オペラ座に来た変人もしくはロシュフォールさんの恋人




「急げ!」
御者は迫る夕闇を振り切るように、鞭を篩い続けていた。一打ちごとに馬たちが苦しげな悲鳴を上げる。だが、同情している暇はない。一刻も早く森を抜けなければならないのだ。
前方に目を向ければ、薄闇に数騎の影が浮かぶ。それだけが彼の救いだった。
「ミラー、もう少しで御領地だ、がんばってくれ!」
後ろから駆けてきた騎手が叫ぶ。御者はうなずいて、腕を振り上げた。その時、先頭の騎手から合図があった。
「うひゃぁ!出やがった!山賊だぁ!」
ミラーは手が震えるのを必死でこらえて、手綱を引き絞った。
ほどなく、大きく喘ぎながら馬たちは止まった。
「伯爵様をお守りしろ!」
初老の騎手が叫び終わらないうちに、6つの影が馬車を取り巻いた。
「ミラー、貴方も中に入っていたほうが良い。事が済むまで、レイチェル様のお相手をしてください。コルレオーネ伯爵様、どうぞご容赦を!」
うなずくが早いか御者は馬車に飛びこんだ。
「ピッコロくん、きみはギリーズくんと一緒に後ろを。メイスさん、右ですね。スタークさんは左ですね。」
騎手は男たちが馬を降り、それぞれのポジションにいるのを確かめると、最後に傍らの男をちらりと見た。
馬車のランプに照らされて、銀髪が宝石のように輝いていた。優美なまでに均整のとれた体。それに彩りを添える灰色の瞳。だが、そこには何の感情も宿らない。
伝え聞くマゼンデランの刺客とは、彼のような男だろうか?
前方の闇をじっと見据えていた男が口を開いた。
「ローレンス、残すのは一人だ。」
魅入られていた騎手はぞくっとした。何度聴いても、この声になじめない。
しかし、理由を探っている余裕はなかった。
ローレンスはうなずくと、後ろの者たちに合図を送り、かたわらを見た。
「気をつけ・・・・・。」
だが、警告を聞く者はいなかった。
一瞬だったが、森が真っ赤に染まったように見えた。
闇の中から次々と悲鳴が上がる。不意に風が巻き起こり、森の中から微かに血なまぐさい空気が運ばれてきた。
ローレンスは戦慄が走るのを感じながら、あたりに目を配った。
音がしたと思うと、右手の茂みから男が転がり出てきた。
「捕らえろ!」
ピッコロとギリーズが駆けより、山賊をはがい締めにした。
「うわ・・・・!」
ギリーズは思わず叫んだ。両手にべっとりと血がついている。
「こ、声を上げるな!」
慌てて後輩の口をふさぐと、怯えた顔で闇を見透かした。
森は不自然なまでに静まり返っている。
そして、闇を突いて音もなく、長身の男は現れた。
目があった途端、全身に鳥肌が立った。
配属されて一年。何度修羅場をくぐり抜けていても、あの姿に恐怖を覚えずにいられない。
「あれは・・・・・ロシュフォール様?」
先輩の視線を追ったギリーズも、その場で凍りつく。
ぎこちなくうなずきながら、ピッコロの中で幾度も繰り返してきた問いが、再び蘇ってきた。
『なぜ、こともなげに人を殺せるのだろう?なぜ、平然としていられるのだろうか?』
職業上、愚問だと思う。だが。
ふと下に目を向けると、ロシュフォールの握っていた物からポタポタと滴るものがある。
「ピッコロ、失血死するぞ。」
抑揚のない声で殺人者は告げ、持っていた物を投げてよこした。
転がり、ギリーズの足にぶつかって止まった。
同時に若者は指の間がしだいになま暖かく、べとついてくるのを感じた。
ギリーズは手を滑らせて、その先に当然あるはずの腕を探った。
だが、それは彼の足下に転がっていた。
「ひぃ・・・っ!」
ピッコロの喉元にも悲鳴が上る。だが、後輩の声に彼は仕事を思いだした。
「そのまま握っているんだ、しっかり!」
賊の服を引き裂くと、彼は腕の付け根と、肘をきつく縛り上げた。思い切り男を引き起こした。
「歩け!命があっただけでもありがたいと思え・・・・・・・・・。」
辛うじて立ち上がると、よろめきながら歩きだした。
だが、何かがおかしい。見ると、右足のかかとの上がぱっくりと口を開けていた。
思わず、彼は男に肩を貸した。
傷口から切断された白い筋がのぞく。ピッコロは、バカロレアの講義で見た解剖図を思い出した。
太い筋は、アキレス腱。足を支える重要な・・・・・・。
ちらりとギリーズに視線を向けると、あんのじょう腰を抜かしている。
山賊は半ば狂ったような目で後ろを振り返り、引きつれた声を上げた。
「・・・・・・・・あれは・・・・・・・・人間じゃない・・・・・化け物だ・・・・・。」
その通りだろう、とピッコロは心の奥で呟いた。


静かにドアの閉まる音がしたと思うと、忍び寄る気配。鼻をくすぐる高貴な香り。
「朝だよ、早くお目覚め。私の愛しいひと。君のために今日も薔薇を摘んだよ。」
とろけてしまいそうな囁き。でも、まだ起きないの。だって、ずっと前にロシュフォール様は寝顔がとても好きって言ってくれたんだもの。
「起きておくれ、眠り姫。君の瞳がこの薔薇よりずっと美しいと、私に教えておくれ。」
ささやきが終わらないうちに、しめった暖かいものがうなじに押しつけられる。
危うく目を開けてしまいそうになったけど、一生懸命に我慢した。
「ずっとこうして君を抱いていたいよ・・・。」
あたしも同じです・・・・・。心の中から呼びかける。誰よりも愛しているの。だから、このままでいて。
願いが届いたのかしら、今朝はこの時間になっても誰もドアをノックしない。
胸がどきどきしちゃう。今日は一日ベッドにいられるんだわc
「こうしていれば、いつか願いが叶うだろうか?わたしは毎晩祈っているよ。君と一つにしてくださいって。」
ああ、もどかしい、どうして言葉にならないの?あたしも同じなのに。本当に神様は意地悪だわ。
ネグリジェの上から、ふっくらした胸にそって指が滑って行く。そして、上から下へなんども往復する。
もうだめ、穴が掘りたくなっちゃう!
だけど、うっとりと味わう間もなく、今度は抱きかかえられてしまった。
イヤだわ、身が軽いのは。全然抵抗できないんだもの。ちょっと焦らしたほうが男の人は喜ぶって、ピッコロさんに教えてもらったのに。
・・・・・・でも、し・あ・わ・せ c
「残念だけど・・・・・。」
ささやきが終わらないうちに、ぎゅっと抱きしめられた。
「時間が迫っているんだ。」
え?胸がズキッと痛んで目を開けると、そこに嬉しそうな悲しそうな顔があった。
「良かった。おはよう。眠ったまま君を残していきたくなかったんだ。」
罪悪感で、胸がチクチクした。そんなあたしをロシュフォール様が心配そうに見下ろしている。
「そんな顔をしないでおくれ。私の胸は張り裂けそうだ。仕事を早く済ませて戻るから、待っていてほしい。・・・・・・・・・お願いだよ、愛しいひと。」
しなやかな指が喉元にのびる。優しくなんども撫でた後、薄い唇が頬に触れた。
「いいね?」
灰色の瞳が切ない色に染まる。あたしも苦しくなって、なんどもうなずいた。
「・・・・・じゃあ、着替えて朝食にしよう。とびきりのニンジンがあるよ。」
ベッドを出ると、すぐにドレスを手に戻ってきた。広げて見せ、綺麗なウィンクをする。
「どう?気に入ってもらえるかな。君のために特別にデザインさせたんだ。」
思わず顔がほころんだ。なんて優しいロシュフォール様。素敵なブロケード織りのドレス。贅沢なレース。ボタンの一つ一つが宝石になっている。ピジョン・ブラッドだわ。
あたしの表情を読みとって、彼も顔をほころばせた。
いつものように背中を向けると、細い指が素早くボタンをはずした。
はらりとネグリジェが足下に落ち、つい恥ずかしさに頬が赤くなる。その気持ちをほぐすようにそっと耳に触れ、手際よく艶やかなドレスであたしを包んだ。
「よく似合うよ、ぴょん太くん。女王様でもかなわない。」
静かに微笑むと、あたしを抱きかかえてベッドを出た。

「どう?美味しかったかい?」
あたしの口をナプキンでぬぐいながら、彼は微かに首を回した。
「・・・・・・時間通りだな。」
きれいに拭いた後、ドアに向かった。あたしは長い耳をピンと立てた。重い扉の向こうで、聞き慣れた息づかいがする。
恨めしく思いながら、ロシュフォール様の背中を見守る。
お仕事の時間なんだわ。あの方が行ってしまう。どうしよう。どうしよう。
ドアを少し開けて、二言三言交わして彼は戻ってきた。
「もう少ししたら出かけるよ。君も辛いと思うけど、私も辛いんだ・・・・・。」
ついつい、涙がこぼれそうになる。でも何度か瞬きをして、たえた。
あたしの頭を軽く撫でると、奥の部屋へ消えた。
かちゃり・・。ノブがひねられ、青年が顔を覗かせた。あたしに気がついて、手招きする。
「やぁ、おはよう、お嬢さん。今日も素敵だね。」
反射的に駆け寄る。頼りなげな腕があたしを抱き上げ、真っ白な毛皮の上に指を滑らす。
魔性の女なのかしら。愛する人がいるのに、別の男の人に抱かれるなんて。
ううん、そうじゃないわ。あたしが彼に惹かれるのは、紳士だから。友情以外の何ものでもないのよ。
「待たせたな。」
反射的に振り返ると、漆黒のコートを身に纏い、灰色の髪を細い革ひもでまとめた男が立っていた。
お揃いのピンクと赤の水玉模様のリボンをはずしているのは悲しいけど、そんな気持ちをふき飛ばすくらい
魅力的だった。苦しいくらい胸がキュンとする。
すっと影が被さった。
「じゃあ、行って来る。いい子にしているんだ。」
返事より唇をすぼめた。
お出かけのキスが欲しいの。
彼も身をかがめて顔を寄せた。
赤い瞳を閉じて待つ。ところが彼の吐息がヒゲをふるわせたと思うと、抱えられ、床に降ろされていた。
「部屋を汚してはだめだ。分かっているね。」
素っ気なく言い放った。あたしの返事を待つこともなく、きびすを返した。
そして部屋を出ていった。
ショックだった。とぼとぼとベッドに戻った。
どうしてあんなこと言うのかしら・・・・・・。行儀の悪い子に思われているんだわ。
・・・・・・決してそんなことしないって、知っているはずなのに。
ふたりっきりの時はとても優しいのに。
涙があふれてきた。
その時、こっそりドアが開いたと思うと、息を切らせて男が入ってきた。
男はベッドめがけて足を進めると、驚くあたしを償いをこめて抱いた。そして切なげに囁いた。
「さっきは悪かった。つい・・・。だが、本心じゃない。」
それが嘘じゃないと分かっていた。あたしは首を伸ばし、そっと薄い唇に触れた。
「許してくれるんだね。」
真底ホッとした声を上げると、あたしの耳を撫で、愛のこもったキスをくれた。
「それじゃあ、行くけど。・・・・・・」
名残惜しそうにもう一度キスをくれると、ベッドに降ろした。
あたしはとんと、頭で彼の手を押した。そして微笑んだ。
「早く戻るよ。」
嬉しそうに頬を染めて、男は再び出ていった。
ふーっと、甘いため息が漏れた。
愛されることが女の幸せって、本当ね。あたし、世界で一番幸せだわ。
薔薇のつぼみに鼻を突っこんでいると、この香りが幸せそのものに感じる。たっぷり味わった後、いつものように窓際へ運んだ。
一陣の風が吹き、レースカーテンをゆらす。それに被さる乾いた音。
耳を傾け、めいっぱい頭を反らしてみる。目に飛びこんでくるのは、天井からぶら下がる幾束ものドライフラワー。どれがどの日にもらった薔薇か、一つ残らず覚えている。一つ残らず、あたしの宝物。
「・・・・・・・・。」
でも、眺めているうちに不意に不安がこみ上げてきた。
かつては鮮やかな赤みを誇っていた花びらが、今は見る影もなくくすんでいる。
時間がたてば当たり前だわ。不安に押されて呟いている。
薔薇は枯れるものよ。当たり前じゃない。
だけど押しとどめようもない不安が、胸を締めつけてくる。
絨毯に仰向けに転がり、ドライフラワーを目で追う。
あれは3月前にもらった薔薇、あれは5ヶ月前にもらった薔薇、あれは雨の日にもらった薔薇。ひどい土砂降りの朝だったわ。
ロシュフォール様はずぶぬれになって取ってきてくれた・・・・・。
目を閉じればその時の光景が蘇る。その時の言葉も。
心がふるえる。あたし、愛されているわ。
・・・・・だから、疑っちゃいけないのよ。
『でも、』、不安が囁く。
あたしには次の言葉が見えていた。
時間は何もかも変えてしまうのよ。薔薇の花も、愛も。
不安は恐れに変わる。
・・・・・・知ってる。今日は明日の続きじゃないって。だから、ロシュフォール様も心変わりしてしまうかもしれない。
どうしよう。視界がかすんで薔薇が見えなくなる。
あの方を失う日が来るかもしれない。どうしよう。
絨毯にいくつもしみが出来て、消える。
壁に目をやれば、あたしとロシュフォール様の肖像画がかけられている。涙を拭って向かい合う。
彼の腕の中で幸せ色に輝くあたし。
あのころに・・・・疑うことを知らなかった頃に戻りたい。


「伯爵様の使いで、オペラ座まで行ってくる。留守を頼むぞ。」
静かな、しかしぞっとさせる冷たさを漂わせ、男は懐に厚い封筒をしまうと、ドアに向かった。
完全に足音が遠のくまで、居合わせた3人の男たちは耳を澄ませていた。
やがて、ピッコロの横にいた赤毛の青年が口を開いた。
「ロシュフォール様・・・・・ご機嫌悪そうですね。」
だが、問われた男はニコニコと首を振った。
「いいや、今日はずいぶんと良いよ。ギリーズ君は配属されて一ヶ月だからまだ実感がわかないかな。」
「あれで?ご機嫌ですか?」
悔しさを丸出しにしている彼に、中年の男が割って入った。
紳士は落ち着いた物腰で諭した。
「そうそういきり立たなくても。あと半年もすれば、ピッコロくんと同じくらいになる。君はひとより観察力があると、メイスさんが誉めていた。焦らなくていい。つかめるまで、毎日あれを参考にするといい。」
分かってますよと言いたげに、ギリーズは示された掲示板を観た。
使い古された黒板に描かれたマークは『晴れ』。
毎朝、部屋の主が来る前に、ピッコロが記すものだ。
新米が覚えている限り、あれが『晴れ』以外になったことがない。
労力の無駄だと考えもしたが、こうなると、べつの場合を知りたくなる。
「・・・『曇り』とか、『大雨雷注意報』の時ってどうなんです?」
その言葉が終わらないうちに、部屋の温度が氷点下まで急降下した。
「え!?何か悪いこと言いましたか?」
ただならぬ気配に、ローレンスを仰ぐ。だが彼の顔も同じようにこわばったままだ。
ピッコロのそれも見た。だが、その顔色はさらに悪い。いつも太陽のように明るい彼が、こんな表情を見せたのは初めてだった。
ギリーズは自分が何かとてつもない秘密をしらされる予感がした。
しかもピッコロがそれを裏付けるように、暗く沈んだ瞳を向ける。
「ローレンスさん、・・・・・・出来れば教えたくなかったが、かなわなかったよ。」
中年の紳士もまた押し黙ったままうなずいた。
覚悟を秘めたまなざしを受けて、若者は総毛立つのを覚えた。
「・・・ギリーズくんこの話を聞いて組織を・・・・・・抜けるのは君の自由だ。決して責めるつもりはない。いいや我々のうち、誰一人その権利はない。」
若者は全ての勇気を奮い立たせた。そして全神経をピッコロの口に向けた。
唇がゆっくりと開き、言葉が吐き出された。
「うさぎだ。」
「は?」
拍子抜けしたギリーズが問い返す間もなく、ピッコロはなんどもため息をついた。
「うさぎだ・・・・・・ああ怖ろしい・・・・・!」
続けてローレンスからも深いため息が漏れた。若者は落ち着きなげに部屋を歩き始めた。
「うさぎ?」
ギリーズの頭の中を可愛らしいうさぎが何羽も駆け抜けていった。
気がついて、ローレンスはピッコロに声を掛けた。
「少し・・・・・落ち着いて、分かるように話した方がいい。」
「ああ・・・・そうですね。」
新人を椅子に座らせると、自分も腰を下ろした。
何度も深呼吸をし、それから思い切って口を開いた。
「君の知っているとおり、我々は伯爵様をお守りするために編まれた組織だ。我々は常にそのことを誇りに思い行動してきた。代々受け継がれた技を決して私怨に使ってはならない。それが鉄則だ。ところで、ロシュフォールさんがうさぎを飼っているのを知っているかい?可愛いうさぎなんだが、最初は雄だと言われていたんだ。ところが、違うと分かって・・・・・・・・・・。そのあと・・・・・・・。」
ピッコロは耐えかねるといった様子で言葉を切った。
「それで?」
ギリーズはいつの間にか自分が震えているのを知って、ギュッと拳を固めた。
「あ、あれは・・・・あれは人間の仕業じゃない!」
一気に吐き出した後、先輩は深くうなだれた。
「もういいよ、あとは私が引き継ぐ。」
いたわりをこめてピッコロの肩を叩くと、ローレンスは棚から一冊のファイルを引っぱり出した。パラパラとめくり、忌まわしげに止める。
「その時の報告書だ。気分か悪くな・・・・・・・・・。」
言葉の終わらないうちに、ギリーズの顔色が青を通り越してどす黒くなった。
「うさぎを売った男だった物だ・・・・・。」
開かれたページには数行の説明と、頭の先から足の先までみじん切りにされた人間とおぼしき物が、鮮やかな彩色を施されてスケッチされている。端のサインは『ピッコロ』。
「ううっ!」
突然のこみ上げに、若者は椅子から転げ落た。
「大丈夫か?」
二人に支えられながらギリーズは椅子に身を沈め、苦しそうに目を開けた。
「これくらい・・・・平気です。今朝食べた物が当たったんだ・・・・・。」
先輩たちは顔を見合わせ、うなずきを交わした。
「今日はもう、帰っていい。ゆっくり休むんだ。送らせよう。」
「いいえ、大丈夫です・・・・・。一人で帰れます。」
喘ぎながら彼は体を起こし、ふらふらとドアに向かった。
ノブを握ったとき、不意に青白い顔が振り返った。
「性別を間違えただけで・・・殺されるんだから、そのうさぎに何かあったとき、どうなりますかね・・・・?」
答えようと、ピッコロは思った。だが、あまりの恐ろしさに口が開かなかった。
「滅多なことを・・・・言っては・・・・。」
ローレンスの呟きから逃れるように、ギリーズはドアの向こうに消えた。

ロシュフォールは立ち止まって、気配を探った。知らない間に頬がゆるんでいる。
大丈夫だ。誰もいない。
『ジュリエット』と、カメオの裏に名前を入れるよう依頼してある。それが明日届く。
あれを見たら、彼女はどんなに喜ぶだろう。私の・・・・・愛しいひとは。
門を曲がり、中庭に出た。夕暮れの中、薔薇たちが美を競い合っている。
そのうちの一つに歩み寄り、顔を寄せた。
「明日の朝はこれにしよう。」
窓を見上げると、明かりがついている。小さなシルエットが浮かぶ。
男は足早に庭を抜けた。



大好きな人の腕の中って、どうしてあんなに気持ち良かったのかしら、どうして無くしてしまったのかしら?
一生懸命にロシュフォール様のぬくもりを思い出そうとする。だけど、思い出せない。
あたしの背中をそっと暖めてくれるこの日差しに似ていたかしら?
『ジュリエット』。
聴いてしまったの、あたし。はっきり、女のひとの名前を呼んだわ。
どうして目を覚ましてしまったの?きっと寝る前に飲んだお水が多かったのよ。
涙でかすんで、レイチェル様の庭が見えない。どこを眺めても、あの方と過ごした日が蘇ってくる。
大好きな薔薇・・・・・・・。でも、いつか枯れてしまう・・・・。
また涙があふれてくる。
振り仰ぐ先にあたしたちの部屋がある。開け放たれた窓から、穏やかな風に揺れるドライフラワーがのぞく。今度あそこに迎えられるひとはどんなひと?あたしより色の白いひと?もっとふわふわの毛のひと?丸くてちっちゃな尻尾のひと?
知りたい・・・。でもこわい。あの方の心変わりを目の当たりにして、耐えられるほど強くないわ・・・・。
だから・・・・・・もういいの。大切な思い出だけを持って、潔く身を引くの。
誰よりも愛しているから・・・・・。さようなら。


昼前に仕事部屋に戻ったピッコロは、真っ先にローレンスのデスクへ向かった。
デスクでは主と銀髪の男がお気に入りのカップで紅茶を楽しんでいる。
「ロシュフォール様、ローレンスさん、チャーチ伯爵の屋敷に潜ませている者から、気になる情報が・・・。」
「続報かい?」
手を止めて、ローレンスは引き出しから数枚の紙を取り出した。
右肩に『機密事項3』と書きこまれている。
関心なさそうなロシュフォールの視線が書類の上を滑る。
「続けてくれ。」
ピッコロはちらりとロシュフォールを盗み見た。
「・・・・・・工作員を送りこむ計画があると。」
「またか。ミケルシュで失敗したのに、こりないな。」
ミケルシュ、本名ジョニー・ディジロ。半年前に宿敵フォボスから送られた刺客。組織を破滅寸前まで追い詰めたところで正体を暴かれ、ピッコロの最初の獲物になった男。
ローレンスはうんざりした顔で、目の前の男に視線を移した。
だが彼はカップの模様を妖しいまでの指使いで撫でている。
もちろん、分かっていた。ロシュフォールは無関心を決めている訳ではない。彼の仕事は、紳士と同じく伯爵の警護だが、僅かに違うのは血なまぐさい仕事が多いということだけだ。
「それで・・・・フォボスはどんな男を使うんだい?」
「それが・・・・・・。」
ピッコロは表情を曇らせた。
「赤毛の若い男と・・・・・・。」
口を閉じ、眼差しを空の机に走らせた。
彼の視線の先をローレンスも読みとる。ピッコロは彼の瞳の中に、自分と同じ物が浮かんだのを見とった。その時、同僚が入ってきた。
「あれぇ?ギリーズの奴、まだ休んでいるのか?」
ローレンスは弾かれたように立ち上がると、隣の部屋へ駆けこんだ。
紳士の脳裏に昨日の光景が鮮やかに蘇っていた。
ギリーズはうさぎの秘密を知ってしまったのだ。
驚いているスタークに早口でまくし立てる。話が終わるやいなや、男は部屋を飛び出した。
「彼が、スパイだと?」
不安げにローレンスを見やるピッコロに、彼はいつもの冷静さを取り戻した。
紳士は、努めて穏やかな笑顔を見せた。
「大丈夫だよ、ピッコロくん。」
「ギリーズ君は私がスカウトした人間じゃないが、身元ははっきりした男だ。」
同意を求めてロシュフォールを振り返るが、やはり言葉はない。
ところが、程なく戻ってきたスタークの報告には、さすがのローレンスも平静さを保てなくなった。
赤毛の青年は昨日早退した後、ロラン・カリスト医師の診察を受けていた。
処方箋をもらい、薬局で薬をもらって帰宅したところまではつかんでいる。
ところが、それから彼の行方がようとしてしれない。
夜遅く、下宿を誰かが尋ねたという以外は・・・・・・。
「・・・・・・・カリスト医師と言えば、オペラ座の専属医師でしたね。」
「最近伯爵様はオペラ座の怪人をいたく気に入っておられる。レイチェル様もだ。」
「フォボスがそれをかぎつけて、医師を買収したとも、考えられませんか?もしかしたら、オペラ座自体が買収されたとも?」
「いいや、それはあり得ないだろう。支配人たちは、気は小さいが用心深い紳士たちだ。自ら危険に飛びこむとは考えられないよ。カリストも顔を知っている程度だが、実直な男だ。」
「では、ギリーズはどこへ?」
語気を強め、ローレンスを見上げた時、ロシュフォールが席を立った。
無機質な声を放つ。
「明後日までに解決しろ。私はこれから、レイチェル様のお相手に行く。」
ピッコロは背筋に冷たい物が走るのを感じながら、反射的にうなずいた。
ロシュフォールの解決には『ある意味』が含まれているからだ。
男を見送ったあと、ローレンスはうさぎマークの入った同僚のカップを割らないように隅に置いた。
「信じられません・・・・あいつがスパイだなんて。世間知らずな生意気な奴ですが、一本気なところがあるから・・・・!」
ローレンスがうなずいてくれると思っていた。だが、腕組みをしたまま動かない。
やがて、彼は歯切れ悪くこたえた。
「・・・・・・・・・何か、変だ。ミケルシュの時と比べると、安直すぎる。あのフォボスが、こんなずさんな計画を立てるはずがないんだ。そう思わないかね?」
「言われれば・・・そうですね。ミケルシュの場合は突き止めるまで一月かかりましたし。」
若者の言葉と表情がみるみる緩んだ。それは、ローレンスも同じだった。
紳士はこわばった背中を伸ばし、ゆったりと椅子にもたれた。ピッコロの爽やかな笑顔がまぶしかったが、それがつかの間に過ぎないことも知っていて、少し切なかった。
「ギリーズ君が言っていたとおり、食あたりだろう。いつもと違う食堂に入ったんじゃないかな。きっと、もうすぐ出勤してくるよ。念のためにもう一度使いを出そう。」
いつも通りの落ちついた声に、ピッコロはうなずいた。
「遅刻届は出してもらいましょうね。」
メモにペンを走らせながら、若者はふと顔を上げた。
「オペラ座がフォボスと関係なさそうで良かったです。あの男・・・マエストロ・エリックとやり合うのだけは避けたかったですから。」
紳士も微笑を浮かべて、うなずいた。
「同感だ。ムシュウ・エリックは唯の作曲家じゃないだろう。おそらく・・・・・そんな事態は避けたいが、彼と互角にやり合えるのは、ロシュフォールさんと、『マゼンデランの刺客』だけだろうね。」
初めて耳にする名前にピッコロは首を傾げた。
「誰です?」
「そうだな・・・知らなくても無理はない。もう伝説に近い話だから。昔ペルシャにいた男で、『ダロガ』とか、
呼ばれていた人物だそうだ。国を出たあと・・・追放されたと言うんだが、各地を放浪して、そのどこかで『白き傭兵』に迎えられて将軍までのぼり詰めたそうだよ。今はどこにいるのか・・・・。ドン・ヴィットーリオ様もご存じないとおっしゃっていた。」
若者は興味深そうにうなずいていたが、不意に主のいないデスクに目を向けた。
「3人が鉢合わせるなんて事は、起こるんでしょうか?」
「縁起でもないことを言わないでくれ。」
引きつりかけた顔で頭を振ると、何度も十字架を切った。



パレ・ロワイヤルの一角を抜けたあたりで、唐突にヴィクトーリアは声を上げた。
「あ、あの方!」
「どうなさったの?お母さま。」
すぐ横を歩いていたアンジェリーナが不思議そうに、母親を見上げた。
しかし、彼女は視線を市場の雑踏に走らせたままでいる。
あの背中、歩き方、純白の軍服・・・・・。たしか。 「お母さま?」
たまりかねて、少女がスカートを引っ張った。それが合図で、彼女は気がついた。
「ごめんなさい、昔お世話になった方を見かけたような気がしたのよ。」
「どなた?」
「カーン将軍よ。覚えている?」
ヴィクトーリアは自然と口元がほころんでいた。
癖で唇に指を当てていた娘は、はっとなった。愛らしい笑顔で答える。
「あ!おぼえてる!ナーディルのおじさん!」
「そうよ、アルプスを越えるときにお世話になった方よ。」
娘の柔らかい頬を撫でながら、母親は瞳を煌めかせた。彼女の胸にその時の光景が鮮やかに蘇る。
競って切り立った崖を登って行く夫と将軍。あの時、負けた方が夕食を作る賭をしていた。
それから、将軍の作ってくださったペルシャ料理が美味しくて・・・・。元気なベルンハルトの姿はあれが最後だったわ。
ヴィクトーリアはギュッと胸が詰まってきた。悟られまいと、もう一度視線を雑踏に向けた。
「でも、お母さま・・・・・ナーディルおじさんがいたとしても、ここ下着のお店ばかりよ。」
戸惑った声にすかさず彼女は返答をしようとした。
だが、真実を語ってよいものか迷う。母親として、絶対に子供に嘘はつかないと夫に誓っていた。
だが・・・・・。
一息ついて、嘘つきになる決心をした。彼女は力をこめていった。
「そうね、あの方がいらっしゃるわけないわ。もしここに殿方がいるとしたら、・・・・・間違っても近づいてはだめ!何をされるか分からないから、すぐに逃げるのよ!変態だから!」
「変態ってなに?」
「常識では考えられない恥知らずな人よ。」
母親は娘の元気いっぱいの返事を待った。だが、見下ろしたアンジェリーナは、彼女の後ろをじっと見つめたり、母親の顔を見つめたりしている。
「どうしたの?」
視線の先をたどって、振り向いた。
「変態さんになるの?エリックおじさんも?」
そこには、オペラ座の怪人が気まずいそうに立っている。
腕には、よれよれのドレスをまとったうさぎが、一羽。
「ごきげんよう・・・・マダム・フィユシエル・・・・・。」
「ご、ごめんなっっさいいい!」
「あたし・・・・逃げなきゃいけないの?お母さま、あたしいやだけど・・・・。」
さらに困った様子でアンジェリーナは、ヴィクトーリアのスカートを引っ張った。
「こ、この方はいいのよ、何かの間違いでここにいらしているんだから!ボンジュール、ムシュウ・エリック!」
真っ赤な顔でまくし立てるヴィクトーリアに圧倒されて、エリックはぎこちなく会釈をした。
「うさぎだー、おじさんさわらせて!」
嬉しくてたまらないという様子でうさぎを受け取ると、少女は何度も艶やかな背中を撫でた。
「このようなところで奇遇ですね、どうなさったの?」
声がうわずりそうなるのを堪えて、彼女は引きつった笑顔を作った。
「それが・・・・、私とてここにいるのは本意ではないが、クリスティーヌとはぐれてしまったのだ。」
蚊の鳴くような声でエリックはしゃべると、買い物客からの突き刺すような視線を、少しでも避けようと背を丸めた。
「おねえさんもいるの?どこ?」
アンジェリーナは声を弾ませて怪人の顔をのぞきこんだ。
彼は、いらだたしげに繰り返した。
「はぐれたんだよ。」
「じゃあ、捜してあげる!」
「あ、待ちなさい、迷子になるわ!」
走り出そうとする娘を捕まえようとしたとき、唐突にクリスティーヌが現れた。
「エリック!」
まぶしいばかりの金髪をふり乱し、歌姫は怪人の背中にしがみついた。
「エリック!」
ただならぬ様子に怪人は急いで彼女の腕をほどき、向かい合った。
「何があったんだ?」
彼女の細い肩が激しく震えている。
「どうしたんだ?」
答えがない。だが一瞬顔を上げたかと思うと、震えるからだがエリックの腕の中に押しこまれた。
怪人は愛しい人の頬が濡れているのを見逃さなかった。
「エリック・・・エリック・・・・・!」
「おねえさん・・・・」
フィユシエル親子も心配そうに見つめている。
彼女をギュッと抱きしめつつも、怪人の中には激しい怒りがこみ上げてきていた。
「おかあさま!」
鋭い声にヴィクトーリアはハッとなって、娘の指さした方を凝視した。
幾つかの罵声が大きくなるにしたがって、人の波が揺らぎ、まばらになって行く。
「どけえっ!」
「あの女はどこだ?ふざけやがって!」
エリックはこの声に覚えがあった。前回この中央市場へ来たときに、言いがかりをつけてきた男たちだった。札付きの乱暴者ども。まだ根に持っていたのだろう。
あの時、情けをかけて始末しなかったのが、・・・・・・・・・・・間違いだった。
ヴィクトーリアは怪人の瞳に宿ったものを見て、ぞっとした。しかし彼女は、努めて冷静な声を出した。
「今は、それより大切なことがありますわ。」
それは、母親としての賭だった。彼の中にペルシャ時代の名残があるのなら、今の関係を絶たなければならない。
そして、勝利は強い祈りだった。
「大切?」
エリックはアッと声を上げて腕の中で泣きじゃくる人を見た。
瞬く間にどす黒い怒りは鎮まり、怪人は両腕に力をこめた。
ヴィクトーリアは厳しい表情の中に一瞬、鮮やかな微笑をよぎらせた。
そして荷物のなかに手をいれ、目的の物をつかんだ。落ちついた口調で言った。
「アンジェリーナ、お二人をご案内して。いい?いつか使った抜け道でね。」
「うん!」
少女は力強くうなずくと、ちらりと母親を見た。
「大丈夫よ、お母さまの腕は知っているでしょ?」
ウィンクしてみせると、つかんだ物を取り出した。
「さ、ムシュウ、娘のあとをついて行ってください。オペラ座でお会いしましょう。」
かつての怪人は意味が分からなかったらしい。きょとんとして彼女の手にある物を見つめている。
「見つけたぞ!あそこだ!」
獣じみた声が人々を押しのけて響いた。続いて5人の男たちが現れた。
「さ、早く!」
ヴィクトーリアはエリックの背中をぐっと押した。
「馬鹿なことを!私が女性を置き去りにするとで・・・・・・。」
しかし、彼の言葉は男の振り下ろされたゲンコツに遮られた。
「てめぇ!」
避けられてバランスを崩した男が、顔を真っ赤にしながら再び襲いかかった。
そこヘすかさず、ヴィクトーリアのフライパンがクリーンヒットした。
響き渡る金属音と共に男は無様にひっくり返った。どよめきと歓声が上がる。
「なんだぁ?女のくせに俺たちとやろうってのか?」
リーダー格の大男が、だみ声でがなった。
それから上から下までぎょろぎょろと目玉を動かし、短く口笛を吹く。
「イイ体してるじゃねぇか、うまそうなオッパイだ。たっぷりしゃぶってやるぜ。」
「あら、それはどうも・・・・・。でも、そんな下品な口説き方ってないと思うわ。将軍を思い出すじゃない。」
「ふざけんな!」
無精ひげの若造が、角材を振り上げて突進してきた。まさに彼女の脳天をうち砕くという寸前、左腕が角材をたたき落とし、間髪を入れず右腕のフライパンが顔面に炸裂した。
エリックは賞賛の声を上げたくなった。
驚いたことに、ヴィクトーリアはケンカのプロだ。
「さ、おじさん、急いで!」
アンジェリーナは得意満面にエリックの袖を引っ張った。
「ああ、分かったよ、クリスティーヌ、逃げるぞ!」
後ろ髪を引かれる思いも強かったが、それよりも恋人が大切だった。
ちらりと後ろを向き、圧倒的な強さを誇るヴィクトーリアの勇姿を確かめ、走り出した。
大男は半ば自分の目が信じられなかった。4人の荒くれ者たちが足下で白目を剥いていた。
こんな事になるなど考えてもいなかった。目の前の女は悪魔に違いない。だが、ここで逃げ出したら、一生笑いものだ。
あらん限りの声でほえた。
ヴィクトーリアは息も乱さず、似つかわしくない険しさで男を睨んでいる。
不意に表情が緩んだ。
「ねぇあなた、ここらで止めにしましょうよ。貴男まで気絶したら、誰もお仲間を連れて帰ってくれないわ。」
はじめは愚かにも、彼女が自分を恐れていたのだと勘違いした男だったが、言葉が終わるにつれて猛烈な怒りがこみ上げてきた。
「殺してやるっ!」
「あらあら。」
交渉の決裂と同時に彼女は身構えた。
その時、白い影がヴィクトーリアを遮ったと思うと、男の体は宙を舞い、下着のショウケースの中へ墜落した。
「少しも腕が落ちていないから、安心したよ。僕の指導が良かったからかな。それにしても、エリックの奴、ご婦人をおいて逃げるとは、女の腐ったような奴!」
「カーン将軍?貴方ですの?」
記憶の中より少しだけ髪が白くなっているが、忘れることの出来ない声と背中だった。しかし、男は振り向こうとしなかった。騒ぎを聴いて駆けつけてきた巡査に、てきぱきと指示を与えると立ち去ろうとした。
「あ、待ってください!」
伸ばした腕が肩に触れる直前に、男は身を翻した。
避ける間もなく、たくましい腕の中に華奢な体が収まる。
見上げた先に、褐色に日焼けした顔があった。深く刻まれたしわが精悍さを際だたせる。
瞳が黒曜石のように輝いた。
「会いたかったよ、ヴィクトーリア!さあ、再会の熱ーいキスを!」
柔らかく顎を捕らえるとぐっと、顔を近づけた。しかし。
「私は人妻ですっ!」
背負い投げで一本。
地響きの残るなか、白いユニフォームの男は無様にひっくり返っていた。
「ふざけないでください、もう・・・。」
「本気だよ、僕はいつも・・・・。」
苦笑しながら起きあがろうとする彼に、ヴィクトーリアは手を差し出す。それをやんわり断って立ち上がった。
「じゃあ、もう行くよ。会えて嬉しかったよ。ベルンハルトによろしく伝えておくれ。」
不器用なウインクを投げると、くるりときびすを返した。
追うように、ヴィクトーリアは手を伸ばした。
去りゆく背中が亡くした人に重なって、・・・・・・・・切なかった。


オペラ座の部屋に戻ったときには、クリスティーヌも幾分落ち着きを取り戻していた。
「お茶を・・入れるわね、エリック、アンジェリーナ。」
それでも青ざめた頬が痛々しかった。怪人は立ち上がろうとする彼女の肩に手を置いた。
「私がやるよ、お前は休んでいなさい。」
申し訳なさそうにうなずき、腕に抱いたうさぎの背を撫でた。
「あたしも手伝うー。」
道々、何が起こったか恋人は語った。
彼とはぐれたあと、男たちに取り囲まれ連れ去られるところだったと。
怪人の中に怒りが激しく燃えさかっている。ポットを持つ手が震える。全てを滅ぼそうとする憎悪。
「おじさん。」
何を思ったかアンジェリーナが彼の腰にキュっとしがみついてきた。
「おじさんって、足が速いんだね。あたし追い越されそうになったもん。」
愛らしい笑顔を向けられて、怪人は我に返った。
「そうかね?貴女もとても速かったよ。」
我知らず、手を彼女の頭に乗せた。
誰かに触れると、未だに胸が震える。
この顔を見ても恐れない。私は人間として認められている。
求めても決して手に入らなかった夢が、ここにある。
艶やかな髪に手のひらを滑らす。ふと気がつけば、あれほどの憎悪が小さくしぼもうとしている。
ちょっとだけ、首を傾げた。
以前の私なら憎しみのままに人を殺めていたのに。
今は、不慣れな感情でいっぱいだ。
クリスティーヌが心配でならないという。
「さぁ、飲みなさい。」
ティーカップを置くが、彼女は弱々しくうなずいただけだった。
「クリスティーヌ・・・・・・。」
それでも精いっぱいほほえもうとする姿が、哀しかった。
「おじさん・・・、おとうさまはこうしてくださったのよ。」
つんつんとアンジェリーナが袖を引き、両腕でマルを作った。
ためらわなかったと言えば嘘になるが、少女が促すように顔を両手でおおった。
体が勝手に動いた。
「クリスティーヌ、もう大丈夫だ。もう心配ない。」
これだけしか思いつかない自分に、エリックは苛立つ。それでも、彼女は分かってくれたのだろう。彼の胸に頬を押しつけ、何度もうなずいた。
男は愛しさがつのり、唇が欲しくなった。
顔を寄せると、クリスティーヌは静かに瞳を閉じた。
甘く唇が重なる。
柔らかな感触に酔いしれ、否応なく胸が高まってゆく。押さえがたい欲望が頭をもたげたとき、はっと背後に気配を感じた。
ぞっとして振り返ると、指の間からアンジェリーナがのぞいている。
「大人のじかーん・・・・・・・。」
さすがに絶句していると、すぐそばから明るい笑い声が響いてきた。
「クリスティーヌ・・・・・・笑い事じゃ・・・・・・・。」
「だって、だって・・・・・!」
なおも笑いが止まらない。
「アンジェリーナ!あなたはねぇ・・・・。」
ばつは悪いし、恥ずかしいし、エリックは二の句がつげない。



ばたばたと足音が響いてきた。あたしは疲れた体を奮い立たせ、耳を澄ました。
もしかしたら、ロシュフォール様が迎えに来てくださったのかもしれないわ。
勢いよくドアが開き、誰かが飛びこんでくる。
・・・・・・・女の人だった。
深くため息をつき、前足の間に顔を埋めた。
どうして?どうして?こんな事になってしまったのかしら?おうちを出たあと、道に迷って人がいっぱいいるところへ来てしまって・・・・・・。それからは憶えていないわ。
会いたい・・・。自分から出てきたのに、未練たらしいって分かっているのに、でも、会いたいの。
ロシュフォール様に。
「おかあさま、このうさぎ・・・・だいじょうぶかしら?」
声の終わりとともに、柔らかな手に抱き上げられた。耳を触ったり、おなかを触ったり。こんなこと、あの方以外に許したことがない。でも・・・・・そんな手荒じゃない。
「心配ないわ、アンジェリーナ、ちょっと疲れているだけよ。静かなところで休ませてあげれば、すぐに元気になるわ。」
「あーよかった!じゃあ、おうちへ連れて行ってもいい?」
「そうしたいけど・・・・・今うちの中は仕事の資料でいっぱいだし、無理よ。分かってね。」
「えー・・・・・・。」
「ねぇ、エリック、ここへ置いてはいけないかしら、そうすればアンジェリーナもうさぎと遊べるし。」
「・・・・・・かまわないよ、拾ってきたのは私だ。」
「わあ、やったぁ!おじさん、ありがとう!毎日来るね!」
いささか乱暴にかかえられ、ごしごしと背中をこすられる。小さく悲鳴を上げると、今度はいたわるように抱き上げられ、柔らかな敷物の上に置かれた。
見上げると、夕日のような髪の若い女の人が、安心させるように微笑んでいた。
「エリック、ここでいいのかしら?貴男の言ったとおりクッションを敷いたけど。」
エリックと呼ばれた人が近寄ってきて、あたしを見下ろした。
ぼんやりと視線を移したとたん、すーっと気が遠くなった。
こんな怖い顔・・・・初めて・・・・。
だけど、歯を食いしばって首を上に向けた。
あたし、助けてもらった人に失礼をするような悪い子じゃないわ!ロシュフォール様に恥をかかせるようなマネしないわ!
「この箱で十分だ。この子は人に飼われていたようだ。しかも、かなり良い家庭らしいね。」
「どうして?」
「ごらん、アンジェリーナ。ボタンはちぎれて、ドレスも汚れているが、これはブロケード織だ。こんな上物はよほど裕福でなければ手に入らない代物だし、毛並みも並はずれて良い。爪も手入れされている。大切にされていたんだろう。」
その通りよ。愛されていたのよ。うなずいて、気がつく。この人の目の色、ロシュフォール様にとても似ているわ。きゅっと胸が痛んだけど、我慢した。
「おじさーん、だったら、このうさぎを持ち主に返してあげなきゃ。」
でも、次の仕打ちには悲鳴を上げた。子供の手が乱暴にドレスを引っ張った。
いや、さわらないで!だけどかなうはずなく、裸にされてしまった。
耳をぴーんと立てて、隅っこにうずくまった。恥ずかしさと哀しさでいっぱいになりながら目をあげると、少女が大切な服に顔を突っこまんばかりに眺めている。
返して、それはあたしの宝物なの・・・・・。涙がこぼれそうになったとき、さっきの女の人が来て、あたしをふんわりと柔らかな布でくるんでくれた。
「うさぎさん、ごめんなさいね。今あなたのおうちがどこなのか、調べているところなの。」
そして、安心できるように何度も撫でてくれた。
あたしは不思議と落ちついて耳を下げた。この優しい手は天使様みたい。
決めたわ、ここのうちの子になる。うーんといい子にして好きになってもらうの。そうすれば絶対に幸せになれる。辛かったことも全部忘れるわ。
「ロシュフォール。」
ふいに降ってきた声が、全身を耳にした。
「ここのところ・・・・・ロシュフォールって刺繍してあるよ、それから・・・・あと読めない。」
「そうね、ロシュフォールって書いてあるわ、このうさぎさんの名前ね。」
「・・・・・・でも、雌でしたわ。それなのに男の名前を?」
「変な趣味だ。」
「それって、変態?」
頭の隅っこで『あたしは女の子よ!』って、さけんでいる。でも、あの方の笑顔が次から次へと浮かんできて胸がつぶれそう・・・・・。
でも、きりっと顔を上げて何度もうなずいた。それから天使様の手をぺろぺろなめた。
「あらあら、好かれてしまったのね、クリスティーヌさん。」
「あ、あたしも!」
差しこまれた小さな手もなめた。好きになってほしいから、がんばるの。
「ロシュフォールちゃん、何も心配しなくていいわ。あなたの大切なご主人様は必ず見つかるから。それまで、ここで我慢してね。」
クリスティーヌさんの暖かい言葉に胸が熱くなって、冷たくなった。
だって・・・・・。もう帰る家はないもの・・・・・・・。



ピッコロは、廊下から響いてくる足音に、全身が総毛立った。
それから掲示板に目を走らせ、確かめる。
今日は『晴れ』だったはずだ、『大雨・雷注意報』じゃない!
振り返れば、ローレンスの顔も彼と同じにこわばっている。
「大丈夫だ、落ちつくんだ。」
己に言い聞かせるように吐き出すと、深く息を吸った。
「大丈夫だ。」
紳士はそれから、ドアをぐっと見据えた。
若者の体が微かに震えているのが見てとれた。
お互いに二度と遭いたくなかった恐怖が、そこまで来ていた。
ぴたりと足音は止まった。
しかし、ぴりぴりした空気が薄いドア越しに伝わってきている。
ローレンスは聞き耳を立てた。
微かに聞こえる、息づかい。その規則正しいリズムに、彼は胸をなで下ろした。
まだ、安全だ。
やがてゆっくりとノブが回り、男が現れた。
冬の雨を思わせる髪に、凍てついた表情。いつもと何ら変わりがない。
ピッコロは先ほどの恐怖が何かの間違いじゃないかと疑った。
同意を得ようと、目の端で紳士の顔を捕らえる。
だが、そこには僅かに緊張を滲ませた顔があった。
張りつめる空気。
それを破ったのは、穏やかすぎるほどの声だった。
「しらないか?」
さらに穏やかな声で返す。
「いないのかい?」
一瞬、ロシュフォールは瞳を翳らせた。
「部屋に戻ったがいない。ピッコロを気に入っていたから、ここにいるのかと。」
「心配だね。」
ローレンスはいたわりをこめて、肩に手を置いた。
彼の背中を見つめながら、ロシュフォールはうさぎを捜しているのだと知った。
窓から爽やかな風が吹いてくる。日差しもうららかだ。
こんな日はうさぎだって散歩したくなるだろう? そう喉元まで上ってきた。
もちろん善意からだが、不用意にも口を開きかけたとき、ピッコロは後ろに回した紳士の手の信号が目に入った。
『ここは私に任せて、ぴょん太さんを探しに行ってください。』
ピッコロは戦慄が走るのを感じながら、スタークとこっそり外へ出た。
部屋は二人だけになった。
「すぐに戻ってくる、大丈夫だよ。」
しかし、耳に入らなかったように彼はうなだれた。
「こんな事は、初めてだ。屋敷中を捜したが、見つからない・・・・・・・・。」
そして一歩足を踏み出し、ローレンスと重ならんばかりに近寄った。
「義父さん・・・・・・・。」
呟きと共に男は彼の肩に頭を置いた。
しばらく動かなかった。
紳士も何も言わなかった。
やがて微かな、うわずった声がした。
「あの子が帰ってこなかったら、・・・・・・どうしたらいいか分からない。気が狂ってしまうかもしれない。」
そんな大げさなと思った。だが言葉にはしなかった。
ローレンスは初めて彼と会った日を思い出した。
ぼろを纏い、貧民窟の片隅でうずくまっていた少年。
やたら眼光が鋭く、世の中の全てを憎んでいるように見えた。
だが、腕の中に固く抱きしめていたのは母親の形見というオモチャ、『うさぎのぴょん太くん』。
この屋敷に移ってからも片時も離さなかった。今も彼の部屋にあるはずだ。
「うさぎは、きっと見つかる。いまピッコロくんが探しに行ってくれている。」
少年はろくに字も読めなかったが、気に入った物すべてに『ぴょん太くん』と名付けた。初めて食べたプディングにも、彼に与えられた馬車にも。
ローレンスはその名で呼ばれたときの感動を鮮明に憶えている。三十年経った今も。
「叶うなら、神にも感謝する・・・・・・・。でも、彼女は帰らない。ベッドが涙で濡れていた。去っていったんだ。」
一瞬、恋人の話をしているんじゃないか?といぶかしんだ。
彼はロシュフォールとぴょん太くんの生活について何も知らなかった。
声はさらに切なくなった。
「私が傷つけてしまったんだ、きっと・・・・。彼女の気持ちも考えずに、ふさわしくない名前で呼び続けていたから。」
「本当はどう呼びたかったんだい?」
哀しげな答えがあった。
「・・・・・・・・『ジュリエット』。」
「それも、素敵な名前だよ。」
「だけど、名前を捧げるひとはいない・・・・・・・・・・愛していたのに。今でも愛している。」
体が震えていた。
ローレンスは目の前の中年男がヨーロッパ屈指の刺客ではなく、出会った頃の痩せっぽっちの少年に思えてならなかった。
話の内容は別として。
昔よくしたように男の背中を軽くたたいた。
「帰ってくる、私は信じているよ。昔から二人で願って、叶わなかったことは無かったじゃないか?」 
ロシュフォールは顔を上げ、微かにうなずいた。
「じゃあ、これから探しに行こう。きっと、どこかで迷子になっているんだろう。君を恋しがっているよ。」
義父は男の目にようやく光が戻ってきたのを見て、自然と笑みがこぼれてきた。
二人そろって、ドアの前に立った。
だがノブをひねる前に猛烈な勢いで開かれ、ピッコロが血相を変えて飛びこんできた。
「シュヴァルエ邸が!!」


赤毛の青年は差し出された新聞『ガゼット・デ・トリビュノー』を受け取ると、挟まれたメモに目を走らせた。
「・・・・・・・。」
それから困惑した表情で、新聞を持ってきた中年の男性を見あげた。
「そうだ、中央市場で一千羽そろえて欲しいと書いてあるはずだ。」
あらためて字を眺める。一字一句間違わず記されている。
だが、やはり合点がいかなかった。
メモから微かに立ち上る香り『夜間飛行』。それが、紛れもなく指令書である証明に関わらず。
「フォボス様は、料理をなさるのですか?」
男は眉間にしわを寄せ、新聞のある部分を無言で指さした。
『雌うさぎを預かっています。名前はロシュフォール、右目の周りだけ黒い白ウサギです。』
「これが?」
ぽかんとしている男の頭を力任せに殴ると、机から一冊のファイルを取り出して青年に投げつけた。
「ここへ入って何年になる!」
「す、すみませんっ!」
青年は真っ青になってファイルをめくった。そしてアっと声を上げた。
「分かったら、さっさといけ!」
「はいっ!」
あたふたと飛び出してゆく男を見送っていると、背後から寂しげな笑い声が響いてきた。
「ずいぶん酷い仕打ちをなさるのね、オルフ。わたくしは今まで気がつかなかったわ。貴男がそのような方だなんて。殿方は誰でも同じなのね・・・・・・・・・・・生まれついての暴君なんだわ。」
呼ばれた男は丸めがちな背中をびしっと伸ばすと、洗練された動作で振り返り、差し出された手のひらを取った。
「お見苦しく映り、どうぞご容赦ください。あれのためを思っての事です。」
「ええ、知っていてよ。だって・・・・・そうでも言わなきゃお相手をしてくださらないでしょ?」
憂いを含んだ声で囁くと、声の主は灰色の瞳を哀しげに曇らせた。
オルフは全身に鳥肌が立つのを止められず、身震いした。
それでも何とか冷静さを保つと、ちょっと困ったという表情を作った。
「貴女こそ残酷なお方だ。私の気持ちを知っていらっしゃるのに・・・・・・。そうやってお試しになるのですか?貴女がいなければ、この世の全てが無意味だと知る私を・・・・・・・。」
そして男は跪き、アラバスター色の手を握りしめた。
切なげに顔を歪める男の頭に女は手を乗せ、薄くなりかけたグレイの髪を指で梳きながら、囁いた。
「分かっているわ、わたくしのオルフ。お願いよ、わたくしのことをいつも考えていて・・・・・・・・・・わたくしのことでだけを考えていて。そうしてくれなければ、寂しくて死んでしまうわ・・・・・・・。」
一言ごとに体が焼かれそうになる。恋の炎に燃え尽きてしまいたいと男は思った。
「・・・・・・・仰せのままに。貴女のために私の命はあるのです。」
炎に男は喘いだ。
女の瞳を氷に似た光が満たした。血の色をした唇が満足げに引き上げられる。
「いいえ、貴男がいるからわたくしは生きてゆけるのよ・・・・・・。」
男は手に口づけながら、漂う香りに酔いしれた。


「イヤだわ、このところ物騒な事件は少なかったのに。」
ヴィクトーリアは顔を曇らせ、『ガゼット・デ・トリビュノー』をテーブルに置いた。
紙面に踊る文字”シュバルエ邸の襲撃犯を伯爵の私兵が撃退。死者は30名、遺体は全て一撃でしとめられたらしく、現場は血の海で・・・・・・・”。
「あの子に見せたくないわ。クリスティーヌさん、アンジェリーナが来たら、例の記事はちゃんとのったと伝えてくださいな。あたしはこれからジラルダン氏に会わなくてはならないので・・・・・。」
婦人は立ち上がると、大きくふくらんだ鞄に手を伸ばした。
「はい、お仕事大変ですね。気をつけて。」
「ええ、でもあの人の夢だったから、やりがいがありますわ。」
寂しさと誇らしさのまじった笑みを見せた。そして箱の中に優しく視線を投げ、出ていった。
「見て、ロシュフォールちゃん。あなたの記事をここに載せていただいたの。すぐにおうちに帰れるわ。」
天使様の声に指さされた記事を見ると、『雌うさぎを預かっています。名前はロシュフォール、右目の周りだけ黒い白ウサギです。心当たりのかたは・・・・・・』とあった。
『ロシュフォール』という文字が矢になって胸に突き刺さった。痛くて痛くて涙が出そうになる。
「どうしたの?」
怪訝そうにあたしの顔をのぞき見る。潤みかけた瞳をギュっと閉じてから、なんでもないという顔をする。
「悲しいのね。貴女の気持ち、少しだけ分かるのよ。昔・・・・・・・・大切にしてくださった方が遠くへ行ってしまって、ずいぶん泣いたから。ルカ様って言うの。でも、貴女はきっとおうちに戻れるわ、元気を出してね。」
天使様の青い瞳が一瞬色を変えて、頭の後ろが光った。あたしはごしごしと目をこすり、もう一度見た。錯覚だったみたい。でも、悲しそうな顔をしている。
「ルカ様・・・・・・・・。」
不意に細い手が差しこまれ、持ち上げられた。
「クリスティーヌ?」
いつの間か来ていた、あの怖い顔の人があたしを抱きかかえていた。
それから、さりげなくおなかを触る。
「あまり食べていないな。」
さっきまでの憂いを隠し、心配そうにうなずいた。
「そうなの、あたしたちを怖がっているのかしら。ほとんど食べてくれなくて。」
「・・・・・・・・。」
優しく背中を撫でてくれる。
この人、とてもいい人だわ、ロシュフォール様みたいに優しいの。
でも、ごめんなさい、違うの。怖くてごはんが食べられないんじゃないの。あたし、ロシュフォール様の次にクリスティーヌさんや、エリックさんが好き・・・・。
ただ、悲しくて、辛くて、何ものどを通らない。心配かけて、ごめんなさい。
「新聞は載ったかね?フィルマンに頼んでおいたが。」
「ええ、ここに。」
「・・・・・・・・・・ふむ、すぐに名乗り出てくれると良いが。」
それから、恋人を気遣うように言葉を続けた。
「今頃、飼い主は血眼になって捜しているよ。必ずここへ来るよ、クリスティーヌ。」
その頃、飼い主がウサギを血眼になって捜しているのではなく、敵を血祭りに上げているなど予想も出なかった怪人は、柔らかく彼女の手を握った。



ピッコロはまぶしいほどの青空を眺めながら、密かにため息をついた。
掲示板に爽やかな朝日が差している。今日も一日いい天気が続きそうだ。
今日で4日連続、書き換えていない。いいや、書き換えられない。
こんなに長く続いたのは、就職以来初めてだった。
飼っている兎がいないくらいで、こんなに大騒ぎしなくてもいいと思う。不惑を迎えた男の振る舞いじゃない。反面、彼にも人間らしい感情があったんだなぁと感心したりもする。
ドアが開いて、同僚が駆けこんできた。
「おい、ローレンスさんからシュバルエ邸と、アヴァスの件の報告書を急いでく・・・・まだ『大雨・雷注意報』なのか?勘弁してくれよぉ!」
スタークの悲鳴はピッコロもあげたいものだった。
「あのウサ公のせいだろぉ?まだ見つかんないのかよ。」
「手がかり無し。」
「いい加減してほしいよな!ウサギ一匹いないだけで機嫌悪くしてさ。まるで女に逃げられたみたいじゃあないか?俺たちがどんなに迷惑しているか、考えたことあんのかね?この間の仕事をみろよ。いつもだったら、血をほとんど流さずに殺るのに、血の海にしやがって。そのあとの仕事はもっと汚かった。掃除にどれだけかかったか・・・・・・・・うが!」
一言毎に声が大きくなっていく。ドアに漏れ出る直前、若者は手を伸ばした。
「分かっていますよ。だけど、誰がそんなことロシュフォールさんに言えます?それとも、言ってくれますか?」
怒りの色に染まっていた男の顔色が、みるみる青く変わった。
「い、い、いい、イヤだ!」
「でしょ?きっと、もうすぐ見つかりますから、我慢してください。ローレンスさんが、ディ・エルムズ警部にお願いして部下を何人か貸してもらうそうです。あと少しですよ。」
「ウサギ一匹に、馬鹿ら・・・。」
その時、今度はローレンスが息を切らせて入ってきた。
「見つかったよ、オペラ座に保護されているそうだ!」
疲れの中に喜びを滲ませて、紳士は二人に新聞を見せた。
「いつの新聞です?三日前ですね。」
「シュバルエ邸の記事を調べていて、偶然に見つけたんだ。良かったよ。これでロシュフォールさんも安心する。」
「そうですね!」
「やっと恐怖の時間から解放されるぞ!今日は飲みに行こうぜ!場所は『フラウ』だ!」
スタークの嬉々とした叫びに、珍しくローレンスもうなずいた。
だが、ピッコロ一人なぜか浮かない顔をしている。彼は自分の机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「どうしたんだい?」
若者は手にした紙の一点を示した。
指の先にパリで発行される新聞の名前がいくつか並んでいた。
購読紙『コルベーユー花籠ー』、『ラ・モード』、『プレス』、『ネゴシアトゥール』、そして『ガゼット・デ・トリビュノー』 。
「まさか。」
喜びに色づいていた紳士の顔色が、みるみる翳った。
「まさか。」
ローレンスの中で、ピッコロと同じ不安が大きくなり、そしてしぼむ。何度か繰り返されたあと、彼は毅然と顔を上げた。
「オペラ座に人をやろう。確かめるんだ。フォボスが、これに気がつかないはずがない。失態だ。このところ続いた仕事に追われて、後手になってしまった・・・・・・・・。」
再び濃い落胆の色が浮かんでいた。だが、それだけではない色が混じっている。
「それから大至急チャーチ伯爵の者と連絡を取ってくれ。怪しい動きがないか、最悪の事態になっている可能性が大きい。どんな些細なことでも報告してもらってくれ。それから・・・・・・・。」
ピッコロはちらりとスタークを見た。さらにへそを曲げていないか気になった。
だが男はうってかわって唇を引き結び、話に聴き入っている。若者は先輩のその横顔が好きだった。
ローレンスが話し終えると、すかさずスタークが手を挙げた。
「フォボスんとこは、おれが行くよ。オペラ座はメイスに探らせる。」
だが出ていこうとする背中に、紳士は声をかけた。
「スタークさん、君とピッコロくんでオペラ座に行ってください。君の腕は承知していますが、決して無茶をしないように。何かあったら、妹さんに言い訳できないから。」
その緊迫した声音に一瞬、男は体をこわばらせた。しかし、ゆっくりと振り返り・・・・・苦笑いを見せた。
「痛いところをつくなぁ。明日は、メラニーの誕生日だ、分かっているよ。」

一時間後、ローレンスの前に二人の人間が立っていた。
紳士らしくないがっしりした男と、妙に肩幅の広い貴婦人。だが、目もくらまんばかりに艶やかだ。
男は得意げに自分と、婦人を指さした。
「ラメザンジェール夫妻がオペラ座を訪問するって情報が入ったんで、すり替わるのが得策と思って。」
示された婦人は今にも泣き出しそうに鼻の頭を真っ赤にしている。
「何か言ってください!スタークさんったらいきなり僕にドレスを着せたんですよ!」
言われたものの、何をしゃべればいいか思いつかない。何度か二人に視線を往復させたあと、口を開いた。
「あ・・・・・・、ピッコロくん、似合うよ、とても、うん。すてきだ。君ほどの美人は見たことがない。」
「わーっ、ひどいわっ!」
言葉の終わらないうちに滝のような涙が流れ、青年は床に崩れた。
ローレンスは激しく後悔したが、気を取り直すとスタークに向き直った。
「え・・・と、それでどうだった?」
スタークは懐からオペラ座の蝋印の押された封筒を取り出すと、渡した。
「怪しまれずに支配人に会うことが出来ました。兎の問い合わせにきてくれて助かりましたと。誰も来ていないようです。」
「ぴょん太くんに会えたかい?」
スタークは首を振った。
「残念ながら、散歩に出ているからと・・・・・・未確認です。だたし、特徴について全てピッコロ嬢に確かめてもらいました。・・・・・・だから、間違いないと思います。」
歯切れ悪く言葉を結んだ。自分でも詰めが甘かったと感じているのだろう。紳士はねぎらいをこめて男の肩を叩いた。
「お疲れさん。それで、これは?」
「オペラの招待状です。今夜、ウサギを引き取りに行きますと言ったらぜひにと。」
ローレンスは銀のペーパーナイフで用心深く開封した。中から新作オペラの招待状が2枚出てくる。
「ボックス5番?上等な席だな、貴族でもない夫婦に。」
チケットを見つめながら、首をひねる。
「ある意味で有名な席ですから、使われないのでは?それよりラメザンジェール夫妻はジラルダン氏とつき合いがあるから、宣伝を狙っているのかもしれません。」
「『ゴシップ夫妻』は利用されるわけか、そうかもしれない。今夜は、二人で楽しんで来てくれ。本物の夫妻は私が押さえる。」
つい、にっこりとした微笑をピッコロに向けてしまった。あ、っと思ったが、すでに時遅し。
「なんて事をいうのぉ!!」
しゃくり上げるまでに落ちついていた婦人が、再び絶叫した。
「まぁ、まぁ、ピッコロくん、落ちつくんだ。気持ちは痛いほど分かるが、これは仕事だ。」
「そうだよ、ハニーcc」
にやにやしながら、スタークがピッコロの肩を優しく抱いた。
「君のような美人をつれてオペラ座なんて、素敵じゃないか?劇場の紳士すべてが君に跪いて求愛する。僕は嫉妬で殺されるかもしれないね。」
「やだったら!」 甘ーく囁きながらさらに腕を回そうとする男を、婦人は突き飛ばして走り出した。
「いやぁぁぁぁっ!」
「あ、逃げちゃった。」
廊下の闇に吸いこまれる貴婦人を見送って、スタークは肩をすくめた。
「ピッコロくんには申し訳ないが、今夜も婦人に化けてもらおう。それにしても、何かあったのかい?あの嫌がりようはただごとじゃないね。」
「支配人に口説かれたんですよ、丸い顔のほうに。」
ローレンスは同情のため息をついた。
「気持ちが分からないでもないが・・・・・・・スタークさん、貴男は違いますよね?」
真剣な眼差しを向けられてたじろいだが、それも一時で意味ありげに口の端を引き上げた。
紳士が十字架を切ろうと手を挙げたとき、重い足取りで長身の男が入ってきた。
誰の目にも、彼は半病人に見えた。頬はこけ、見事な銀髪は乱れて、無精ひげが伸びている。
「ローレンス。」
今朝あったときよりさらに顔色が悪いな、と思った。だがそれも次の一言で終わらせることが出来ると思うと、紳士の胸は安堵でいっぱいになった。
「ロシュフォールさん、見つかったよ。ここだ。」
それから新聞を握らせ、指で示した。
「彼女が?」
急激に瞳に輝きが戻った。男は示された部分を食い入るように見つめた。
しかし瞳はすぐに翳り、新聞は手からバサリと落ちた。ロシュフォールは力無く首を振った。
「違う。ローレンス、彼女じゃない、名前が違う。」
「もう一度、記事を読むんだ。名前以外は全て一致する。さっきオペラ座まで出かけて確認した。間違いない。」
「なら、どうして連れ帰ってくれなかったんだ?」
男の顔に冷たい怒りがよぎったのを見て、紳士はぞっとしたが続けた。
「散歩中で、出来なかった。代わりに今夜ピッコロくんとスタークさんで迎えに行く。」
「今から私が行く!」
とっさに飛び出しかけた男の腕をつかんだ。そして椅子に押しこんだ。強い口調で続ける。
「気持ちは分かるが、待つんだ。君が直接出向いてはまずい。冷静になって考えてほしい。フォボスがこれに気がついている可能性が大きい。君とぴょん太くんの関係を証明することになってしまう。そうなれば、今後も彼女の身に危険がつきまとう!それに、ギリーズ君も行方不明のままだ・・・・・・・・。今夜、二人が『ラメザンジェール夫妻』としてオペラ座に行く。ロシュフォールさんはここで待っているんだ。」
気まずそうにちょんと、スタークが突っついた。
「それ、無理ですって。ピッコロは絶対女装をしませんよ。あいつ、あれで意外と頑固だから。」
「じゃあ、誰が婦人を演じるんだ?」
すくっとロシュフォールが立ち上がった。
「私だ。」
男たちは自分の耳を疑った。
おそるおそるスタークが近寄る。
「あの、ご自分の行っている意味、理解してます?」
だが、じろりと睨まれて彼はローレンスの後ろへ隠れた。
紳士は目の前の中年男が軽口をたたくタイプではないと、誰よりも知っていた。
だがあえて、尋ねた。
「ロシュフォールさん、君が女装をすると?」
渡りに船と言わんばかりにうなずいた。
「私だと分からないだろう?それなら支障は無いはずだ?」
妙に納得しながら、紳士はうなった。しかし、付け加えた。
「くどいようだが、出かけるのは夜だ。昼間みたいな肌を出さないドレスではないよ、デコルテをつけなければ怪しまれる。もちろん、肌を飾る真珠も香水も。」
「デコルテ?」
スタークが自分の胸から上と、背中から腰を指さした。
その意味するところをすぐさま読みとって、ロシュフォールの顔色は青から白に変わった。
ローレンスは、彼の顔色が緊張からくるものとはっきり感じた。
そして一度言い出したら引かないことも、十分知っていた。
しかし、息子の勇気に称賛で胸がいっぱいになった。
「君の決心は変えられないね。分かっているよ。美の女神も逃げ出すほどに仕上げてあげるよ。」
そして目を白黒させながら何かを伝えようとする男の肩を、熱く抱きしめた。


その頃オペラ座では、あるチケットが消えてしまい、ちょっとした騒動になっていた。





その人物が現れたとき、広々としたロビーはどよめきに包まれた。居合わせる紳士淑女全ての視線が一斉に注がれた。
女たちからは称賛と羨望、あるいは嫉妬。
男たちからも賛美と興奮、そして欲望。
一歩足を進めるごとに視線がからみついて行く手を阻もうとした。
煩わしげにまなざしを男たちに向ける。
どれだけの男がこの夜を生涯記憶にとどめてゆくだろう。まぎれもなく全ての男たちが。そして、この話を伝え聞いた者たちすべてにとって、今夜は伝説の夜となるだろう。
彼女は、まさにそういった類の女だった。
まばゆいばかりの銀髪も、乳白色の肌も、赤く彩られた唇も、ありがちだった。だが近寄る者を残らず破滅に導きそうな瞳が、男たちを虜にした。誰しも彼女の腕で死ぬことを夢見る、そんな瞳だった。
「・・・・・・・・・・・。」
磨き上げられた鏡に全身が映っていた。
虚像の人物の正体が分かっていても、スタークはうっとりとなった。はっとして、貴婦人を確かめると彼女も潤んだ目で鏡に魅入っている。
「あの・・・・・。」
連れ合いのうわずった声に婦人は我に返った。微かだが頬が染まる。
だが、男にかまわずにもう一度まっすぐに自分を凝視した。
あのひとは・・・・・・・私の愛しいひとは、許してくれるだろうか?戻ってきてくれるだろうか?そうしてくれるなら、決して離さない。死ぬまで一緒だ。
スタークはちらりと片隅に目をやった。昨日あったばかりの顔が満面の笑みを浮かべて近づいてきた。
やがて燕尾服の男はうやうやしく頭をさげ、二人に告げた。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ。ウサギがあなた方をお待ちですよ。」


ああ、遠くから音楽が聞こえる。静かな、そっと慰めるような旋律。きっとこれは神様がくださったレクイエムだわ。
「おじさん、ウサギちゃん元気ないね。毛もずいぶん抜けちゃって、ぼろぼろ・・・・・・・・。」
「ここへ来てから、ほとんど何も食べないんだ。クリスティーヌが色々試してくれたがね。」
「え、じゃあ5日間も?大変!死んじゃうよ!」
ぽた。なま暖かい水が降ってきた。いくつもいくつも。
春の雨ね。昔、ロシュフォール様とお散歩していたときに雨に降られたことがあったわ。あの時、自分が濡れるのもかまわずにコートで包んでくださった。
『雨が私たちを祝福してくれているよ。』って。
ぼんやりと首をもたげると、アンジェリーナちゃんがいる。あたしと同じくらい目が赤い。
「死んじゃうよぉ・・・・・。」
声が泣き声に変わってしまった。
悲しいけど、嬉しい。あたし、この人たちに愛されていたんだわ。   何度も考えたわ。このままこのうちの子になれたら、どんなに幸せかって。
でもね、出来ないの。クリスティーヌさんや、エリックさんに名前を呼ばれるたびに、胸が苦しくなって涙がこぼれてしまって。
あの方の気持ちが離れていってしまったの、分かっている。だけど、あたしにはロシュフォール様だけ。何度も言い聞かせたけど、自分の恋を裏切れないわ。
いいの、たった一つの恋に生きて死んでゆけるなんて、ロマンチックよ。
悲劇のヒロインだわ。いつか映画化されて大ヒットするのよ。
「エリック、これでは明日までもたないわ。お医者さまに連れて行きましょう。」  
「そうだな、・・・・・・すまない。私は一緒にいけない。」
「分かっているわ、初日ですもの。貴方はここにいなくちゃ。あたしは誰かと行って来るわ。」
「あ、連れてって!」
「アンジェリーナ、だめよ。夜道は危ないから、ここでおるすばんしていてね。それに、もうすぐお母さまがお戻りでしょう?心配なさるから。」
「・・・・・・・・はーい。じゃあ、玄関まで一緒に行く。」
「私も行こう。」
注意深く持ち上げられて、エリックさんの腕に収まった。
薄暗い廊下に出ると、遠くから微かに人の話し声が伝わってきた。別の音もする。あたしが走り回るときに立てるのとよく似ている。だけど、ものすごい数みたい。でも、エリックさんたちには聞こえないらしわ。いやだ、怖いことが起こりそう。



「さようですか、奥様はおめでたで。うちの家内もよくつわりで床についていました。・・・・とはいえ、お美しい義妹様ですね。羨ましい限りです。」
スタークは支配人があっさりと騙されたことに、ホッとした。もちろん、腹の中で『こんな怖い義妹は勘弁してくれ』と思いつつ。
「間もなくマエストロの部屋です。足下にお気をつけください。」
言葉以上に廊下は薄暗かった。灯油ランプが設置されていても、間隔があるせいか頼りなげな光しかない。微かな風に炎が揺れると闇はいっそう大きくなった。
ふとスタークは不吉な思いに捕らわれた。
ここまですんなり来すぎていないか?
果たして『義妹』は感じているだろうか?こっそり目を動かすが、浮かぶ表情に微かな緊張しか読みとれない。
隠語で訊いた。
『大丈夫ですか?』『歩きにくいだけだ。無駄口をたたくな。』
まんざら嘘ではなさそうだ。言われたとおり、口をつぐんだ。
陽気な支配人の声が不意にひそめられた。
「正直なところ、あなた方が来てくださって助かりました。ウサギを保護したのはわたしなのですが、マエストロ・エリックが連れて行ってしまって・・・・・・・・・・。いじめていたんです。それはもう酷く・・・・・!ご存じと思いますが、マエストロはあの『オペラ座の怪人』ですから、怖ろしくて、止められなくて・・・・。ともかく、よかった、安心しました。今日からゆっくり眠れますよ。」
スタークは、この話に何か引っかかりを感じた。
駒がそろいすぎている。オペラ座の怪人とロシュフォールさん。ローレンスさんも同じ意見を口にするだろう。しかもロシュフォールさんは以前から怪人を嫌っている。
歩きながらとりかこむ闇に目を凝らした。不安になるほど何かが潜んでいるように思えてしかたがない。
不意に風向きが変わった。うっとむせかえるような臭いが漂ってきた。それに混じるほんの僅かな血の香。やはり・・・・!スタークは唇をかんだ。
もはやラメザンジェール氏の仮面は必要なかった。彼はふところに手を伸ばし、愛用の短剣のつかを握った。続いて傍らの婦人に合図しようとした。
だがスタークは周りに気を取られすぎていた。ウサギの飼い主の態度まで目がいかなかった。
「次の角を曲がればマエストロ・エリックの部屋です。おや、どうなさいました?」
急に立ち止まった男にいぶかしげな視線を向けた。凍りついたように動かない男の視線をたどった支配人も、そのまま動けなくなった。
今まで人の形をしていた『死』が正体を現した瞬間だった。
逆らえば明日は来ないと確信した。
「おねえさん、ウサギちゃん、明日には元気になる?」
角の向こうから響いてきた声に、支配人は我に返った。そして気まずそうに呟く。
「なぜ、こんな時に子供がいるんだ?」
その時だった。
クリスティーヌとアンジェリーナ、エリックが角を曲がってきた。
怪人は燕尾服の男を不思議そうに眺めた。
「お前はだれだ?見慣れない顔だな。」
「ちくしょう!」 
スタークの視線を避けるように『支配人』は右手で顔を隠した。
その隙をついた。スタークは男に足払いをかけると、うつぶせに倒れた男に馬乗りになった。
短剣が闇に煌めく。
「フォボスの手の者だな!それなら、おれの腕は知っているな?ロシュフォールさん、罠です!逃げてください!」
しかし、返事はなかった。彼の目は怪人の腕の中にいる、ぼろ切れのようなウサギに釘づけだった。
エリックは素早く二人を背後に隠すと、激しく男たちを睨みつけた。
「どうゆうことだ!」
「それは、こちらのセリフだ。私の女になにをした?」
エリックは言われたものの、返事のしようがない。
言えるのは、目の前にいる傾国の美女が美『女』とは違うということだ。
怪人の全身はアッという間に鳥肌に覆われた。
あたしはその声に、ギュッと胸が苦しくなった。
どうしよう、どうしよう、あの方がすぐ近くに。あたしを迎えに来てくださったのかしら?ええ、きっとそうよ。あんなにドレスアップして!なんて素敵な姿なのかしら!引き裾つきの豪華なドレスも、胸元に輝くサファイアのネックレスも、髪を束ねるピンクと赤の水玉もようのリボンも。まるで美の女神様みたい!
「知らないとは言わせない。貴様が彼女に与えた仕打ち、決して許さないっ!」
言うが早いか『貴婦人』はスカートをまくり上げ、クリノリンに結びつけてあった銀の剣を振り上げた。
エリックはひらりとかわし、手の中のものをクリスティーヌに渡した。
「逃げるんだ、早く!」
「いやよ!」
「人を呼んでくるんだ!誰でもいい!」
待って!あたしは叫んだ。ロシュフォール様が来てくれたのよ!
必死で飛び出そうとする。でもやればやるほど、ギュッと押さえつけられた。
「ロシュフォールちゃん、お願い静かにして!」
いや、あの方が来てくれたのに!行かせて!
「あっ!」
渾身の力で、ジャンプした。
体が緩やかな弧を描いて空を舞い、音を立てて着地した。
「こっちだ・・・・・。」
首をあげると、待ち望んだ腕が大きくさしのべられていた。
どんなにこの日を夢見たかしら。あの腕に抱かれることを夢見たかしら!
・・・・・・・・・・でも、帰ってもいいの?本当にいいの?ジュリエットさんがいるのでしょう?
あたし、あなたの幸せを邪魔したくない・・・・・・・・。
「捜していたんだ。もう会えないかと思った・・・・。」
何一つ変わっていない。優しげな瞳も、甘い声も。あたしを愛してくれたころと何もかも。
ああ、自分を押さえられない。
なんて淫らな女なの!
体が重かった。一歩進むごとにふらついてしまう。
ごはん食べていなかったから、力が出ないの。
でも、あと少し、あと少しでロシュフォール様にだっこしてもらえるわ!
ふわっと体が浮いた。そして愛する人の腕の中にすっぽりと収まり、きゅっと抱きしめられた。
「許してくれ・・・・・・。」 
切ない声で囁かれ、繰り返し頬ずりされて、涙が出てきた。
あたしにはやっぱり彼しかいないわ。彼が誰を愛していても、離れられない。2号さんでもかまわない。
今度別れたら、死んでしまうわ。
甘く、唇が重なった。
「また大人のじかーん?」
エリックの影からひょいと顔を出してアンジェリーナが訊いた。
「アンジェリーナ、相手はウサギだ。」
エリックはいさめたつもりだったが、首を傾げつつ、少女は耳打ちした。
「それって、変態?」
クリスティーヌが無言でアンジェリーナの口をふさいだ。
「・・・・・・・・。」
だが周りの会話などまるで耳に入らないらしく、ロシュフォールは『ふたりの愛の世界』を展開している。
眺めつつ、さすがにスタークも判断に迷っていた。
第一目標の『ぴょん太くん救出』は達成した。ところで、周りにはフォボスの一味が潜んでいるんじゃなかったっけ?このままでは、殺されちゃうなぁ・・・・・・・。だけど、ロシュフォールさんの邪魔をしたら、もっと恐ろしいことになる。きっとなる。どうする?
同じ迷いを『支配人』も持っていたらしい。すっかり毒気を抜かれた顔で、いつのまにやら頬づえをついている。
「スタークさん、困ったねぇ・・・・・野暮なマネはしたくないし、仕事はさぼりたくないし 。」
「野暮って、あれはウサギだ。」
「そうは見えない。離ればなれの恋人同士が再会したみたいだ。」
「やめてくれよ。変な趣味があるみたいな言い方は。」
スタークは頭をかいた。切っ先がほんの僅か、首筋から逸れた。
「いまだっ!いけぇー!」
男は猛烈な勢いで起きあがった。スタークはそのまま勢いを殺さず壁にたたきつけられた。
続いて、驚いて振り向いたロシュフォールにタックルをかました。衝撃で彼の恋人の体が浮きあがった。
きゃあ、ロシュフォール様、助けて!
すぽっと受け止められた。そのまますごい速さで、男が走りだした。
後ろを振り返ると、あの方が何か叫んでいる。
「ぴょん太くん!」
ロシュフォールが慌てて追いかけようとしたその時、小さな鳴き声があがった。みると立派な毛並みの片目だけ黒い白ウサギがよろよろと出てきた。
「ぴょ・・・?」
戸惑っていると、また一羽。また一羽。どれも愛しいひとそっくり。
再び声があがり、一羽追加?と思いきや、すさまじい地響きとともウサギの大群が押し寄せてきた。
「わー、ぜーんぶロシュフォールちゃん!」
直前にエリックはアンジェリーナをかかえ上げ、もと来た道へ飛びこんだ。部屋に入る余裕がなく、ドアの前でクリスティーヌと並んでへばった。ウサギは二段にも三段にも重なって流れてくる。進もうにも身動きが出来ない。これだけの量を目の当たりにすると、しばらくウサギ料理は食べたくなくなる。
「どこだっ!返事をしてくれっ!」
ロシュフォールは血相をかえて叫んだ。だが大群は荒れ狂ってあとからあとから押し寄せてくる。
どれもこれも恋人に見えてしまってどうにも動けない。
キラリ。一筋の光が彼の目を射った。
「きぃええええええっ!」
奇声をあげながら白タイツの男が躍り出てきた。白刃が闇を裂く。
持っていた剣でたやすく受け止め、腹を蹴り飛ばした。
男が倒れたすぐ横から、やはりタイツ男が突進してきた。
背後からも剣が振り下ろされた。
「あぶないっ!」
すんでの所でスタークが殴り倒した。ロシュフォールと背中合わせになった。
「奴ら・・・・・ウサギの群に潜んで・・・・・・。まずいですね。しかもコスプレしてますよ。やだなぁ。」
ところが一向に気にならないらしい。いつものように淡々と言った。
「スターク、血は流すな。臭いでぴょん太くんが逃げる。」
「・・・・・・・・・・分かりました・・・・・・・・。」
スタークはめまいを覚えた。
だが形勢はどうにも不利だった。
十人の男が二人にじりじりと迫っていた。剣を構え、ごていねいにウサギの耳もつけている。
ドアの前から、闘いは辛うじて眺められた。
「エリックおじさん、どうしよう、ウサギの恋人さんがやられちゃう!助けてあげて!」
アンジェリーナの悲痛な叫びに、迷った。
かなえてやりたいが、言いがかりをつけてきた人間に恩を売る気はない。それに女装趣味の男は嫌いだ。だが、少女の泣き顔は望まない。
後ろ手でノブをひねるとドアが開いた。
アンジェリーナを降ろし、クリスティーヌの手を引いて合図した。
「入るんだ。」
「エリック、貴方も早く!」
ちょっと、ためらいがちに答えた。
「アンジェリーナを頼むよ。」
ドアを閉めると、ウサギの海をかき分けて前に進んだ。趣味じゃないが海に身を沈め、輪に近づく。
一人の後ろまで来たとき、すぅっと浮きあがり首に指を伸ばした。
ウサギ男たちは何が起こっているか理解できなかった。悲鳴も上げずに、仲間が倒れてゆく。倒れる寸前黒い影の動くのだけが見えた。
2人、3人、4人・・・・ついに独りになった。最後の男は震えだした。
ここには、悪魔がいる!
しかし、脱げ出すことも出来なかった。失敗して帰っても待つのは死だけだ。
「わぁぁぁぁ!」
狂ったような叫びが響き渡った。
影が追う。
絶世の『美女』は向かってくる切っ先を剣で横へ流した。バランスを崩したところで足払いをかけようとしたとき、足が滑った。
「うっ!」
頭はまぬがれたものの、右肩から石畳に激突した。
スタークが叫んでいた。
死がまっすぐに心臓めがけてきた。
避けられなかった。
・・・・・・・愛しいひとの面影が浮かんで消えた。
まさに切っ先がデコルテを貫こうという時、影が男を吹き飛ばした。
「生きているか?」
白い手袋がロシュフォールを助けおこした。よく見るとそれは影でなく『オペラ座の怪人』だった。
「エリックおじさん!だいじょうぶ?わるものはやっつけたの? 」
二人がウサギをかき分けやってきた。
クリスティーヌが青ざめた顔でエリックに抱きついた。
「大丈夫?怪我をしていない?」
エリックは優しく彼女の髪を撫でながら、平然と答えた。
「これしき、私の敵じゃないさ。」
「おじさん、かっこいい!」
アンジェリーナも彼に抱きついた。
「スタークさん、ロシュフォールさん!無事ですか?」
声の方を向くと、若者と初老の紳士が駆け寄ってきた。
「ローレンス、ピッコロ、どうしたんだ?」
「もしかしたら、フォボスの罠じゃないかと・・・・・ピッコロくんを口説いたのは太った支配人ときいて、気になっていたんだ。眼鏡の支配人なら話は別だがね。・・・・・・・・・それから。」
ローレンスは大切に抱えていたぼろ切れをロシュフォールに渡した。
「ぴょん太くん!」
ぎゅっと抱きしめ、震える声で囁いた。
「家へ帰ろうね。もう絶対に離さない。」
あたしも何度もうなずいた。
決して離れないわ。死ぬまでそばにいる。愛してるわ、誰よりも。
ウサギの恋人は怪人に向き直った。感情のこもった声で告げた。
「疑いをかけて悪かった。そのうえ世話になった。私はこんな男だが、受けた恩は決して忘れない。」
エリックはまんざらでもなかった。彼もちょっと笑って見せた。
「アンジェリーナのためだ。ロシュフォールちゃんの飼い主が死んだら泣くからな。」
同じ名前の男は眉間にしわを寄せた。
「それは、私の名前だ。」
エリックは首を傾げた。
「ウサギに自分の名前をつけるのか?変わった趣味だな。気持ち悪くないか?」
「違う、彼女の名前は『ぴょん太くん』だ。」
女装の男は声を荒げた。ローレンスをはじめ誰もがロシュフォールを止めようと思った。
思ったが、動けない。
あからさまにエリックはあきれ顔を見せた。クリスティーヌが止めようと目くばせするが気がつかない。
「まるで子供の名付け方だな。だが、ドレスには『ロシュフォール』と入っていたぞ?」
「きちんと見たのか?あれは『ロシュフォールから永遠の愛をこめて』と刺繍してあったんだ。私がやったんだ、間違えないでくれ!」
怪人は沈黙した。無意識のうちに後ずさっていた。
やがて、これ以上はないくらい気分悪そうに言った。
「恩は・・・・・・・永久に返さなくていい。女装趣味でウサギを恋人にするような変態とはこれきりにしたい。」
ぴし。あたりの空気が凍りついた。
ロシュフォールはまさに氷の微笑を浮かべた。そして言った。
「私は、受けた恩も忘れないが、それ以上に恨みも忘れないからな・・・・・・・・。」
だが、エリックはぽかんと口を開けたままだった。
「やれやれ・・・・・・。」
ローレンスはふかーくため息をついた。
取りあえず、血を見ることはなさそうだと思いつつ。
あたしは顔をぎゅっとロシュフォール様に押しつけた。
エリックさんと何かあったみたい。・・・・・でも、いいの。今は世界で一番幸せだから。
エリックさんたちだって、あたしが家に戻れるんだから絶対喜んでくれるわ。
ええ、きっと。 

かくして、ぴょん太くんの家出騒動は終わった。
ところで、行方不明のギリーズだが翌日よれよれになって戻ってきた。
その謎は、あとがきで。