男は生涯に一度、忘れられない人に逢う




ヴェネチアの総督アンドレア・ヴェンドラミンは齢60を越していたが、艶聞の絶えたことのない男だった。
海軍の最高司令官として長く海で過ごしたためだけでもなかろうが、浅黒い肌、鍛え上げられた肉体はそれだけで誰をも圧倒した。それでいて灰色の瞳は暖かく、一度見つめられると、誰もが魅了されずにいられなかった。
アンドレアには長年連れ添った妻がいた。彼女は名門ダンドロ家の出身で、小柄でおとなしい女性だった。子供はなかった。
カナル・グランテを渡って愛人の元へ通うゴンドラを目にするたび、妻に不満があるからと、人々は噂しあった。
だが、ある時を境にぷつりと館を出なくなった。
人々は妻の喪に服しているのだろうと思った。
ところが2年経っても3年経ってもゴンドラが愛人の館へ出向くことがない。
しかし政務も滞りなく続けられたため、いつしか誰も気に留めなくなった。
ただ一人、親友の男を除いて。

古参のC・D・Xのシルヴェストロ・ダンドロは定例の日曜日の会議が終わった後、総督の部屋を訪れた。
だが、いつもの場所はがらんとしている。
「アンドレア?」
男はすぐに思い当たった。胸の詰まるような思いと、軽い苛立ちが足を速めさせた。
歴代の総督の肖像画が飾られた大広間を横切り、海に面した一室に入った。
開け放たれた窓に、総督が背を向けて立っていた。
大柄な身体を丸めて縮こまっている姿が男をいっそう惨めに見せた。
ダンドロはつい先ほどまでの自信に満ちて演説をふるった姿を思い浮かべながら、軽く息をついた。
「おい」
肩をたたかれて、アンドレアは力無く振り返った。
両手は胸に押しつけられ、握った手から銀の鎖がこぼれている。
ダンドロはそれがなんだか分かっていた。
妹の婚礼の前日、彼が送ったエメラルドのネックレスだった。
「なーあ」
彼は鎖を指に引っかけると軽く引っ張った。
「彼女が逝って、丸3年だ」
するりと大粒の宝石が指の間から抜け出し、ダンドロの指の下で振り子のように、揺れた。
それをじっと見つめたまま、総督は動かない。
「リヴーリアを思ってくれるのは嬉しいが、そこまで女々しいと黄金名鑑から除名されかねん」
「かもな」
アンドレアは総督帽を脱ぐと、ちょこんと白髪混じりの頭にかぶせた。
「ふざけるなよ、私は心配しているんだ」
「分かってる」
言葉は出ても抑揚が無く、感情もこもらない。
堂々巡りの始まりだと、ダンドロは唇をかんだ。
またもや胸の詰まるような思いと、軽い苛立ちがこみ上げてくる。我ながら辛抱強いと感心しながら口を開いた。
「兄として、君の気持ちは嬉しい。だがもういい加減に立ち直るときだ。君は妹をとても大事にしてくれた。子供がなくてもだ。あの子は幸せな一生を過ごせたんだ。その証拠に笑って死んだじゃないか。君が責任を感じることは、何もない。自分でも納得しているだろう?」
しかし、男は微動だにしなかった。
一年のほとんどをチュニジア大使として過ごしていたが、祖国に戻るたびにここを訪れていた。
だが、いつも結果は同じだ。どれだけ励ましても彼は頷くだけで、最後には背を向けてしまう。
そして、今日も同じ結末を迎えようとしていた。
のど元まで言葉が登ってきたとき、背後から声がかかった。
「ダンドロ卿、ヴェロネーゼ卿がお話したいと・・・」
聴いたとたん、眉間にしわが寄った。
「あの男もしつこいな」
どうせチュニジアの情勢を聴くにかこつけて、アンドレアのことを探るつもりだろう。
全く進歩がない。
舌打ちをして、ぞんざいに使者に合図した。
それから後ろ髪引かれる思いで彼はアンドレアの肩を軽くたたくと、きびすを返した。
歩きながらも、シルヴェストロ・ダンドロは考えずにいられなかった。
何があれほど義弟を縛っているのか。
そういえば、と唸った。
葬儀の後、アンドレアがぽつりと言った言葉がある。
『不実な男だった・・・・・』
思い出してみたものの、さらなる混乱を招いただけだった。
あの男の何が不実だったんだろう?
愛人がいたことを不実というのか?
実際、私にも4人の恋人がいる。妻も何も言わないし、貴族なら当たり前のことだ。
わざわざ気に病むことじゃない。
しかも庶子をもうけなかった点は賞賛に値する。
考えるのがばかばかしく思えて、シルヴェストロは窓から外を観た。
波頭がうららかな光に美しい。
ふいに、ここへくる途中、耳に挟んだ御座船の乗組員の話が蘇った。
『ほら、白銀館のコルティジャーナがお出かけだ』
『あれが噂の!一晩で良いからつきあってみたいねぇ』
『おまえの全財産でも足りないぞ、ははは・・・』
声につられて観ると、金色の舳先に手のこんだ装飾を施した船が、黒人の漕ぎ手とともに滑るように水面をゆくところだった。
客室からちらりと覗いた横顔は、シャルル・ド・ブロッスの言うところの『妖精と天使を組み合わせても生まれない美貌』。
うっとりとしながら、ああ、そうだと男は呟いた。
これで悩みも軽くなると思うと、足取りも軽くなった。

『海との結婚』の儀式が盛大にとり行われたあと、恒例の晩餐会が開かれた。
細長いテーブルは房飾りのついた錦織のクロスで覆われ、競うように豪奢な料理が並べられている。
ろうそくの灯は細く立ち上り、あたりに柔らかな光を投げかけている。
金色の飾りをつけた召使いたちが、貴人たちの合間を優雅に歩く。鼈甲細工の縁がついた色鮮やかな扇子を手にした婦人が、かたわらの愛人に睦言を囁いている。その横では黒の官服をきた壮年の男が、年若い者へ厳しいまなざしを向け、押さえた口調で何かを言っている。
ありとあらゆる思惑が渦巻いていながらも、華やかなムードは少しも損なわれていなかった。
ダンドロはヴェンドラミンの姿を探した。
彼の視線を読みとって、腹心の書記官が耳打ちした。
「総督はつい先ほど離れに戻られました。その後へヴェロネーゼ卿のお連れのご婦人が追って行かれましたが・・・」
意味ありげな口調に、親友の男は無関心を装ったが、内心は穏やかではなかった。
苦々しく思いながら、白葡萄酒のグラスを手に取った。
唇をつけたとき、入り口のあたりで歓声が上がった。
続いて幾人もの男たちが相手を放り出して、早足で向かう姿が見られた。
誰もが深紅色のビロードの垂れを左肩にかけている。一目で元老院議員、しかも重要なポストにある者ばかりだとわかった。
「誰もが彼女に恋をしているのか」
「彼女に恋をしなければ、男じゃありませんよ」
「その通りだ」
くすりと笑うと、視線を戻した。
その時ドアの開く音がして、はっきりと聞き取れるほど甲高い靴音が広間を横切っていった。
履いた靴の高さを考えて、シルヴェストロ・ダンドロは転ばなければいいとも同情した。
同時に安堵もしていた。それを見抜いたかのような、ささくれだった声が降ってきた。
「貴殿のお連れがみえたようだ、迎えに行かなければさらわれるぞ」
本心を悟られないように装うのは得意中の得意だ。
ダンドロはさも光栄だという口調で言った。
「ヴェロネーゼ卿、残念ながら、私めのような男に彼女を迎える資格はありませんな。できれば一度で良いからお相手していただきたいと、常々思っておりますがね」
見上げた相手の顔にあからさまな敵意が読みとれた。
「おとぼけに磨きがかかりましたな。それとも本当に忘れるほど、耄碌しておいでかな?」
ふむと、考え深そうに首を傾げて見せる。
「そういえば、私もはや63。老人の部類にはいるな。だが、人を見る目は衰えておらんぞ」
語気を強め、ちらりと男をみた。そして口の端に笑いを浮かべながら、きっぱりと告げた。
「人は相応しい場所へ自然と招かれるものだ。彼女はまさにその好例だ。そうおもわんかね?もっとも相応しくない人間が厚かましくも押し掛けることも、あるようだが?」
みるみる男の顔が引きつった。だが、放たれた声は冷たかった。
「なるほど、私も好例を知っていますとも!」
それを遮るように唇に指を立てると、すっくと立った。
「それが貴殿の目の前の男というのなら、そっくりそのまま、お返しいたそう」
答えはなかった。そのかわりヴェロネーゼ卿は背を向けると、猛烈な勢いで立ち去った。 「ダンドロ卿、もう少し手加減して差し上げてはいかがですか?」
さも気の毒そうに書記官は言うが、男は首を振った。
「こんな会話は遊びにもならない。私が本気になったらどれほどか知っているだろう?ヴェネチアの言葉は武器だ」
「気の毒なご子息様だ」
部下のつぶやきを無視していると、低く静かな音が、一音、響いた。
そのとたん、シルヴェストロの全身は雷で打たれたように硬直した。
昨日同じ曲を聴き、身にしみていたのにと後悔していても、すでに遅かった。
耳から入ってくる音は彼の心に甘く響き、とろかしてしまう。
心地よさに酔いしれながら、音の方へ目を向ける。
求愛者たちは間近な分、もっと激しい攻撃に晒されているようだ。
うっとりと目を細め、そばの人にもたれかかったり、肩を抱いたり、見たことないような静かな笑みを浮かべたりしている。この有様からは、平然と人を踏みつけのし上がってきた人間たちとは到底思えない。
誰も彼も罪なき人に見えた。
突如、曲は激しく扇情的な旋律に変貌すると人々に牙をむいた。
突然、聖人らは瞳に炎を燃やし、狂ったようにお互いの体を絡ませ、激しく足踏みした。
すさまじいばかりの変化を目にして、ようやくダンドロは我に返った。咄嗟に耳を塞いだ。
音色が人々を意のままに操っている、そう確信して背筋が凍った。
始まったダンスは嵐のような勢いで周りを巻きこみ、瞬く間に全ての貴人が踊りに加わった。
ダンドロ一人を除いて。
彼は踊りの渦をそっと抜けだし、隣部屋へ向かう女の姿を見いだした。
彼女は一瞬だけ、エメラルドの瞳を向けた。
シルヴェストロは密かな目配せを送ると、背を向けた。
あの孤独な男を救ってくれるように、強く祈りながら。

部屋へ続く道は庭園に面した20メートル程の回廊で、見あげると月明かりに鐘楼が静かに浮かび上がっていた。満潮が近いのか、波音が建物に反射して囁きに聞こえる。
女は豊満な胸をいっぱいにふくらませ、ぐっと息を止めると、勢いよくドアを開けて中へ飛びこんだ。
後ろ手で閉め、一気に息を吐き、喘いだ。が、すぐに悲鳴に変わった。
「え、やだぁ、誰かっ、だ、誰か明かりをちょうだい!」
1p先も分からない真っ暗闇だった。目指す人物がいるのは分かっていたが、恐怖が押さえきれない。
その時落ち着いた、しかしどこか空虚な声が正面から彼女を捕らえた。
「あなたのすぐ横は窓だ。たぐればカーテンがある。今夜は満月だから、開けるだけで明るくなる」
女は不思議に気持ちが穏やかになった。明かりを入れたわけではない。
声が、ある人を思い起こさせたのだ。それは彼女がずっと探し求めてきた人だった。
カーテンを掴んだ手を離した。
「開けないのかね?」
声はさらに彼女を冷静にした。一、二度深呼吸をして、答えた。
「ええ、大丈夫です。もう、平気ですわ。・・・それに今あたしがここにいると知れると・・・」
「追っ手が?」
声は潜められた。
「名前は申せませんが・・・」
言葉を切って、返事を待った。待ちこがれている自分に気がついて、唇をかんだ。
仕事を忘れちゃいけないわ、今夜は決してしくじれないんだから。
「それは相手の名誉のため?」
闇の中、やんわりと、しかしきっぱりと答えが返った。
「いいえ、お互いの立場は私的にも公的にも、平等ですわ」
質問者は密かに声を漏らした。
この国で『男女平等』を高らかに言える女がいるとは思わなかった。
しかも光のない部屋で、見えない男と一緒にいながら怖じ気づきもしない。
さっきのご婦人と違い、興味深い。
・・・だが、所詮は誰かの回し者だ。儂が誰か分かっていれば、取り乱すことはない。
ふくらみかけた気分が急にしぼんだ。
部屋の主はほんの数メートル先にいる婦人を見透かそうとした。闇に慣れた目で、ぼんやりと輪郭をなぞることができた。
向こうの視線を感じる。なぜ近寄って来ないのだろうと不思議に思えた。
儂に気に入られようとするなら、さっきの美女と同じように一糸まとわぬ姿になってしまえばいい。
もっともさっきは明かりがあって、数段条件は恵まれていたが。
不意に思い詰めた調子で彼女は言った。
「お願いがあります」
そらきた、と冷めた気持ちになる。
だが、次の言葉は意外なものだった。
「夜明けまでここにいさせてください。鐘楼の合図で友人があたしを助けに来てくれる手はずになっています。それまで目障りでしょうが、許してください。決してあなたのじゃまはいたしません。どうか・・・」
男は言葉に詰まった。興味深げに声を装う。
「逐電すると?」
すかさず返答があった。
「ジュデッカ島のシナゴークに懇意にしている方がいます。あたしが困っているのを聴いて、しばらく身を隠しなさいって言ってくれたんです。奇妙に思われるかも知れませんね。あたしはユダヤ人ではありませんが、父が長らく取引をしている方で小さい頃はよく遊んでいただいたんです」
しゃべりすぎると思った。あまりにわざとらしい。
察したのか、二人の間を気まずい雰囲気が漂った。
彼女は気遣うような口調になった。
「あの・・・、まだお具合が悪いですか?」
言われて首を傾げた。
どうにもつじつまが合わない。彼女は本当に私に取り入りたい貴族どもがよこした女なのか?
その時、外が騒がしくなった。
がなり立てる声と、荒々しい靴音。そしてぶち破らんばかりの勢いでドアが開かれた。
「ヴィアンカ!隠れてもむだだ、出てこいっ!散々オレをこけにしやがって、もう許さんからなぁ!」
とっさに男は立ち上がると、悠然と進み出た。月光に白貂の襟飾りと緋色のマントが浮かび上がった。追跡者は闇の中から現れた人物に、心臓を射抜かれたようなうめきを上げた。
事実、男の眼光は震え上がるほど鋭かった。
「去れ、ここをどこだと思っている・・・!」
「う、ひゃあ・・・」
言葉の終わらないうちに男は後ずさり、一目散に走り出した。
それは見知った顔だった。
女に汚いと誰もが口をそろえる。
禁じられた堕胎までさせたというC・D・Xの報告も聴いたことがある。
彼はヴィアンカという娘にひどく同情した。
静かに戸を閉めると、優しく呼びかけた。
「シニョーラ、もう大丈夫だ。彼は二度とここへ近寄らない」
「はい・・・」
窓の下から返事はあっても、動く気配がない。少しだけ、カーテンを開けた。
青白い光に、金の糸が煌めいたと思った。
だが、目を凝らすとそれは、まばゆいばかりの豊かな巻き毛だった。
男は感動で胸が震えた。ヴェネチアでこんな見事な金髪の婦人にお目にかかったことがない。
ヴィアンカと呼ばれた娘は両腕でぎゅっと自分を抱きしめ、震えている。
顔を上げようとしない。
ただ、ようやく絞り出した声はこういった。
「お願いです・・・まだ、光を入れないで・・・ください。あの人がどこからか見ているかもしれないから・・・」
「分かった。君の言うとおりにするよ」
再び室内を闇が支配した。だが、彼の目に鮮やかな金色が残る。
かすかにしゃくり上げているのが感じられた。声を抑え、懸命に耐えているようだ。
事実、彼女の胸は切なさで張り裂けんばかりだった。
あの夜が蘇ってきてならない。この優しい声も、この闇も、何もかもが運命を変えた夜を思い起こさせた。
『ヴィアンカ』は両耳に触れて、そこにあるものを確かめた。
冷たく堅い感触が、彼女に力を与えた。
今立ち止まっては、いけないわ。仕事を、目的を忘れちゃいけないわ。
深く息を吸いこみ、ゆっくりとはき出した。
そして、きりっと顔を上げた。
「・・・あたしは大丈夫です。ご心配をおかけしました。あなたこそ、お体はよろしいですか?」
言葉の終わりは完璧に自分を取り戻していたばかりが、思いやりに溢れていた。彼は密かに嬉しく思いつつ、口を開いた。
「なぜ、儂を病人と決めつけるのだね?」
「どうしてって・・・ここは今夜の晩餐会で気分の悪くなった方が、お休みになるところじゃないんですか?」
真剣な問いに、思わず沈黙した。だが、これでつじつまがあった気がした。
ところが、二人の間の空気が彼女に答えを与えてしまった。
「あたし、とんでもないことを言ったんですね。もうっ・・・ばかばかばか」
落ちこんでいるのは分かったが、男はなぜか暖かな笑みを浮かべてしまった。
妻を亡くして以来、初めて会話が楽しいと思った。
利発でいながらどこか抜けてる、このアンバランス。
すぐそばに彼女はいる。耳をすまさなくとも、密かな息づかいが聞こえるほどに。
触れてみたいと考えたが、踏みとどまった。
静かに、今までいた椅子に戻った。
「病人ではない。休んでいただけだ」
「あなたはどなたです?元老院議員のかたですか?」
真実を言ってよいのか迷った。名乗ってしまえば、この愉快な時間が終わってしまう。
それがひどく惜しかった。
しばらく緘黙した後、答えた。
「儂は冥界の王だ」
冥界の王 はもちろん言葉遊びのつもりだった。
「ずるいわ。でも、あたしの正体も海の妖精。この国の美しさを伝え聞いてイオニア海を上ってきました」
ヴィアンカもそれを解して、笑いながら答えている。
「今は春ですのに、お出かけになりませんの?風は暖かで、花は香りますわ」
「春だから、ここにいるのだ。我が妻が戻ってくるのを待っているのだ」
ハデスの妻・ペルセポネは、春から秋まで大地の女神・デメテルの元に帰ると神話は伝えている。
「では、独りでお寂しいですね」
「その通りだ」
思いがけず本音がでた。焦りを悟られまいとしたが、心の半分は受け止めてもらいたかった。
愛用のリュートをたぐり寄せると、彼女へ差し出した。。
「慰めてもらえるかな?リュートは嗜むかな?ニンフは音楽が得意と聞くよ」
衣擦れの音がして、楽器が持って行かれた。
「お心のままに」
ニンフは静かにつま弾いた。
小夜曲が室内を穏やかな空気で満たしてゆく。
王はゆったりと椅子に身を沈めて、目を閉じた。
知らず呼吸も規則的になってくる。
ヴィアンカは慎重に指先を操りながら、考えていた。
なぜ自分を冥界の王になぞらえたのかしら。彼は生きているのに・・・。
その時、彼女の脳裏に昨日交わした言葉が蘇った。
『リヴーリアに執着している』
知らず弦に触れる指に力がこもった。
そして心の中で呟いた。
いつまでも死んだ奥方にこだわるなんて、女々しいわ。
呟いたが、心にこびりつく蟠りから気持ちが離れなくなった。
だけど、彼を非難できない・・・・。あたしは、いくつもいくつも嘘を塗り重ねている。
汚いわ。高級娼婦のやり方じゃない。
彼女はもう一度だけ、耳に触れた。そして振り切るように頭を振った。
チャンスは今夜だけ。なんとしても彼を手に入れなければ・・・。
ヴィアンカはゆっくりとカーテンを開けた。
窓から清かな光が差しこみ、室内はうっすらと明るくなった。
旋律が変わったのに、彼は気がつかなかった。だが、音の一つ一つが男の何かを呼び覚まそうとしているのは、感じた。
息の詰まるような胸苦しさとともに、抗いがたい感情がこみ上げてくる。
いぶかしんで目を開けると、逆光の中、誰かが立っていた。
ふわりと薫る、金木犀の花。
いつの間にかセレナーデは止み、代わりに遠く潮騒がうち寄せてくる。
王は目を凝らした。
そして息をのんだ。
これほどの凄艶な美を持つ肉体に出会ったことがなかった。
薄明かりの中でさえはっきりと分かる。これが白昼ならどれほどの衝撃だろう。
豊かで形の良い乳房を隠そうともせず、ヴィアンカは腕を伸ばしてきた。
男は自分の浅はかさを呪った。
とっさに身を引こうとしたが、動けない。もがく間もなく柔らかな腕が首に巻きついた。
「やめっ・・・」
言葉はふさがれた。
唇の甘さは極上の葡萄酒に匹敵した。知らず腕はニンフの背中へ回り、堅く抱きしめていた。
長い口づけが終わった時、ようやく彼は我に返った。
だが頭の芯が痺れていて、ぼんやりと目の前の顔を見つめるだけだ。
一瞬だけ、瞳の色が浮かび上がった。
鮮やかな緑だった。
金色の髪と緑の瞳。どこかで覚えがあった。しかし、思い出せない。
「あたしたちは『男と女』、言葉はいらないわ」
嫣然と笑い、首元のマントの留め金を外した。
ばさりと音を立ててマントが肩から滑り落ちた。
次に長衣のボタンを一つずつ解き放ち、あらわになった胸に唇を押し当てた。
唇が動くたびに男は呻いた。息は吐くたびに熱く燃える。
身体の奥から吹き上げてきた炎が、辛うじて残っていた理性を焼き尽くそうとする。
男は理性の底で考えた。
妻を亡くして以来、女性と肌を合わせたことがなかった。二度とすまいと誓っていた。
だが、この女には抗えない。儂を快楽の淵へ引きずりこもうとする。
儂もそれを望んでいる。望んでしまう・・・。
止めようがなかった。
なだらかな女の肩を鷲づかみにすると引きはがし、真紅の唇を貪った。
女は応えながら男の手を盛り上がった乳房へ誘った。
「触れて・・・」
喘ぎながらささやき、頬ずりした。
男は荒々しく両の乳房を愛撫し、激しく吸った。
そして獣じみた素早さで彼女を抱き上げると、背後の寝台へ運び、覆い被さった。
ちらりと男の脳裏を亡き妻の面影がよぎった。
だが、もう止めようがなかった。
金と緑の女は容赦ない男の愛撫に身もだえしながら、勝利を確信した。

春とはいえ、夜明け前は急激に気温が落ちる。
それ以上に汗が冷えて寒い。しかし動けないほど『ヴィアンカ』は打ちひしがれていた。
乱れた寝台の上に転がる肉体が惨めでならない。
あのときから数時間、彼女はありとあらゆる方法を試みた。これまで彼女にひれ伏した男たちは数知れず、彼も崇拝者に加わるに違いなかった。
しかし、結果は予想もしないものに終わった。
初めのうちこそ男は『ヴィアンカ』の肉体を思う様に貪り、彼女も登り詰めるようし向けた。
だが、迎え入れようとする直前で男は彼女を突き放してしまう。再び女が誘っても同じことを繰り返すだけでなく、動きはなおざりになり、果ては背を向けられてしまった。
そして『ヴィアンカ』を奈落へ突き落としたのが、彼の最後の言葉『君は白銀館の金の薔薇と呼ばれる人だね』だった。
逃げ場は断たれてしまった。たとえ正体が知れなくても、この仕事に失敗した以上、すでに行き場は無かった。
彼女は両腕でぎゅっと自分を抱きしめた。
あの人にもう一度巡り会うためにここまで登り詰めてきた。
だが、たった数時間で全てが水泡に帰した。
何もかも無くした今、泣きたかった。子供のように泣きたかった。
だが、涙はこぼれなかった。
こんな卑劣な手を使っておいて、失敗したからと自分を甘やかしてはいけないと知っていた。
それでも、悲しみは癒えなかったが。

総督は鉛のように重い体で寝返り、『金の薔薇』の背中を見つめた。
彼の心は体より重かった。
彼女が悲しんでいるのが分かっていたし、原因も十分すぎるほど分かっていた。
妻に死なれてから、絶対に女性を傷つけまいとしてきたが叶わなかった。
君が悪いんじゃないと、のど元まで登ってきたが口が開かない。
しかし償いたかった。
アンドレアはようよう身を起こし、上掛けで彼女をくるんだ。
「かまわないで・・・いいえ、あたしにそんな価値はないわ」
彼女は力無く呟くとますます身を縮めた。
「・・・風邪を引いてしまうから・・・」
精一杯の誠意をこめて言うと、抱き寄せた。
ふと、前にも同じせりふを聴いたと思った。そして自分も同じ行動をとったと思った。
あれはいつだったか、ずいぶん昔のことか?
『ヴィアンカ』は身体をこわばらせながらも、背中越しに伝わる彼の体温にどうにも戸惑わないでいられなくなった。
面影が浮かんで消える。胸が締め付けられる。もはや堪えることができなくなった。
「うっ・・く」
あふれ出た涙は止まらなかった。
そこでようやくアンドレアは記憶をたぐり寄せた。
昔、まだ儂も妻も若かった頃、こうして妻を一晩中抱いていたことがあった。
ようやくできた子供が流れてしまった夜に・・・。
男は小刻みに震える体を掛け物の上から何度も撫でた。
「どうしてそんなに優しいの?」
かすれる声に手が止まった。
「・・・ほおっておけない」
「あたしがどんな女か知ってしまったのに・・・・・?」
声が消え入り、嗚咽に変わった。
「自分を責めてはいけない」
優しく諭すように唇を寄せるが、金色の髪は何度も左右に振られた。
大きく息がつかれ、そして声が聞こえた。
「あなたを騙していただけでなく、満足もさせてあげられなかったわ・・・。」
厳しい口調に彼はたじろいだが、抱きしめる腕はゆるめなかった。
「儂が誰にもしゃべらないから、心配しなくていい」
心を込めて囁きながらも、後ろめたさから逃れられなかった。
今夜の原因を話して彼女の心を和らげたいが、それはどうしてもプライドが許さない。
「いいえ!」
突如、『ヴィアンカ』は身を翻し、彼と正面から向き合った。
窓から差し込む光に彼女のエメラルドの瞳が輝いた。
総督は息をのんだ。
「あなたがそうしなくても、あたしは雇い主に話します。高級娼婦として失格ですと・・・・。そうしなければ、あたしは永久にあの人に逢えない、そうしなければ、逢う資格がない・・・」
娼婦はぐっと唇をかむと、まっすぐに男を見つめた。暗く沈んだ中に、はっきりと決意が読みとれた。
「あの人?君の大切な人?」
こくりと頷き、目を伏せた。
一瞬、これも芝居か?と疑念がよぎったが、この瞳を見た後でははっきりと否定できた。
「仕事を始めた頃、どん底にいたあたしを救ってくれたんです。もう一度会いたくて、高級娼婦になったけど、まだまだ駄目。ヴェネチアだけでなく、フランスやイギリスやスペインでも有名にならないと・・・・。あの人、あたしを見つけてくれない・・・」
あまりのことに総督はしばらく何も言えなかった。
目の前の女性の気持ちが理解できなかった。
「たった一晩の客のために?」
不躾な問いに、彼女は気分を害した様子はなく、むしろ誇らしげに答えた。
「時間に何の意味もありません。あの人があたしを愛してくれた、その事実があたしにとって一番大切なんです」
総督の中で何かがはじけた。
もしかしたら、もしかしたらと、おののきながら呟いた。
アンドレアは両手で顔を覆った。
妻は・・・儂をずっと愛していてくれたのかもしれん・・・。
切なさがこみ上げてきて、涙が溢れそうだった。
『ヴィアンカ』は急に黙りこくってしまった男を見上げた。
「ヴェンドラミン様?」
答えのかわりに肩が震えていた。
「ヴェンドラミン様・・・」
そっと腕を伸ばした。
そして、総督を柔らかく抱いた。
何の目的も欲もなく、ただ、そうしたかった。
されるままにアンドレアは彼女の暖かな乳房に顔を埋めた。
そして、静かに涙を流した。

すっかり日が昇った頃、アンドレアは安らかな寝顔の女を残して、こっそりと部屋を抜け出した。
総督室にシルヴェストロ・ダンドロが待っていた。
親友は意味ありげな視線を向けた。
口の端にも同様の笑みがある。
やはり、ピンと来た。
総督はさらに意味ありげな笑みを浮かべて見せ、そして口を開いた。
「白銀館の主に伝えてくれ。契約だ」
いともあっさり言われて、シルヴェストロは気抜けしたが、即座に答えた。
「すぐに呼ぼう」
そして部屋を辞すと、待たせてあったゴンドラに飛び乗った。
運河を渡ってくる朝風が、心地よい。
髪が乱れるのを気にしつつ、男は首をひねった。
「良かったとか、満足したとか、他に言いようかあるんじゃないか?ヴェネチアで最高級の女を抱いたのに」
まだ言い足りなかったが、それを押しのけて顔がほころんでしまう。
部屋を出る直前に見た義弟の笑みが、あまりに穏やかで満ち足りていたから。

ほどなく豪奢なゴンドラが総督府に横付けされ、気品に満ちた婦人が現れた。
アンドレアは待ちかねた様子で彼女から書類を受け取ると、急いでサインをいれた。
その足で回廊を駆けた。
部屋にはまだ『ヴィアンカ』が待っていた。すでに美しい身体はそれに劣らぬドレスに包まれている。
彼を目にするなり、立ち上がった。
「これでお暇いたしますわ」
優雅な仕草、柔らかな声音だったが、どこか力無い。
アンドレアは手にした紙を示した。
きっと喜んでくれると思っていたが、期待は裏切られた。
彼女は威圧するほどの怒りを目に現し、彼を直視した。
たじろぐ男に、きっぱりと言い放った。
「憐れみはいりません」
それから艶麗な笑みを見せ、ドアへ歩んだ。
咄嗟に立ちふさがった。
ドアノブをしっかりと握りしめた腕を、娼婦は柔らかく握った。
「あたしの仕事は終わりました。男と女は夜が明ければ、それぞれの世界へ戻らなければいけません」
毅然とした態度だったが、総督の足は微動だにしなかった。
「総督、あなたらしくない。どうかお願い、じゃまをしないで。あなたの気持ちは嬉しいけれど、憐れみは嫌いです」
「ここを出ていって、どうするつもりだ?」
よどみなく答えた。
「初めからやり直しです。館に戻って主人に理由を話します。違約金は私の持っているお金では足らないでしょうが、必ずお支払いします」
「金など・・・」
僅かな隙を見て彼女は回廊へ出た。
「だめだ・・・っ」
太陽のまぶしさがヴィアンカの目を眩ませた。その一瞬のうちに総督の腕は彼女を捕らえた。
「行かないでくれ、儂が・・・」
滑らかにきびすを返すと、しなやかな腕で男を抱きしめた。
「これが最後のキス」
「待て・・・っ」
痺れるような口づけだったが、堪能するつもりはなかった。がっしりと花の香りのする体を抱きしめ、そのまま一歩も動かなかった。
「君の誇りを傷つけたのは謝るが、契約は憐れみからではない。・・・そばにいて欲しいからだ」
自分でも思いがけない言葉だった。だが、これが本心だと気づくのに時間はいらなかった。
娼婦は疑いに瞳を濁らせた。
「契約は受けられません」
総督は暗く瞳を曇らせた。
固い決心を少しでも揺るがすためには、真実を話すよりない。だが、男のプライドがそれを渋る。
だが彼女がもがいたのをきっかけに、心は決まった。
「最後に儂の話を聴いて欲しい。君のせいではない、儂の・・・」
慎重に言葉を選んで耳打ちした。
終わったとたん、『ヴィアンカ』は耳まで真っ赤になった。
「そ、そんなことって・・・」
視線に耐えきれず総督は目をそらした。
しゃべったことは後悔していないが、どうにも複雑な気分だった。
金髪の婦人は目を伏せた。
口にしなくとも、総督には彼女が後悔していると分かった。
消え入るような声がそれを裏付けた。
「ごめんなさい・・・・あなたにいらぬ恥をかかせたわ」
「良いんだ」
腕を解いて、彼女の頬に触れた。上等の絹の肌ざわり。こんな皮膚を持つ人間が目の前にいる思うだけで感動を覚える。
危うく大切な用件を忘れるところだった。アンドレアは握りしめていたために折り目だらけになってしまった羊皮紙を、再び取り出した。
素早く表情を読みとって、開きかけた薔薇の唇に指を当てた。
「君が言わんとしていることは分かる。君の純粋さはとても羨ましい・・・。いいや、危うい」
「危うい?なぜ?」
「純粋すぎれば、脆い。この世界は純粋な人ほど壊されてしまう運命にある。儂は君が破滅するのは忍びない。・・・昨夜のやり方は好ましくないかも知れないが・・・いいかい、もう少し視野を広げて、色々と経験を積みなさい。そうすれば、今回みたいな無茶をせずに、もっと強くしなやかな生き方ができる。その方が君の大切な人も喜ぶんじゃないかね?・・・・・儂なら十分教えてあげられる。いつもそばにいてくれれば、この国の高官ばかりでなく、諸外国の外交官とも言葉を交わす機会がある。よければローマやフィレンツェ、エジプトでも同伴してもらう。君はそれらの都市の美しさを知っているかい?カイロのスルタンの宮殿と、こことどちらが素晴らしいか君に教えてもらいたい」
娼婦はじっと男の瞳をのぞき込んでいたが、ふっと頬を緩ませた。
「あたしを口説こうとなさっているというより、ご商売の交渉みたいだわ?」
総督も安堵の笑みを浮かべた。
「もちろんそうだ、欲しいものを手入れるためならどんな戦いも厭わない。ここは商人の国だ」
『ヴィアンカ』は総督の胸にもたれた。
目を閉じてナーディル・カーンの顔を思い浮かべる。
ヴェンドラミン様の言葉の通りかもしれない。あたしはもっと学ばなければ・・・。
それにこの声を毎日聴いていたいわ。
「欲しいものって、あたしは物じゃありません。それに口説こうとなさっても、すでに大切な人がいます」
男はもっともだという顔をした。
「儂だって同じだ。その点は共通している」
彼女は綺麗な声をたてて笑った。
そして両腕をアンドレアの首へ巻き付け、何度も頬ずりした。
「喜んでお受けしますわ・・・一つだけ条件を付けさせていただいても?」
「どんなことでも」
「あたしをいつでもファーストネームで呼ぶと約束してください」
総督はハッとなった。そして苦笑しながら、言った。
「商人として失格だよ。・・・とにかく君に見せたくて、名前を主から聴いていなかった。教えて・・・もらえるかな?」
『ヴィアンカ』はゆっくりと愛を込めて答えた。
「アナベラ・コルフェライです。どうぞよろしく、アンドレア・ヴェンドラミン様」




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