だからファントムはメグが苦手

        

メグ・ジリーは怒り狂っていた。
なぜなら、彼女がいつも自慢していた可愛らしい耳を、眠っている間にネズミがかじったのだ。しかも、二度も!
一度目は、さほど目立たなかった。でも今度は違う。
はっきりと残った歯形を見て、だれもが笑うのだ。一番気遣うべき恋人まで!
メグは、この怒りをどこにぶつけたらいいのか、よ〜くわかっていた。駆除してやるのだ、この手で!徹底的に!
そして、…………運命の日はやってきた。
    
大きな荷物を積んだ馬車が、何台もオペラ座の裏口に止まっていた。
むろん、ファントムは気がついた。
「支配人どもが言っていた、新作オペラの準備だな。今度くらいはマシなものを見せてほしいものだ。だが、どう力んだところで、私のオペラの引き立て役でしかないがな………。」
あからさまな嘲りを浮かべ、彼は足速に地下の闇に消えた。
これ以上かまっている気はなかった。
ファントムは現在、最高傑作と自賛するオペラの作曲の真っ最中だったのだ。
だが、人生の明暗がささいなことで分かれるのを、彼は知らなかった。

メグはいつもの真っ白なバレエシューズを脱ぐと、男物のごーっついブーツにはきかえ、気合いを入れてヒモを締めた。
準備はこれで終わったが、いま一度テーブルに広げておいた紙をよみかえした。オペラ座の平面図の描かれたそれには数えきれないほどの書きこみがしてある。
「メグ………ねえ、本気なの?女の子なのに、そんなかっこうして……、みっともないわよ。」
ジルダの心配に、メグは不敵な笑いで応えた。
「大丈夫よ、ママの作戦なんだから。」
同僚はやれやれと溜め息をついた。
「先生の立てた計画なら、心配ないと思うけどね。でも……。」
でも、やっぱり女の子のすることじゃないと言いかけて、ジルダは口を閉じた。これ以上なにを言ってもムダなことは分かっている。
彼女はフっと息を吐き、きれいな花飾りの帽子をかぶった。
それからドアの前に置いてあった旅行バッグを持った。
「じゃ…ね。私はいくわ。良い休暇を、復讐の女神!」 
ジルダの去った後、メグはまどべに立って、外を眺めた。
恐ろしいまでに赤い夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
「戦闘開始にふさわしい色ね…………。」
完全に沈むのを見届けてから、メグは踵を返し、廊下に出てみた。
あたりは静まりかえり、いっさい人の声はしない。うん、と満足げにうなずいて、彼女は天井から垂れ下がった糸のはしを掴んだ。
そして、暗い廊下の果てをにらみつけた。
「何も知らないネズミたち…………。さぁ、日が沈んだわ。出ていらっしゃいな。夕食の時間よ、最後の………。」
笑い出したいのをこらえて、メグは力一杯糸をひっぱった。
糸ははっきりと手ごたえを感じさせた。
地下深くから微かに、カター……ンと音が響いて、消えた。
    
「何だ?」
ファントムは、耳慣れない音に手を止めた。耳を澄ませたが、それ以上聞こえない。しかし、ありえない音だった。
彼は家の外に出た。
カンテラの光に湖が神秘的に浮かび上がる。
だが、向こう岸からどんぶらと流れてくるものがあった。
「バナナ………?」
真近まで流れてくるのを待って、拾い上げた。まぎれもなくそれは一本のバナナだった。ごていねいに皮が半分むいてある。
ファントムが首をひねっていると、今度はたてつづけにダイコン、田楽、がんもどき、パイナップル、焼き鳥(串付き)、あげくにウエディングケーキ(入刀ずみ)まで流れてきた。
「なんだっ、これは!」
前代未聞のことに彼は驚いたが、やがて頭にニヤニヤと笑う男達の顔が浮かんだ。
「こーいう低次元な嫌がらせをするのは支配人どもだな!……そういうつもりなら、私にも考えがあるぞ………!」
ファントムは今や湖の3分の1を占めるまでに増えた食べ物をかきわけ、対岸に渡った。岸からすぐの階段を上るが、ここにもいろいろなものが落ちている。
どうやら上の方から転がってきたらしい。
怪人はブツブツいいながら階段を上がった。
一階分上がったところで、音もなく……………湖への扉が閉まったが、彼は気づかなかった。
上がるにつれ食べ物の量も種類も増え、三階目が最大級にたまっていた。
「足の踏み場もない…………なるほど、ここに捨てられたのが私のところまで落ちてきたのだな。」
ファントムは悪臭に顔をしかめながら、カンテラであたりを見渡した。
「どうしてくれよう………!アンドレの奴をここで泳がしてやろうか、それとも、フィルマンを………!」
怒りで声を震わせながら、彼は一歩、踏みだした。ツ、と何かが足にひっかかった。途端!
ドサーっと真っ黄色の粉が天井
から降ってきた。
「ペッペペ!」
ファントムは慌てて目や、口や、鼻にはいりこんだツーンとする粉をはきだしたが、とても間に合わない。
目は痛んで涙が滝のように流れ、くしゃみは連発し、喉はヒリヒリして息もできない。
下等なネズミならパニックになって、キイキイわめきながら走り回るだろう。だが、彼はちがった。全身黄色に染まりながら、怪人は猛然と階段をかけあがった。
この階もまた、粉がまき散らしてあった。
ところが、床を踏み締めた瞬間。
バン!
慌ててとびすさった先でも、バン!ババン!
「な、なんだ?」
懸命にさけようとする彼の後を、爆発がおいかけてくる。しかも激しさを急速にまして!
「そうか、黄色い粉は触媒か!」
とっさに彼は近くの柱によじのぼった。思った通り、爆発はピタリとやんだ。もうもうと煙の立ちこめる中、彼は梁まであがった。
しかしこれしきのことでくじける男ではない。
煙のおさまるのを待って、彼は目を凝らした。
カンテラはどこかでなくしたが、大した問題にならなかった。
「地雷原は、あと少しで終りだな。」
そのまま梁をつたって、火薬の尽きる真上まできた。
「まてよ………。」
床を探っていたとき、何かが光った。
怪人は、マントを取ると、そーっと振り、粉を降らせた。
粉は静かに舞いおり、床に何十本も張りめぐらされた糸を浮かびあがらせた。彼は息をついた。 
「思った通りだな。手のこんだ事だ。だが、私にはもう通用しないぞ。」
ファントムは低く笑いながら、ふと、この罠に触ってみたくなった。
彼は梁の上にあった木くずをつかむと、ぽーんと放りなげた。
それは見事に一本の糸にあたったが、何も起きない。
「こけおどしか?つまらんな!しょせん支配人の考えるのはこの程度だ。矢でも飛んでくるかと思っ!」
言葉の終わらないうちに、彼の耳の横をなにかがかすめた。
「矢!」
べらぼうに太い棒が壁を突きやぶっていた。
「くそ!」
息つくまもなく、次が脇の下に刺さった。
「ちぃっ!」
容赦なく矢は彼を狙ってくる。怪人は恐ろしい勢いで次々と向かってくる矢を避けながら床に飛びおりた。
当然、糸をひっかけた。
「!!!!!」
今度は矢ではなかった。柱が束になって、倒れてきた。
すさまじい地響きと、激しくぶつかり合う柱、衝撃で折れる音…それらがようやく収まったのは十分以上たったころだった。
あたりは死んだように静まりかえり、動くものもない。
だが最も山積みになったところから、彼がはい出してきた。
華麗な衣装はずたぼろだが、傷は一つもない。
「生憎だったな。これくらいのことで、私は参らんぞ。だが!これは高くつく!」
怪人は怒りで震えるこぶしを振り上げた。しかし、一つの疑問が頭をよぎる。
「いくら支配人どもが無能でも、ここまでオペラ座を破壊するのか?しがみついて生きているような連中が?」
あらためて、この惨状を見わたす。
答えは『否』。あの腰抜けにそんな度胸があるとはとうてい思えないし、こんな仕掛けを作れるとも思えなかった。
「やつら以外のだれが……!?これができるのは、警察か、軍か…………。ふふん、ついに動いたのか。私に挑戦する?面白いじゃないか!」 
怪人はもう一度、あたりを眺め、不敵な笑いを浮かべた。
                      
その頃メグはゆっくりと、地下への階段を下りていた。
地下……ネズミのすみか。そして、ファントムの潜む世界。だれもが恐れる怪物。だが、今の彼女には、ファントムなど眼中になかった。
にっくきネズミ、やつらに最後のとどめを刺すべく、メグは歩を速めた。
ファントムは全身を目と耳にして、歩いていた。ここまでくる間に、また罠があったが、難無く通り抜けた。これはさらに彼に自信をあたえた。
「少しも私を楽しませてくれないのだな。………ふふ、しょせんはこの程度だろう。笑わせてくれる。」
彼は薄笑いを浮かべながら、奇妙にくぼんだ壁をたたいてみた。
一瞬の後、轟音をたてて、壁がくずれた。むろん、ファントムは得意げに眺めていただけだ。
「下等なネズミならいざしらず、私がこんな物にひっかかるものか。」
吐き捨てて、彼はスピードを上げた。
遊んでいる時間はないのだ。オルガンの前には完成を待つスコアがある。今日は支配人を締めあげるだけでガマンしよう。黒幕には後日ゆっくり、たっぷり、お礼をしてやろう………そう考えながら、角をまがったとき、怪人は人影を見た。
「工作員がいたのか………くくっ!楽しみがふえたな………!」
気味悪く唇をつりあげ、彼は影を追った。 

メグは母親からネズミ退治の秘訣を伝授されていた。
すなわち、気配を感じたら撃つ!
ドガガガガガッ!
あわてて飛びすさったが、これにはファントムも驚いた。
気配は消してあった。人間に察知できるはずがない。だが……。
銃弾は彼の足もとに無数の穴を開けていた。
怪人はパンジャブを取り出した。
「愉快だ。私と対等に渡りあえそうなヤツがいるとは……。」
彼は部屋の真ん中へ石を投げた。ここを撃つつもりなら、必ず姿を見せなければならない。
しかし、彼を待っていたのは、工作員ではなく…………彼の身長の倍はあろうかという巨大な岩のボールだった。
「なぜ、こんな物が!」
岩はゴロンゴロンと地響きをたてて彼に迫ってくる。
「ハリボテだな!」
とっさに落ちていた石ころを投げつけた。
だが、石は簡単にはねかえされた。岩はさらにスピードを上げて彼に向かってくる。ファントムの後ろには、彼がのぼってきた坂道だけ!しかもどこにも隠れる場所はない。  
それでも彼は冷静さを失わなかった。
「私はこのオペラ座の闇の支配者なのだよ!」
怪人は一見なんの変哲もない壁に走りよった。
岩石ボールは今にも彼をペシャンコにしようと迫っている。
怪人は余裕の笑みを浮かべ、壁を叩いた。ところが。
「あ、開かない?」
叩こうがひっかこうが壁はびくともしない。彼はその横の壁も叩いてみた。しかし、まったく同じ。
「ネズミさん、あなたが行きそうな所はすべて、塞いであるわ。諦めなさい………。」
メグはさも愉いそうに言うと、3回目のレバーを引いた。
どぉん!という音と共に巨石が闇にむかって転がっていく。
「なぜだ!」
ファントムは走りながら次々と秘密の抜け穴に飛びこもうとした。
しかしすべてのドアが塗り固められていた。
やっとの思いでわずかなくぼみに身を押しこめ、やり過ごしたのも束の間、目と鼻の先にもっと大きな岩が待っていた。
「ちくしょう!」

「うーんと、これでポイントはすべて制覇したわね!ネズミは今のでおしまいのはず。……あら、ここが残っているわ。せっかく苦労して作ったけど使わなかったわね。」
メグはティーカップを優雅にかたむけながら、ペンを置いた。
そして背負っていたマシンガンを下ろし、ガンベルトをテーブルに置いた。それから腰につけてあった手榴弾、サバイバルナイフ等を外した。最後に小さなボックス、赤と青のボタンのついた箱に手を伸ばしたとき、だれよりも鋭い耳が、何かを捕らえた。
メグは手を止め、最後のトラップ地点・地下一階の入り口を睨んだ。
「生き残りがいたのね…………!」

ファントムは怒り狂っていた。インディ宜しく岩石ボールから逃げたはいいが、逃げ切るまでに一番下まで走らねばならず、生ゴミの海につっこむまでに再びワナの道を通らなければならなかった。しかも、逃げるのに必死で、引っかからない事まで気が回らなかった。
今こうして再びボールのスタート点に立っていられるのは、さすがと言える。しかし、そんなことは関係なかった。
怪人は、ここまでプライドをずたぼろにしてくれた工作員を血祭りに上げてやる、それだけに燃えていた。
手には彼の牙、パンジャブが握られている。物陰にしゃがむと、ゴミ臭さが鼻について、ますます苛立ってくる。
「ええい!忌ま忌ましいゴミだ!戻ったらすぐにシャワーをあびるぞ!はやく!出てこいっ!」
メグはバレエで鍛えた足で音もなく入り口に近づき、のぞいた。
闇に目を凝らす。見えなかったが、物陰に『ネズミ』が潜んでいるのは分かった。
ファントムは入り口からのぞいた顔を見て、心臓が飛び出るほど驚いた。メグ・ジリーだ!あのチビすけ!あいつが工作員なのか!まさか!!
怪人はよろめき、音を立てた。
「いたわね!!」            この一瞬が怪人の命とりとなった。
叫ぶと同時にメグは力一杯赤いボタンを押した。かすかな振動をファントムは感じた。
確かめようと足元を見た瞬間!
恐ろしい音を立てて、天井から火の塊が降ってきた。
怪人は危うく直撃を逃れたが、炎はあっというまに広がり、あたり一面が火炎地獄と化した。 
「あつっ、あっちっ!」
怪人は悲鳴を上げたが、慌てて口を塞いだ。
ここで正体がばれて、不様な姿を見られてはたまらない!
「あーはははっ!あーはははっ!あーはははっ!あーはははっ!」
メグの高笑いが響きわたる。
ファントムは声の主を見た。
燃えさかる炎の中に浮かび上がる女の姿…………それは。
「悪魔………!」
ファントムは生まれて初めて、恐怖を覚えた。
「これですべて終わりよ!」
高らかな宣言と共にメグは青いボタンを押した。
真っ黒いものが天井から落ちてきた。そう思ったとたん、何トンもの水が怪人を押し流した。
「んぎゃ────────  !」
水は荒れ狂う大河となって、下へ下へ落ち、岩石ボールを、柱の残骸を、生ゴミの山を、そしてファントムの家を押し流し、地下水の流れにまじり、やがて海に辿り着いた。

「あー、終わったわ!すっきりした。でもラッキーだったわ。オペラ座のリニューアル計画がなかったら、ネズミ退治の許可も下りなかったんだから。」
メグはウキウキと地下を歩きながら、足元に落ちている白い物に目を止めた。拾い上げて、心臓が止まるほど驚いた。
「ファントムの仮面!……………じゃあ、私がしたことって………?」
彼女は全身の血が音を立てて引いてくのを感じた。
「きゃ───────── !」

さて、その後ファントムがどうなったかというと、そのまま海流に乗って北極までながれてしまい、パリに帰ってくるまで半年もかかってしまった。そしてネズミはというと、作戦の前日に一匹残らず、逃げ出していた。
今日も元気にネズミはオペラ座をかけまわっている。