書いたものだと思います。苦しかったけど、楽しくかけた覚えがあります。
アナベラはオーソドックスなキャラですが、好きなタイプです。ナーディル・カーンも好きなんですけ、どうも幸せになれないのは、私の意地悪かもしれません。エリックと幸せになってもらいましょう。