私はぼんやりとベンチに腰かけていた。
空にはうっすらと夕陽の色が残っている。
「日の落ちるのが早くなったものだ。」
色が消えるまで眺めた。
足下でかさかさと葉が音を立てている。
私はマントの襟を立てた。
あたりはすっかり暗くなっている。人影も、足音もない。こんなところにいたら強盗にでも出遭いそうだが、それでも歩きだす気になれない。
(もっともケチな強盗など私の敵ではないが。)
「さて、………どうするかな。」
息をつき、来た道を振り返った。 
フィルシエル家に続く道。クリスティーヌはそこにいる。申し訳なさそうな彼女の言葉が耳に残っている。『エリック、今晩は泊まっていくことになるかもしれないわ。婦人はまだ動ける状態じゃないし、二人の世話をする人がいないから………。』
これを聴いた時、内心、足を痛めたヴィクトーリアに怒りを覚えた。だが、それ以上に婦人が心配だった。私は快諾すると、家を後にした。 
自分の気持ちの動きを思い返してみると、不思議さと驚きを覚える。クリスティーヌに愛されるまでは、他人の心配などしたこともなかったし、必要とも思わなかった。だが、これは心地よい発見だった。
心の暖かさとは逆に、足もとから指先から寒さが染みてきた。腹も空いてきた。
だが、立ち上がる気になれない。
独りであの部屋にいなければならないと思うと、さらに寂しく空しく思えた。
なぜ独りがさみしいのだろう?こんなにせつないのだろう?これまで誰とも暮らさずに生きてきた。孤独には慣れているはずだった。それなのになぜ?
クリスティーヌがいない。たったそれだけが、耐えられない?
私はゆがんだ頬に手を当てた。かつての強い自分を取り戻そうと。だが、蘇ってはこなかった。
木々の間から、ちらちらと明かりが見えている。どこかの窓の光。魅力的なぬくもり。
しかし今夜の私には縁のないもの。
そうは思ったが、引き寄せられるように通りへ出た。    
石畳に面した家のどこにも暖かな灯がある。
トボトボと足を運ぶと、中から話し声や、子供の声、食器のふれあう音がする。 
聴くまいと思いつつ、耳をそばだてる自分に気がついて、苦々しく思う。
いい年の男が何をやっているのか、情けない。
己を諫めながらも、目は窓に捕まる。
見ると、背中を丸めた男がそこにいる。
まったく、私としたことが!これがかつてオペラ座の人間を震え上がらせた男の姿か!
大袈裟なくらい体を反らして、窓の中の自分をにらむ。だが、やはりさみしげな姿は変えられない。
参ったが、認めるしかない。
私は『クリスティーヌのいる我が家』が恋しいのだ。オペラ座まで歩けば二十分で帰れる。誰もいない部屋が私を待っている。そこにぽつんといる自分を想像するのも嫌だった。
しかし一晩中街をさまようのも、こう寒くては気が乗らない。
「帰ろう。」
不意に思ってもいなかった言葉が飛び出した。しかしあらためて考える。
部屋でオルガンに向かっていた方が、気が紛れるだろう。それにもしかしたら、クリスティーヌが戻ってくるかもしれない。
そう思うと、急に足が速まった。
    
「おや?」
オペラ座まで来たとき、見上げた窓に明かりがあった。    
私は首をかしげた。クリスティーヌが帰ってきたにしては早すぎる。
「私の部屋に無断ではいるとは、いい度胸だな!」
おさえがたい怒りに駆りたてられて、私は部屋に走った。
間違いなく、私の部屋から明かりが漏れていた。人の気配もする。影のようにドアに忍び寄ると、力いっぱい開けた。
「あら、エリック、お帰りなさい。」
聞き慣れた柔らかな声が響いた。
エプロン姿のマダム・ジリーが片手に鍋をもって立っている。
見るとテーブルの上に湯気の立ちのぼるスープや、香ばしい匂いのパン、手のこんだ肉料理、鮮やかな色のワインなどがならべられている。
「夕食を作りすぎちゃったのよ。手伝ってもらおうと思ってね。」
あっけに取られている私に、マダムは明るい声で告げた。とたんに腹の虫が鳴った。
「まぁまぁ、メグみたいね。さぁ、召し上がれ。」
彼女はぽんと私の肩をたたいた。
料理を眺めつつ、私は思った。
たまには、独りもいいなぁ。