求む ペンフレンド


「ふー……………。」
 疲れきった体をひきずって、寝室に入った。
「もう、ダメだ、動けない………。」
使い古したエプロンを外す気力もなく、ベッドに倒れこんだ。
「………今日も良く働いた……。」
呟いて、一日を思い返した。
4時に起きて朝食を作って、洗濯をして、6時に7人の子供達に食事をさせて、8時に学校に送って、それからオペラ座にいって………………えーと、そうだ、支配人と新作オペラの打ち合わせをして、プリマドンナにレッスンをして、………マダム・ジリーに振り付けを確かめて、それからなんだっけ、ああそうだ、胃が痛くて休んでいたんだった。でもイタリアからの客があって……。
友人の顔が浮かぶ。
『ジュリアン・レイエ、ジュリアン、君の胃の痛みだが、肉体的な疲労と精神的な疲労が原因だな。奥方が亡くなって一年だろう?君が独りで子供の面倒や、家事をやってるのは知っている。だがそろそろ限界じゃないか?』
『家政婦はいらないよ。それに彼女は最後まで子供のことを心配していた。だからこそ、僕が面倒を見なければ。』
『……君の気持ちは分かるが……せめて精神的なものだけでも、なんとかするんだ。この病気は気の持ちかた次第でずいぶん楽になるから。』
『分かった、ロラン、何か気晴らしを考えるよ。』 
のろのろとベッドにもぐり、あれこれと考えた。とにかく眠りたかったが、今しか自由な時間がない。
「金がかからなくて、時間もかからない……そんな事があるのか?」
そしてずいぶんかかって、これなら!という考えが浮かんだ。
翌日、僕は新聞社にいき、メッセージを載せてくれるよう頼んだ。
それは翌々日の新聞の片隅に掲載された。
『文通相手求む。音楽家ジェラール・アジャーニ。住所は………』
偽名を使い住所も変えたのは、別人になりきったほうが楽しいと考えたからだ。直接会うつもりはないのだから、かまわないだろう。
そして一週間後、一通の手紙がきた。
真っ白な便箋に美しい文字で、しかも上流社会の香りを漂わせて、僕と文通をしたい旨を伝えてきた。そのうえ、自分はあまり書く力がないので退屈させてしまうかもしれません。よろしいでしょうか?と付け加えてきた。
僕はその奥ゆかしさがとても気に入って、さっそく返事を書いた。
こうして僕たちのは文通は始まった。
    
手紙は週に一度ニセの住所(実は友人宅)に取りにいった。
友人は最初僕のやっていることをとがめたが、あまり僕が楽しそうなので、協力してくれるようになった。
「ジュリアン、この頃顔色がよくなったな。どうだ、やるか?」
と、ピエモンテのボトルを握って、彼が意味ありげに笑う。
「その顔は文通の事を聴きたがっているんだな?……かまわんさ、うしろめたいことは何もないし、なにより君に世話になっているんだから。」
まってましたと、友人はニンマリした。
「………そんな色っぽい話じゃない。かんちがいするな、ロラン。」
「本当か?顔が赤いぞ、君。さあ、遠慮せずに飲め。飲めばしゃべりやすくなる。ほらほら!」 
ロランは僕のグラスになみなみとワインを注ぎ、強引に勧めた。
僕も内心喋りたかったのだろう、あっというまに1本開けてしまった。
「ささ、もっとしゃべれ、すっきりするぞ。」
「どこまれ話したっけぇ?」
天井がぐるぐる回っている。
「え〜とな、おまえたちが他愛ないやり取りから、ちょっと進歩した頃だ。どこだった、確か……」
ロランもけっこう酔いが回っている。
「そうそう、初めて僕たちが………なんていうかぁ、親密に手紙を交わしたんだ…………。彼女…………名前はエリスっていうんだけど、エリスの可愛がっれた小鳥が逃げちゃったとかで………さ。僕はほんとうに気の毒におもって、励ましの手紙を出したんだ。その後すぐに返事がきただろ………彼女はこんなに親身に励ましてくれたのはあなただけって、書いてきた。」
「いいねぇ、おまえにしちゃあ、上出来だ。あんなヤボったい伝言を書く奴には思えんね。」
「しょうがないだろ!ほかに浮かばなかっひゃだ。」    
「ま、ま、怒るな、それから?」
「僕たちは急速にプライベートなことを話ひ始めた………。けっこう手紙ってクセものだ。相手が見えない分………大胆に書けちゃうんだ。エリスもおなじだったのかな………悩みを打ち明けてくれたりひた……。ずいぶん大変な立場にあるらしい、………未亡人なんだが、子供がなくて、遺産のことで親戚から責められたりするんだと。」 
怒りがこみ上げてきて、声が震えた。おかげでちょっと酔いが覚めた。
「未亡人ねぇ。」
言葉じりがいやらしく響く。ロランを軽く睨んで、続ける。
「僕はエリスのためにいろいろと助言した。すると彼女も心のこもった感謝の手紙をくれた。……上っ面じゃない、ほんとうに真心の感じられる手紙だ。」
僕はその手紙を読んだときの気持ちを思い出した。
「やめろ、そのうっとりした顔!さっさと続きを話せ。遺産はどうなった?」
「……結局、親戚の連中が分配を決めた。エリスは屋敷とわずかな金を貰ったそうだ。そのときの手紙は短くて、事務的だった。よっぽど辛かったんだろうな。………僕はいてもたってもいられなくて、できたばかりのスコアを送ったよ。明るく楽しい曲だ。彼女が音楽好きだって知っていたからね。………とても喜んでくれた。そして、僕がどうしても、うまく表現できなかった部分を的確に指摘して、こうしたらどうかって提案してくれた。もちろん控え目に。僕は試しにその通りにやってみた。すると驚いたことに曲がぐっと引きしまり、調和がとれたんだ。驚くべき才能の持ち主だよ。」
ロランは愉快そうに僕の肩をたたいた。
「つまり惚れてるのか!恋は盲目だものな!」
カッとなって手を振り払った。
「ちがう。これでも僕は音楽家だぞ、紛れもなく、彼女は素晴らしい音楽の才能の持ち主だ。」
つん、とロランが僕を肘でこずいた。
「分かった、悪かったよ。言ってみただけさ。………ところでおまえさん、彼女の気持ちを想像したことあるかい?」
問いはさすがにドキッとして、残っていた酔いがふっとんだ。
「さ、さあっ?」            「おれが思うに………悪い男には思われてないな。いや、それ以上かもしれん。だって、そうだろ?いくら手紙だからって、顔も知らない相手に身内の恥をさらすかい?しかも彼女は貴族さまだ。よっぽどじゃなきゃ、そんなこと書かんさ。」
「そうかなぁ……。」
素っ気なく返したが、僕の心臓は千メートルを全力疾走した後のようだった。
ロランはちらっと僕の顔を見て、
「恋は順調にすすんでるが、障害はてんこもりだ。ま、がんばれ。」
「よしてくれ、彼女はただのペン・フレンドだ。」 
言ってはみたが、ロランはクスクスと笑うだけだった。
    
思いがけず、僕は自分の気持ちを知った。
恋は静かに味わうものと考えていたが、今度は違う。
激流だ。エリスのことを思うと、たまらない気持ちになる。
「だけど、恋しているヒマなんてない。子供の世話はあるし、仕事もある。何より身分不相応だ。」 
と言い聞かせてみたが、無駄だった。
思いを打ち明ける……?とも考えたが、勇気が出なかった。
「今はまだその時じゃない。いつかきっとチャンスが来る。」
逃避的だったが、よしとした。というより、それどころじゃなくなったのだ。
僕の働くオペラ座では。 
    
名を装い、住所も変えたのは、別人になりきったほうが楽しいだろうと考えたからだ。直接会うことなどありえない。かまわないだろう。
    
ジェラールの手紙を読むのはとても楽しい。彼は誠実でとても好感の持てる人。それに音楽の才能に溢れてる。………私にはかなわないけど。どう思っているのかしら、私の事。
友人としてみているの?それとも?
こう見ると、『エリス』って、いい名前だわ。我ながら、いいネーミングね。
    
仕事場では、『オペラ座の怪人』と名乗る正体不明の人物が現れ、ルフェーブル氏を脅して金を巻き上げただけでなく、どんな場所へも幽霊のように現れ、その不気味な姿でバレリーナたちを怯えさせていた。
僕も一度だけ、ヤツにお目にかかった。
ヤツは薄暗い5番ボックスの中に立っていた。
黒マントに帽子。黒ずくめの中に白い仮面だけがうかび上がっていた。僕に気がついても微動だにせず、ただ、あからさまな侮蔑を含んだ笑いを浮かべた。
僕は恐怖など、感じなかった。怒りだけがあった。

僕らの文通はとどこおりなく、続いた。
エリスは僕の音楽にとくに興味を示した。僕はできるだけ自作を彼女に送り、そのたびにエリスは素晴らしい評価、時には(こっちのほうが多かったが)アドバイスをくれた。手紙を読むたび、僕は彼女の才能に驚いた。
思いは募る一方だったが、悟られないよう、最大限の『友情』を持って、いつも手紙を書いた。
一度だけ、さり気なく会いませんか?と伝えたことがある。
しかしその後の手紙に、『どうかお気を悪くなさらないで。私も一度お目にかかって、あなたの素晴らしい演奏に触れたいと思っています。今は時間が取れないけれど、春には会えそうです…………。』とあった。ショックは大きかったが、『春には……。』という言葉に慰められた。

「恋は、焦らず、諦めず、誠実に、情熱的に、が鉄則だ。」
「ロラン、僕を励ましているのか?それとも僕で楽しんでる?」
彼はいかにも心外だ、という顔をした。
「どんな時も味方だろ?しかもおれは医者だ。」
言い切って、愉快そうに彼は僕のグラスにソーテルヌを注いだ。
「…………信じられない。付き合いが長いからな、君とは。」
ワインを一口のみ、横目で見る。彼は気分を害した様子もなく、
「親友だから、心配してるのさ。おまえ、どうするんだ?エリスにまだ本当の名前と住所、教えてないんだろ?まぁ…………訪ねてきたときたとしてもうまくやってやるけどさ……いい加減にしないと、嫌われるぞ。」
一瞬、言葉に詰まった。でも、僕には考えがあるのだ。
「分かってる。でも、ちゃんと悪意じゃないことを話せば理解してもらえる。」
「自信たっぷりだな!」
ばん!と勢いよくロランが背中を叩いた。顔をしかめつつ答える。
「エリスが聡明な女性だって、僕は知っているからね!」  
    
その夜は、一番下の子供の5才の誕生日だった。早く帰るつもりが、仕事が長引き、戻れたのは夜中の零時を過ぎていた。
「………ただいま……。」
ドアを開けるが、もちろん返答はなく、家中が静まり返っていた。
「アンヌ…、ジョアンナ、……ねむったのかい?」
足音を忍ばせて、子供部屋に向かう。
その時、この世のものとは思えない美しい歌声が、微かに部屋からもれてきた。
「子守歌………?…妻がいつも歌っていた……?」僕は急いで子供部屋のドアを開けた。
その瞬間、歌は消えた。
「おとーちゃん?帰ったの?」
四女のシリルが目をこすりながら、起きてきた。
僕は抱きあげて、キスした後、たずねた。
「誰かいなかった?女の人。」
シリルは可愛らしく首をふった。
「おとうちゃま、お帰りなさい。今日はとっても楽しかったよ。」
あくびをしながら、三女のミシェルが起きてきた。彼女にもキスをして、聴いた。   
「なにがあったの?」          
「あのねぇ、いっぱーい、ごちそうや、ケーキがおいてあったの。そいでね、カードがあったの。隣のおばちゃまに読んでもらったら、『ソフィヘ 誕生日おめでとう。エリス』って、書いてあったの。おとうちゃまが来るまで待っていようって思ったんだけど、みんな、おなかペコペコで食べちゃった。ごめんね。」
「そう、よかったね。女の人は見なかった?」
ミシェルも首をふった。子供達をベッドに寝かせ、一人一人にキスした後、僕はいつも食事している台所に走った。
明りを灯す。まず僕の目に飛びこんだのは、きれいに切り分けられたケーキの一片。中央に穴があるのはロウソクを挿したあとだろう。それからまだ温かいスープと温野菜、肉料理、魚料理、パンetc……が一人前用意されていた。
メッセージも何もなかったが、エリスが自分のためにしてくれた事は明白だった。僕はもう、天にも昇る心地だった。
「あの人は………天使だ………!」
その夜は興奮で眠れなかった。
    
恋がこんなに苦しいなんて思いもよらなかった。エリスのことを考えると息が詰まる、心臓が早鐘を打つ。会いたい、一目会いたい。会って、僕の思いを伝えたい。
チャンスは以外に早くやってきた。ある日の手紙に、オペラ座によく出かけるとあったのだ。こんな幸運はなかった。僕はエリスの声を一度だけ聴いている。
あの天使の歌声は今も忘れることができない。
僕は貴族専用の入り口に立ち、彼女を探した。しかしみつからなかった。そして、また『オペラ座の怪人』が支配人を悩ませていた。

頭の鈍い支配人も私の手紙を理解したようだ。ふふ、気分がいい。ふむ、開幕まで時間があるな。退屈しのぎにジェラールの曲を歌ってみよう。なかなかいい出来だが、ちょっと難があるな。

顔色の悪いルフェーブル氏とすれちがう。そのとき彼のポケットから一枚の紙が落ちた。拾い上げ、つい目を走らす。そこにはこうあった。
『……………二万フラン申し受けたい。逆らえば……………』
ふと、見覚えのある字だと思ったが、どうやっても結びつかない。
忘れることにして、僕は今度は客席を歩いてみた。それでもエリスらしき人はいない。
今日はだめかな、と溜め息をついたとき、すぐ近くのボックス席から、決して忘れることのない声が響いてきた。
しかも、僕の歌を歌っている!エリス 
僕は全力でそのボックス『5番』に走った。
「エリスッ!」
だが客席に人影はなく、いた気配もなかった。がっくりして出ようと踵を返したとき、ドアの影からうろたえた声が響いた。
「ジェ…………ジェラール?」
その名を呼ぶのは一人しかいなかった。
僕は無我夢中でドアの影にとびこむと、そこにいた人物を抱き締めた。勢いあまって壁にぶつかり、ずるずると崩れ、いつかエリスを押し倒していた。
「エリス、エリス!君に会いたかった。愛しい君、僕のすべて!」
体の下で彼女がもがいていた。しかしかまわず、エリスの華奢なアゴを捕らえると、唇を奪った。が。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。これは誰だ?と確かめるまもなく僕は突き飛ばされた。
「エリスじゃない??」
相手はひどく取り乱していたが、またもや影にはいり、顔が見えない。そのとき開演前のベルが鳴り、ボックス席のライトがぱっと灯った。
お互いを確かめあった時の僕たちの気持ちを分かってもらえるだろうか?
「ファ……ファントム?」
「ジェラールと言うのは、レイエ、おまえの事か?」
それっきり、僕たちは沈黙した。それでも僕たちが同じ気持ちを味わっているのは嫌なほど感じた。気まずさと恥ずかしさとetc,etc…………。
永遠に続くかと思われた沈黙をやぶったのは、ファントムだった。
彼は真っ赤な顔を見られないよう伏せたまま、ノブに手をかけた。
「エリスとジェラールは………存在しなかったことにしたいが…………おまえの音楽は忘れ難い。」
それだけ言うと、逃げるようにドアの向こうに消えた。
僕は複雑な気持ちで、恋は終わったと知った。
    
あれからずいぶん月日が流れたが、僕もファントムもオペラ座にいる。僕だけが彼の被害を受けていないと、みんながいぶかしがるが、………………それは永遠の秘密だ…………。