『ルカ様・・・・・・・・。』 アイラが呼んでいる声がする。
可愛い声で歌うように呼んでいる。
またお返事をなさらないのか、彼女の心に影が差す。
彼女の目を通して、大天使のお姿が見える。
月の色そのままの髪、どの大天使もかなわない強い翼。そして輝くリング。
アイラは足を止めない。心配で心配で仕方がないのだろう。
「アベル、またアイラのそばにいるのかい?」
不意に声を掛けられて、慌てて飛ばしていた意識を戻す。声の方を振り返ると、大天使ウリエルがいた。
「・・・・・、はい、妹天使を守ってやるのがつとめですから」
ちょっと気まずさを感じて、目を伏せる。しかし、ウリエルはそれ以上続けるつもりはなかったらしく、声を落とした。
「ルカの奴・・・・・・このところ、変わったことないか?」
「いいえ、別に。何か?」
とっさに答えたが、本当は漠然と感じるものがあった。
だが、誰よりも強い御使い。おれたちを大切になさり、導いてくださる方だ。
アイラのような心配はいらない・・・そう思いたい。だが、このごろ自分に言い聞かせるのが難しくなっている。
おれの表情を読みとって、大天使はさらに声を低くした。
「あいつ・・・・先日の討伐の時、危うく悪魔の一人を逃がすところだった。私がとっさに捕まえたからいいようなものの、わざとやったんだとしたら、主への反逆罪になる・・・・・・」
「まさか!」
ウリエルは苦しそうに首を振った。
「問いつめたが、辛そうに笑うだけだった」
この言葉は救いとも言えた。イエス、もしくはノー。どちらともとれる。
だが楽観できないと、厳しい眼差しが語っている。
「もし・・・・・」
言いかけて、言葉を切った。厳しかった瞳に柔らかい光が射す。
ウリエルはいたわりを込めて、おれのリングに触れた。
「私の思いすごしだ。ルカがお前たちを悲しませるわけがない、そうだろ?」
「そうですね・・・・・」
ぼんやりと頷き、顔を上げるとウリエルはもう一度リングに触れた。
「何かあれば、私がいつでも力になる。心配するな」
ウリエルが去った後、おれは漠然としていたものが、はっきりと形をもち始めているのを感じた。
「ルカ様が・・・反逆・・・・?」
口にするのも忌まわしかった。
おれはそこで考えを打ち切った。このままでは不安にのみこまれてしまう。
休めていた手を再び動かし始めたとき、別の天使の現れを感じた。
「しょうがない、今度はカイルか」
おれも向かうことにした。

カイルがちょうどアイラに囁いているところへ着いた。
「ルカ様、どうかなさったの?」
おれは二人の間に割ってはいると、じろりとカイルをにらんだ。それから心へ声を入れた。
『また何か考え事をなさっているんだろ?じゃましちゃいけないよ。』
言ったが、本心とは違っていた。カイルはむっとした顔で言い返した。
「アイラの気持ちを考えてやれよ。そうやって何でも決めつけるなってルカ様に言われているだろ?」
『おまえとは違うんだ。言われなくても分かるさ。だけど、おれはルカ様のおそばが長いんだ。いまどんなお気持ちなのかぐらい分かる。言うとおりにしろよ。行くぞ、アイラ。』
「だって・・・・・」
口の中でもぞもぞ言っている。気持ちが分からないでもないが、ここは連れ出した方がいい。
『アイラ、来いよ、ほら。』
目を伏せたまま、動こうとしない。おれはため息が出た。こういった手段は好まないが、仕方がない。
小さく、柔らかな翼を鷲掴みにした。
「いやん!」
『こいよ、早く!』
「待てよ、アイラに乱暴するな!」
カイルの手が雷のような速さで、おれの腕を跳ね上げた。
その手を逆に掴み返し、ねじ上げた。 しかしカイルはひるまない。歯を食いしばっている。
「やめて、やめて!」
泣きながらアイラがおれの腕にしがみついた。
「こら、アイラ、はなせ!」
「だって!だって!カイルが痛がってる!」
「ちょっと、アイラ、そっちで引っ張ったら、ますます痛い!」
「だって、アベルが・・・・!きゃん!」
いきなり引っ張られなくなったと思うと、アイラの体がルカの肩に乗せられていた。
そして大天使はあからさまに不機嫌な顔を向けた。
「おまえたち、何をやっているんだ。端から見てると『繁殖期の雌の奪い合い』だぞ」
「ルカ様!口が悪すぎます!」
つい怒鳴ってしまった。しかし、気にとめた様子もなく大天使は
「ああ、悪かったな。このところ地上が長かったからなぁ。『郷には入っては郷に従え』だ」
と、豪快な笑い声を響かせた。
「ルカ様・・・・・」
妹天使が心細げな眼差しを向ける。それを優しく受け止めて
「ん?どうした、アイラ」
「あたし・・・心配なんです。このごろ、お元気じゃないから・・・・・」
「元気がないかぁ?そう見えるのかねぇ」
さも意外そうに首を傾げて、ぼりぼりと頭をかく。
「そうです!このところ、ルカ様はずっと、変です!」
思いきって言った。おれは真剣だった。その横でカイルもうなずいている。
ルカは教え子たちを一通りながめて、もう一度首を傾げた。
「気のせいだろ。おれはいつも絶好調だぞ」
だけど、一瞬よぎった表情をアイラもおれも見逃さなかった。
不安が、急激に膨らむ。
しかし、おれが口にする前にアイラが言った。
「でも、やっぱり、変です。ルカ様・・・・・本当に大丈夫なんですか?」
ルカはアイラをおろすと髪がくしゃくしゃになるまでかき回した。
「心配性だな。おまえたちにおれが嘘をついたことがあるかい?」
みんなで一斉に首を振る。ルカは満足げにおれとカイルの肩をたたいた。
「じゃあ、この話は、これで終わりだ。いいかおまえたち、今日はこれから地上に行く。最近危険な奴らがうろついていると、ウリエルが言ってたから気をつけるんだぞ」


「どうしよう・・・ここ、どこ?みんなどこ?」
アイラは自分をぎゅっと抱きしめた。いつの間にかみんなとはぐれてしまった。飛び立ってさがしたいが、まだ独りで姿を消せる力がない。
「こわいよぉ・・・・・」
木の陰にうずくまる。耳を澄ましても聞こえるのは、気味の悪い葉ずれの音ばかり。右を見ても左を見ても暗い森。
「ルカ様・・・・・・」
泣きたいのをぐっとこらえて必死で念じる。ルカ様は強い力をお持ちだから、きっと見つけてくださる。そう信じて念じる。だがいくら時間が過ぎようと、何も起こらない。
「おねがい・・・・・・!」
とうとう涙がこぼれそうになったとき、何かがアイラの中で鳴り響いた。
彼女は反射的に振り返った。
「あれ?どうしたんだい、新米天使さん」
「だれ?」
そこにはいつの間にか、人間に似たものが立っている。背後に立ち上る禍々しい影。
「僕はヴァトー。よろしく」
「あ、悪魔ね。近寄らないで!」
「ひどいなぁ、何もしないよ。君が泣きそうな顔をしているから慰めに来たんだよ。ほら、立って。そうしないともうすぐ、狩人たちがここを通る。姿を見られては、まずいだろう?」
ヴァトーは小さな天使の手を優しくつかんで立ち上がらせた。
「ほら、こっちへおいで。安全だよ」
笑いかける。その顔がどこかルカに似ていて、アイラは奇妙な安心を覚えた。

ヴァトーはアイラが学んだ悪魔とはまるで別のもののように、彼女に優しく振る舞い、愉快な話をした。
歩くにつれ森は明るさを増し、木々の柔らかな香りがいっそうアイラを安心させた。
何たって悪魔は天使が変わった物だから、みんなが言うほど怖くないのかもしれない。仲良くしても良いんだ。そう思い始めたとき、二人の前方に人間が倒れていた。
「わぁ、大変!どうしよう!」
「僕に任せて」
ヴァトーは、またたく間にアイラを少女に変え、自分も少年に化けると、近寄っていった。そして人間を背負い、柔らかな草の上に横たえた。
「おい、おい生きているか?」
気を失っていた人間は、程なく目を開けた。
「ここは・・・・・?」
声は力無く、かすれている。頬は青ざめ、唇は血の気を失っている。
アイラは感じた。
・・・・・・・朝焼けを待たずに、天国の門をくぐる魂だ。
同じだったのか、悪魔の顔も曇る。
「貴方は道に倒れていたんだ」
「そうか・・・・・」
言葉が終わらないうちに人間は目を閉じ、再び意識を失った。悪魔は辛そうにアイラを見た。
「僕・・・・・この人間を知っているよ。この森の奥に住む猟師だ。つい最近、奥さんを亡くして、小さな子供の世話を一人でしている」
「え、じゃあ、この人が死んだら、子供はどうなっちゃうの?」
ヴァトーは、悲し気に答えた。
「頼れる人は誰もいない・・・・・だから、子供もいずれ死ぬ。仕方がない」
「そんな、ひどい!」
うなずきながらも、悪魔は諭した。
「しかたがないよ、それが運命なんだ。君は天使だろう?神様の決めたことは絶対に変えられないって誰よりも知っているじゃないか?」
「そうだけど、そうだけど!」
ヴァトーは慰めるように天使の肩に手をおいた。
「あきらめるんだ、せめて、家で死ねるようにつれていって上げよう・・・・・・・」
悪魔は人間を抱き上げ、歩き出した。だが、アイラは動かなかった。
「どうしたの?」
彼女は思い切って言った。
「ねぇ、あたしたちで助けてあげるってできないの?あたしは天使だし、貴方は悪魔でしょう?このまま死んじゃうなんてあんまりだわ!」
「君の気持ちは分かるけど、運命を変えることは許されないんだよ」
しかし心優しい天使は何度も首を振った。
「だけど、だけど!かわいそうすぎる!」
「だめだ。運命は変えられない」
ヴァトーの腕をぎゅっとつかんで、潤んだ眼差しを向けた。
「おねがい、、力を貸して。あたし一人じゃできないの、半人前だから・・・・・!でも、貴方と二人なら、きっと助けてあげられる!」
悪魔はじっと天使の目をのぞき込み、何度も首を振った。
「君は僕の知っている天使の中で一番優しいね。ルカが大切にしているだけのことはある・・・・・」
「ルカ様を知っているの?」
「よく知っているよ。だから、彼をがっかりさせないためにも、君は神様を裏切ってはいけない。分かるね?」彼の言葉に、激しく心が揺れた。だが、彼女は、もう一度考えを巡らせた。
ルカ様はいつも人間のために尽くしなさいって教えてくださった。だから、きっとあたしを許してくださるにちがいない。
「分かった・・・わかったわ、ヴァトー」
「それなら良いよ、安心した」
ルカの教え子は毅然と言った。
「違うの。あたし独りでやるの。だから、その人をそこへおろして。どこまでできるか分からないけど、がんばればできないことはないって、ルカ様はいつもおっしゃっていたわ!」
悪魔は大きなため息をついた。
「君には負けた・・・・・だけど、どうなっても知らないよ」
「いいの」
ヴァトーは猟師を地面に横たえた。アイラはその横にすわり、胸に手のひらを押し当てた。
ふわりと花びらのように翼が広がる。
「やめろよ・・・・・・。それだけはやめろよ・・・君のためだ」
弱々しく囁く。アイラは目を閉じて、聞こえない振りをした。
だが、このとき目さえ開けていれば悪魔が浮かべた表情に気がつけた。
手のひらがやけそうに熱くなってきた。光も集まってきた。
「ルカ様・・・・力を貸してください!」
輝きがゆっくりと人間を覆ってゆく。
そして、ついに全身が光に包まれ、男の頬に赤みが戻ったとき、背後から高らかな笑い声が響いた。
「おまえは神を裏切った!堕天使だ!ルカの愛し子をおれは奪ったぞ!!」
一瞬、何を言われたか分からなかった。とてつもない恐怖に駆り立てられながら振り返った先には、正体を現した闇がそびえ立っていた。
禍々しき者はこの世のすべての邪を集めた声を吐き出した。
「おまえの純粋さがおまえを滅ぼしたんだ。誰のせいでもない、おまえ自身が滅びを招いたのだ!」
声が終わらないうちに、全身がしびれた。アイラは地面に崩れた。
仰向けに転がったまま、瞳を閉じることもできず、視界いっぱいに広がった黒い翼を見つめるしかない。
鋭い鉤爪がほそい腕に食いこんだ。そのまま持ち上げられる。
痛みであがるはずの悲鳴が、のどの奥で凍りついている。
「さあ、一緒に来い!おまえの新しい楽園を見せてやる!」
だらりとぶら下げられた先に、ぽっかりと底知れぬ穴が口を開けている。まとわりつく臭気に息が詰まる。
『いや!ルカ様助けて!』
その時、二人の間を冷たい輝きが切り裂いた。
「ぎゃあああああっ!」
ごろんと、ヴァトーの腕が地面に転がった。反動で地面に投げ出される。
『ル、・・・・ルカ様?』
見上げると怒りで翼を大きく開いている大天使が、仁王立ちになっていた。
そしてかばうように向きを変えると、剣にこびりついた固まりを払った。
「今頃お出ましか・・・・・・あいつがいなくて、ずいぶん焦ってここへ来たんだろう?だけどもう手遅れさ。
あいつの姿を見たか?もうすぐおれと同じになるぜ」
痛みで顔をゆがめながらも、愉快そうに笑う。
大天使は唇を堅く結んだまま、剣を振り下ろした。
「アイラ!」
おれは墜落せんばかりの勢いで、急降下すると妹天使をひったくって戦場から引き離した。
続けてカイルも舞い降り、人間を抱えてきた。
「しっかりするんだ、すぐにルカ様が助けてくださる!堕天使に変わるな!」
耳元で叫ぶがアイラは一点を凝視したまま反応しない。どろどろした気持ちの悪いものが、内部を食い荒らしはじめているのが見えた。
おれは魂が凍りつき、バラバラと崩れてゆくような恐怖を覚えた。
「カイル!だめだ!」
おれの叫びにカイルが駆けつけた。兄天使に抱えられた妹天使の姿がおぞましいものに変わって行くのに息をのむ。
「アイラ!堕天使になるな!」
必死に叫ぶ。それからすがるようにおれを見た。
おれはハッと我に返り、力強く弟天使を見据えた。
「ルカ様じゃなきゃ、助けられないんだ・・・・!だけど、引き延ばす方法はある・・」
カイルの手を取ると、ぎゅっと握りしめた。
「いいか、呼びかけるんだ。アイラはもう何も聞こえない、二人で直接呼びかけるんだ。呼びかけて、呼びかけて、アイラを持たせるんだ」
「分かった!」
カイルは不安を振り払うように頷くと、重ねられた手から兄天使に同化した。そして、力を借りて妹天使に声を送った。
『行くな、行くなアイラ!まだ行ってはだめだ!』
『アイラ、アイラ!心をなくすな!引き留めていろ!悪魔に変わってしまうぞ!ルカ様が助けてくださるまで
耐えるんだ!』
おれはきゅっと唇を引き結ぶと、戦場に目を向けた。 
すさまじい闘いが続いていた。狂奔する火焔と、それを圧殺しようとする憎悪の闇。戦いは互角だ。
しかし、ふと違和感を覚えた。
ルカ様・・・・・・動きに切れがない。何をためらっておられるのか・・・・。
それはすぐさま不吉な結末を予感させた。おれはわき上がる不安を悟られないよう、声を抑えた。
『まもなく決着がつきそうだ。・・・・・・ちょっと見てくる。』
兄天使の言葉に、心細そうな瞳を向ける。だが、頷いた。
『分かった・・・・・。だけど、早く戻ってくれ。』
頷くと、意識だけで空を駆けた。
『ルカ様!』
折しも大天使はヴァトーの一撃をかわしたところだった。
『どうしたんだ?かぶりつきで見物するの、趣味だったか?』
おどけた調子の意味を、おれはすぐに理解した。
胸がぎゅっと引き絞られる。
悪魔の攻撃を伺いつつ、
『ともに戦わせてください!どうか!』
最後の言葉に力を込めた。だが、返事の前にヴァトーが挑んできた。
「!」
誰が見ても、稚拙な反撃だった。思わぬ隙があったにもかかわらず、神の御使いはとどめを刺せなかった。
悪魔は天使たちと距離を保ちながら、背筋の寒くなるような笑いを浮かべた。
「おやおや、立派な生徒をお持ちだ。だけど・・・・役には立つまいよ」
『何だと!』
怒りで全身が輝く。まぶしそうに目を細めるが、吐き出された言葉はあざけりに満ちていた。
「何も気がついてないか?アベル、ルカは堕ちたがっているんだよ。地獄へ・・・・」
意外な言葉に大天使を振り返る。だが、その直前まであった表情をおれは捕らえ切れなかった。
肩をすくめて見せ、銀青色の髪を掻きあげた。それからさもあきれた様子で言った。
「転職のお誘いかぁ?お前がヘッドハンターだとはしらんかったぞ」
だが、低く笑うとなおも続けた。
「いつまで本心を隠すつもりだ?いつまでお前の可愛い生徒をだますつもりだ?」
受け取った言葉に、自分の何かがかき立てられるのを感じた。
しかし気にした風もなく、教師は生徒にウインクを投げた。
「うそつきじゃ、教師はつとまらんよ。なぁ?」
「強がりはよすんだな。お前の賢い生徒は見抜いているぞ・・。そうでなければ、どう説明する?お前の手ぬるい攻撃の理由・・・。今だって、わざと急所をはずしたんだろう?」
ヴァトーの声がねっとりとおれにからみついた。
『ルカ様・・・・・・?』
心いっぱいに膨れた不安を辛うじて抑え、兄天使は大天使を見た。無意識のうちに彼の中に入ろうとする。だが、叶うはずがない。
「アベル、プライバシーの侵害だぞ。イエローカード!」
やんわりとしかる声に、反論しようと思った。だが、気がつくと自分の体に戻されていた。
しかし一瞬だが、大天使の心に触れることができた。
誰よりも敬愛する魂を蝕む欲望。
それはおれを愕然とさせた。
ルカ様はヴァトーを殺せない・・・・・。


『アイラ、アイラ!だめだ、悪魔になってはだめだ!』
カイルは焦りと必死で闘いながら、呼びかけ続けた。しかし彼の努力も虚しく、妹天使の体はどす黒いもので埋め尽くされ、リングだけが天使だった名残をとどめている。完全に変わってしまえば、大天使といえど、どうにも出来ない。
一瞬の絶望がカイルを襲った。その時、信じられないことが起こった。
漆黒の塊が蛇のようにうごめいて彼の左腕に巻きついた。
「ああ!」
蛇は砕かんばかりに彼の腕を締めあげ、それからドロリと溶けた。
カイルの体を戦慄が駆け抜けた。闇は瞬く間に腕を蝕み、肩に達し、喉元に迫った。
「アベ・・・・・ル!」
弟天使の叫びに兄は我に返った。
見れば彼もアイラと同じように体をこわばらせ、体を染めている。
なぜ?罪を犯していないカイルまで、なぜ悪魔に変わるのだ?  
それ以上考えている暇はなかった。握っていた手を通して、闇が迫ろうとしていた。
おれは慌てて手を離そうとした。ところが溶け合ったように絡み、ほどけない。
防ごうと力を使う間もなかった。闇は激流となって流れ込み、おれの魂を食い尽くそうと笑う。
最後の力を振り絞って叫ぶ。
「ルカ様!」
しかし、大天使はヴァトーの攻撃をかわすのに必死で、気がつかない。
自分一人で戦うしかない・・・・・!
決心するまで時間はかからなかった。唇をかみしめ、目を閉じる。
負けるわけにはいかない。おれは絶対に悪魔になどならない!絶対に!
閉じた視界の中に光が現れる。その先に闇が待ちかまえている。
まっすぐにそれを撃ち込んだ。
追い出せ!追い出すんだ!なんとしても!
ルカ様でない限り、払うことは出来ない。だが、方法が滅茶苦茶でもやるしかない。
あらん限りの力で闇を蹴散らす。辛うじてくい止めているが、いつまでもつか分からない。
不意に背後に押し込めていた恐怖が頭もたげた。
その時、闇も呼応するように勢いを増した。
「!」
何とか避けたが、おれの力も限界に来ていた。
終わりはくるのか?その時のおれの姿は何だ?悪魔か天使か?
なぜ、罪を犯していないおれまで変わるんだ?
『まやかし。』
いきなりルカ様に学んだ記憶が蘇った。
もしや・・・・。
瞳を開き、カイルが運んできた人間に目をやった。
考えは当たっていた。アイラやカイルでは見抜けなくても仕方がない。
おれの目には人間と別の者がだぶって映る。そこに転がっているのは、人の形に変えられたオオカミだった。
全ての呪縛の解けるときが来た。
いま一度目を閉じ、心を鎮めた。
急速に闇は勢いを失い、おれの中から消滅した。
からみついていたカイルの手がはらりと落ちる。
だが、まだ弟天使は苦悶の表情を浮かべ、必死に闇を拒んでいる。
もう一度握り、呼びかけた。
『カイル、心を鎮めろ。お前が戦っているのは、本物じゃない、いいか、これを見ろ!』
彼の中へオオカミの姿を送った。
『ア・・・・ベル?アベル!アベル!』
彼も解き放たれる時を迎えた。徐々に声の力が戻り、同時に体の色も整い始めた。
「何が起こったんだ?」
すっかり落ち着いたカイルは、合点の行かないという顔で『オオカミ』を眺めた。
おれはホッと息をつきながら答えた。
「悪魔の常套手段だ。あいつ、おれたちを精神的に追いつめて、崩壊させようとしたんだ」
ぱっとカイルの顔が輝いた。
「じゃあ、アイラは罪を犯していないと?」
頷きはしたが、それはすでに意味を持たなかった。
おれは呆然と妹天使を眺めた。
カイルの腕の中にいる漆黒の繭は、どこにも天使の名残をとどめていない。
アイラは自滅したのだ。
「もう・・・だめだ」
息が詰まって声が出なかった。
「そんな!」
激しく首を振り、カイルは塊を揺すった。
「アイラ!アイラ!悪魔になるなんて!」
カイルの頬を幾筋も涙が伝う。泣き叫びたいのはおれも同じだった。
しかし、いま悲しみに身を任すわけにはいかない。
「カイル、どくんだ。アイラが完全に悪魔になる前に始末する」
「そんなひどいことを!」
叫びがおれの魂に突き刺さる。痛みで呻きたいのを堪えて、続けた。
「分かっているだろう?このままではアイラが可哀想だ」
カイルは潤んだ目を大きく開いたまま、なんども首を振った。
「一緒に生まれてきたのに・・・・・。僕も一緒に死ぬ」
「馬鹿を言うな!」
「アベルは悲しくないの?」
問いかけに苛立ってくる。その苛立ちも悲しみに飲み込まれる。
アイラ、誰よりも愛しいアイラ。一緒に死にたいのはおれの方だ・・・・・・。
だが、あざ笑うように悪魔の繭が蠢いた。
「どけ!」
「嫌だ!」
繭を抱え込もうとする弟天使をはじき飛ばし、力を集中した。
その時頭の中で声が響いた。
『アベル・・・・・・。』
おれは耳を疑った。もう二度と聞けないと思っていた愛らしい声。
カイルも信じられないという様子で近寄ってきた。
おれたちの胸が希望で痛いほど締めつけられる。
震える腕で、繭を抱き上げた。
「アイラ・・・・!」
堅い表面にひびが入り、うっすらと光が滲む。リングだった。
「アイラ・・・・アイラ・・・・・蘇ったね・・・・・・」
不覚にも泣き出しそうだった。
「もう大丈夫だよね?」
だが、頭を振らなければならなかった。
「・・・・・完全に安心するには、ルカ様のお力が必要だ。ここにいろ、お助けしてくる!」
カイルが身を乗り出しかけて、顔をこわばらせた。
慌てて表情をゆるめると、力強く頷いて見せた。
「アイラを守っていてくれ」
そして飛び立った。

一瞬でもルカ様を疑った自分がはずかしかった。
全てはヴァトーの計略。あいつの言葉全てが、おれを騙すためにあったのだ!許さない、決して!
だが、そう思いこもうとする自分を、冷静に見ているおれがいる。
では、最近ずっと感じていた不安をどう説明する?
僅かに覗いたお心は?あれもまやかしか?
答えの代わりに不安だけが重い影となってのしかかった。

ルカの足元でヴァトーが切り刻まれていた。悪魔は全身から悪臭を放つ体液を滴らせながら、這いずっていた。
大天使は大きく剣を振り上げた。
「ルカ様とどめを!」
不吉なものを追い払うためだったのか、叫んでいた。
しかし、そこで腕はピタリと動きを止め、力無く降ろされた。
ルカは小さなあえぎを漏らした。
直前まで怒りに満ちていた横顔が、苦悩で翳る。
「とどめを!」
不安が現実になるのを遮るように促す。そして呟く。
「ヴァトーの言葉が嘘だと教えてください・・・・」
しかし、剣が構えられる気配はなかった。突如哄笑が響き渡った。
「言ったとおりだろう?ルカは何もできないさ!仲間を殺せるものか、なぁ?」
仲間という言葉に大天使は、ちらりと目を上げた。
思わず顔を背けた。その瞳に映った羨望を認めたくなかった。
そのまま、声を絞り出した。
「ルカ様、どうかそいつを殺して一緒に来てください!アイラが悪魔に変わってしまいます、急がなければ間に合いません!」
叫びは祈りだった。
「アイラ・・・・・・」
ぴくり、ルカの腕が動いた。おれは全速で駆け寄り、腕ごと剣をつかむと、一気に突き立てた。
身の毛のよだつような叫びを最後に、ヴァトーは息絶えた。
「貴様の地獄へ帰れ!」
おれは死骸をそこへ通じる穴に放りこんだ。飲み込んで穴は消滅した。
「ルカ様、お早く!」
しかし、大天使は憔悴しきった顔で立ちすくんでいる。
いつもの威厳に満ち、優しい面影がどこにもない。
こんなルカ様は認めたくなかった。
「もう・・・・・終わりにしよう・・・・・」
かすれた声とともに大天使は、膝から崩れた。


おれたちの姿を認めて、カイルが駆け寄ってきた。
「ルカ様!あいつをやっつけたんですね!」
嬉しそうな言葉にルカは一瞬顔をゆがめたが、すぐにウィンクしてみせるとアイラを抱きかかえた。
「アイラ、待たせて悪かったな」
囁き終わるやいなや、黒い繭は二つに割れ、中から幼い腕が伸びた。そしてぎゅっと大天使の首に巻きついた。
「ルカ様・・・・・・ごめんなさい・・・!」
日光にさらされた雪のように繭は消え去った。ルカは以前と変わらぬ姿の天使を抱きしめた。
だが、その姿が痛ましい。まるで、別れを惜しむように見えた。
アイラも何か感じたのだろう。不安そうに腕の中から顔を上げる。
だが、大天使は慈愛に満ちた声で囁き、
「・・・・・・もう済んだことだ」
優しく彼女の髪を撫で、地面に降ろした。
「アイラ!このばかばかばかばかっ!みんなに心配かけて!」
カイルが泣きながらアイラにしがみついた。
「カイルぅ、こわかったよぉ!」
おれも心底ホッとしながら、妹天使の頭を軽く小突いた。
「怖かったじゃないぞ!自分が何をしたか分かっているのか?」
「分かってる・・・・けど、・・・・・ごめんなさい・・・・・」
声が小さくなって消えた。ちょっときつかったかなと反省しつつ、俯いてしまったアイラの頭に手をおいた。
それからこっそりと囁いた。
「お前が助かって良かった」
「うん!」
たちまち戻った愛らしい笑顔に、あきれ半分安心半分で頷いた。その時、辛うじてつながっていたものが、ゆっくりと途切れてゆくのを感じた。
振り返った先の姿が揺らぎだしている。
『・・・・・・さようなら・・・・・愛しい天使たち・・・。』
『ルカ様!』
大声で叫びたかった。だが、気づかれてはいけない。特にアイラには。
おれは大天使に背を向けるように動くと、弟天使に声を掛けた。
「カイル、おれとルカ様はこのあたりを清めてから天界へ戻る。アイラを連れて先にいけ、良いな?」
「ぼくもやるよ」
「今度おれが教えてやるから、今はアイラを休ませる方が大切だ」
「分かった・・・・・・・なんだか・・・・その言い方、ルカ様みたいだよアベル」
屈託のない言葉が、おれの胸を締めつけた。 感情が押さえきれなくなる前に、カイルのリングを指ではじいた。
「さっさと行けよ、おれも急ぐから!」
ふと疑惑めいた光がカイルの瞳をよぎった。だが、しぶしぶ頷くと、カイルは翼を広げた。促されてアイラも広げる。飛び立つ直前、アイラがおれの肩越しに向こうを見ようと首を伸ばした。
「ルカ様、早くお戻りになってくださいね」
そして、輝くような笑顔を見せた。

二人が空高く消えた後、おれは必死であたりを探した。
微かな、ほんの微かな者が光に混じって残っていた。
形を持たないそれを抱きしめ、とどめるために力を使う。だが、叶わなかった。
『アベル・・・・・・もういい・・・・・眠らせてくれ・・・・・・。』
堰を切ったように涙があふれた。
「なぜ、ご自分から消えてしまわれるのです?悪魔に堕ちてもいい、どうか生きていてください!」
『馬鹿なことを・・・・・これがふさわしいんだ・・・・。』
おれの中にルカ様の苦悩がなだれ込んでくる。
大天使として、反逆者を断罪しなければならない苦しみ。
大天使として、反逆者を断罪できない苦しみ。
迷いが魂を闇へと誘う。あらがいきれない辛さ。
そして決断。
天界の誰よりも優しい魂が、その優しさ故に身を滅ぼさねばならない。
おれは激しく運命を呪った。
『アベル・・・・・。』
大天使の声が、さらに微かになっていた。別れの時が刻々と近づいてきていた。
『おれの最後を・・・・・アイラに伝えてくれ・・・・。』
「できません、そんな残酷な!」
なんども首を振る。だが、おれの声は届かなかった。
『・・・二の舞をさせないように・・・・守ってやってくれ・・・・誰よりも優しい・・・あの・・・・・。』
「ルカ様!」
どれだけ呼んでも、祈っても、返事はなかった。
悲しみで魂が引き裂ける。
涙が止めどもなく流れた。
大天使ルカの魂は・・・・・永遠に消えてしまったのだ。











アベル神父は、窓から通りを行く女性を追っていた。
綺麗に結い上げた金色の髪、澄んだ蒼い瞳。パリ・オペラ座の歌姫・クリスティーヌ・ダーエ。
だが、彼は彼女の頭上に隠されたリングを知っていた。
神父の背後に広がった影には、異形の翼がある。そして頭には長くのびた角がある。
自分の本性を、忌まわしく思う気持ちなど微塵もなかった。
アベルは女の背中を見送りながら、沸々とわきあがってくる欲望を懸命に抑えた。
今は時ではない、今は時ではない。
だが、必ず手に入れる。
・・・・・気が狂うほど、あの女が欲しい。

           終


















「地獄に堕ちてもいい」につづく。