掠奪された総督の花嫁 あるいはヴェネチア一往生際の悪い男







『ジュスティニアン事件』のあと、とにかくヴェネチアはのほほ〜んと平和だった。
海賊がいなくなって貿易はさらに活発になるし、トルコとの平和な関係はさらに強まったし、総督の結婚式は明日だし、なーんも文句のないはずの昼下がり、シルヴェストロ・ダンドロは人生最大のどん底にあえいでいた。
彼が突っ伏しているのは食堂のテーブルで、今ここは正に戦場と化していた。
一時間まえは真っ白だったテーブルクロスが、こぼれた料理と酒で三毛猫もようになり、高価なグラスはあちこちでひっくり返って割れてしまい、中には脚が折れておちょこ化したものもある。
犯人はシルヴェストロの息子たち、締めて10人。全員が酔いつぶれていた。
年は下は23歳から上は35歳まで、すべて筋骨たくましく、顎髭を生やし、ごつごつとした顔の作りで、みな腹違いの兄弟なのに、誰一人母親に似ていない。
つまり、いま、この食堂には、シルヴェストロ・ダンドロの顔が11も並んでいることになる。
それぞれ別の館で暮らす兄弟たちは、あまり仲が良いとは言えなかった。
セナートの議員として、大会議場で意見を闘わせることもしょっちゅうだったし、論争の激しさ(面白さか?)から一部の議員の間でファンクラブが出来るほどだった。
そんな男たちがなぜここにいるかといえば、義理の妹のアナベラの結婚祝い&送別会のためだった。
兄弟たちは、アナベラが義理の妹になった瞬間から、彼女にメロメロ(もしくは真夏のアイスクリーム状)だった。白銀館の金看板だからでなく、アナベラの本来の性格、素直さ、純粋さ、可憐さが義兄弟のハートをがっちりと掴んでしまったのだ。
というわけで、この催しには全員が仕事をほっぽりだして駆けつけた。
やってきて、礼儀正しく心をこめてアナベラを祝福した。
だが彼女が去った瞬間から、宴の場は怒濤のようなやけ酒大会となった。
しかし、いくら何をしてもアナベラが嫁いでしまうのは変えられない。
そのうえ『隻眼のジュスティニアン』の残党がうろついているという情報が入っていたために、急遽、警備の厳重な総督府宮殿に移動してしまった。
逢いたくて〜も、もう逢えない。
なかには未練たらしく知恵を絞る義兄もいた。
「父上、妹が結婚してしまうのは、我慢できます。でも、家を出てしまうのは耐えられません!」
「戯けたことを言うな!我がダンドロ家から嫁に出すのが、どれほどの名誉かわからんのか」
「良いことを思いつきました!総督閣下がわが家へ婿養子に来てくだされば、すべて解決です!」
「気色の悪い考えだなっ、おまえたち、そろいもそろって女々しいぞ。アナベラは総督の花嫁になるのをずっと待ちこがれていたんだ。義兄として、祝福してやるくらいの度量はないのか???」
10人の男たちは一斉に開きかけた口を閉じた。
父親の意見は絶対だった。これ以上、何を言っても怒りを増幅させるだけで、決して解決にはつながらない。
顔だけでなく性格も父ゆずりで、そこそこ悪知恵の働く子供たちだったが、しょんぼりとうつむいてしまった。
だが、悪知恵は年を重ねるほど豊かになるものなのだ。
子供たちの手前、ダンドロは『立派な父親』を演じたが、その心の中は超大型ハリケーンが同時に3つ来るくらい荒れ狂っていた。
総督の結婚を少しでも順調に進めるため、便宜的にアナベラを養女にしたのだが、その瞬間からダンドロもアナベラに夢中になってしまった。
なんと言っても可愛い!姿形だけでなく、仕草も、声も、性格も何もかも可愛くてならない!緑の瞳を輝かせて『おとうさま』と呼ばれるだけで、頭がぽーっとして、何にも考えられなくなる。仕事も何もかもほっぽり出して、アナベラを眺めていたくなる。
子供は好きだったが、作れども作れども自分に似た男の子しか授からず、いい加減ウンザリしていた男にとって、アナベラはまさに『天からの授かりもの!』だった。
しかし!
ダンドロは握ったグラスを思わず床に叩きつけたくなった。(が、アナベラが選んでくれたグラスなので止めた)。一気に酒をあおると、テーブルに突っ伏した。
初めからどうにもならないことだと、十分承知していた。義父はめまぐるしく自問した。
自分をのぞいて、あんなにアナベラを愛している男がいるのか? あんなにアナベラに尽くした男がいるか(自分をのぞいて)?命がけでアナベラを救い出した男がいるか?(残念ながら、その時は宮殿でお留守番でした)・・・・・・アナベラの夫はアンドレアしかいないじゃないか!でも、嫁に出したくない!!
以上を200回ほどリピートしたころ、夜が明けた。
そしてダンドロが得た答えは→→『絶対に結婚反対!』だった。
まだつぶれている息子たちを置き去りにして、庭園に出る。
嫌みなほどさわやかな青空を仰ぎながら、どうにかアナベラを引き留める術はないかと、ふらふらと歩いていると、反対側の扉が開き、誰かが近よってきた。
ダンドロはがんがん痛む頭で、近づいてくる人影を睨んだ。
いまは誰にも会いたくなのだ!と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
朝露に光る薔薇をかき分けてやってきたのは、アナベラだった。
純白の衣装に身を包み、胸元にはシルヴェストロが送ったダイヤモンドが揺れている。
思わずダンドロは息をのんだ。心臓が激しく打ちだす。
「ダンドロさま」
アナベラはダンドロの正面まで来ると、足を止めた。なぜもどってきたんだ?と言いかけたとき、アナベラはひざまずいた。
「ダンドロさま、あたしは今日、ヴェンドラミンさまの元へ嫁ぎます」
昨日までとはうってかわって改まった口調に、ダンドロはとまどった。
「あたしのような者を養女になされたために、色々なご迷惑をかけたと思います。あなたさまだけでなく、ヴェロネーゼさまや他のご子息にも・・・・・。それですのにいつもいつも実の娘のように大事にしてくださって・・・・・。いくら感謝しても足りません。このご恩は決して忘れません。なにかお礼をしたいのです。でもどうして良いか分からなくて・・・・・。ダンドロさま、あたしに出来ることはありませんか?」
言い終えて、アナベラは顔を上げた。
真っ直ぐに向けられた瞳に彼女の真心がこめられていた。
ダンドロの頭の中で、『嫁に行くなぁ!』という叫びがオーケストラになっている。
が、口に出さなかった。
それよりもアナベラの気高さに、激しく感動していた。
そっと、細い肩に手を乗せた。
「アナベラ、せっかくの花嫁衣装が汚れてしまう。立ちなさい。君はわれわれに恩を感じる必要など、ないんだよ」
戸惑いを浮かべてアナベラは立ち上がった。
「でも・・・・」
翠の瞳に影が濃くなるに従って、ダンドロもだんだんと自分の浅ましさが恥ずかしくなった。
だが彼女と過ごせた数週間が、どんな思い出より煌めいているのも感じた。
私は宝石のような素晴らしい娘を持ったのだ。
ついでに、うじうじと悩んでいた気持ちも青空の彼方へどっかーんと吹っ飛んだ。
シルヴェストロ・ダンドロは背筋をぴーんと伸ばして、アナベラを慈愛に満ちた目で見下ろした。
「私は君を本当の娘だと思っている。楽しかったよ。まるで夢のような日々だった。・・・・アナベラ、もし君が少しでも私を父だと思ってくれるなら、今一度、父と呼んでくれないか?」
こんな月並みなことしか言えない自分が悔しい。でも、言わずにいられない。
アナベラは初め遠慮がちに、しかし最後には気品さえ漂わせて彼を見つめた。
そして、心をこめて言った。
「おとうさま」
じ〜〜〜ん、ときて、不覚にもダンドロの目から滝のように涙があふれた。
「おとうさま・・・」
アナベラの瞳にも涙がこみ上げてきた。
ダンドロは慌てて、ハンカチを取り出すとアナベラに差し出した。
「ほらほら、花嫁が泣いちゃいけない。アンドレアが心配する」
「はい・・・はい・・・」
震える声でハンカチを握りしめるアナベラが愛おしくなって、ダンドロは抱きしめたくなった。
その時、背後にぞっとするほどの視線を感じて振り返った。
「ちちうえ〜ずるいぃぃぃぃぃ〜〜〜!」
いつの間によってきたのか、10人の息子たちがこんもりと人垣をつくって恨めしげな顔を並べている。
思わず、アナベラを背後にかばった。
「おにいさま?」
はっとしてアナベラが声を上げた途端、人垣は瞬く間に崩れて、次の瞬間にはとろとろに目尻を下げた10の顔が整列していた。
「おにいさまって、言ってくれた?」
と、一糸乱れぬ10の問いに、アナベラは胸が詰まりながらも、義兄たちの前にすすみでた。
「そうです、あたしのおにいさま・・・・・!」
「あ、アナベラぁ・・・ ?」
11の震える声には、ダイヤモンドより硬い決意がこめられていた。
すなわち、『我々はアナベラの身内として、立派な式を挙げてやろう!!』







総督府宮殿。ヴェンドラミンのお部屋。ちなみに式まであと30分。
すっかり支度を終えた花婿は、カツカツと靴音を響かせながら鏡の前をなんども往復していた。
「どこかおかしいところはないか?なぁ、シルヴェストロ、よく見てくれ」
「う〜・・・・・・」
問われても、もう返事をする気もない。かれこれ一時間、同じ事を繰り返している。
つまり、彼の心中はこんな具合に経過。
『アンドレアって初々しいなぁ』→『そんなに心配しなくても、良い花婿さんだって』→『おいおい、まだ気になるのか?』→『見え張らないで老眼鏡をかけろよ。じぶんで見ろって』→『もう、たいがいにしてくれ。ああ、男の相手より、可愛い女の子がいいよなぁ』→『あ、そうだ、アナベラに会いに行こう』→『会いたい、会いたい、可愛いアナベラ?』→『だめだ、私はアンドレアの世話係だった・・・くそー!妻の一言がなければぁああああっ!』・・・・。
義兄の態度など全く目に入らない総督は、顔に心配を貼りつけて、すがるようなまなざしを向けてくる。いらついても、やっぱり見捨てられないダンドロは、ぽんぽんと総督の肩を叩いた。
「アンドレア、どんどんテンションが下がっているぞ、落ち着け。おまえさん、これからアナベラと暮らしてゆくんだろう?そんな頼りないところをみせたら、あの子が心配するぞ」
そのとたん、耳障りだった総督の足音がぴたりとやんだ。が、ヴェンドラミンはすーっと水平移動すると、くるっと振り返った。
先ほどまでの心配は消え失せて、とろけそうな顔をしている。
「そうだった、そうだったねぇ?」
再び音もなく、ダンドロの前に来た。
「こいつぅ・・・・」
ダンドロが床に目を落とすと、ヴェンドラミンの足が5センチも浮いている。
気づきもせず、花婿はうっとりと頬を染めている。
「ああ、長かったなぁ、いろいろあったなぁ・・・」
これまでのいきさつを全て知っているダンドロも、ほろりとなった。
「そうだな、火事場から救い出したり、海賊から奪い返したり、波瀾万丈な恋だな。幸せになれよ、アンドレア」
「もちろんだ!儂はずっと考えているんだ。朝起きたら、あの子とどんな言葉を交わそう?昼は海を観ながら二人っきりで食事をして、夜はあの子が眠るまで優しく抱いてやったり・・・。どう思う?シルヴェストロ、アナベラは喜ぶかな?それとも恥ずかしがるかなぁ。ああ、そうだゴンドラに乗せてリドまで渡るのも良い考えだ。もちろん、儂が漕ぐ。二人っきりで波間を越えて、別荘へ行こう。浜辺に着いたら、ドレスが濡れないように抱き上げて・・・・・・・アナベラが儂にぎゅっと抱きついて・・・きゃっ」
頬を染めてうきうきとしゃべりつつ、今度はウサギのように部屋をスキップしている。
なんだかもう、ダンドロは何も言いたくなくなってきた。
恋したことのある男なら、ヴェンドラミンの気持ちは十分理解できる。
自分も同じ事をしたこともあるしね。愛人ごとにバリエーションは変えているけど。
「アナベラ、アナベラ、愛しているよ。もう決して離さない。ずっと、一緒にいよう。朝も昼も夜も、儂だけのものだ。愛してるよ〜!」
くぅぅぅとくちびるを噛みしめながら、ヴェンドラミンの襟首を掴もうと手を伸ばしたとき、はたと義父は思い当たった。
こう見えて、ヴェンドラミンは意外と独占欲が強い。他人は知らないが、自分はそういう場面ばかり見ているのだ。
シルヴェストロ・ダンドロはう゛〜んと唸りながら記憶をたぐった。
あいつの両親は物惜しみしない人々だったが、息子はちっとも似てないぞ。
いつからけちんぼになったんだっけ?
アンドレアが23歳の時、お気に入りの金時計を黙って借りたときからか?いいや違う、20歳の時、カーニバルの仮面が気にくわなかったんで、あいつの仮面とむりやり取っ替えたあとからか?そうじゃない。
19歳の時、レデントーレ教会のミサで(途中省略。ただし、同様な内容が10項目続く)そうだ、分かったぞ!5歳の時、あいつが叔母上から頂いたキャンディーをおれが全部くった時からだ!
ということは・・・・・・!
その考えは、ダンドロをとことん打ちのめした。
今日限りでアナベラとは会えなくなる!!
これほど彼が恐れた事実はなかった。全力で阻止しなければ!
ダンドロはちょこっと疲れて窓辺にたたずむヴェンドラミンに、おそるおそる近づいた。
そして、銀色のしっぽをぱたぱたと振りつつ、ねこなで声を出す。
「ねぇぇ、アンドレアく〜ん、こんど僕のお誕生日会があるんだけど、アナベラを呼んでもいいかなぁ?あの子が大好きなお菓子をいっぱい頼んであるだよ。それからね、もし、君たちに子供が出来たらね、アナベラは実家でお産するよね?妻がさ、ずっごくこども好きなの、しってるよねぇ?ねえねぇ、返事してよ、大親友のアンドレアく〜ん!」
ばったんばったんと忙しく床をうつしっぽを見て、ヴェンドラミンはあの誰もが魅了される微笑みを浮かべた。ダンドロはぞくぞくしながら答えを待った。
がっしりした手が義父の両肩に置かれる。
緊張のあまりしっぽがぴーんと立った。
ゆっくりとヴェンドラミンの口が開かれた。
が。
「やーだよーだ!」
べろーんと舌を出した。
「あ、あの、あ、え・・・と。アンドレアぁぁ???」
なおも追いすがろうとした時、断ち切るようにドアがノックされた。
「総督閣下、そろそろ大聖堂へ」
司教みずからが手招いている。
「はーい?」
固まっているシルヴェストロには目もくれず、ヴェンドラミンはくるくる回りながらドアへ向かった。
「アンドレアぁぁあああああ・・・・!」
誰もいなくなった部屋を、地獄の底から響くような声が震え上がらせた。
銀色のしっぽが黒く滑らかに、そして先っぽが鋭い矢に変わった。
総督は知らないが、C・D・Xには不文律がある。
すなわち、『何人もダンドロを怒らせてはならない。さもなくば、一生を後悔して終わる』。
平たく言えば、『障らぬダンドロに祟りなし』。



総督府宮殿内 C・D・X本部。ダンドロの腹心の部下、ニコロが忙しそうに机の間を歩き回っている。
ふと、背筋がぞくぞくした。
「風邪をひいたかな?」
と、額に手を当てかけた時、ドアが軋みながら開いた。
その途端、北極直輸入かと思うような風が吹き込んできた。
すーっとドアの向こうに黒い影が浮かぶ。
「ひぃーっ!」
ニコロは動物的な本能で裏口へ走った。
だが、ダンドロもまた、部下の行動を知り尽くしていた。人間とは思えぬ早さで駆けよると、がっしりとニコロの肩を掴んだ。
「君はお利口だよね?ニコロ君」
ねっとりとまとわりつく声に、世界一哀れな部下はがくがくと首を振りながら答えた。
「はいはいはいはいはいはいっ!なんでも仰せの通りにっ」
その様子にダンドロは満足げに瞳を縦にして、にたりと笑った。


「ああ、遅刻だ、遅刻だ」
真っ白な礼服も真っ青に染まるくらい全力疾走するパオロの耳に、不意にバタン、バタンという音が飛び込んできた。ここは総督府宮殿の豪奢な廊下。ましてや結婚式の当日に響かせるたぐいじゃない。首をかしげつつ、中庭へ方向転換する。おりれば中庭という階段の横、名物軍神マルスの巨像の陰に身を潜めた。
「なんだぁ?」
眼下の庭の片隅におかれた『どこでもドア』×10から次から次へと黒衣の男たちが出てくる。誰も彼も顔をこわばらせてC・D・Xの本部のある部屋に向かっている。
ふと気配を感じて空へ目を向けると、2隻のカティーサークが浮かんでいて、その下ではクラーク・ケントが両腕を突き上げ、真っ赤なマントを翻している。
パオロがあんぐりと口を開けていると、船首から絶え間なく黒衣をももんがーのようにふくらませて男たちが滑空してきた。
そのうちの一人に見覚えがあった。『白き傭兵』の情報部によれば、昨日まで赤道直下のある国で反政府勢力のスパイをしていた男だ。
ただならぬ事態が起こっているようだ。全身の皮膚がぴりぴりしてくる。パオロもまた、男たちのあとに続いた。
「ニコロくん?どこだい?」
C・D・X本部は殺気だった男たちであふれかえっていた。その真ん中でお目当ての青年が、必死の形相で指示を出している。
一瞬、人が途切れた隙をついて、パオロはニコロを隣の小部屋に連れて行った。
「ぱ、パオロさ〜んっ、会長ぉ!」
言葉の終わらぬうちに、滝のように涙が流れ落ちた。
「よほど大事のようだね。私で出来ることがあれば、何でもするよ」
「してくださ〜い!たすけてくださ〜い!もうだめですぅ」
今にも倒れそうな顔色に、パオロはぴーんと来た。これは国に関わる一大事とかそういうものとは別次元の、とんでもなくくだらない事が起きていると。
それは大当たりなんだが、この鋭さに理由がある。
パオロのお仕事=ナーディル・カーン将軍の腹心・・・っていうより、お世話係(尻ぬぐい?)
ニコロのお仕事=ダンドロ卿の腹心・・・っていうよりお世話係(尻ぬぐい?)
この二人、同じよなーな境遇からツーカーになってしまっていた。ついでに同じよーな境遇の男も一人いて、(それはうさぎを溺愛する暗殺者・ロシュフォールさんの部下、ピッコロくん)つい先日『しょーもない上司に悩まされる哀しい部下の会』を結成したばかりだった。ちなみに会長はパオロ、副会長はニコロ、会計係はピッコロ。ときどき交代するきまり。随時会員募集中。
それはおいといて。
ニコロは事の詳細をパオロに打ち明けた。
聴いて、パオロの顔色が無くなった。頭をかかえた。
毎度毎度こんな目に遭っていると、怒りを通りこして呆れてくる。
「ええと『総督閣下を酔いつぶして恥をかかす』?ほっとけば?ダンドロ卿だって、自分の行動に責任を持っているはずだし」
きっぱりとニコロは首を振った。
「んなわきゃないですよ。あの方はやると言ったら、どんな汚い手でもためらわないんですから」
納得しかねる様子で、パオロはニコロの顔をのぞき込んだ。
「で、野望達成率は?」
「過去十年間で100〜117%」
くどいようだがと、訊いた。
「これが成功したら、内紛になるかもよ?・・・っていうか、市民の笑いものじゃん」
ニコロは手をひらひらさせた。
「卿の暴走には慣れてますから、酒の肴になるだけですよ」
「こりゃあかんわ」
「そうおっしゃらず〜助けてくださいよぉ!何でもしてくれるって、いったじゃないですかぁ」
「あーそうだった、悪かった。でもね、いいのかい?君がやろうとしていることは軍法会議ものだよ?」
確かめるように、語気を強める。一瞬、怯んだが、ニコロはきっぱりと言った。
「何度も考え抜いた結果です。ここで止めておかないと、ダンドロさまのご名誉に関わります」
パオロは不覚にも涙がにじんできた。ぎゅっと、副会長を抱きしめた。
「君は部下の鑑だねぇ。うんうん、卿は幸せ者だ」
だが、ニコロは震えながらも首を振った。
「違います、そうじゃありません、もっと、恐ろしいことに・・・想像を絶するような・・・・!」
「恐ろしいこと?」
知りたかったが、ニコロの怯えた目にパオロは口をつぐんだ。
ともかく、ニコロは信用のおける男だし、彼の言う『恐怖』は並大抵のものじゃないんだろう。
いまは、ダンドロ卿の暴走(ああ、ため息・・・)を阻止することが最善だと、パオロは判断した。
おもむろにポケットから小さな藍色の手帳を取り出した。表紙の裏に写真らしき物が貼りつけてある。
「なんです?」
怪訝そうにニコロがのぞき込んで、顔を赤くした。
焦って、パオロは手帳を伏せた。いつも冷静な顔が真っ赤になっている。
「妻の写真だ。いいだろう?こっちはいつも世界を飛び回っていて、滅多に逢えないんだから!・・・えっっと」
焦りつつも、指はきびきびとページをめくった。3枚目でびっしりと名前の書き込まれたページに行き当たった。
「ダンドロ卿の心配をする人間が目の前に一人いるなら、ほかに30人はかくれていると・・・・」
「私はゴキブリじゃありませんって」
パオロは窓を開けると、港に浮かぶゴンドラの一つに手を上げた。同時に碧の帽子のゴンドリエーレが船から飛び降りて、足早に真下までやってきた。
パオロは素早くペンを走らせると、メモをちぎって投げた。
受け取ったゴンドリエーレが再び船に駆け戻ってゆく。
パオロは誇らしげに言った。
「いま、この国にいる『白き傭兵』の情報員に指示を出した。ニコロ、我々の底力をお目にかけよう!」



ていう大騒動が起こっているとは知らずに、待ちに待った総督&アナベラの結婚式は無事に終了した。
次は待ったなしの披露宴?
浮き立ったヴェンドラミンの命令で、大聖堂前のサン・マルコ広場を解放しての披露宴になった。しかも市民、外国人問わずの参加が許されており、飲み放題・食べ放題のサービスで、美人のお酌つき!一万人は余裕で収容できる広場は、てんやわんやの大騒ぎになっていた。
サン・マルコ大聖堂の門前に金の有翼のライオンを載っけた 3本の高い竿が立っている。その真下が、主役の指定席だった。
が、ヴェンドラミンとアナベラはまだ聖堂の一室にいた。
アナベラはまだ、夢を見ているような心地で、ほんのりと頬を染めている。その手の中に、小さなヴェネチアングラスが収まっていた。微かに薬草の香が立ち上っている。
「・・・・おとうさまが、『今日は断り切れない事があるだろうから、飲んでおきなさい』って・・・」
うれしさの中に戸惑いが混じった声に、ヴェンドラミンはグラスを受け取って、一口ふくんでみた。
慎重に吟味して、やがて、大きく頷いた。
「ワインに薔薇、月桂樹、天人草が入れてある。それと、ダンドロ家秘蔵の薬・・・。父上の心遣いだ、アナベラ、飲んでおくと良い。これなら決して酒に酔わないだろう」
「でも・・・・」
声に戸惑いの色が濃くなる。ヴェンドラミンは、アナベラがとんでもなく酒に弱いことを知っていた。
一口でも飲んだら寝てしまうのだ。
でも、今日はちょっとサケて通れない。
グラスと返すと、花婿は懐からアメジストの首飾りを取り出した。それまで胸元を飾っていた、真珠と交換する。
「これは、儂からだ。これもヴェンドラミン家に伝わる酔い止めだが、儂の花嫁殿、今日だけはシルヴェストロの言うことを聴いてほしい。お願いだから」
アナベラはグラスと夫を交互に見て、やがて頷いた。でも、不安は隠せない。
「かしてごらん」
優しくグラスを受け取ると、全てを口に含んだ。
そして、アナベラを力強く抱きよせると、くちびるを重ねた。
小さく音をたてて、花嫁は飲み下した。
ぽっと頬が上気する。それでもやはり効いているのだろう、少しも眠くならなかった。
「どうかね?」
口づけの効果を確かめるように、アナベラの顔をのぞき込む。
しかし、花嫁は艶やかなくちびるに指を当てたまま、うつむいてしまっている。
「足りなかったかな?」
囁きつつ、再び頬に手がかかるのをアナベラは押しとどめた。
「誰もいないからって、ご冗談が過ぎます・・・」
ヴェンドラミンは意外そうに目を見開いた。
「本気だよ?」
「だめ・・・・ヴェンドラミンさま・・・・・」
声がだんだん小さくなり、頬はさらに薔薇色に染まった。
「そんなに見ないでください」
視線に気がついて、アナベラは両手で顔を隠して、背を向けた。
男女の仲は、時間が過ぎればそれなりに慣れあいが出てくるのだが、アナベラはまるで逆だ。
一昨日より、昨日、昨日より今日、慎み深くなっている。おそらく明日も明後日も。
長くアナベラのそばにいたが、こんな美しさを持っているとはまるで気がつかなかった。
ヴェンドラミンの胸は熱くなった。
「アナベラ」
抱きすくめると、彼女のたおやかな指がはらりと落ちた。花のような顔が現れた。
「儂のアナベラ、愛しているよ。誓うよ、二度と離さない。儂の手で必ず幸せにする」
「いつまでもおそばに・・・」
消え入りそうで、しかし喜びにあふれた声がした。
ヴェンドラミンはアナベラと向かい合うと、頬を伝う涙を温かな手でそっとぬぐった。

「あちゃー・・・・・」
一部始終を柱の影から見ていたパオロは、茹でタコになっていた。
手の中にある酒瓶が、熱でぐらぐらと沸騰している。
式のあと、総督夫妻がここに来るのを知って、ある物を渡す予定だったが、二進も三進も行かなくなったしまった。
「どうするよ、これ・・・」
いくら手の中の瓶をみつめても答えは出ない。こんなところを見つけられるのも、困る。
ひとまず、こっそりとニコロの元へもどった。


「渡せましたか?」
ニコロは期待で目をきらきらさせながら駆け寄ってきた。
が、パオロは足を止めずにニコロの袖を掴むと、そのまま引きずっていった。
「第2案!」
え?と聞き返そうとしたが、パオロが必死に涙を堪えているのに気がついて、口を閉じた。


ていう大騒動が起こっているとは知らずに、やっと主役の二人が広場に姿を現した。
大歓声が広場を揺るがしている。たぷんたぷんと港のゴンドラも波に揺れながら、祝福している。
どうやら、満潮が近い。
ダンドロは感極まったという様子で、ヴェンドラミンとアナベラの横に並び、次々と訪れる賓客に挨拶をしている。
自分のグラスにはどんよりした色のワインがたぷたぷしているが、主賓の二人のグラスはまだ空のままだ。
パオロはこの幸運に感謝しながら、急いでヴェンドラミンに近づいた。
人混みをかき分けて現れた女性に、居合わせた人々は一斉に息をのんだ。
イタリア中の美女を集めてごった煮にしたような容姿に、皆の視線が釘つけになっている間に、正装したニコロがダンドロの元へ駆け寄った。
「遅くなりまし・・・わぁっ!」
叫び声と同時に、ゴン、ガンっ、ギンっ!どこをどう引っかけたのか、3本の竿に景気よく頭をぶつけた。
そして極めつけが、ヴェンドラミンの背中。よろめいた拍子に、これもまた景気よく手の中のグラスがきらきらと光りながら空を飛び、こっぽんとパオロの胸元に飛び込んだ。
「す・・・すぅみませぇぇ〜ん・・・・・」
こぶを3っつも作って、ニコロは地面にひっくり返っている。
慌ててアナベラが介抱している隙に、パオロはグラスをドレスに押し込むと、優雅な身のこなしでヴェンドラミンに歩み寄った。
「何をやっているんだ、しっかりしろ、ニコロ!」
ダンドロとアナベラが、ニコロを従者に託すために二人から離れた。
「まぁ、おけがはありませんか?」
ニコロ、捨て身でよくやってくれたと感謝しながら、よろめいた花婿に手を貸した。
「これは、もうしわけない・・・・おや、儂の・・・」
きょろきょろと足下をさがしている。パオロは妖艶な声で囁いた。
「ヴェンドラミンさま、お探しの物はここにございます」
そして、自分のグラスを総督に握らせた。
「今夜のお仕事が滞ってはなりませんわ」
グラスとパオロの顔を交互に見ていた総督の顔色が変わった。
「君は・・・?」
「カーン将軍の使いです・・・」
将軍、嘘ついてごめんなさいっ&総督、はやく飲んでくださいっ、と心の中で叫びながら、パオロは辛抱強く、半ば引きつりながら笑顔を作った。
だが、ヴェンドラミンは一歩後ろへ下がってしまった。首の後ろの毛が逆立っている。
G 若い頃は美女にモテモテだったので、直感でオトコは見抜いてしまう。
「ほほう?なかなか気の利いた贈り物だねぇ・・・・」
ざざざっとパオロの背中に悪寒が走ってつららになった。
声のした方を見ると、ダンドロが薄笑いを浮かべて、ヴェンドラミンのグラスを奪っている。
「どれ、わたしもご相伴しようかな?」
言いつつ、一気にグラスを傾けた。
「あああ〜」
ごっくんと音がして、パオロ特製の酔い止めがダンドロの腹に消えた。
口元をぬぐうと、さらにすごみの増した笑みを向ける。
じりじりりーっん!パオロの動物的な本能が、けたたましく避難警報を鳴らす。
(この男には絶対に勝てない!逃げ出したーいっ!)
が、あろう事か、最高の傭兵であるはずの男の足は、地面に釘づけになっていた。(っていうか、ダンドロがすそを踏んでいた)
「さて、麗しいお嬢さん、君の酒はこれまで味わった物では最高だ。だが、君の唇はもっと私を酔わせてくれるだろう?」
言うやいなやダンドロの手がパオロの顎をとらえた。
だが、パオロは動けない。動こうにも硬直してしまっている。
(びゃ〜っ!)
彼の悲鳴はダンドロの唇でがっちりとふさがれてしまった。
「ふふふ、今度は私の寝室へお招きしよう」
余韻を楽しむように唇をなぞりながら、ダンドロはパオロを解放するとウインクまで投げた。
言葉の終わりを待たずに、パオロは姿を消した。
ダンドロの後ろではヴェンドラミンが気味悪そうに、顔をしかめている。
「おまえ、悪趣味だな・・・知り合いか?」
「まぁね。それよりもアナベラがもどってきたぞ。笑え、アンドレア」
その言葉に慌ててとろけそうな笑みを作ると、アンドレアは花嫁を招き寄せた。
アナベラは花のように微笑むと、華奢な体をそっとヴェンドラミンに押しつけた。
仲むつまじさに燃えるような嫉妬をめらめらさせながらも、ダンドロは完璧な『花嫁な父』ぶりでアナベラに言った。
「客が途絶えてきた・・・。カフェ・フローリアンの前で妻が退屈そうにしているのが、見えるかな?少しの間でいいから、話し相手になってほしい?私の代わりに」
指さす先、回廊の一角に一段高い席が設けられ、一人の女性が座っている。
アナベラはちらとヴェンドラミンを見上げたが、夫は促すように頷いた。
「助かるよ、すまんな、アンドレア!」
アナベラが従者と共に群衆の中へ消えるのを見届けて、ダンドロは目をきらきらさせながら言った。
「なぁに、夫の勤めだ」
余裕を見せながら、それとなくダンドロの様子を窺う。ところが、彼もまた、背を向けていた。
「どこへ行くんだ?」
「ニコロの様子を見てくる。すぐもどるから、客の相手を頼むぞ!」
ダンドロはあっという間に姿を消した。ヴェンドラミンは拍子抜けしてしまった。
「このまま引き下がるとは、思えんのだがな・・・・・」
その時、ヴェンドラミンは気がついていなかったが、周りでは妙な人の流れが起きていた。


ダンドロは総督府宮殿へもどると、十人会議の間へ入った。誰もいないのを確認して床の一部を叩く。すると音もなく足下が円形に浮き上がったと思うと、ダンドロを乗せたまま、床の中へ消えた。
ひんやりとした空間を覆う闇を払うようにLEDライトが輝き、重厚な扉を照らしている。
扉の前に立つと自動的に横へスライドして、ダンドロを迎え入れた。
そこは広々とした空間で、正面には巨大な液晶スクリーンがあり、何人かの黒衣の男たちが黙々とキーボードを叩いている。
その中央、一段高い革張りの席に、ダンドロは腰を下ろした。
すかさず男の一人が駆け上がってきた。
「全て順調に進んでいます」
言いつつ、階下の一人に合図すると、スクリーンがぱっと輝き、サン・マルコ広場を上空から映し出した。
中心にヴェンドラミンが映っており、取り囲むように二重三重の人の輪ができている。
その数およそ三百人。
「ご指示のとおりのフォーメーションです。総督の前後に『ヨイショ&ヨイショの会』、『コルフェライ親衛隊』、右に『アナベラの結婚を邪魔しちゃうよ同盟』、左に『アナベラファンクラブ(ダンドロの子供たち)』、『嫉妬に燃える貴族の集い』この五つのグループを補佐する形で、『なんでもいいから騒いじゃえ紳士録』が控えています。もちろん、彼らの間には我ら、C・D・Xの精鋭が細かく指示を出して計画を推し進めています!」
黙って報告を聴いていたダンドロは、ぱちんと指を鳴らした。
同時にスクリーンが切り替わり、X−Reyを通したものに変わる。部下が示したグループの一人一人が骨格になって写り、腰には一升瓶がくくりつけられているのが見えた。
「中身は、沖縄の泡盛『珊瑚礁(アルコール度40度)』、アリエのグラッパ『リゼルヴァ・デル・フォントーレ(45度)』、イギリスの『ゴードン(47.3度)』です。これならいくら総督閣下でも・・・」
部下の言葉を手で遮り、ようやく満足そうに笑みを浮かべた。
「式前のわずかな時間でよくぞこれだけの手配をしたものだな、我がC・D・Xは!・・・・・これでアンドレアは大恥をかいて、アナベラの婿にはふさわしくないと証明できる。私は今夜からアナベラと一緒に暮らせるというわけだ!わははははっははははははっははははっはははっははっははっはっは!」




男に唇を奪われて、泣きながら身を隠したパオロだったが、やはり『白き傭兵ナンバー2!』 の地位は揺らがなかった。(イソジンうがい液で消毒はしたけど)
立ち直るとヴェンドラミンから少し離れた一群へまぎれる。
「准将!敵(?)の攻撃が始まっています!」
せっぱ詰まった声で囁いてきたのは、パオロと同期入隊のマデリーン。うっとりするような美女だが、一撃で象をも倒すキックを放つ。パオロは用心深くあたりを見ながら、客の中に何人ものC・D・Xを発見した。目立たないようにイヤホンを着けているが、あれでダンドロの指令を受けるのだろう。ちょこまかと動き回りながら、客の一人一人に何事かを話している。話しかけられた相手は次々と前に出て行った。
そのあとを追う形で見知った男たちが動く。その中の一人がC・D・Xの傍らについた。手にはグラスを持っている。
「あ、あれは、ジョディ?ミラノの大聖堂に派遣されていたはず・・・」
「そうです、『憂いのジョディ』です。一番に駆けつけてくれました」
その男の噂はパオロの耳にも届いていた。一緒に戦ったことはないが、『白き傭兵』ナンバー1の聞き上手で勧め上手。彼にかかればどんな相手でも酔いつぶされる。
と、おさらいしている間に、標的のC・D・Xは二三歩あるいたところで地面に崩れた。
「お見事だわ!」
思わず女言葉になってしまった准将に、マデリーンが吹き出しそうになる。
「わ、笑わないでくれよ、好きでやっているんじゃない」
辛うじてこらえて、マデリーンはパオロの乱れたカツラを直した。
「とんでもない、綺麗ですよ。・・・・・殿方にしておくのはほーんと、もったいない。准将、私とローマで一緒に仕事をしませんか?いま、例の大臣が落とせなくて困っているんです」
いたずらっぽい目で言うマデリーンに、パオロは肩をすくめて見せた。
「冗談ばっかり。君に落とせない男なんていないだろう?部隊トップの『カサノヴァ』なんだから」
優雅なウインクを投げて、くすっと笑う。
「光栄ですけど、トップは今もカーン将軍ですわ」
「あの人は趣味でもやってるよ。今はオペラ座のエリック氏で遊んでいる」
しゃべっている間に、また別のC・D・Xと貴族らしい青年がふらふらになっていた。その背後ですらりとした男がパオロにVサインを送っている。
「今度はサティか?」
「ええ、近隣の国にいた全ての『白き傭兵』の仲間が来ています。准将が呼び寄せた人数の三倍が集まっています」
パオロは複雑な気持ちで唸った。
「90人も?ということは標的の6グループ全てに」
「ええ、ダンドロ卿の息がかかった人間に対抗できます。皆、すでに潜入しています」
改めてパオロは複雑な気持ちになった。自分が呼んだとはいえ、みな呆れているんじゃなかろうか?
その表情を読み取って、マデリーンがぐっと手を引いた。柔らかく言う。
「ねぇ、パオロ、そんなに深刻にならないで。貴方の悪い癖よ。みな今回の作戦を楽しんでいるわ。さ、私たち『女』は魅力を最大限に使って、敵の勢力を分散させるのが務めよ。行くわよ!」
言うが早いか、マデリーンはすぐ先のグループ『なんでもいいから騒いじゃえ紳士録』の一人に秋波を送った。たちまち獲物が引っかかり、一升瓶を手に近寄ってくる。
芋づる式に別の紳士も二人、くっついてきた。
「僕も女の役かぁ?」
「当然でしょ!ほら、笑ってっ」
パオロは自分の務めを思い出した。そう、全ては総督と将軍のため!
そして、極上な悪女の微笑みを浮かべて見せた。

パオロ率いる(っていうか、マデリーンがパオロの尻を叩いているが)『白き傭兵』と ニコロ率いる『常識的なC・D・X』の混合軍は快進撃を続けた。
所詮、結婚が気にくわない集団とはいえ、烏合の衆。世界最高の傭兵部隊と、ヨーロッパ最高の情報機関の敵ではない。(本命馬の『アナベラファンクラブ』は最初の攻撃で撃破された。今ひとつ粘りが足らない・・・)
まるでボーリングのピンが倒れるように、敵が倒れてゆく。しかもほとんどがストライク!
倒すのが男たちの役目なら、補充するのが女たちの役目。敵を分散させてつぶしたあと、無関係の客を敵の元いたグループにまぎれこませる。見た目では敵の人数の減少は分からない。
一方、別の役目の男たちはヴェンドラミンにもっとも近い敵の一升瓶の底を抜いて空っぽにしたり、ぶつかって割ってみたりと武器をつぶすことに専念していた。
この水面下の闘いで、誰もヴェンドラミンに酒を勧められない。
こうして、確実にダンドロの夢はついえつつあった。
だが、パオロには気がかりなことがあった。肝心のダンドロ卿が姿を現さない。ニコロから情報もない。
いったいどこにいるのか?果たして我々の動きを知っているのか・・・?

そのころ、ダンドロは地下の秘密基地でいらいらとスクリーンを睨んでいた。
立ちのぼる真っ黒なオーラに、誰も恐れて近づけない。
「おかしい、なにかが起こっているぞ。どうして誰もアンドレアに酒を渡さないんだ?」
壁一杯の画面には、騒乱状態の群衆があちこちで宴会を繰り広げている姿がうつっている。上空のカメラのため、一人一人の頭しか見えない。
ぱちんっと指を鳴らした。ヴェンドラミンと中心にした透視図に変わる。
「あっ!」
固唾をのんで見守っていた黒衣の男たちの間から、声が上がった。
開始直前はあれほどひしめいていた一升瓶がどこにもない。
「角度をかえろ。顔を確かめる」
俯瞰図から水平図に切り替わった。
あたりは水を打ったように静まりかえった。
誰一人、いない。いるのは一般の客ばかりだった。
「ふ」
薄気味の悪い声が、響いた。
「ふふふっ」
さらに。
黒衣の男たちの背中につららが立った。ある男などつららの重みでつぶれている。
その時、一人の部下が画面の端を指さした。
「あそこに我々の仲間がいます!そのそばにいるのは『白き傭兵の』マデリーンです!ニコロもいます!」
「ほう?」
瞳孔を縦にして、ねっとりと笑う。先のとがったしっぽがぴーんと立った。
「あれが噂のマデリーン嬢か。こんな形でお目にかかれるとはね。そうなれば、ニコロと仲良しのパオロ准将もいるはずだねぇ・・・・。ああ、そうかさっきの女が彼だな・・・。実に美しかったね。黒幕が誰かはあとにして・・・・・」
悪魔のつぶやきを耳にして、顔には出さないがほとんどがニコロに同情したり、感心したりした。
バレれば間違いなく絞首刑が待っているというのに。いや、ダンドロのお気に入りだから、一生をただ働きくらいですむかもしれないが。
「さて、どうしようか。まず」
ダンドロはマイクを握った。すーっと息を吸う。
そして。
「きさまら!ため息橋を渡りたいのかっ!」
この一言が、広場でひっくり返っているC・D・X全員の酔いを吹っ飛ばした。
ついでに基地の男たちも出口へ吹っ飛んだ。
「わ、我々も手伝って来まーすっ!」

形勢が逆転した。
参戦した『白き傭兵』たちの性格なのか、トップがダロガのせいなのか分からないが、彼らも『おつきあい』以上に酒を飲んでいた。同じく『常識的なC・D・X』も。事情を知らない、浮かれた客から勧められるし、むげに断れば騒ぎになるかもしれないし・・・。
という理由は建前で、やっぱり楽しんでしまったのだ。
そんな酔っぱらった状態で、敵の反撃を受けたからたまらない。敵もここでやらなければ、絞首刑が待っているのだから文字どおり命がけだった。
瞬く間に酔いつぶされる者が続出した。
友軍が次々と倒れる中、辛うじてパオロとニコロはなんとか動ける状態にあった。(マデリーンもやっぱりつぶれていたが、『わざと敵に介抱してもらう』というお色気技で戦っている)
「パオロさ・・・ん、もうだめですぅ・・・」
「弱音を吐くんじゃ・・・うぷっ!・・・まだ、間に合う・・・っ」
パオロが指さした先には、まだなーんにも飲めていない総督がつまらなさそーに立っていた。
周りを客が取り巻いているが、いくら酔いが回っていても、ヴェネチアの最高権力者に酒をすすめるという大胆な者はいないのだ。
まだ、ダンドロの計画は成功していないのだ!だが、戦力のついえようとしている今、野望が達せられるのも時間の問題。
パオロは遠のく意識の中で必死に考えた。そして、思い当たった。
力の入らない手でカツラを探る。あった、あれだけ動き回ったのに残っていた。
ふらつく足で立ち上がった。
「これを総督に・・・何とか渡すんだ」
パオロを支えるニコロが怪訝な目を向ける。差し出された小瓶にはまずそうな液体がたぷたぷしていた。
「これは?もしや酔い止めですか?」
こくんとパオロが頷いたとき、傍らを一升瓶をかかえた男が駆け抜けていった。
「ニコロ、ごめんっ」
軍人の意地が復活させたのだろう、パオロはむんずとニコロの腕を掴むと、男めがけてぶん投げた。
ひゅーん!
空をかけながらもニコロは体勢を立て直した。そして。
どっかーん。
三回転半のひねりをきかせて、敵の背中へ着地。周りからは10点!の声が上がる。
ところが、敵が持っていたはずの瓶がない。
「ニコロ!向こうだ!」
パオロのしめした方を見ると、別の男が瓶をかかえて走り出そうとしている。
今度はパオロがダッシュをかけた。
総督までの距離はおよそ20m。死にものぐるいで追いつき、タックルをかませる。瓶を取り上げようと思った瞬間、またもや他の敵の手が伸びて、瓶を持ち去った。
「准将っ!」
声と共に敵がもんどり打ってひっくり返った。今度、瓶を手にしているのは、サティ。だが、彼も立っているのが精一杯だった。パオロより早くニコロが駆け寄り、瓶を受け取った。
走り出す。
これをどこかへ運ばなければ!見回すが客に取り囲まれてしまい、身動きができない。
「ニコロ!こっちへ」
パオロの叫びがきこえる。ところが動けないばかりか、見覚えのある黒衣の男たちが集まってきた。
「まずいぞ・・・」
ニコロの周りから点々と敵が総督まで続いている。いったん瓶が手に渡ってしまえば、リレーで総督まで一直線だ。しかも、最後尾は情報によればヴェネチア一の勧め上手の男!こんどこそ総督は・・・!
その時、悲鳴が上がった。
「あたしのドレスが、いやーぬれちゃうっ」
パオロはとっさに足下をみた。
ヴェネチア名物アクア・アルタだ。海水が広場に満ちてきている。ひどいときは胸元まで押し寄せるときがある。
ご婦人方が声をあげながらドレスをたくし上げ、慌ただしく広場の奥へ移動しはじめた。
その流れに逆らえずに、敵も浮き足立っている。
パオロは叫んだ。
「ニコロ、脱出しろ!」
瓶をかかえたまま、とっさに包囲網を突破した。
敵が追いすがる。
パオロが助けに入って敵を阻む。
ニコロはかわしながら右へ左へ逃げる。このまま総督と反対方向へ!
「タッチダウン!」
ついに振り切った!歓喜の雄叫びを上げようとしたとき、聞き覚えのある声がかかった。
「おお、ニコロじゃないか、儂はもうのどがカラカラだったんだ。気が利くね」
手を引っ込める暇もなかった。
あっと思ったときには、一升瓶は総督の手の中にあった。
ニコロは悲鳴を上げた。
「ひやぁぁぁぁ」
追いついたパオロが叫んだ。
「閣下!お待ちくださいっ!」
「ん?」
だが、返事の代わりに帰ってきたのは、空になった瓶だった。
ぽっとヴェンドラミンの頬が桜色に染まる。
「うまい酒だった・・・」
瓶を受け取って、二人はおそるおそるラベルを確かめた。
「いったい、何を飲ませちゃったんだ・・・?」
ラベルには『これはゴードン(47.3度!)とっても強いお酒でーす。お酒は二十歳から』とある・・・。
パオロたちが呆然としている間に、ここぞとばかりに敵が押し寄せてきた。
「総督閣下、素晴らしい飲みっぷりですね。こちらもどうぞ!」
「いえいえ、私の酒がオススメですよ!」
「おお、そうか、どれ、みんな頂くことにしよう」
泣きそうな二人を尻目に、ヴェンドラミンは次々とグラスを空けていった。
誰かがパオロの肩を優しく掴んだ。振り返るとワインレッドのドレスの女が微笑んでいる。
「殿方の出番はこれまでです。あとはお館さまにおまかせなさいませ」
柔らかな物言いだったが、ニコロの顔が引きつっていた。
「もう、ダメだ・・・・・・バレた」



「わはははははは!よーし、うまくいっているぞ。アンドレア、もっと飲め飲め!」
ダンドロは愉快でたまらないという顔でスクリーンを見つめている。
野望達成はもう、確実だった。
ふと、思い出して、スクリーンを切り替えた。
広場の回廊のカフェ『フローリアン』が映し出される。アナベラが一人で座っていた。
ひときわ高い席はひたひたと寄せる潮から、彼女を守っている。ダンドロは隣に妻の姿がないことに、嫌な予感を覚えた。
「まさか・・・」
次の言葉をむりやり飲み込んだ。とんがったしっぽが忙しく床をはたいている。
すっと画面を赤い影が過ぎった。
ああ、妻のお気に入りの侍女だと気がついた。影が消えると、妻がアナベラの隣に今しも座ろうとしている。ほっそりとした右手は腰に当てられている。
ダンドロは大きく安堵の息をついた。
結婚生活も45年を迎えた夫には、ちょっとの仕草で相手の心の内を見破ることができるのだ。
もっとも、それを逆手にとることもできるのだが。
再び(実はとっても不用意だったのだけど)ダンドロは画面をヴェンドラミンに戻した。
一目見て彼は椅子から飛び上がった。
「な、どうなっているんだ?」
そこでは信じられない光景が展開されていた。

「ふふふふ〜ん♪」
ヴェンドラミンは愉しくてたまらないという顔で、飲み干した一升瓶を次々と放り投げ、お手玉をしている。その数10。
「そ、総督、もっといかがですか?まだご満足頂けないようにお見受けします!」
震える声でC・D・Xが差し出す酒を受け取り、軽く飲み干す。
それでも顔色一つ変わらない。
「もうおしまいかね?」
ちらりと視線を投げられ、男は恐怖に駆られた。これは、きっと、悪夢に違いない。
ゴードンを11本も飲んで、平気な人間がいるはずがない!
別の瓶を手にしたとき、音もなく、C・D・Xの前に一つの影が現れた。
黒衣の男たちの間に戦慄が走った。
誰もが確信する一つの事実。
間違いなく、目の前にいるのは、悪魔だ。
「やぁ、遅くなってすまない、アンドレア!」
いつもするように親しげに手を挙げて、歩み寄る。だが、背後では真っ黒なしっぽが激しく地面をむち打っていた。
総督を取り巻いていたC・D・Xは、一斉に後ろへ下がった。彼らの本能がそうさせていた。
「待っていたぞ。シルヴェストロ!存分に飲もうじゃないか!」
明るく陽気な声だが、そこに挑戦的な響きがあるのをダンドロは聞き逃さなかった。
事実、ヴェンドラミンは挑発したのだ。
少年時代からの親友だからこそ、ダンドロの性格を知り尽くしていた。
ほしいと思ったら、どんな手段を使っても手に入れる。執念の男。
その標的が、今回は愛するアナベラなのだ!
可愛い新妻とラブラブ?な生活を送るためには、なんとしてもここで倒さねばならない!
「それにしても、アンドレア、ずいぶん飲んだなぁ」
地面におかれた一升瓶を眺め、ダンドロは意味深な笑みを浮かべる。
「たいした酒じゃない」
もともと酒は強いヴェンドラミンだが、今日は気合いが入っているせいか、これっぽちも酔っていなかった。
「そうか、祝いの日に無粋なことだな。そういうこともあるかと思って、これを持ってきた」
茶色の瞳を輝かせながら、ダンドロが取り出した一升瓶は、ポーランドのウォッカ『スピリタス(96)度』!
今まで飲んだアルコールの倍の濃度である。
「すまないなあ、義父上殿」
ヴェンドラミンはさっと受け取ると自分のグラスに注いだ。
一気にあおり、そして、別のグラスにも注いだ。
いつもの魅力的な微笑みと共に、ダンドロに差し出す。
二人を取り巻いていたC・D・Xの間から恐怖のどよめきが上がった。
あふれんばかりに注がれたグラスを受け取りながら、ダンドロは身の毛がよだつような微笑みを浮かべている。
その表情が示すものを、彼を知る全ての人間が正確に読み取っていた。
すなわち。
『全ての決着は私が着けるべきなのだ。
それでこそ、ヴェネチア共和国の真の支配者シルヴェストロ・ダンドロ!
アンドレアを倒して、可愛いアナベラと?らぶらぶ?な生活を送るのだ!
夫だろうが、総督だろうが邪魔はさせん!』
「ありがたく頂こうっ」
ダンドロは勢いよく、グラスを干した。


カフェ『フローリアン』に来たものの、ダンドロ夫人はちょうど席を立っていた。アナベラは仕方なく、おつきの侍女に勧められるままアールグレイを飲んでいた。
好きな紅茶を飲みながらも、緊張していた。じつはアナベラが養女になってから、夫人には一度しか会ったことがなかった。しかも、ひどく不機嫌な顔をしていて、ろくに挨拶も出来なかった。そのあと『ジュスティニアン事件』に巻き込まれたり、時間のあいたときはダンドロと過ごすことが多くなり、けっきょく今日まで来てしまっていた。
ワインレッドのドレスを着た女性たちは皆、不安げなアナベラを気遣ってくれる。でも、気持ちが沈むばかりだった。
ふいにしわがれた声が降ってきた。
「おや、待たせたね、お嬢さん」
びくっと声の主を振り返ると、腰の曲がった老婆がアナベラの横に座ろうとするところだった。
慌てて手を貸そうとするのを威厳で制して、突き刺すような視線を向ける。
「あ、あの」
ぎょろりと目が動いて、アナベラのティーカップで止まった。
その目が侍女に動くやいなや、新しいカップがダンドロ夫人のテーブルにおかれた。
優雅なしぐさで手に取って、ゆっくりと香を確かめる。
恐ろしいほどの静寂の時間が流れた。だが、アナベラはじっと耐えた。決して夫人が自分を好ましく思っていないと分かっていても。
やがて、ダンドロ夫人がカップを置いた。
「・・・ああ、やっぱり緊張をほぐすのは、好きな紅茶にかぎるわねぇ。あなたも同じ紅茶が好きだと聞いて嬉しいよ」
包み込むような温かな笑顔を向けられて、アナベラは驚いてしまった。
碧の瞳が見開かれているのに気がついて、夫人はバツの悪そうな顔をした。
「そうだよ、そうだよ、びっくりするのも道理さね。初めてあった時は坊やと大げんかしたばかりだったからねぇ。あたしはすぐにかっとなるんだ。悪いクセさ」
「坊や?・・ですか?」
今度は素敵なウインクが返ってきた。
「うちの宿六のことさ。シルヴェストロ坊や。あたしより十も下だからつい言ってしまうんだ。あたしたちは幼なじみだったんだよ。親同士の決めごとで結婚したんだが、あんなに年下の亭主をもつなんて思いもよらんかった。こう見えても、あたしはミス・ヴェネチアだったんだよ?母親の実家のスペイン王室から縁談もあったんだ。それがまぁ・・・おっと、年寄りのグチをきかせちまったね。堪忍してね」
「いえ、そんな・・・」
言い足りなかったが、ホッとしてしまって言葉がでない。
夫人が、膝の上で固く握りしめられていたアナベラの手を、両手でそっと包んだ。
「ずっとあたしのことを気に病んでいたろう?ほんとに悪かったね。でもね、あなたが養女に来てくれて、あたしゃ嬉しかったんだよ。ほんとにだよ。信じてくれるかい?」
アナベラはためらいなく、頷いた。心から偽りなく。
「ああ、よかった。うれしいねぇ」
ダンドロ夫人は、無邪気な笑顔で何度も頷いた。この笑顔がアナベラはとても魅力的だと思った。
自分も年を重ねたら、こんな風になりたいと憧れるほどに。
「ああ、楽しみが増えた。あたしは娘がほしかったんだ。娘が出来たらああしよう、こうしようっていつも考えていた。昨日までは坊やが独占していたけど、今度はあたしの番だよ」
アナベラも親しみのこもった笑みで答えた。
ところが子供のようにはしゃいでいた夫人が、急に神妙な顔つきになった。
「アナベラ、お願いだから、あんなろくでなしの亭主を嫌わないでおくれな。あれは娘が可愛くてしょうがないんだよ。みっともないくらいベタベタするから、よしとくれって言ったって、聴きやしない。明日からも理由をつけちゃ押しかけるだろうけど、許してやってくれな」
「はい、喜んでお迎え致します、ダンドロ夫人さま・・・」
「他人行儀はよしとくれよ。あたしゃ、・・・・」
夫人の言葉を遮って、侍女が何事かを囁いた。
「事は順調に進んだようだ。どれ、見せておくれ」
うってかわって張りつめた声にアナベラがいぶかっていると、突如テーブルがスクリーンに変わった。
画面の下半分が青く左右に揺らめいていて、その中央に二つの赤い人影が映っている。人影に矢印がついていて、『体内アルコール度数75%』『体内アルコール度数78%』としめされ、この数字が刻々と上がってゆく。訳が分からないまま、アナベラが眺めていると、画面がもっとはっきりした。
初老の男二人が腰まで海水につかりながら、次々とグラスを干している。お互いになにか言っているが、ろれつが回っていない。
「ヴェンドラミンさま、ダンドロさまも!何が起こっているんです?」
振り返るが、夫人はいつの間にか姿を消し、代わりに侍女が穏やかな笑みで答えた。
「ご心配にはおよびません。全てお館さまにお任せください。・・・・・ヴェンドラミン夫人さま、もう少し奥へ参りましょう。だいぶ潮が満ちてきましたから」
下を見ると、すでに海水が足元を濡らしている。
「今年一番のアクア・アルタになりそうです」
見渡せば広場はすっかり海にのみこまれていた。慣れっこの市民はさっさとゴンドラに乗りこんで宴会を続けている。広場は巨大な船着き場になっていた。
「ヴェンドラミンさまはどこ?」
懸命に目をこらすが、探せない。そこへ背後から凛とした声が響いた。
「余興はこれまでだ、始末をつけにゆくぞっ!」
びっくりして振り返ると、後ろには仁王立ちになったダンドロ夫人がいた。
深紅の鎧に身を包み、腰は真っ直ぐに伸びている。手には鋭い剣が握られていた。
その名を『エクスカリバー』という。
すーっと漆黒のゴンドラが二隻入ってきた。先頭の船の舳先に竜が飾られている。夫人が乗りこんだ。
「ささ、奥方さまもご一緒に」
侍女が手を貸して、アナベラをゴンドラに導く。訳が分からないまま、夫人の後ろの船に座ってしまった。
波を切り裂き、数十艘ものゴンドラが横一列に並んだ。やはり深紅の武人が乗っている。
「お館さま、『カスティーリャ・ロッソ』そろいました」
アナベラを世話してくれた侍女までが帯剣していた。夫人はぐるりと視線を巡らし、きりりと唇を結ぶ。
ふっと、厳しかった表情がゆるんだ。人なつっこい笑顔をアナベラに向ける。
「あたしの可愛いアナベラ、まだまだ、話したいことがいっぱいある。あたしとお茶を飲んでおくれでないかい?」
「は、はいっ」
この事態で返事をしないわけにいかなかった。何度も頷きながら、アナベラの額に冷や汗が浮かんだ。
ダンドロ夫人は満足げにうなずき、そして、ライオンさながらの雄叫びが上がった。
「参ろうぞ!」
応えて勇ましい声が上がる。
『カスティーリャ・ロッソ』の船はヴェンドラミンたちの元へ爆走した。


「わぁぁぁぁぁぁ!お館さまが登場なされた。もうだめだっ」
「ニコロ、落ち着け!」
打ち寄せる波とC・D・Xに必死で逆らいながら、パオロとニコロが何とか総督を助けようとしていた時だった。ひしめくゴンドラを次々とはねとばし、深紅の軍団が猛スピードで近づいてきた。
ニコロの絶叫に黒衣の男たちも一斉に『ムンクの叫び』と化した。
「おい、まさか、お館さまが来たのか?」
「どうしてバレたんだ?俺たちは極秘にやっていたはずだぞ?」
口々に叫ぶが、どうすることもできない。C・D・Xは我先にと逃げ出した。
あとに残るはパオロとニコロ、総督とシルヴェストロ・ダンドロ。総督たちはまだ飲んでいる。
すでに二人とも目が泳いでいて、そのうえ気持ちよーく波にゆられて酔いが倍増している。
お互いに何かどなりあっているが、言葉になっていない。
とりあえず、翻訳した内容が以下。
「アンドレア、おまえなんかにアナベラはやらん、絶対にやらん!おまえなんかなぁ(以下自主規制)」
「てやんでー、アナベラは儂の妻だ、もう結婚しちゃったもんねー!おまえこそ(以下自主規制)」
舳先に竜を置いたゴンドラが、速度をゆるめながら近づいてきた。
あれほど怯えていたニコロが、急に落ち着きを取り戻した。パオロを振り返る。
「残念です。これまでです。恐ろしいことが起こります・・・でも、私は・・・・最後の・・・」
言われても、パオロには合点がいかない。ただ、C・D・Xの部屋でニコロが口をつぐんだ事と関係があるとは思った。彼もまた、冷静にゴンドラを見つめた。
ほどなく漆黒のゴンドラが目の前に、ぴたりと止まった。
燃えるような鎧を身につけた人物が、凍てつくような視線を向けていた。
「フアナさま・・・」
ニコロの声に、パオロは雷に打たれたようになった。
ヴェネチアではもっとも危険人物とされた名前だったからだ。
フアナ・デ・アレ・カスティーリャ。あの『狂女フアナ』の血を引く、どう猛な老女。そのひと睨みでヨーロッパ中を震え上がらせるという。かつて地中海のある国が滅びかけたのは、彼女の怒りを買ったためと言われている・・・・。
そして、いまはダンドロ夫人・・・。
「だれ〜ぇ?」
とろーんとした目で顔を上げたシルヴェストロ・ダンドロは、その場に凍りついた。周りの海水まで凍って、氷山ができている。
「どーした?」
ダンドロの目線を追ったヴェンドラミンも、見るなり氷の彫刻と化した。
「おやおや、シルヴェストロ坊や、アンドレア坊や、ご機嫌ね」
ダンドロ夫人はざぶっと、ゴンドラから飛び降り、二人の間に立った。
「奥方さま、お気を鎮めてください!だんなさまにもそれなりの理由があって・・・!」
ニコロが必死に叫んだ。
その通りだけど、決して口に出せない理由だよな〜、とパオロは頷いてしまった。そして、ニコロの本当の目的が分かった。フアナの怒りが治まらなければ、ヴェネチアが滅ぶことも考えられるのだ。
パオロも口を開きかけたとき、フアナは震えがくるような微笑みを浮かべた。
「まぁ、良い子ね、ニコロ、あなたはほんっとうに良い子。心配ないでいいわ。あなたが思っているほど、あたしは愚かじゃないからね。今日は、夫たちにお願いにきただけよ?」
さっと手を差し出すと、すかさず金槌がのせられた。
二度三度、腕を振って、ウォーミングアップ。
ダンドロの首根っこを掴んだ。
「フアナさまっ」
「まぁまぁ、ニコロ、この年寄りにたいした力はないよ」
穏やかーな笑みで答えつつ、振り下ろした。
ガラスを千枚割ったような音が響き渡った。すかさずヴェンドラミンからも。それぞれ一撃で二つの固まりが砕け散った。
正気に返ったとたん、ダンドロは真っ青な顔で歯をがちがち鳴らしている。
「わ、わ、フアナ、ちょっと、ふざけたただけだ、だって、今日はメデタイ日だし、親友の結婚式だし」
「そうね、貴方は優しいあたしの夫。あたしの誇りよ」
今度はヴェンドラミンに視線を移した。
「ご、きげんよう、お姉さま、少しおふざけが過ぎましたが・・・おかげで酔いも覚めました!」
また凍りかけるのを、フアナはかたっぱしから割っていった。すっかり割り終えると、花のように顔をほころばせた。
「そうなの?役にたてて嬉しいわ。お願い事を聴くときは、頭がしっかりしていないとね?」
「そうです、その通りです」
「仰せの通りです!」
ぶるぶる震えてめちゃくちゃに頷く二人に、フアナはやってきたゴンドラを指さした。
「あの綺麗な娘さんと」
アナベラの乗ったゴンドラがフアナに横づけされた。
「ヴェンドラミンさま、お義父さま!」
身を乗り出しかけたアナベラを侍女が引き止めた。
「こちらへいらっしゃい」
フアナは優しくアナベラの手を握った。
「あたし、アナベラとお茶を飲む約束をしたの。かまわないわね?」
二人の男は一も二もなく承知した。安堵しつつ、それくらいなら、たいしたことじゃないと。
フアナ・デ・アレ・カスティーリャ・ダンドロは天使のように微笑んだ。
「まぁ、嬉しいわ。じゃあ、迎えに来てね。そう・・・来年の今日あたり!」
「え?」
ヴェンドラミンもダンドロもパオロもニコロもアナベラも一斉に声を上げた。
だが、フアナは全く気にした様子もなく肩をすくめて見せた。
「だって、アンドレアもシルヴェストロもあんな大騒ぎをして、・・・・みっともないったらありゃしない!アナベラに恥をかかせたバツよ。反省しなさいっ!」
言うやいなや、フアナは軽々とアナベラの船に飛び乗った。
「ヴェンドラミンさまぁっ!」
慌てて飛び降りようとするアナベラを、ひょいと小脇にかかえてしまう。
「では、ごきげんよう。ほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほっ」
止めるまもなく、高笑いと共にゴンドラは走り去った。
遠くから微かにアナベラの悲鳴が聞こえてくる。
「海賊よりタチが悪い・・・」
パオロはぼーぜんと呟いた。