お茶々さま




いち早く気がついたのは、松平さんだった。
高く澄みきった空に、まぶしそうに目を細める。
『行かねばならん』
傍らで本を読む愛娘を、そっと振り返った。
とたんに声が挙がった。
「いってらっしゃい」
実はレイチェルは顔を上げていなかった。
しかし彼にはわかっていた。
『早めに戻るよ』 
優しく彼女の手を頭で押した。
それからゆっくりとした足取りで石段を登り始めた。
松平さんはしみじみと思った。
『この間までは、甲羅にしがみついて離れなかった娘が・・・』
感慨に浸る余裕もなく、足が滑る。昨日の雨がまだ残っている。
愉快ではないが、それ以上に彼の心を占めるものがあり、次の一歩の前には忘れていた。
『急がねば』
面影が胸をよぎる。
自然に、堅いくちばしに笑みが浮かぶ。
齢百を重ねても、まだこんな気持ちに振り回される自分が、面はゆくてならない。

ローレンスは階段を上ってくるガラパコスゾウガメを見つけた。
「松平さん?何かありましたか?」
呼ばれたそれは、黒曜石の瞳を一度、男に向け、それからゆっくりと首を空へと伸ばした。
視線を追った男が、はっとなった。
それから、何ともいえず穏やかな顔で笑いかけた。
「すぐに準備をしますよ」
彼の包み込むような笑顔が、どうにも恥ずかしかった。
この人間は私の気持ちを知っているのだ。
ローレンスは一礼すると、足早に屋上の階段へ消えた。

ほどなく、真っ青な空に点が現れた。それは瞬く間に形を整え、一羽の鷹となった。
ローレンスは高く腕をつきだした。
以前痛めた羽のため、独特な旋回をする。
しかしそれが彼女にしかできない優美な姿を編み出していた。
男は夢見るようなまなざしで、鷹を腕に迎えた。
「ようこそ、おいでくださいました。お茶々様」
鷹はねぎらうように短く啼くと、首を曲げて、結ばれた文をローレンスにほどかせた。
「確かに頂戴いたしました」
紙切れをポケットにしまい、ふと気配を感じると、いつの間にか巨大な亀が背後にたたずんでいる。
普段は雄弁な瞳がとまどいを浮かべている。
ローレンスは厳かな面もちで、片膝を着いた。
鷹は悠然と地面へ降りた。
人間は二人を見守りつつ、そっと立ち去った。
松平さんは何もいえないまま、頭をたれた。
鷹もまた黙って歩み寄った。
そして、お互いのくちばしがまさにふれあうとき、彼女の瞳は慎ましやかに輝いた。
『お会いしとうございました、松平様』
『・・・私もです』
松平さんはようやく顔を上げた。