これは「オペラ座の怪人」小説とはちょっと違います。ダロガが好きで、ヴェネチアという国が好きで、書いてみました。
ヴェネチア4部作の一作目です。
自分としてはとても好きな、力を入れた作品群なのですが、ある人から「エリックを主人公にした物は書かないのかしら・・・」というお言葉を頂いて・・・。ああ、所詮自分はその程度なんだなと思い知らされた作品でもあります。
でも、好きな小説です。


ヴェネチアン・ナイト


パラッツオ・ドュカーレを出て、カナル・グランテをゴンドラで登り、リアルト市場の裏手、サン・マッテォ地区に入った。数世紀も続く歓楽街である。
「今日は特に、にぎわっているなぁ」
あまりの人の多さに歩くと言うより、狭い路地を流されている。
しかも周りは男ばっかりで、ごついのや汗くさいのやに押されて、あまり気持ちがいいとはいえない。
だが目をひとたび上に向けると、着飾った女性たちが窓やアルターナから艶然と微笑んでいる姿が飛びこんできて、心が躍る。
「将軍、ウワサ通りヴェネチア女は、なんていうか、そそられますねぇ」
背後からボンゴが実に愉しそうに話しかけてきた。
彼の視線をたどると、カスティレットの窓に立つ黒髪の女性に行き着いた。
胸を大きくあけたドレスをまとい、通りをゆく男たちに潤んだ視線を投げている。手の中の真っ赤な花が
彼女の情熱を語っているようだ。
「ふーん・・・」
ため息ともつかない息を吐いて、ボンゴが立ち止まった。
気持ちが分からないでもない。ヴェネチア女は大きく盛り上がった乳房と、ほど良く引き締まった腰、豊かな尻で訪れる男たちを虜にする。
ここの女を知ったら他の女は抱けないという者もいるくらいだ。
「あ、あそこ、金髪ですよ。いいなぁ、好みだ!」
「あれは染めているんだ。紳士は金髪がお好きだからね」
「さすが、よく知っていますねぇ!」
部下の賞賛の声を遮って、傍らの若者が指さした。
「今日はお祭りなんですか?誰もが手に花を持っていますね」
「そうか、知らなかったかい?今日は『サン・マルコの祝日』で、男は愛するご婦人に薔薇を捧げるんだ」
にっこりと答えると、質問者の冷たい視線にぶち当たった。
「あなたには何本必要でしょうね?カーン将軍、鼻の下がのびすぎです。そのうち地面について踏まれますよ」
いつになく、棘がある。この若者はもともと肌が透けるように白い。それがほんのりと上気している。
私は髭をもてあそびながら、上目使いに彼を見た。
「パオロ君、上官として質問する。君は女性を好まないようだが?」
後ろを通り過ぎた中年のベネチア人が意味ありげなまなざしを向けたが、彼は気がつかなかった。
声はさらに冷たかった。
「お答えいたしかねます」
「君の身を案じているんだ」
「お心遣いは嬉しく思いますが、よけーなお世話です。それよりも急いでください。総督が用意してくださった館まで、しばらくかかります。ヴェネチアで一番の高級娼婦をお待たせすると後々面倒です」
その言葉は私を憂鬱にさせた。
パオロは私の表情を素早く読んだ。がっしりと腕を掴んだ。
「逃がしませんよ」
「離して。お・ね・が・い」
哀れっぽく瞳を潤ませるが、パオロはボンゴに顎をしゃくった。
「少佐、挟み撃ちにするんだ。絶対に逃がすな」
「よっしゃあ!」
「いいですか、将軍、あなたが好き勝手に振る舞えば、本国の王にまで類が及ぶかもしれないんです。明日の夕方にはここを出るんですから、ちょっとは我慢してください、ねっ!」
反論の余地はなかった。
かくしてとらわれの身になった私は二人に引きずられながら、サン・カッシアーノ教会を通り過ぎ、ポンテ・デッレ・テッテまで来た。
まだまだ人通りは激しい。
ちらほらと花売りの姿も見える。
橋のたもとの建物の前にずらりと並んでいる女性がいる。真っ先に気がついたのは、ボンゴだった。
無言のまま、石のように動かなくなる。
だが、目尻はこれでもかと下がっている。
私はあえて無関心なふりをした。
「少佐、どうし・・・・ひっ!」
いぶかしげに建物に目をやったパオロもまた、凍りついた。
薄く色づいた肌がさらに赤みをまして、美しくさえある。
ポンテ・デッレ・テッテとは『乳房の橋』という意味で、娼婦たちが半裸のまま、悩ましく身をくねらせて客引きする場所なのだ。
私は硬直した二人から、こっそり腕を引き抜き、通りかかった花売りの男から薔薇を一抱え買った。
そして、さも安心したというそぶりでパオロの肩をたたいた。
「君が男色家じゃないとわかって、ほっとしたよ。知っていると思うが、この国では男色は死刑だ。サン・マルコ広場で絞首刑にされるんだよ」
聞こえているのかいないのか、若者は動かない。私は慎重に声音を押さえて、言った。
「私からもお祝いだ」
そして素早く橋を渡ると、出迎えた娼婦たちに薔薇をばらまいた。
「シニョリーナ、私の主人がぜひお相手をしていただきたいと・・・」
言葉の終わらないうちに、女たちは嬌声をあげて、我先にと部下たちへ突進した。
「将軍!よくもはめましたね!」
女たちに揉みくちゃにされながら、パオロが叫んでいる。ボンゴは好みの女性がいたらしい。両腕に抱えてキスの雨を降らしている。
「悪く思うな!明日の昼、カンポ・デイ・モーリで会おう!」
笑いながら、人混みに紛れて私は消えた。


しばらく走って、人通りの少ない道へ出た。
適当な宿がないか探す。
「私の教育が悪かったのか?前任者が悪かったのか?人を種馬呼ばわりして」
すっかり日が落ちて、見上げた空に星が瞬いている。娼婦街を抜けたのか、窓にも道にも落ち着いた明かりがともっている。曲がり角に目指す建物があった。
宿の入り口に品の良さそうな女性が立って、こちらを伺っている。
私は彼女の前にゆくと優雅にお辞儀した。
「このような時間に申し訳ありません、シニョリーナ。疲れた旅人に一夜の宿をお願いできませんか?」
いつものように紳士的に声を作ったつもりだった。
だが、彼女は胡散くさそうに視線を向けると、そのままドアを閉めた。続いて鍵をかける音。
何が起こったかわかるまで、数秒かかった。
だが、原因が分からない。初めての経験だった。
2件目失敗。3件目、4件目同じ。5件目言うに及ばす。だが、原因は判明した。
逃亡中、身幅ぎりぎりの路地を何本か通った。その時前、後ろ、顔、どこかを擦っていた。
元々真っ白の服なだけに汚れが異様に目立つのだ。
そのうえ外国人となれば、脱走した黒人奴隷に見えても仕方がない。警戒されて当然だった。
「今日は野宿か?」
背を丸めてとぼとぼ歩いていると、不意に頭上から声が降ってきた。
「宿をおさがしかい?」
アルターナを降り仰ぐと、逆光に針のようにやせこけた女の姿が浮かんでいた。
垂れ下がったイヤリングが揺れながら光っている。
頷くと、影の手が入り口を指さした。
「シニョリーナ、感謝します!」
示されたドアにつくと、ノックをする前に扉はきしみながら開いた。
三十歳を少しすぎたくらいの大男が手招いた。
「こっちへ」
私は素早く男の肩越しに中を探った。そして、密かに舌打ちした。
ところどころひび割れた壁、黄ばんだカーテン、申しわけ程度に飾られた彫像・・・。
最低ランクの娼館だった。
引き返そうと思ったのを見抜かれたのか、男は私をドアの内側へ連れこむと素早く閉めて、鍵までかけた。とってつけたように、ぼそりと言う。
「このところ、物騒でね」
階段を中年の女が駆け下りてきた。
「まぁまぁ、お疲れでしょ。お客さん、今日は最良の日ですよ!部屋は一つしか残っていなかったんですから!・・・・・ところで、お代はお持ちで?ここは前払いでお願いしているんですよ」
針女が誠意のかけらも感じられない口調でまくし立てた。
私は覚悟を決めた。
作戦で猛獣と毒蛇のうじゃうじゃいるジャングルに入ったときと同じ気分だったが。
「相場は?」
女将は猫のように目を細めて私の頭の先からつま先まで眺めた。
そして口を開いた。
「金貨2枚ですよ」
懐からドュカート金貨を取り出すと、3枚差し出した。
「何か食うものを用意してくれ」
言葉の終わらないうちに、手の中から代金をむしり取ると、女将は浅ましさと卑しさを混ぜたような笑顔を見せた。
「まぁまぁ、旦那、こんなにもいいんですかぁ?そうですか?じゃ、お言葉に甘えてちょうだいしますねぇ。部屋は一番奥の部屋です。すぐにお食事を用意しますよ。もちろんお望みのものも・・・ね」
ちろりと出た舌が真っ赤な唇をなめた。私はさりげなく目をそらした。
いくら何でも疲れているときは、遠慮したい。
手と顔を洗いさっぱりしたところでテーブルについたが、食事はこれ以上ないくらいひどい味だった。吐きそうになるのをこらえてすませると、女将が手招いた。
「さ、こちらへ」
後をついてゆく。いくつかの部屋を通り過ぎたが、客の気配がしない。だが、ここまで来たら後戻りできないし、何かあれば逃げる手だてはいくらでもある。
突き当たりにドアがあった。
「こういっては何ですけど、こんな宿でしょ?でも、とびきりの娘がいますのよ」
いぶかしげに視線を向けると、奇妙に何かを押し隠した笑顔を見せた。
「まぁま、おしゃべりはこれくらいにしますよ。きっとご満足いただけますよ。まだこちらに来たばかりの娘でね。数えるほどしか・・・・・」
吐きたくなるような笑みを向けられ、私は思わず顔を背けたが、女将はドアノブを握るところで、こちらに気がつかなかったようだ。
「ああ、そうだった」
忌々しげにつぶやくと、胸の間からさびた鍵を取り出して差しこんだ。
奇妙な光景だった。
娼婦は昔と違って、自由に娼館を出入りできるはずだ。
そのうえ、のぞき窓まで作られている。女将はドアを開ける前に窓から中を眺めまわした。その時よぎった表情を見逃すほど、私は愚かではなかった。
「ささ、どうぞ。中に極上のズグロッピーノを用意してありますから・・・ごゆっくり・・・」
何ともいえない気分になりながら中へ入った。
室内は薄暗く、かび臭くしめった空気で満たされていた。
素直にコーティザンの元へゆけばよかったかなと考えもしたが、彼女の顔が浮かんできたので考えを捨てた。
注意深く目を凝らすと、ベッド横の小さなテーブルの上に細長いランプがあった。
灯を入れるが、内面が汚れていてぼんやりとしか明るくならない。
それでも、ここが小さな部屋であること、二人は横になれる寝台があること、イスとテーブルにグラスとワインの瓶があることがわかった。
「少しは気が利くな」
ちょっと気分が良くなった。
手の中にあるのは、ヴェネチアでしか味わえない酒と飾り足つきのヴェネチアングラス。しかも名のある工房の作品だった。
早速ベッドに腰掛けてグラスに注ぐ。一口含むと、芳醇で、それでいてさわやかな甘みが口の中に広がった。
最初の印象が悪かったが、ここは掘り出し物の宿かもしれない。
それが本当なら、女将の行っていた『来たばかりの娘』というのにも期待がもてそうだ。
酔いも手伝って、ウズウスしてくる。パオロの言ったとおり、鼻の下がのびそうだ。
「まだかな♪まだかな♪」
男というのは嫌らしい生き物で、こうなると疲れなどどこかへ行ってしまうのだ。
ちびちびとグラスを傾けるうち、半分ほどからになったが、まだノックはない。
「ちょっときいてみようかな・・・・・」
腰を浮かしたその時、私は激しく己を罵った。
金貨を受け取ったときの女将の目の色を思い出す。
音を立てないようにグラスを置き、悟られないように懐へ手を入れた。
刀身がランプに反射しないよう、腕の内側へ隠す。
そしてゆっくりと身を返した。
「出てきてください」
静かに穏やかに、しかし、逆らうことを許さぬ声。
私はあたりの空気がぴんと張ったのを感じた。
何かが窓とベッドのわずかな隙間でうごめいた。
感覚をとぎすます。
しかし、殺気は感じられない。
私は慎重にそちらへ足を進めた。
「ヴィゴ・・・もういや・・・・・」
か細い声。続くすすり泣き。
声をたどって闇を見透かすと、ぼんやりと人の姿が浮かび上がった。
ランプをとり、掲げて、驚いた。
「これはどういう趣向だ?」
酔いはどこかへ吹っ飛んだ。
17か18歳とおぼしき少女が両腕を革ひもでベッドの柱に縛りつけられている。しかも身につけているのはわずかな衣類だけで、むき出しの乳房や浮いた肋骨をかくそうと精一杯うずくまっている。
危険かどうかなど、考えもしなかった。
毛布を引き剥がし、彼女をくるむと戒めを断ち切った。
彼女を抱き上げようとしたその時、猛烈な一撃が鳩尾に炸裂した。
ひるむ余裕なく2弾目が股間に加えられた。
「あうっ!」
これには参った。よろめいて、彼女をベッドに放り投げると、床にうずくまった。
役に立たなくなったらどうしようと、激痛に耐えながら顔を上げると、敵はランプを手に私を確かめている。
「だ、誰?ヴィゴじゃない・・・?」
「違うよ、客だ」
息も絶え絶えに告げると、彼女は力が抜けたようにぺたんとしゃがんだ。
そして、むごく跡の残る両腕で自分をかき抱いた。震えている。
私は改めて『敵』を観察した。ヴェネチア女性にしては細すぎる腕、足、そげた頬。だが、何より驚いたのは、このわずかな明るさの中でさえ輝きを失わない、金の髪だった。
生憎、黒髪のグラマラスが私の好みだが。
状況が把握できない。私は強盗の被害者か?それとも娼館の客か?
冷静に判断すれば、後者だろう。
ならば、これまでのことはずいぶん過激だが、女将のしくんだ演出か。
私の役は少女を救いだす英雄?捕らえられた少女をいたぶる変質者?
こんな館で稼ごうとすれば、それなりの奇抜さは必要だが、これはあまりに悪趣味だ。
痛みがようやく我慢できるまで治まったところで、体を起こした。
彼女はまだ震えている。毛布の上からもわかる。
「シニョリーナ・・・、顔を上げておくれ。何もしないから」
優しく囁き、彼女に近づいた。
顔を上げたが、恐怖がありありと浮かんでいる。はっとするほど澄んだ緑の瞳。
魅入られそうだった。
「い、いやっ」
もがきながら後ろへ下がった。私は両手をあげて彼女から離れた。
死んだような沈黙があたりを支配した。
その間、私は女性なら誰もが微笑み返してくれる表情を浮かべていた。
それも限界になった頃、少女は意を決したように口を開いた。
「あの・・・怒っているでしょ?」
私はきっぱりと首を振った。
「本当に?」
はっきりと頷いた。
「お客さん、いい人ね」
声は柔らかだった。
傭兵をやっていて良い人かどうか知らないが、せっかくだから受けよう。
そう思わせておいた方が有利だ。
しかし、彼女の本心とは到底思えなかった。
うまく隠しているが、警戒を少しも解いていない。
少女は古びたタンスの引き出しから何かを取り出した。握った手の中に収まっている。そして、なおも用心深く私に歩み寄った。
握った手をつきだし、ゆっくりと開く。
「観て、あげる」
手のひらに小指の先ほどの赤い石が入っていた。私の顔色をうかがいつつ、続けた。
「高価な宝石よ。ピジョン・ブラッドっていうの。お金がいるでしょ?あげるから・・・・・あたしを一晩自由にして」
「一晩だけ?」
不思議そうに見つめる私に、彼女はせっぱ詰まった口調で返した。
「本物なんだから、おばあちゃんの形見なの!」
ランプの光を頼りに、言葉の正しさを探してみた。だが。
私はおもむろにピアスを外して、差し出した。
「残念だけど、違うよ。これが本物だ」
金に縁取られた深紅の石が鋭い輝きを放つ。それに射抜かれたように、彼女はよろめいた。
「うそ・・・だって、おばあちゃんが・・・」
言葉は涙声になったが、泣いていなかった。
私はあまりにむごい戦場を駆けめぐった。だから知っていた。
人はあまりに絶望が深いとき、泣けないものだ。
何が彼女を追いつめているのか、分からなかったが。
少女は肩に掛けていた毛布が滑り落ちたのにも、気がゆかないようだった。
吐く息が熱を帯びているのに、ぎょっとした。
六十を過ぎたとはいえ、私も男だ。
理性を保てる間に、隠して欲しい。
片手で目を覆い、もう一方の手で彼女の足下を指さした。
「心からお願いする、君の、その、魅力的な体を、・・・ドレスじゃなくて気を悪くしないで欲しいんだが、それで包んでもらえないか、な」
彼女が動いた気配がした。重い衣擦れの音がしてる。
私は体の奥でちろちろと燃えだしたものが鎮まってゆくのにほっとして、手を下ろした。
少女は頭から毛布をかぶり、手も足もわずかな肌も見せまいとしていた。
男の力を用いれば、たやすく打ち壊されることぐらい感じているだろう。
だが、痛いほど分かった。それが非力な女の最後の砦なのだ。
胸が締めつけられた。
「何もしないよ。本当に何もしない。見ての通り、私は老人だ。君を抱く力はないよ。ただ、眠りたいだけだ。とても疲れている、眠りたいだけだ」
両手をあげて、ドアと反対の壁に後退した。
彼女が賢明なら、私が逃亡と反撃の意志がないことを読みとるはずだ。
交渉には自信がある。捕虜の引き渡しや和平の場にはいつも先頭に立っていったのだから。
だが、彼女は暗い目を向けた。うつろに呟く。
「ヴィゴが言ったわ。『おまえは死人と同じだ。どんな年寄りでもやれるさ』って」
やはり、彼女は娼婦なのか。奴隷で売られてきたのか?しかし、彼女は完璧なヴェネチア人だ。
だが何かが違うと、直感が訴える。もっと別の、重要なキーワードが隠れている。
ともかく、この哀れな少女を何とかしてやりたい。
「お客さん、早く済ませたいでしょ?そうよね、お金を払っているんだから、寝ないと気が済まないわね」
彼女の口調が、こうも言っている。
『誰も信じない』。
私は上げた手を後ろで組んだ。交渉は難航しそうだ。だが、もう少し、彼女にしゃべらせよう。
何かヒントがつかめるはずだ。
その時、少女を守る毛布の中で、鈍く物の折れる音がした。とっさにテーブルに目を走らせた。
いつの間にかグラスが消えている。
視線を彼女へ戻すと同時に、何かが私の頬を掠めた。壁にぶつかって粉々に砕ける。
毛布が足下へ落ちた。
「見て!」
ランプの光に、グラスの飾り足が異様な反射を投げた。
折られ、鋭利な切っ先が少女の喉元に突きつけられている。
「待て・・・!」
彼女は一歩近づいた。
「一晩でいいの。あたしにさわらないで。もし聴いてくれないなら、ここで、今、死ぬわ。そうしたら、すぐにC・D・Xがやってきてあなたを逮捕する。取り締まりが厳しくなっているの、知っているでしょう?お客さん、一生地下牢から出られないわ」
「ちょっと、待ってくれ・・・」
焦るふりをして、今一度状況を分析した。
凶器の角度、私からの距離、障害物・・・。何度も経験した場面だった。難しい状況ではない。
だが、彼女の目の光が全ての抵抗が無駄と教えている。


一本目を空にしたあたりで、ヴィゴは腰を浮かせた。
「どうしたんだい?酒はまだあるよ」
女将の怪訝な声に、男は顎で薄暗い廊下を示した。
「あいつ、ちょっとはまともに爺さんの相手をしているのか?」
歩き出そうとした男に、あからさまな嫌みがぶつけられた。
「ああ、あんたも他の男と同じさね、年が若けりゃ何でもいいんだ。小娘に未練があるんだよ」
ヴィゴは大げさなほど肩をすくめてみせた。そして不機嫌に吐き捨てた。
「冗談じゃない。あんな金髪だけが取り柄のガキ!俺が毎晩仕こんでやっても、声一つあげねぇ!なぁ、俺の気持ちが分かるかい?死人と寝ているようなもんだったんだぜ」
女も席を立つと、熱に浮かされたような目で年下の男を見た。
大振りなイヤリングがランプに妖しく煌めく。
筋肉の盛り上がった胸に背をもたせかけると、男の腕を自分の体に巻きつけた。
「あんたこそ、あたしがどんな気持ちだったかなんて、知りもしないだろ?」
腕が這いのぼってきて、荒々しく乳房を掴んだ。
「悪かったよ、俺だってもう限界だったさ。おまえが欲しくて欲しくてさ!」
「わかりゃいいよ・・・!」
女将はせわしく息を吐きながら、胸元のひもを外した。男の片手がスカートの中へ滑りこんだ。
その時、ヴィゴの耳に何かが届いた。廊下の奥からだった。
忌々しげに女将から離れた。
「何か音がした。調べてくる」
「いいじゃないか、ベッドに縛ったおいたんだろ?今頃爺さんが好き勝手してるよ。それよりさぁ・・・」
ねっとりと絡んでくる腕をふりほどいて、ヴィゴは歩き出した。
「のぞいたら、すぐ戻る」


一歩でも動いたら、迷うことなく喉を突き破るだろうと、確信した。
ここで降参してしまうのは、たやすい。でも、それでは何も得られない。
私は彼女の苦しみの少しでも取り除いてやりたいのだ。
静まりかえった室内に足音が近づいてきた。
「あ・・・ヴィゴ・・・」
恐怖の混じった声が漏れた。グラスを握っていた手が一瞬、緩んだ。
見逃さなかった。
私はハヤブサのように彼女に飛びかかり、グラスをたたき落とした。そのままベッドへ押し倒した。
素早く口をふさぎ、覆い被さった。
ヴィゴはドアの前で耳を澄ませた。
激しいあえぎが漏れてくる。のぞき窓から目を凝らすと、見覚えのある背中が盛んに動いているのが、見えた。
「ふん、やってやがる」
私は彼女に体重がかからないように、もちろん触れないように四つん這いでまたがると、それらしい声を上げ、動いていた。耳はドアの外へ集中させていた。
やがて足音が遠ざかると、ベッドを飛び出した。
イスに座って両腕に顔を埋めた。
「あー情けない、情けない、情けない」
いくら彼女を守るためとはいえ、セックスしているふりは、落ちこんだ。
思い出すたびに落ちこむだろうことは、間違いなかった。
「お客・・・さん?」
はっとした。振り返ると、少女が不安と期待の入り交じった表情を向けている。
「ナーディル・カーンです、シニョリータ」
さらに安心してもらうために、優雅に膝を折り、礼儀正しく頭を下げた。
ゆっくりと顔を上げると、少女が毛布で前を隠した格好でベッドに正座していた。
ぎこちなかったが、美しい笑みが浮かんでいた。
「アナベラ・コルフェライ・・・よ。あ、あたし、謝らなきゃ、あなたにとても悪・・・」
私は微笑んで、唇に指を押し当てた。
「私こそ、何もしないと言っておきながら・・・許してください」
アナベラは首を振った。
「そんな、あたしを助けてくれたんでしょ?」
「女性を守るのは男のつとめですよ、シニョリータ」
「いい人ね」
幾筋も涙が頬を伝った。顔を毛布に埋めた。細い肩が震えている。
いけないな、と思う。激しいものが私の中からつきあげてくる。
どうにも、悲しむ女性に耐えられない。腕に抱いて慰めたくなる。
一度手ひどい目に遭っているのに。
思い出すと、右の鎖骨の下が鈍く痛んだ。
ぽんぽんと傷跡を軽くたたき、ベッドへ座った。
目の前にいるが、彼女は顔を上げない。心を許してくれたのか、それとも。
「アナベラ、今夜は君の自由にしていいよ」
そっと肩に腕を回して、抱き寄せた。
震えが激しくなったと思ったが、すぐに静かになった。
「シニョール・カーン」
声は力無く、穏やかだった。
「ナーディルでいい」
「軍人なの?」
「なぜ?」
「火薬の臭いが染みついているわ。弟も同じ臭いがした・・・」
少女は両手で目をこすると、顔を上げた。
「あの子、別れる時にこういったの。『一日もはやく出世して、姉ちゃんを迎えにゆく』。優しいでしょ」
「姉さん思いだね」
少女は切ないほど嬉しげに言った。
「大好きな弟よ」
「君も良い姉上だ」
ランプの光が少女をさらに、はかなく浮かび上がらせた。
不意にすがるようなまなざしを向けられた。だが目があったとたん、伏せられた。
何かに耐えるように、きつく唇をかんでいる。
「あたし、あなたにお礼をしなくちゃいけないわ。できることがあったら・・・」
うって変わって明るい声に、戸惑った。彼女は微笑すら浮かべた。
「教えて、ナーディル」
さっきのまなざしが本心なんだろう。
「アナベラ、私は君が心配だ」
さっと顔色が変わった。しかし振り切るように首を振った。
「心配することなんて、ないわ。今日は自由の身にしてくれたし、あたしはとても幸せよ」
明るさとうつろさが同居していた。
「明日はどうするんだい?」
考えるふりもせず、あっけらかんと答えた。
「明日は明日よ、ナーディル。さぁ、望みを言って?」
正面から見据えた。
「私は君が心配だ」
彼女は目をそらした。潤みかけた目をぎゅっと閉じた。
そして、声を絞りだした。
「ごめんなさい・・・でも、もうこれ以上、迷惑をかけたくないの・・・」
「迷惑だなんて、これっぽっちも考えてない。アナベラ、君はひどい扱いを受けている。縛って客の相手をさせるなど、普通じゃない。明日サン・ジョゼッペのオスピツィオに連れて行ってあげるよ。あそこへゆけば、もう娼婦をしなくてもいい」
強く力をこめていったが、彼女は答えなかった。
無言のまま、瞳を上げた。
堅い覚悟が沈んでいた。
それが彼女の答えだった。
私はそっとアナベラを横たえた。毛布でくるんだ。
「もう、おやすみ・・・明日はきっといい日になるから」
穏やかに言ったつもりだったが、力が入らなかった。
気力を奮い立たせると、神妙な顔を作った。
「アナベラ、私の願いをきいてくれるかい?大したことじゃないんだ。ここにいて、君の寝顔を観ていたい。いつもむさ苦しい男ばっかりだから、飽き飽きしているんだ。いいだろう?」
ちょっと呆れた声が返った。
「あなた・・・男色家なの?」
呆れ以外に、妙に納得した響きも含まれている。
私は激しく首を振った。
「違うよ、そういう意味じゃなくて・・・・軍人だから、任務中は部下と一緒なんだよ」
「・・・・・男色家じゃないなら、変なお客さんね」
「たまには変わった客もいいだろう?」
「うん・・・」
それきり、静かになった。
ぼんやりと考えていた。
私はただのお節介だったのかもしれない。アナベラは一言も助けてほしいなど、口にしなかった。
勝手に気を回して、彼女の気持ちも考えず、躍起になっていたのは事実だ。
しかし捨てておけないのも、事実だ。
時間がないのが、たまらなく悔しい、悔しくてならない。
私は明日、本国に帰還しなければならない。
ズグロッピーノに手を伸ばし、一口含んだ。
ひどく、苦かった。
私はランプを引き寄せた。消そうと思ったとき、声がした。
「・・・待って」
振り返らず、答えた。
「まだ、起きていたの?眠れないかい?」
半ばあきらめていたせいか、次の言葉には驚いた。
「・・・どうして、そんなに優しいの?朝には帰ってしまうのに」
衣擦れの音がして、すぐ後ろで細い息づかいが感じられた。
「優しくなんてない。夜が明けたら、ここを出てゆくのだから・・・。」
「そうね・・・まぼろしね・・・」
声が消え入って、代わりに細い腕が私を抱きすくめた。
「あたしを忘れてしまう?」
切ない声が胸を締めつけた。
「君は?」
痩せた腕がすがりついてきた。
「忘れたくないわ・・・!忘れられない、きっと。」
私は腕を解いて、彼女に向き直った。
不意に、触れたくなる。唇に。
取り返しがつかなくなる前に、私は目を伏せた。
男である私が、彼女に触れることは、残酷なのだ。
ここまで追いつめられた彼女に触れることは、残酷なのだ。
「ナーディル」
近づく気配。止めるまもなく、少女は私を抱きしめていた。
「お願い、ナーディル。お願い。あたしに力をちょうだい。生きてゆくために・・・・・!」
「アナベラ?」
腕を掴んだが、ほどけなかった。
彼女はなおも私を抱きしめていた。
私は導かれるまま、横たわった。
少女は全身で私を感じようとするのか、強く体を押しつけてきた。
服を通して伝わる彼女のぬくもり。
このとき初めて、彼女が香水をまとっていると知った。
きっと忘れられないだろう。心地よい、金木犀の香り。
だが、唇を求めることも、抱きしめることも許されなかった。
「・・・あなたが本当は違う世界の人だって気がついたの。・・・明日になったら、お別れね。もう二度と会えないのね・・・」
言葉が終わらないうちに、少女は私の胸に顔を埋めた。
「また会える、きっと」
「嬉しいわ・・・」
口にして、心底後悔した。
しかし、アナベラは私の軽率な言葉を責めたりしなかった。ただ、思いやりがこめられていた。
「でも、あたしは・・・・・ろくに客を取れない娼婦なの・・・今度来てもらっても、何もしてあげられないわ」
声の途切れと同時に、言葉と表情を思い出した。
ヴィゴが言ったわ。『おまえは死人と同じ』・・・。
私は激しく自分を責めた。
この上もなく、残酷なことを考えている。
しかし、他に道があるだろうか?
この宿での彼女の扱われ方。この先、彼女は、いいや、明日の夜からも、再びベッドに縛りつけられ、慰みものにされるだろう。
アナベラが望むなら、今すぐさらってゆきたい。
だが、彼女は娼婦として生きる道を選んでいるのだ。
それなら、少しでもより良い道を示してやらなければならない。
思い切って、言った。
「君がヴェネチアで、だれもが知るひとになればいい。高級娼婦に」
「ヴェロニカ・フランコや、ガスパラ・スタンパのような?無理よ、あたしは教養もないし、楽器の演奏もできない。詩を作ったりなんて難しくて・・・それに綺麗じゃない」
歴史上の人物の名をすらすらと答えたのは正直、驚いた。
そして、彼女の自己評価が正しくないことも知った。
私はゆっくりと首を振った。
「アナベラ、君はとても頭がいいよ。私を見抜いたように、些細なことから全てを知る力がある。機転も利く。それに君には・・・どんな運命も受け入れようとする強さがある」
優しく静かに、そして最後は諭すように話した。
そして、むき出しの背中に腕を回した。
彼女はたちまちに、これからなす事を理解してしまうだろう。
拒否してもらいたかった。だが、受け入れてもらいたかった。
「ナーディル」
声に感情はなかった。細い体は震えてもいなかった。
アナベラは顔を上げた。
緑の瞳は強い光に満ちていた。だが、唇はかみしめられていた。
私は頭を振った。
もう、迷えなかった。彼女は選んだのだ。
私は彼女を抱きしめたまま、体を起こした。
腕を解き、上着を脱いだ。ためらわないよう、素早く下着も外した。
アナベラは何一つ見落とすまいと、じっと私を見つめていた。
緊張した頬が恥じらいで染まったのは、このときだった。
「あの・・・ナーディル、あなた、何歳なの?」
「今年で60 になった」
「え、信じられない!死んだおじいちゃんと同じ年で、どうしてそんな体なの?いくら軍人だからって・・」
驚かれても仕方ないが、私はそこらの男どもより遙かに体を鍛えている。
誉められて嬉しいが、いまはちょっと。
「あのね、変な話をしてはだめ。高級娼婦は知的に振る舞うんだよ」
気まずい雰囲気にいち早く彼女は反応した。
「あの・・・ちがうわ。あ・・なたみたいな素敵な人は初めてだったからよ。あたし、嘘がつけないの」
私はちょっと気分が楽になった。くすっと笑って、彼女の頬へ手を滑らせた。
「とても綺麗な肌だ」
囁きながら手を頭の後ろへ差しこみ、顔を寄せた。
「ひっ・・・」
予想通り、少女は唇を堅く閉じた。
「怖がらないで・・・。キスの練習・・・」
一瞬胸が痛んだが、強引に唇を重ねた。
「う、う」
甘く優しく貪った。
もう一方の手を彼女の肩から指先へ滑らし、指を絡めた。
彼女の頬がバラ色に変わるのに時間はかからなかった。
やがて離れると、アナベラはうつむいて両手で口元を押さえた。首筋が鮮やかな赤みを帯びていた。
しくじったと思った。彼女がこういった行為に慣れていないと分かっていたのに、手を抜かなかった。
だが、その姿がとても新鮮で、可愛らしかった。
「アナベラ、君は素敵だ」
彼女はうっとりと私を見た。まだ夢見ているようだ。
そっと、手を外して、もう一度唇に触れた。
少女の唇は柔らかく、暖かだった。両腕で彼女を包んだ。
酔いしれかけて、我に返った。
名残惜しく離れると、言った。
「じゃあ、今度は君から」
彼女はハッとして、そしておずおずと両手を私の肩にかけた。
また目を伏せている。
優しく、しかし厳しく言った。
「目を上げて、まっすぐ私を見て。微笑んでごらん」
アナベラはきりっと顔を上げた。
思わず苦笑した。
「そんなに厳しい顔をしない。・・・まだ、怖い?」
「すこしだけ・・・」
私はあえて目を閉じた。
頬に熱い息がかかる。
次にしめった暖かい物が押しつけられた。
はじめ少女は不器用にしかし、懸命に繰り返した。
だが、熱を帯び、官能的になるまで時間はかからなかった。
私は理性を保つのに苦労しながら、彼女の利発ぶりに驚いていた。
いまや彼女の口づけは、ほとんど私を陥落寸前まで追いつめている。
むりやり口を閉じて、彼女を離した。
「ナーディル、いけなかった?」
心細げに尋ねる彼女に、私はウインクした。
「キスは大事な道具だ。挨拶だったり、愛の代わりだったり、・・・・・アナベラ、今に何人もの男が君の唇の虜になるよ」
とまどいを浮かべて、彼女は微笑んだ。
それは、誰よりも美しく思えた。
「体を預けて」
抱き寄せ、二人で横たわった。
アナベラはまたもきつく目を閉じ、身をこわばらせている。
間近で見ると、治りかけや新しい擦り傷があちこちにある。痣もいくつかあった。
おそらく、いいや間違いなく『ヴィゴ』という男の仕業だろう。
激しい怒りがこみ上げてきた。同時に彼女が哀れでならなかった。
だが、おかげで揺らぎかけた理性が元に戻った。
私は何度も金の髪をなでた。
「そのままでいいから、私の動きを覚えておくんだ」
華奢な体に重みがかからないように気を配りながら、うなじに唇を押し当てた。
何度も口づけをしながら肩口まで降りた。
少女はおびえたように唇をかんでいる。
尋常の姿ではない。過去にこんな状況を何度も体験したようだ。
私は今すぐベッドを出たいという衝動に駆られた。しかし、思い直した。
「大丈夫だから。約束するよ。決して乱暴に扱わない」
真摯に囁き、頬を撫でた。
アナベラは目を開けた。涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい・・・こんなに良くしてもらっているのに、ごめんなさい。ヴィゴにされたことを思い出してしまって、悲しくて、怖くて、どうしようもなくて・・・・・!」
「辛かったね。よく耐えたね」
流れた涙を拭いてやって、ぎゅっと抱きしめた。
「君は強い。私よりもずっと強い。」
頷くのを見取って、ゆっくりと彼女の肩から腰にかけて手を滑らせた。
絹を撫でているような感触だった。それにみかけより驚くほど柔らかだった。
それから胸から腹へかけて。優しく、時に激しく撫でた。
みるみる肌が染まり、熱を帯びた。
腹の辺りで、手に当たった物を取り去った。
「あっ・・・」
声を上げたが、差し上げられた両腕は私の背中を抱きしめた。
「ナーディル・・・」
彼女の唇が頬に押し当てられた。
細い指が首筋をなぞり、盛り上がった胸の筋肉を撫でた。
私は鳥肌がたった。触れられた部分が急速に熱を帯びた。
駆り立てられる思いでふっくらとした乳房に口づけし、吸った。
「あっ・・・」
アナベラは小さく喘いで体をよじると、耐えかねたのか、しがみついてきた。
信じがたいほど敏感な体の持ち主だった。
まるでガラス細工。大切に大切に扱わなければ。
アナベラはうっすらと目を開けて、私を見つめた。
顔を寄せた。
少女は応えた。
甘くそして激しく唇を重ねた。
愛しいと、初めて思った。
ほんのりと色づいた頬をすり寄せて、彼女は私を抱きしめた。
体重で苦しくならないよう、私は彼女の下になり、両手で包んだ。
私もまた、彼女のぬくもりを、肌を、鼓動を、全てを全身で感じたかった。
アナベラは手のひらをぴったりと私の胸につけ、頬ずりした。
私は彼女の背中を撫でた。それに合わせて彼女の手も艶めかしく動いた。
思わず、私は呻いた。
彼女の生まれ持った資質なのだろうか、繰り返すたびに指先の動き、手のひらの滑らしかた、唇の甘さが増してくる。わずかに触れられただけで、体が芯から燃えるようだ。
狂おうしい衝動が突き上げてくる。
今すぐでもアナベラの体奥深くへゆきたいと願う。
だが、待て。
待て。
待て。
ぎゅっと目をつむって、全てを頭から追い出した。
何度が深呼吸をすると、心臓の鼓動がゆっくりになった。
私は約束した。
決して乱暴はしない。
「どうかした?あたし、やっぱり・・・」
不安そうに瞳が曇っている。愛おしさで一杯になりながら、首を振った。
「君はいい生徒だ。才能がある」
安心したらしく、笑った。
「君が欲しくてたまらないよ」
「嬉しい・・・・」
少女は私の頭を腕に抱いて、額に口づけした。
暖かな乳房に顔を埋めたまま、私は体の向きを変えた。
肘をつき、真下の女性を見つめた。上気した頬に唇を寄せて囁いた。
「君の中に私を迎え入れてくれ、アナベラ・・・」
不意に息が上がってしまって、はっきりと言葉にならなかった。
だが、彼女は目に涙を浮かべて答えた。
「はい」
私の肩に手を置き、ゆっくりと膝を立てた。
ためらわなかったと言えば嘘になる。
彼女のこれまでを思えば、この上もなく残酷なことをしようとしているのだ。
だが、気持ちを抑え切れなかった。
アナベラを、心から愛していた。
ゆっくりと彼女の中へ、私は入っていった。
「ああっ・・・!」
叫び、顔をゆがめた。そして彼女はぎゅっと私を抱きしめた。
一筋、涙が流れた。


後悔と喜びとが複雑に絡み合っていた。
アナベラは穏やかな顔で目を閉じている。
窓の外がうっすらと明るくなっている。二人で過ごせるのも、あと僅かだ。
許されるなら、彼女をさらってゆきたい。切に思う。
自分が軍人でなかったら、彼女がついてゆくと言えば・・・。
切れるほど唇をかんだ。
・・・夢見るのは、やめよう。
彼女が言ったように、私は『まぼろし』なのだ。
胸が締めつけられた。
「ナーディル」
腕の中から女性が顔を上げた。
ぞくっとするような艶めかしさが声にあった。しかし、瞳の色は元のままだ。
「疲れた?」
「ううん・・・。もうすぐ朝ね。朝になってしまうのね」
こみ上げてくる感情を懸命に抑えているのか、声がかすれている。
細い腕が伸び、私の首に巻きついた。
「ナーディル。あたし、あなたを・・・」
とっさに、言葉を唇で塞いだ。
聴いてしまえば、もう自分が抑えきれないのが分かっていた。
甘くそして切ない時間が流れた。
「君は優秀な生徒だ。教えたことを忘れないで。その腕前なら間違いなく女将は君を大切にしてくれる。いい客がつくようにもなる。そしていつか登り詰めるだろう。高級娼婦へ」
アナベラはシーツに顔を埋めたまま、小さく、頷いた。
「かならずね」
最後は声がうわずった。
私は大声で泣きたかった。
しかし、これで良かったのだ。そう、何度も自分に言い聞かせた。
そうするしかなかった。
ズグロッピーノに手を伸ばし、一口含んだ。
口移しで愛しい人に与えた。
これが最後のレッスンだった。
「眠るといい。そばにいるから」
彼女はきつく目をつむったまま、胸に顔を押しつけた。
あらん限りの力で抱き締めたいのをこらえて、そっと抱き寄せた。
「アナベラ、困ったことがあったら、カ・ファルセッティの隣の領事館へおいで。きっと助けてくれる」
「あなた何者なの?」
「ただの軍人だ」
「そう・・・?」
やがて、安らかな寝息がきこえた。
私は服から5枚の金貨を彼女に握らせ、それからピジョン・ブラッドのピアスを外した。
「薔薇の代わりに」
金貨の中へ置いた。
そして、静かに目を閉じた。


「お客さん、お客さん、起きてくださいよ、お連れさんが来てますよ」
耳障りな声と乱暴にドアをたたく音で目を覚ました。
傍らの女性はまだ眠っている。
私はこっそりとベッドを抜け出し、服を着た。
外は日が昇り、すっかり明るくなっていた。
近くの運河を船が通っているらしい。ゴンドリエーレの歌声が、かすかに聞こえる。
その時が訪れた。
「さようなら、アナベラ」
ノブに手をかけた。振り返り、見つめるだけにとどめた。
それ以上、何もしてはならなかった。
外へ出ると、女将が探るような目つきで見た。
「どうでした?満足できましたでしょ?」
耳を塞ぎたくなるのをこらえて言った。
「ああ、最高の夜を過ごさせてもらったよ。・・・・それからグラスを割ってしまった。これは代金だ」
懐から残りの金貨を取り出すと、女将の手に押し込んだ。
むっとしかけた顔が、気味悪く笑いに変わった。
「あらまあ、いいんですよ、大したもんじゃないんだから・・・。でも、せっかくだからいただいておきますねぇ」
「それで、私の連れは?」
「ああ、表にみえてますよ。白い軍服の若い男の子ですよ。・・・お客さん、まさかと思うけど巷で評判の『白き傭兵』の人かい?見えないねぇ。おっとと、ごめんなさい。気を悪くしないでおくれね」
私は足を速めた。入り口でヴィゴと出くわした。じろりと睨みつけられた。
不敵な笑いを浮かべると同時に、彼の前で転んだ。
「なにやってんだ、この爺・・・」
ぶつぶつ言いながら男は手を貸そうとした。
「悪いね」
差し出された手を掴み、よろめいた振りをして逆さにねじ上げ、もう一回バランスを崩したふりをして、男の股間を思いっきり蹴りあげた。
「ぎゃうっ!」
断末魔の叫びともに、ヴィゴは卒倒した。
私はほくそ笑んだ。
しばらくは使い物にならないだろう。
女将が駆けつけるのを見届けて、宿を出た。
「や、パオロ。ずいぶん速く私を見つけたね」
「散々しごいたのは、あなたです」
青白い顔で言うと、包みを渡した。
「着替えですよ。逃亡中に狭い路地を通ったと踏みましたが、正解でした」
「済まないね、女房役をやらせて」
むすっとしてそっぽを向かれたが、ウインクを投げて上着を取り替えた。
受け取って、部下は怪訝な顔をした。
「なんだろう?・・・いい香り・・・花かな?」
パオロは部隊の中でも抜きんでて嗅覚がするどい。
「花?」
上着に顔を寄せてみた。かすかだったが、すぐさま思い当たった。
彼女の香り。忘れられない金木犀の香り。
「あなたも匂いますよ。カサノヴァを気取るおつもりですか?」
辛辣な口調に苦笑して、慌ててつけ足した。
「ズボンは後でいい。ところで、ずいぶん顔色が悪いが?」
おおかた予想はついていたが、とりあえず。
そういえば、ボンゴがいない。
「あ・な・た・と言う人は!一晩中、我々がどんなに苦労したか、分かっていないようですね!シニョリーナをなだめるのに、どれだけ大変だったかっ」
私は両手を上げた。
「悪かったよ、反省してます。ごめんなさい」
深々と頭を下げつつ、ちらりと盗み見た。ばつが悪そうな顔をしている。
向かいの家の窓から誰かが覗いていた。
「と、もかく、ここでは人目がありますから、いったん領事館へ戻ります。お説教はその後です。覚悟してくださいね」
うんざりして見せたが効果はない。パオロは先に立って歩き出した。
「アナベラ・・・」
もう一度だけ振り返り、私は彼の後を追った。

しばらくして、アナベラがある有名な娼館に移ったと聴いた。
それから私は世界中を飛び回る日々が続き、いつしか彼女の消息は分からなくなった。


5年後、パリ。
菓子店に戻って、なじみの服に着替えた。いつもより念入りに手入れをしたせいもあるが、身が引きしまる。
「ムシュウ、お疲れさまでした。おかげであっという間にチョコレートが売れましたよ。明日も来てくれます?」
赤ら顔の菓子職人が嬉しそうに、空のケースを運びながら言った。
「残念ながら、明日は都合が悪い」
私の様子に何かピンときたらしい。奥へ駆け込むと包みを持って現れた。
「持っていってくださいな。新作ですよ。いいねぇ、恋するってぇのは!」
私は照れてしまった。苦笑しつつ、足早に店を出た。
しばらく歩いたところで、後ろから若者が追いかけてきた。
「将軍、お供します」
「パオロ准将、君は休暇中ではなかったかね?」
若者は気まずそうにそっぽを向いた。
「妻とちょっと・・・」
「まあいい、気晴らしについてくるといい。向こうも軍人だ。話があうだろう」
「?総督と会うのでは?」
首を振った。
「護衛でついてきている若者のことだ」
「ヴェネチア出身と聴きましたが、お知り合いなんですか?」
ちょっと首を傾げた。
「コルフェライ大佐と直接面識はないがね・・・」
その様子にぴんときたらしい。私の二の腕をつまんで、思いっきりつねった。
「懲りませんね。いい加減自分のお年を考えたらいかがです?」
「い、い、痛い。・・・・パオロ君、恋していないと、人生はつまらないよ」
今度は両手でつねられた。
「私は軍人です!」
にやりと若者を見た。
「細君にべた惚れだったのは、誰だったかな?」
「うっ・・・」
私は陽気に笑った。胸が高鳴っているのは、これから会う人の面影が胸をよぎったせいか。
「アナベラ・・・」
「誰です?」
「総督お気に入りの高級娼婦の名前だ」
准将は足を速めた。
「ほんっとに懲りていませんね!」
肩を怒らせて歩く姿を見て、私はくすっと笑った。
見上げた空は澄みわたって、風が心地よかった。
どこからか花の香りが漂ってくる。
「待ってくれ、パオロ!」
私は思いっきり、走り出した。