Madrigal
ヴェネチア。パラッツィオ・ドゥカーレ。
大評議会が終わり、元老院議員が去った後の大広間はいつもの静寂を取り戻していた。
そんな中で独り、総督であるアンドレア・ヴェンドラミンは、正面のティントレットの大作「天国」を眺めていた。今の自分とどことなく重なる気がした。
不意に背後に気配を感じ、振り返ると義兄が何か言いたげに立っている。
「シルヴェストロ?」
「やぁ」
チュニジアから本国に帰還したばかりの男は、いつもするように親しみをこめて手を挙げると、総督の横に並んだ。
「どうした?」
怪訝なまなざしを向けられて、シルヴェストロは憂鬱そうに手にした紙を見せた。
「ほんのいま、十人委員会がモロシーニから報告を受けたんだが、耳に入れといた方が良いと思って。・・・ちょっと嫌な内容だ」
「モロシーニといえば・・・、艦隊総司令官も兼ねている?」
ヴェンドラミンは不吉な予感を覚えながら、紙と男を交互に見た。
視線を受け止めて、シルヴェストロは深刻な表情になった。
「ああ、海賊掃討もね」
受け取った紙に素早く目を通したとたん、ヴェンドラミンの表情が厳しくなった。
「・・・・・隻眼のジュスティニアンが?あの男が現れたのか?この報告から考えると、もうキオッジャ水門の要塞島近くに来ているはずだが、被害にあった商船は?」
シルヴェストロは首を振った。
「今のところ、どの船もやられていない。だが、相手が相手だ。今度こそモロシーニが捕まえてくれるといいが・・・」
その海賊は3年前に地中海に現れるやいなや、徹底した略奪と殺戮で船乗りたちを恐怖に陥れていた。
これまで沈められた船は十数隻、死者は300を超えようとしていた。
そして必死の捜索にもかかわらず、ヴェネチア海軍は海賊をとらえることができないでいた。
「うむ・・・・・・」
総督はうなるように返事をして、黙りこんだ。
義兄はヴェンドラミンの手から紙を引き抜くと、いつもの陽気な声を上げた。
「まぁ、任せとけ!あんな奴の好きにはさせん!※オルセオロ二世のように退治してくれる」
そして、景気づけに軽くヴェンドラミンの肩を叩いた。
「さぁ仕事の話はこれで終わりだ、アンドレア、どうだ?私の娘との結婚式まで、10日だ。待ち遠しいだろう?」
「そ、それは・・・」
うろたえが丸見えだった。上気した顔からぼそぼそと答えがかえる。
「60を過ぎて、待ち遠しいもない・・・・・」
「うそつけ、顔が赤いぞ」
「風邪気味なんだ」
すぽっと総督帽を取って自分の頭に乗せると、シルヴェストロはぞんざいにヴェンドラミンの額に手を当てた。
「おまえ、この時期に不用心だな・・・。まあ、いいさ。あの子に看病してもらえ。あああ〜娘はやっぱり良いよ。可愛いし、話せば歌っているみたいで聞き飽きない。きれいなドレスや宝石で飾る楽しみもあるし。毎日何してあげようかって、色々考えるね」
悪戯っぽくにやりと笑った男に、総督は疑いの目を向けた。
「シルヴェストロ、まさか、おまえ、アナベラに何かして・・・したのか?」
「いくら何でもおまえの恋人に手はださんよ」
今にも吹き出しそうなのを堪えて、義兄は勢いよく首を振った。
「ひどい男だ」
コルノをひったくるように奪い返すと、ヴェンドラミンは彼に背を向け、ドアに向かって足早に歩き出した。
「なーにが60を過ぎてだ。待て、アンドレア」
シルヴェストロは慌てて後を追った。しかし、かまわずに総督はノブを握った。
だが、ノブにかけた手が止まり、ヴェンドラミンは振り返った。義兄は怪訝そうに向き合った。
総督の灰色の瞳が微かに潤んでいた。
「・・・おまえには心から感謝している。彼女を養女にしてくれたおかげで、無事に結婚式を挙げられる」
養父は照れくさそうに肩をすくめた。
「100%とはいかないが、口やかましい貴族どもを黙らせるくらいの効果は、あるさ」
総督はうんざりと肩をすくめた。
「全くだ、家柄がどうの、持参金がどうのと、次から次へと・・・・・、それでも少ない。助かる」
「とくに昔の恋人がうるさいんじゃないか?何ならこっちで面倒をみてもいいぞ?」
あまりの真面目な表情に、ヴェンドラミンの顔からどっと汗が噴き出した。
「あーもう、そんな話はよしてくれ。儂にはアナベラだけだ」
「ああ、知ってるさ。分かってるよ、分かっているよ」
愉快そうに笑いながらも、シルヴェストロの胸は暖かいもので一杯になった。
代わりにドアを開けると、義弟の肩を優しく押した。
「部屋でアナベラが待っている。早く、行ってやれ」
※オルセオロ二世・・・ヴェネチアの総督(在位991〜1008)ネトレヴァ川の海賊掃討を巧みな戦術で行い、この結果がヴェネチアをビザンツ帝国、神聖ローマ帝国に「海の保護者」と認めさせる結果になった。
ヴェンドラミンは大理石の廊下を急いだ。
途中、幾人かの元老院議員とすれ違ったが、はやる気持ちを悟られないようにするのにひどく骨が折れた。
こんなに恋人を求める自分が気恥ずかしいと、思う。
それでもいっこうに気持ちは収まらなかったが。
やがて、ヴェンドラミンは回廊を抜け、総督室の前にたどり着いた。
そっと、中をうかがう。
ドアの隙間から漏れてくる香りが、鼻をくすぐる。
それはアナベラだけが知っている、彼が好きな銘柄だった。
ヴェンドラミンは高鳴る胸を押さえ、ドアをノックした。
「アナベラ?いるかね?」
「ヴェンドラミン様?」
声が終わるより早く、ドアが開かれた。
そこには、まばゆいばかりの金髪の女性がヴェンドラミンを待っていた。
アナベラは緑の瞳を煌めかせて、恋人に駆け寄った。
「ああ、会いたかったよ」
答えの代わりに、たおやかな腕が彼の首に柔らかく巻きついた。
「会いたかった・・・・」
総督はがっしりと彼女を抱きしめ、そして顔を寄せた。
優しく慈しむように唇を重ね、やがて二人は惜しみながら身を離した。
それもつかの間、ヴェンドラミンはうめくようにささやくと、
「許してくれ・・・離したくない」
アナベラを抱きすくめた。
「ヴェンドラミン様・・・・・」
アナベラには自分をすっぽりと納めてしまう、総督の腕の中がどこよりも心地よかった。
「君はこんなにも、華奢なんだね」
鏡に映る二人の姿を見て、男は恋人を守るように腕に力をこめた。
不意にアナベラが声を上げた。
「口紅が・・・」
言い終わらないうちに彼女のバラ色に染まっていた頬が、さらに鮮やかさを増した。
アナベラはレースのハンカチーフを取り出すと、ヴェンドラミンの唇に当てた。
「ついてしまった?」
総督は注意深く鏡をのぞいてみた。
見れば、うっすらと唇が彩られている。
ヴェンドラミンはくすぐったく思いながら、この上なく美しい恋人と向き合った。
「儂にはちょっと派手かな」
「お似合いですわ」
アナベラはくすっと笑って、愛しげに総督の髪を指で梳いた。
「君にお返ししよう」
灰色の瞳を煌めかせて、ヴェンドラミンは再び艶やかな唇を求めた。
「ほら、ちょうどいい」
もう一度鏡をのぞいて、にっこりと恋人を見た。
「ご冗談ばっかり。ヴェンドラミン様、カフェがさめてしまいますわ」
彼の腕を優しく解いて、アナベラはテーブルへいざなった。
ビロードの椅子に腰掛け、ゆったりとカフェを楽しんだ後、ヴェンドラミンはちょっと不満げに口を開いた。
「アナベラ、式まであと10日だが・・・・・儂が力を貸せることはないのかね?君は独りですべて手配して引っ越しなどの準備を進めているから・・・・」
「それは・・・」
恋人は動揺を悟られまいと、目をそらした。
「自分のことですから、自分でしないといけないと思って・・・」
次に上って来た言葉を遮るために、そこで彼女は口をつぐんだ。
だが、ヴェンドラミンは言葉を継いだ。
「迷惑だなんて、思っていない」
高級娼婦はきっぱりと首を振った。
「違いますわ。・・・あの、実はとても扱いの難しいものがあって、それを運べるのは白銀館の人だけなので・・・分かって頂けますか?」
それ以上、話を続けられない雰囲気が漂った。だが、男は恋人の手を両手でぎゅっと握ると、さも困ったという表情を作った。
「実は儂もそれではいささか・・・シルヴェストロが儂を甲斐性なし呼ばわりするんだ。よほど君が可愛いらしい」
アナベラは思わず吹き出した。
「お義父様が?やだわ」
笑い転げる恋人が、ヴェンドラミンにはたまらなく愛おしかった。
気持ちを押さえきれず、アナベラの腕を引いた。
金木犀の香りがふわりと舞う。
「ヴェンドラミン様・・・」
優美な体をヴェンドラミンに預け、アナベラは目を閉じた。
「愛しています・・・・」
恋人の柔らかな頬を何度も撫でながら、総督は自分でも驚くほど情熱をこめて言った。
「早く一緒に暮らしたい。君がいないと寂しくて、寂しくてたまらないのだ」
アナベラは彼の手をそっと握り、唇を押し当てた。
「明日がお式ならいいのに・・・」
カナル・グランテに面して、豪奢なゴシック様式のファサードを持つ館がある。
内部はベルサイユ宮殿にも劣らぬ装飾が施され、パオロ・カリアリの傑作「レヴィ家の晩餐」をはじめ、ティントレット、ジョルジョーネなど世界に名だたる画家の作品が惜しげもなく飾られている。
訪れる客はいずれ劣らぬヨーロッパの名士のみ。中にはお忍びで訪れる王族も少なくなかった。
むろん彼らをもてなす女たちが、抜きんでた美貌と才気の持ち主に限られていたのは言うまでもない。
その館の名を『白銀館』といい、アナベラはここに住んでいた。
柱廊に囲まれた中庭で、二人の客が高級娼婦とヴィーノを片手に話をしていた。
一人は柔らかな物腰だが、眼の光は猛禽類のように鋭い商人、アーネスト・ヴァン・カレシン。
連れの男は漆黒の髪を後ろで束ねた、がっしりとした体格の30代後半の男だった。
「それでね、マリアン、アレキサンドリアの男はこういったんだ。実に嬉しそうにね。『どうだ、私の娘は!ヴェネチアでもこんな美女はお目にかかれないだろう?』」
ネーデルランド訛りのヴェネチア方言で締めくくると、商人は意味ありげに高級娼婦を見やった。
「まぁ、それはさぞかしご自慢の娘さまでしたのね?カレシン様」
マリアンと呼ばれた銀髪の娘は、挑みかかるように初老の男を見た。
それをさらりと受け止めて、男は優雅に笑った。
負けじと娘も笑みを返す。
これはこの男のいつもの儀式なのだ。
たわいない戯れを彼が好むのを、それだけじゃなく、この男が望むものを、マリアンは誰よりも知り抜いていた。
そして、叶えてやりたいという気持ちも、誰よりも強かった。
マリアンはちらりと連れの男を盗み見た。
彼はここへ初めて来た客だった。北欧で毛皮を扱う仕事をしているという紹介だったが、どこか違う。
もっと別の世界の人間ではないかしらと、マリアンは密かに思っていた。
その反面、ただの邪推かもしれないとも。
二月ぶりにカレシン様が訪ねて来てくれたのに、今回に限って、連れがいるなんて、無粋もいいところ!
しかし、彼女はアナベラと並び称される身分と振る舞いを携えていた。
マリアンは男のグラスが空になっているのを見取り、妖艶な微笑を浮かべた。
「ジュスティニアン様、もう少しいかがです?それとも、『隻眼の男』がお好みのコニャックを用意いたしましょうか?」
しゃれの効いた言葉に、若い男は微かに唇の両端を引き上げると、首を振った。
その時、柱廊の向こうから宝石で彩られた仮面の女性と、彼女を取り巻く数人の紳士たちが現れた。
「おや、幸運な!『金の薔薇』がお出ましだ!」
ちらとマリアンの反応を確かめながら、カレシンは体を背後に向けた。
その言葉に彼女より早く反応したのは、ジュスティニアンだった。
目の前のマリアンさえ気づかぬほどの、微かな緊張が全身に走っていた。
商人の声に『金の薔薇』も気がついて、近寄ってきた。
そして正面で立ち止まると、優雅に腰を折る。その仕草に廊下で待っていた男たちから、嫉妬とも羨望とも取れるため息が漏れた。
「カレシン様!ようこそおいでくださいました」
「こちらこそ、お目にかかれて光栄ですよ」
だが、恭しく言いつつも、いかにも残念だという表情になった。
「この白銀館が誇る二つの薔薇が咲きそろったというのに、金色は別の色を纏っておられる」
しかし、彼女は仮面に手をかけることもなく、いかにも意にせずという口調で答えた。
「カレシン様、あなた様の目には銀色しか映りませんでしょうに」
否定も肯定も顔に浮かべずに、商人は、それでもマリアンを振り返った。マリアンは分かっていますよと心の奥でつぶやいて、頬を染めた。
カレシンは眼の奥に満足そうな光をたたえて、うなずいた。
『薔薇』の肩越しに奥に群れている紳士たちを見やる。
「今日は?もう仕事はしないのだろう?」
「ええ、あたしのためにわざわざ遠くから訪ねて来てくださった方ばかりです。本来なら、こちらがご挨拶に出向かなければいけないのに・・・」
気遣わしげに彼らにまなざしを向ける高級娼婦に、カレシンはしたり顔で言った。
「なに、気にすることはないさ。紳士の最大の義務は、この世の美を愛でることだ。だが・・・それもあと10日で終わりとは!神は残酷である!」
いささか芝居がかった身振りで、商人はグラスを掲げた。
カレシンは続けた。
「神をも魅了するあなたの美貌が、気高さが、知性が、たった一人の男のものになる!ああ、なぜ嘆いてはいけないのだ?至高の時は終わる!いくら願っても還ってこない!」
そうだそうだと、後ろの男たちからも声が挙がった。
「カレシン様、もう、おやめになってください」
「そうですよ、大げさですわ」
マリアンも共に制しようとしたが、商人はいたずらっ子のように笑うと、さらにグラスを高く掲げた。
そして、彼女を優しく見つめ心をこめて言った。
「幸せにおなり、アナベラ。君には誰よりも、幸せになってほしい」
「はい・・・・・・」
アナベラは胸が熱くなって、それ以上言葉が出なかった。
「さあ、もうお行き、これ以上彼らを待たせては、私が恨まれる」
促されて顔を上げたとき、商人の後ろに隠れるように男がいるのに気がついた。
アナベラは潤みかけた瞳を何度かしばたいて、微笑んだ。
「カレシン様、こちらのお連れさまは?」
ああ、と商人は背後の男を振り返った。
「うっかりしていた。友人だよ、ジュスティニアンだ」
紹介されて、若い男はアナベラの正面へ進み出た。
アナベラは見とれるような仕草で腰を折った。
「ようこそおいでくださいました、ジュスティニアン様」
男は一言も発しなかった。
だが、その眼は彼女の動き一つ一つを食い入るように見ていた。
ふわりと金木犀の香りが男を包んだ。
男ののどから、微かに声が漏れるのと、アナベラが顔を上げてジュスティニアンと向かい合ったのは、同時だった。
訪ねてくれた紳士たちをどうやって玄関で見送ったか、覚えていなかった。どうやって部屋へ戻ってきたかも覚えていなかった。
アナベラは無惨なほど動揺していた。
いくら落ち着かせようとしても、目の前をあの男の顔がちらつく。そのたびに焼きごてを押しつけられたような痛みが体中に走る。
アナベラは両腕でぎゅっと自分を抱いた。何度も頭を振った。
振った勢いでアレキサンドライトのイヤリングがはずれて落ちた。
だが、気がつかなかった。
悲痛な叫びが部屋に響き渡る。
「あの男のはずがないっ、ヴィゴじゃないっ!」
しかし、いくら否定しようとも確信ばかりが深まってゆく。
彼女はあがいた。あがいて、必死に考えた。
釣り合わない、カレシン様はネーデルランドの大商人、あの方の友人などであるはずがない。
カレシン様がどんな立場になっても、あんな下層の男を友人と呼ぶわけがない。ええ、決して!
・・・あたしが『紅月館』を出た後、女将さんが流行病で死んで、商売を辞めてしまったと聞いた。
ヴィゴも同じ病気で元の体には戻れないって、噂で聞いた。
それに、ジュスティニアンという人がヴィゴなら、あたしに会って何か言うはずだわ。
だけど、はっきりとはしゃべらなかった。
そうよ、他人のそら似だわ・・・・。あたし、疲れていたのよ。
アナベラは少しだけ、気分が和らいできた。
目の前に落ちていたイヤリングにようやく気がついた。
「ヴェンドラミン様」
急いで拾うと胸に抱いた。押さえようもなく、愛おしさがこみ上げてくる。
目を閉じて、面影を追う。
だが、浮かんできたのは夫となる人でなく、ヴィゴの顔だった。
彼女の手の中からイヤリングがこぼれ落ちた。
今度は拾えなかった。
アナベラは声を上げて泣いた。
いくら否定しようとも、彼女の体が男の正体を知っていた。
カレシンは後ろからマリアンを抱きすくめ、乱れた銀の髪に顔を押し当てていた。
ゆっくりと肩が上下するのが感じられるが、彼女が眠っていないのは、知っていた。
重なった肩から、腕にふれる豊かな乳房から、ぬくもりが伝わってくる。
これこそカレシンが恋いこがれてやまない時間だった。
彼は満ち足りた顔で、微かに緊張している恋人の腕を撫でた。
「マリアン、君は変わらないね」
指を滑らせて、恋人の固く握りしめた拳を解きほぐす。
そのままお互いの指を絡ませた。
マリアンも力をこめて握りかえした。
「くせになってしまって・・・。」
言って、甘えるように恋人に背中を押しつけた。
「かまわない。私たちの思い出だから」
カレシンは彼女と初めて過ごした夜を思い出していた。
甘い手触りを持つそれは、反面ユーモラスだった。
白銀館の主人から、七百年続く家柄の娘が高級娼婦となって部屋を持っているが、最後の手ほどきをしていないので、頼めないかと言われた。それがマリアン・オーム・エンバーとの出会いで、カレシンの恋の始まりだった。
彼女は19歳とまだ若く、輝くばかりの美貌と機知の持ち主だった。そして、少々、快活すぎた。
カレシンはマリアンの肩に額を乗せた。
そのとたん、彼女は小刻みに男がふるえている理由に気がついた。
「アーネスト、あなた、また、笑っているんでしょう?」
冷たい声にも動きは止まらない。
「もちろん、そうだよ、私のマリアン」
男は愉快でたまらないらしく、息も絶え絶えに答えた。
5年前の夜、ギリシャ語の詩を披露していた娘は、いざその時になると急に身構えた。
そして、ぐっと腹に力をこめて怒鳴ったのだ。
『さあ、かかってきなさいっ!』と。
カレシンはいやがる娘を押し倒すつもりはなかったし、やれば殴られるのは必至だったし、いつの間にかマリアンに深く魅せられていた。
人生で強く記憶に残るだろうことを、辛い思い出にさせたくなかった。
辛抱強く、彼女の心を解きほぐし、ようやく同じ夜を過ごしたのは3日後だった。
静かになったものの、マリアンには恋人がまだ思い出にふけっているのが分かっていた。それは彼女にとっても、宝石のように輝いている記憶だったが、同時に子供じみた過去を思い返させるものでもあった。
一分でも早く、そこから逃れたかった。
だが、男はそう簡単に恋人を解放するつもりはなかった。
わざと銀の髪をかき上げ、柔らかな耳たぶをくちびるでなぶった。
大嫌いな感触に、マリアンの大理石色の肌が粟だった。
彼女はくちびるをきつく結んで、身を縮めた。ふつふつと怒りが沸いてきて、肌が桜色に変わる。
このおやじは私をからかっているのだ。
しかし、その囁きが注がれたとたん、怒りで染まっていた頬に、別の赤みが差した。
「この2か月・・・・あれを見るたびに・・・・君の・・・・・肌の色を思い出していたよ」
胸を苦しくときめかせながら訊いた。
「あれ?私が送った煙草入れの事?」
そして、返答は夢見るような色合いを帯びていた。
「ほら、ジュスティニアンと同じだ。彼の背中、そう、腰のあたり。とても綺麗な肌をしている・・・」
ぎょっとしてマリアンはカレシンを振り返ろうとしたが、次の言葉が恋人を凍らせた。
「青磁器を思わせるなめらかさで、忘れられないよ・・・・」
うっとりとした口調に、彼女は目眩を覚えた。
だが、彼の瞳が意地悪く光っているのも知っていた。
「アーネスト、あなた、趣味を変えたのね?」
怒りを漂わせて訊くが、答えはない。だが、マリアンは十二分に分かっていた。
こいつは私の反応を楽しんでいるのだ。
前にも同じようにからかわれた。あのときは負けたけど、今度は違う。
マリアンは勢いよく身を起こした。
淡いランプに照らされて、彼女の肉体が優美なシルエットを描き出した。
カレシンは賞賛のまなざしを向けた。
しかし恋人は横の椅子に引っかけてあったティーガウンを羽織ると、毅然と言い放った。
「この国では男色は絞首刑よ。あなた、私は密告しないって、信じてたの?私は、裏切り者を決して許さないのよ。あなただって、そうでしょう」
言葉の最後に嘲笑を含ませた。
恋人は初めは驚いた様子だったが、言葉の終わらぬうちに、哀れっぽいものに変わった。
まるで雨に濡れた子犬のようだとマリアンは思った。
同時に、罠にはまりかけたとも。
ゆっくりと後ずさり、窓辺にたった。
これ以上そばにいると、気持ちがくじけてしまう。
無言のまま、男をじっと見下ろした。
彼女のまなざしを受け、恋人はうつろな表情になっていた。
そして目を伏せ、黙りこんだ。
マリアンは、ひたひたと寂しいものが足下から上ってくるのを感じた。
だが、なおも踏みとどまった。
「マリアン・オーム・エンバー」
やがて落ち着いた、穏やかな声が響いた。体が震えた。
カレシンは立ち上がると、すらりとした体をゆっくりと窓辺へ運んだ。
近づきながら、澄み切った瞳をまっすぐに向けた。
両手がまっすぐに差し出された。
「・・・・ああ、マリアン、そう、その通りだ、ジュスティニアンを愛している。恋いこがれている。あの男がいないと私は干からびて死んでしまう!・・だが、自分の罪は認めなければ・・・・・。マリアン、私は喜んでこの首を君に捧げよう!ソドムの穢れからではなく、君を悲しませた罪のために!」
マリアンは、すでに勝負はついたと確信した。もう、逃げ場はない。
男は殉教者となり、彼女の足下に跪いた。
「さあ、私を連れてゆけ。ダンテとヴェルギリウスの旅したあの煉獄へ」
マリアンは灯火に淡く輝く髪を、疲れた仕草でかきあげた。
そっと、いたわりをこめて男の肩に手を置いた。胸がひどく疼いていた。
「アーネスト・ヴァン・カレシン、あなたを一人では逝かせないわ。あなたに罪があるのなら、それは私の一部。私はあなたのものだから・・・・・」
ゲームは終わった。
0勝10敗。
結局、マリアンはカレシンをどうやっても苦しめることはできなかった。
子供の頃、ガキ大将だった彼女は、大貴族の息子をリアルト橋から突き落としたこともあったのだが。
それとも、まだ力不足なのかしら。
ふとそんな考えもよぎったが、今回は棚上げにした。
カレシンは立ち上がると、勝ち誇った様子など微塵もみせず、恋人の手をそっと取った。
細い指をくちびるに押しつけた。
「いささかおふざけが過ぎたな。すまない。・・・・・だが、マリアン、私のマリアン、私の愛は君だけのものだ。妻と別れて君を選ぶことはできないが、君だけだ」
カレシンは真摯に言うと、彼女を強く抱きしめた。
「ええ、分かっているわ。アーネスト、私は、誰よりも分かっている」
思いをさらにしみこませるように、恋人を抱きしめた。
私はカレシン様をほんの刹那しか、手にできない・・・・。
男のぬくもりを全身で感じながら、心の中でつぶやいた。
しかし、そこにはひとかけらの悲しみも存在しなかった。
マリアンは自分の立場に満足していた。
カレシン様が私を愛してくれている、それだけで、いい。
そう信じて疑わなかった。
だが、己の心が脆いのを、すぐに知ることになる。
「抱いて」
腕をとくと、男は無言のまま彼女のガウンを肩から滑り落とした。
そして横抱きに抱えると、大切にベッドに横たえ、熱く体を絡ませた。
「あ・・・アーネスト・・・」
男を身に受け入れながら、マリアンは深く満ちたりた叫びを上げた。
翌日の朝、アナベラはよく眠れないまでも、昨日のことから少し距離を置くことができるようになっていた。『ジュスティニアン』がこの館に泊まっていないことや、一晩たったこともあり、やはりあれは思い過ごしだったのではないかと、半ば信じていた。
彼女は軽く食事を済ますと、ニノン地に花模様があしらわれたドレスに着替えた。
それは昨日、義父の息子、つまり義兄がわざわざ届けてくれたものだった。
不意にその時の彼の表情が思い出された。
ヴェロネーゼ卿が追いすがる供をしきりに手で払いながら、廊下をやってきた。
偶然、居合わせたアナベラは恭しく腰を折る。
視線の先で磨きぬかれた革靴がとどまる。そして、視線を上に戻すと、そこには茹でダコよろしく赤い顔の青年貴族が立っていた。義父によく似た面立ちが、ふるえながら口を開く。
「ご、きげんよう、妹よ、こ、これ、これはっ、兄からの贈り物だ、き、君に似合うと思う。ぜひ、ぜひ」
尻すぼみになる言葉と共に、ヴェロネーゼ卿は包みを差し出した。
渡すときにアナベラの細い指が触れ、今度は噴火するんじゃないかと思うほど、顔が赤くなる。
「ありがとうございます、ヴェロネーゼ様」
義妹は優雅に微笑む。しかし、義兄はさらに声に力がなくなった。
「他人行儀な言い方は・・・・お兄様でいいんだよ・・・」
おねだりのこもった声音が、アナベラはくすぐったかった。
そして、兄はこんなに気持ちのよいものかと思う。
マルコもこんな風に自分をとらえているのだろうか?
ふわりと幸せな気持ちに包まれて、柔らかな生地をなでると、その心地よさがさらに気持ちを和ませた。
「あの子はどうしているかしら」
窓の外に目をやると、透き通った空を小鳥が数羽、軽やかに舞っていた。
誘われるように、ナーディル・カーンの面影が浮かんで消える。その残像を見送りながら、アナベラは胸の痛みと共に、振り返らないことを新たにした。
「これが、あたしの現実」
鏡に向かって、今度はアレキアンドライトのイヤリングを飾った。
そして、もう一度同じ言葉をつぶやいた。
装い終わった時、ドアの向こうから複数の足音と、聞き覚えのある声がくぐもって響いてきた。
特徴のあるアクセントと、あとを引く鈴の音。カレシンとマリアンがいると思った。
挨拶にと考えたが、マリアンの気持ちを考えてとどまった。
やがて音は小さくなり、部屋の中は窓から上ってくる波音だけになった。
アナベラは衣装箱に荷物を詰めることにした。明後日までに、すべてを総督宮殿に運び終わらなければならない。
華麗だがあつかいの難しい衣装と、そのほとんどを総督から贈られた宝飾類など、女一人には手に余る量だったが、誰にも頼るつもりはなかった。
これまでも、ぎりぎりまで独りで耐えてきたし、そういう生き方しか知らなかった。
マリアンだけは、アナベラの脆さをはじめから見抜いていて、数え切れないくらい力になってくれていた。
アナベラと違って由緒正しい家柄の出身でありながら、それを少しもひけらかえさなかった。
それだけではなかった。彼女がこの館に来た時から、高級娼婦として必要なことすべてを、時には自分の財産を使ってまで惜しみなく教えてくれた。
マリアンには心から感謝していた。
たとえ、裏切られることがあったとしても、アナベラは決して恨むまいと堅く決心していた。
ドアが軽くノックされた。二回なって、間をおいて一回。
そして鈴の音。マリアンだった。
「どうぞ」
自ら招き入れ、荷物の間を縫って、唯一の隙間の窓際へ誘った。
マリアンはずらりと並べられた衣装箱に、いささか驚きの色を浮かべながら、あとへ続いた。
歩むことに、澄んだ音色が彼女を包む。
アナベラは純度の高い金属のみが紡ぎ出す音色が、特に好きだった。
今でも人目がないと、銀食器をこっそりとぶつけ合って、さざ波のように部屋に広がる音を楽しんでいる。
「狭くて、ごめんなさいね」
ようやくたどり着くと、アナベラはマリアンを草模様の刺繍の入った椅子に座らせた。
そして自分は窓辺にたった。
見上げて、マリアンは目を細めた。
差しこむ光にアナベラの金髪がまぶしいからでなく、存在そのものが強く輝く力を放っていた。
「どうかした?」
親しげに微笑む姿も、また正視できなかった。
マリアンの心の奥に、重く暗いものが、ごく小さくだが芽生えた。
彼女は無意識のうちに、その芽を奥深くへ追い払った。
答え損ねていると、心配そうにアナベラが言った。
「疲れた顔をしているわ。大丈夫?」
我に返ったマリアンは、実際に自分の体がよどみを抱えているのに気がついた。
「そうなのよぉ」
けだるげに長い髪を胸元へ垂らすと、指先でいじり始めた。
マリアンが疲れているときの癖だった。
「カレシン様ったら、朝まで私を離さないんだから!しかも念入りに2ヶ月分、たっぷりと可愛がられちゃったわ。一度なんて気絶しているのに、やめてくれないのよ!」
言葉の途中から、みるみるアナベラの顔が赤くなってきた。
自分でも耐えられないのだろう、背を向けてしまっている。
「ま、まりあん、はしたないわ」
「そう?もっとすごいこと、教えてあげましょうか?」
「いい、遠慮する!」
悲鳴が上がった。
マリアンの口元から、小さく笑いが漏れていた。この仕事について長いのに、アナベラが少しもすれていないことが嬉しかった。
この部屋に来ると、いつも気がゆるむ。ついつい、あることないことをしゃべってしまう。
こんな商売をしていれば、楽しいことは少ない。でもここへ来て、アナベラと過ごしていれば忘れられた。
昨日までは。
マリアンは自分がいつもと違っていることを感じていた。
なぜか気持ちが弾まない。軋んでいる気がする。どこかに原因があるはずと考えを巡らせる。
すぐにある情景が浮かんだ。
ついさっき、廊下での一時。
カレシンはマリアンに『明後日、出港する。次はいつあえるか分からない』と告げられていた。
突き詰めれば『明後日までヴェネチアにいるが、会いに来る暇はない』という意味に変わる。
あの人は誰よりも私を愛していると言ってくれた。でもそれなら会いに来てくれても。。
マリアンは払うように頭を振った。
自分でも子供じみている。
大きく一つのびをして、立ち上がった。
アーネストがそばにいたことは事実だし、過去は逃げていきゃしないわ。
「さてさて、まぁ、荷物が多いこと!」
マリアンは視線を部屋一杯に並べられた衣装箱へ移した。
いくつかの蓋は開いたままで、中のドレスが見えている。
眺めていく内に、マリアンの気持ちが少しずつ和んできた。
あれは、サンタ・クローチェ地区で買ったもの。
あれは、ミラノの商人から買ったもの、あちらは・・・。
どれもこれも二人で選んだ品ばかりだった。
「あ、これって、私が譲ったものよね?まだ持っていてくれたの」
一つの箱から、小さな扇を取り出した。孔雀の羽をあしらい、シノワズリー風に仕上げた贅沢な品だった。
暖かな気持ちがあふれて、マリアンは微笑みを向けた。
「そうよ、大切なものだもの」
まだ頬に赤みを残しながら、アナベラは扇を手に取り、広げた。
そして、宝物のように羽の先を撫でると、胸の前にかざした。
「どう?」
シナを作り、艶っぽく目を潤ませた姿に、マリアンは吹き出した。
「覚えてるわぁ、懐かしいっ!」
この館に来たばかりのアナベラは、体も着ているものもあまりにみすぼらしく、不安げに隅に小さくなっていた。このときすでにトップの地位にいたマリアンは、見かねて彼女に自分のドレスや、宝石を貸した。その中でアナベラが扇を気に入ってくれたので、贈り物としたのだ。
もっとも気前よくというわけはない。アナベラがいつも健気に努める姿を目にして、哀れみを覚えたのだ。
「これも、もってゆくの・・・」
ぽつりとアナベラは言うと、ふっと寂しげな表情を見せた。
それも一瞬で消え去り、笑顔を作ると、扇を丁寧に箱に戻した。
マリアンは続けて隙間を歩き回り、半分ほど見て回って窓辺に戻ってきた。
「手伝うわよ。独りじゃやりきれないわ」
アナベラは即座に首を振った。
「マリアン、疲れているのに無理しないで」
だが、彼女も首を振った。
「なぁに言ってんの、手伝わせてね!」
言うが早いか、アナベラの返事を待たず、手早く衣装を詰め始めた。
「ありがとう」
素直に受けると、アナベラも横に座って作業を始めた。
二人でやりながら、たわいのない会話が続く。窓からはいる風が心地よい。
ふと、青磁の小瓶がマリアンの目を引いた。
取り上げ、アナベラに示す。
「ねぇ、カレシン様ったら、この瓶の感触がジュスティニアン様と同じなんて、言ったのよ。もちろん、冗談なんだけど、あの下品さ、何とかならないかしら、思わず首を絞めそうになったわ」
ジュスティニアンという名前が出たとたん、アナベラの全身から血の気が引いた。
彼女のただならぬ様子に気づかず、マリアンはふっと息をつくと小瓶をしまった。
「なんであんな男が好きでたまらないのかしらね・・・」
それからくるりと向きを変えると、背後の箱を整理し始めた。
アナベラは虚空を見つめたまま、苦悶の表情を浮かべていた。いま、彼女の目に映っているのは、数年前の夜、自分につかみかかろうとする、ヴィゴのざらざらした手だった。
あの日、あの夜、ヴィゴはアナベラは押し倒し、泣き叫ぶ彼女の膝をこじ開け、押し入ったのだ。
その時の恐ろしさ、引き裂かれる痛みが生々しく思い出せる。どんなに時間が経っても、立場が変わっても、体の傷が癒えても、心の傷は残っている。
しかし、高級娼婦に醜聞も過去も必要ない。
アナベラはここへ来る前の話は、マリアンにすら打ち明けていなかった。
すべて過去の話よ、噛みしめるようにつぶやくと、マリアンと同じ箱に向いた。
現実を取り戻したかった。そうすることで、忌まわしさから解放されると、信じていた。信じたかった。
マリアンと並んだときには、表情は冷静さを取り戻していた。
だが、視線がせわしく何かを求めて動いていた。
それを見つけたとき、アナベラは光が差したような気すらした。
マリアンが手を着けようとした宝石箱は、すべてヴェンドラミンより心をこめて贈られたものが詰まっていた。
「わぁ、これ、ルーブル工房のネックレスね、綺麗だわ!」
パリでも指折りの宝飾店の首飾りを、マリアンはまぶしげに陽にかざした。反射一つ一つが壁に踊っている。
アナベラが悲痛な声を上げた。
「返してっ」
ひったくるようにされて、何が起きたか分からなかった。マリアンは眉をひそめたまま、明るい声をかけた。
「なぁによぉ、取ってきゃしないわ。大事なものでしょ?」
はっとなって、アナベラは自分の振る舞いを恥じた。
「ご、ごめんなさい、そうじゃないの、違うの・・・・・」
理由を告げたかったが、のどが詰まっていた。
ただ、知らずにすがるようなまなざしをマリアンに向けていた。
しかし彼女は半ば意識的にそれを無視した。
アナベラはヴェンドラミンが切なくなるほど恋しかった。
ネックレスを首に飾り、ちらりと鏡をのぞいた。
続けて箱から指輪を一つ取り出し、指に通した。
大粒のスターサファイアがきらきらと陽に輝く。
「覚えてる?これ、ヴェンドラミン様からいただいたのよ・・・」
さりげなく尋ねると、マリアンはいつものように答えた。
「もちろん、アナベラが総督の専属になった翌日に贈られたものでしょう。あのときは使者が10人もついてきてびっくりしたわね」
「ええ、ほんとうに!」
アナベラはホッとして、明るい笑い声をあげた。マリアンは宝石箱からあふれているイヤリングや、ブローチ、ネックレスをいちいち取り上げ、誰から贈られたのと言い当てた。
言い続けるうちに、次第に声が冷えてきたのは、疲れているからだと思っていた。
アナベラは少しも気づかず、楽しげに聴いていたが、ふっと、瞳を曇らせた。
握っていた扇子をぎゅっと胸に押しつけると、耐えきれないように涙を落とした。
「マリアン、寂しい、あたし、ここを出てゆくの、寂しいわ。総督宮殿に移ったら、もうここへは戻れない。あなたとも、もう会えない。ずっと、一緒だったのに・・・・」
声が涙でかすんでゆく。マリアンはアナベラの頬にハンカチーフを押し当てた。
「何をくだらないことで、泣いてんの。あんたはこれからずっと総督と暮らせるのよ。好きな男と添い遂げられるんだから、泣くのは間違っているわ。それに、いい?とっくに分かっているだろうけど、結婚したら貴族の仲間入りなのよ?娼婦の生活とは天と地の差があるんだから、覚えることも一杯で、寂しいなんて思う暇、ありゃしないわ!」
「そうかしら、そう思うの?」
アナベラは声を絞り出すと、マリアンに抱きついた。
濡れた瞳が肩に当たり、豪奢なドレスを湿らせてゆく。しゃくり上げるアナベラの背を優しく撫でながら、マリアンは次の言葉を探した。
そうよ、この子はヴェネチアの総督夫人になるだけでなく、これまでは形式だけだった、ダンドロ気の養女としても認められるんだわ。ヴェネチア一の名家、これまで総督を4人も輩出した名家中の名家の。
そう思い当たったとたん、心臓に激しい何かが突き刺さった。
押しこめたはずの暗く重いものが、急速に彼女の心を占拠した。
「マリアン、あたし、寂しいわ。あなたは寂しくないの?」
アナベラが顔を上げたとき、マリアンの頬を一筋の涙が伝った。
くちびるはきつく結ばれ、青白く震えている。
「そりゃあ、寂しいわ・・・よ」
やっと声を出すと、マリアンはさっと頬をぬぐった。
アナベラを引き離して、ちょんと鼻先をつついた。
「少し、休憩しましょ。鏡をご覧なさいな、あんまり泣くから化粧が崩れてるわ」
マリアンの声が素っ気ないのは、自分と同じで悲しみを堪えているからだと、アナベラは信じた。
「やだわぁ」
鏡をのぞくとアナベラは何度も目をしばたたせた。そして慌ててドレッサーに走った。
それを見送って、マリアンは声をかけた。
「私も部屋に戻るわ」
急いで部屋を出ると、再び涙がこみ上げてきた。
自分でもなぜ、こんなに悔しいのか分からなかった。
落ち着かせようと、何度も心の中で繰り返した。
アナベラは大切な友人、あの子が幸せになるのは私にも嬉しいはずよ。
しかし、どれだけ繰り返しても、気持ちは鎮まらなかった。
私は名門エンバー家の娘、アナベラのような卑賤とは格が違うんだから・・・・!
マリアンは、愕然となった。
自分がアナベラを見下していた事に気づくと同時に、心に巣くうものの正体を知った。
「嫉妬・・・・」
それは彼女の心の奥深くに根をはり、決して消えようとしなかった。
リアルト橋から客室つきのゴンドラでカナル・グランデを下り、途中入り組んだ細い水路を人目を避けるように進み、いま、カレシンはコンタリーニ家の螺旋階段をゆっくり上っていた。
東を向けばサン・マルコ広場にそびえ立つ尖塔が、南を向けば華麗なフェニーチェ劇場が、カレシンの胸を郷愁でふるわせた。
今でこそネーデルランドに広大な館を持つ身だが、ヴェネチア人の母親と共に少年期をこの共和国で過ごしていた。
母の名は、ファウスティーナ・サヴォルニ・コンタリーニ。この館の遠からぬ縁者だった。
登り切ったところに人影を認めた。長身をゆったりとした黒衣で包み、日焼けした顔に茶色の瞳は柔らかな光を湛えている。誰にも好感をもたれるタイプ。だが、それは表向きの顔だった。
この男、シルヴェストロ・ダンドロこそ、共和国を影で支えるC・D・Xの支配者、ヴェネチアの真の支配者だった。『総督の義兄』などは、ただの肩書きにすぎない。
ダンドロはいつもするように親しげに手を挙げると、カレシンを招いた。
「わざわざご足労いただきまして・・・」
ネーデルランドの大商人は畏敬の念をこめて、深く頭を下げた。
「苦労をかけているのは、こちらの方だ。さぁ・・・」
労いを優しい声ににじませて、ダンドロは部屋の奥へ先に進んだ。
カリアリの「ヨーロッパの強奪」を正面に、二人は向かい合って座った。
カレシンは報告を始めた。
表向きは商人でも、訪れた土地の政情などを探るのは、この時代ごく当たり前だった。
ダンドロはいっさい口を挟まず、ただ黙っていた。それだけで良かった。
大商人は常にうつむき加減で話していたが、目の前の男から立ち上ってくる殺気にも似た気配に押されて、とにかくすべてをはき出そうと躍起になっていた。
カレシンはこの2ヶ月に自分がつかんだ各国の情勢を、一つ残らず話した。理路整然と言葉を続けながらも、自分が忘れていることがないか、何度も反芻した。
一つの情報でも落とそうものなら、それがただの物忘れでも、故意でも、発覚したときには即、総督宮殿にかかる『ため息橋』を渡ることになる。カレシンはその現場をこの目で見ている。
ヴェネチアにとって、情報の欠落は死活問題に直結しかねないのだった。
のどがカラカラになり、かすれ始めた頃になってようやく話は終わった。
おそるおそる顔を上げ、ダンドロを窺う。
ヴェネチアの支配者は、眉根を少し寄せたまま目を閉じていたが、やがて満足そうな笑みを浮かべた。
「次の航海から、『ヴェルニエル海道』の使用と、ファジョーリの特権を認める。・・・よくやってくれた。特にジュスティニアンの動きを掴んだことを評価する」
カレシンは一気に息を吐き出して、凝り固まった全身の筋肉をゆるめた。同時に喜びがわき上がってきた。与えられた特権は、ヴェネチアに群れる商人には、のどから手が出るほど欲しい物だ。
差し出された芳醇なヴィーノをゆっくりと味わう余裕ができると、舌も滑らかになった。
「・・・私の手柄かもしれませんが、あなた様の使わしたグリマーニ家の男がずいぶん助けになりました」
「ああ、ジュスティニアンのことか。と、ややこしいな、海賊と同じ名前の男とは」
「全くです。私も初めてあったときは、惑わされました。名前ばかりか、伝え聞いた容姿まで似ていましたから。セビリアでサンゾヴィーノから紹介されていなければ、てっきり本物の海賊が現れたと思うところでした。私の命もここまでかと・・・」
カレシンの額に浮き出た冷や汗を観て、ダンドロはくっくっと短く笑い声をたてた。
「おまえのような肝の据わった男でも、恐ろしい物があるのか?」
「もちろんです」
いささか傷ついた顔で、カレシンはダンドロを上目でみた。意に介さず、グラスを干すと、同じく空になっている相手のグラスにヴィーノを注いだ。
そして、まことしやかに囁いた。
「私とて人間だ。怖い物はある。・・・それは、『女』だ」
言って、ダンドロは相手の反応を窺うように上目使いで見た。
「女性?」
驚いた声は出したが、爪の先ほども信じていなかった。カレシンはぐるりと頭を巡らすと、すました顔で答えた。
「ええ、お気持ちは分かります。あなた様のお噂はセビリアでも伺いましたとも。何でも大変美しい令嬢を養女になさって、その方には全く頭が上がらないとか?いやはや、驚きました・・・」
口を閉じたとたん、ドアの向こうで鋭い金属の音がした。カレシンは今度こそ心底後悔した。つい気がゆるんで、とんでもないことをしゃべってしまった。無言の無表情で、じっと見つめているダンドロのまなざしが、彼の暗澹たる未来を示していた。
だが、急に指を胸の前で組むと、ダンドロはとろけそうな笑みを浮かべた。
「そうなんだよ、アナベラが可愛くてならん。娘があんなに可愛いものだとは知らなかった!可愛くて可愛くて、私はもうメロメロだ」
それから延々10分に渡って、養父は親馬鹿全開でしゃべり続けた。
つき合いは長いが、カレシンは目の前の男が、あのダンドロとはどうしても信じられなかった。
自分に子供はいないが、娘を持った男親はこんなものだろうか?急に恐ろしいだけの存在が、人間味にあふれた対象に思えた。
カレシンは親しみをこめて言った。
「ダンドロ様、そんなに大切ならお屋敷に迎えられては、いかがです?」
とたんに養父は無惨なほど沈みこんだ。
「それができるんなら〜、私は何でもしちゃうよ・・・・。でも、妻が恐ろしくて・・・ふぅぅぅぅぅぅぅ。毎日でも顔を見たいんだが、今は海賊のおかげで忙しくてなぁ。あああ・・・」
長ーいため息をつくと、力無く腕を組んだ。
これほどうちしおれた男が愉快やら、気の毒やら。カレシンは何か力になれないかと、頭を巡らせた。
はっと、ひらめいた考えをためらわずに口にした。
「ダンドロ様、もし差し支えなければ、ジュスティニアンを白銀館に出向かせて、アナベラ様のご様子を見させます。それを私がここでお知らせしましょう」
ぱあっと、まるで太陽のようにダンドロの顔が輝いた。
「大賛成だ!よろしく頼む、そうだ、おまえに『ストットの特権』も与えよう!」
子供のようにはしゃぐ養父を微笑ましく思いながら、カレシンは首を振った。
「お気持ちだけで十分です。あなた様のお役に立つことができて、嬉しく思います」
彼らしくなく、しかし、心からの言葉だった。
カレシンからの情報を得たダンドロは、『隻眼のジュスティニアン』を追っているモロシーニの艦隊に、キォッジャ水門を抜け、南下するように伝令を送った。それは、ヴェネチアの主力部隊が本国を遠く離れることも意味していた。
翌日、一人の男が白銀館を訪れた。男はカレシンからの使いだと名乗り、マリアンを呼び出した。
中庭に駆けつけたマリアンは男を認めるなり、声を上げた。
「ジュスティニアン様、どうなさいましたの?今日はお独りですか?」
落胆と少々の恨みのこもった声音に、ジュスティニアンは内心ほくそ笑んだ。
女など、たやすいものだ。
場所と相手を変えればいうだろう言葉を飲みこみ、誠実な微笑みで迎えた。
「シニョーラ・エンバー、ご期待に添えなくて、心からお詫び申し上げます」
物腰柔らかく頭を下げ、懐から小さな包みを取り出した。
「カレシン様からの預かりものです」
そしてマリアンの手の中にそっと置いた。
包みを開けた彼女の顔がぱっと明るくなった。
「覚えていてくださったのね!」
ところが、すっかり包みを開けてしまって他に何も無いことを知ると、すがるようなまなざしを向けた。
「何か、・・・聞いていらっしゃらない?あの・・・ことづけとか」
言葉が不安げに小さくなってゆくのを満足げに聞きながら、ジュスティニアンは善良そのものの顔で答えた。
「ご心配なさらずとも、カレシン様はあなたへ手紙を書かれております。どうぞ」
マリアンは大切そうに手紙を受け取ると、素早く眼を走らせ、何度も読み返した。繰り返すたびに頬が美しい色を帯び、目元が潤んでくる。
その傍らでジュスティニアンは、時期を待つように息を殺して立っていた。
「それでは、これで」
やがて、ごく自然に頭を下げると、さっときびすを返した。
「ま、待って・・・・お待ちになってください!」
マリアンは青ざめて男を追った。わざとゆっくりと歩いていたジュスティニアンは驚きを顔に貼りつけて振り返った。
「どうなさいました」
男の表情に、マリアンは自分の衝動を恥じた。一瞬で平静さを装うと、落ち着いた声音で言った。
「・・・このままお返ししては、カレシン様に叱られますわ。ジュスティニアン様、私のためにも少しお時間をくださいますか?」
ほんの少し迷うそぶりを見せて、ジュスティニアンは頷いた。
「喜んで時間を捧げましょう。カレシン様のためにも」
数時間後、アナベラはマリアンの部屋から出てきた男の姿を見た。
「カレシ・・・ン様?」
だが、男が回廊を曲がったとき、彼女から正面にある鏡に男の顔がはっきりと映った。
お互いの眼が合ったと、思った。だが、男は足を止めなかった。
「・・・あっ」
アナベラはとっさに角に身を潜めた。
心臓が早鐘を打っていた。だが、眼は男の背中を食い入るように見つめ、視界から消え去るまでアナベラの全身はこわばり続けた。
「ヴィゴ、あの人、また、どうして?」
再びドアの開く音がして、今度はマリアンが出てきた。
「マ、リアン・・・」
声に気がついて、振り返ったが、その顔は驚くほど喜びで輝いていた。
アナベラは少しだけホッとした。きのう化粧を直すといって出て行ったきり会えず、ずっと気にしていた。今まであんな事はなかったし、自分の態度もどこかで関係していると思っていた。
「アナベラ!どうしたの?顔色が悪いわよ」
いつもと変わらない調子で駆け寄ってくると、心配そうにアナベラの顔をのぞきこんだ。
アナベラはとっさに戸惑いを装った。
「そうかしら?それはきっと明かりの加減よ。・・・あなたこそ、どうしたの?いつになくうれしそうね。カレシン様がおいでになったの?」
ふと、マリアンの表情に影が差したが、むりやり追い払って明るさを取り戻した。
「ううん、違うけどね、あの方が、ジュスティニアン様がお話をくださったのよ、それで・・・」
アナベラはぎくっとした。悟られまいと、声が震えそうになるのを押さえて訊いた。
「どんな?」
マリアンはいぶかしげに親友をみたが、反面しゃべりたくてうずうずしていた。
「聴いて!カレシン様はアレキサンドリアでトルコの大使と賭をして、勝ったんですって!それもただの賭じゃなくって、ご自分で馬を走らせて街を一周したのよ。相手は熟練の兵士が十人よ。最初こそ遅れたけど、街を半周する頃には九人を追い抜いて、危ういところでゴールしたって。観たかったわぁ、あの人の誇らしげな顔!」
マリアンはうっとりと空想の中に心を遊ばせた。そのようすから、自分の話は出なかったとアナベラは確信を持ったが、まだ不安はぬぐえない。
せかすように口を開いた。
「他には、どんなことを?」
マリアンはまだ夢見心地でいる。
「マリアン!」
はっと我に返ると、いささか気分を害したようにちろりとアナベラを見た。それでも親しみをこめていった。
「なぁに?他にも聴きたいの?」
アナベラは口ごもった。いっそのことはっきりと尋ねたかったが、それは親友であるマリアンにも出来なかった。
「あの人、ジュスティニアン様?だったかしら、今日、お発ちになるの?」
きっぱりとマリアンは首を振った。
「明後日の午前中、またいらっしゃるわ。約束したの!うっふふ、待ち遠しいわ!」
今にも踊り出さんばかりの親友とは逆に、アナベラは足下から崩れてゆきそうな気持ちになっていた。
「どうして、そんな風に言うの?あなたは、カレシン様だけでしょう?」
アナベラはこれっぽっちも非難するつもりはなかった。
マリアンにも、他の男を待つことに多少の後ろめたさはあったのは否定できない。
だが、この言葉には自分でも思ってみなかったほどの怒りを覚えた。
会えない寂しさを紛らわそうと、懸命に思い出にすがっていたのに、けちをつけるなんて!
再び昨日の感情が、『嫉妬』が甦ってきた。
もともと、マリアンは激しい気性の持ち主だった。
こうなるともう自分が押さえられない。
アナベラがどれほど不安を抱えているか、以前の彼女ならたちまちに感じ取ったのに、もはや出来なかった。
「あんた、私がジュスティニアン様に乗り換えたとおもってんの?」
「そんな・・・!」
とげとげしい言葉にアナベラは青くなった。
「違うわ、そんなつもりじゃないわ」
懸命に首を振って言葉を繰り返すが、親友の顔はまともに見られないくらい、険しい。
アナベラはこんな彼女を知らなかった。これ以上どう振る舞えばいいかも分からなかった。
首を振った拍子にアナベラの耳を飾るアレキサンドライトが煌めいた。
その輝きが、マリアンをいっそう惨めにさせた。
あんたなんかに私の気持ちが分かるもんですか!叫びがこみ上げるのを必死で堪えた。
「お願い、話を聞いて、マリアン!」
アナベラはいっそ打ち明けようと考えた。それが彼女の気持ちを和らげる、唯一の方法に思えた。
だが、どうやって?どう話せば?
ジュスティニアンの本名はヴィゴで、自分を乱暴した男だと??ここに通うのは、あたしを恐喝するつもりかもしれないからだと?
・・・出来なかった。
アナベラの一瞬の表情の変化をマリアンは読みとった。それは怒りの炎に油を注ぐ結果になった。
「あんたなんかに私の気持ちがっ!」
鋭く風を切る音がした。
「エンバー!」
マリアンを止めたのは、白銀館の主人・ビニエだった。主人は振り上げられたマリアンの腕を掴んだまま、独特の柔らかな声でいさめた。
「あなたらしくない振る舞いだね。さぁ、客人が誰も来ないうちに、こちらへおいで。アナベラ、あなたは部屋へお戻りなさい・」
マリアンは悔しげにくちびるを噛んだまま、引きずられるように歩いていった。アナベラは、一気に緊張から解き放たれて、代わりに涙がこみ上げてきた。
「どうして、何が起こっているの?」
それでも言いつけ通り、部屋へ帰った。
部屋に戻ると、涙があふれて止まらなくなった。
アナベラには先ほどまでのことが、どうしても現実には思えなかった。
マリアンは大切な友達だった。たった一人の友達だった。
原因があるとしたら、自分にあるのだろうと、おぼろげに感じた。
でも、どれだけ考えても、答えが分からなかった。
ビニエの部屋でもマリアンは押し黙ったまま、どうなだめられても口を閉ざしていた。マリアンの頑固さは知っていたが、ついに主人はあきらめて彼女を解放した。
だが、ある程度の察しはついていた。
この商売をしていると、娼妓たちの色々な人生につきあう。高級娼婦といえども、アナベラのように良き伴侶に恵まれるのは、きわめてまれなのだ。
対してマリアンも豪商の愛人に収まっている。
しかし、愛人と妻では天と地の差がある。
「やっかみね・・・」
ビニエはやれやれとあきれ混じりの息を吐いたが、すぐに考え直した。
「今まで姉妹のように暮らしてきた二人だし、なんと言ってもマリアンはエンバー家の娘だ。そのうち頭も冷えるだろう」
そして、アナベラを呼び、こう言った。
「マリアンは君がうらやましいだけだ。今はそっとして上げるのが彼女のためだ」
優しい慰めにすがる思いで、アナベラは頷くしかなかった。
白銀館は重苦しい雰囲気のまま、時間だけが流れていた。マリアンはアナベラと顔を合わそうとしなかったし、仮にであったとしても、目を伏せて通り過ぎた。
アナベラは客の前では努めて明るく振る舞った。それがプロだったし、そうすることで辛うじて前向きな気持ちを保っていた。
マリアンの予告通り、ジュスティニアンはやってきた。
男は温雅な装いに身を包み、柔和な笑顔を浮かべていた。
ほどなく待ちかねた様子でマリアンがやってきて、カレシンの使いと並んで歩き出した。
向こうから歩いてきたアナベラは意を決して、中庭へ向かう男に声をかけた。
「ようこそおいでくださいました、ジュスティニアン様」
優雅な仕草に目を細めつつ、男は儀礼的に頭を下げた。
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です、シニョリータ。では、ごきげんよう」
紳士的な振る舞いだったが、アナベラは彼の目に宿るものを見逃さなかった。
だが、次の言葉がのぼってくる前にマリアンの声が遮った。
「行きましょう」
予想はしていたものの、マリアンの素っ気なさが彼女の胸に突き刺さった。
去ってゆく二人を見送りながら、どうしようもなく悲しさに溺れそうになったとき、背後から聞き慣れた声が彼女をとらえた。
「アナベラ」
驚いて振り返ると、そこに瀟洒な出で立ちで、背の高い人物が立っていた。
暖かみのある灰色の瞳が、まっすぐアナベラを見つめていた。
「ヴェンドラミン様!」
認めるやいなや、アナベラは恋人の胸に飛びこんでいた。
「はは、来てしまったよ。今日は少し時間が出来たのでね」
照れくさそうに言い訳しながら、総督は小さな背中を何度も撫でた。
その姿をマリアンは刺すようなまなざしで見つめていた。
「あたしの部屋にご案内します、ここでは目立つから・・・・」
囁くように言うのをいぶかしんで、ヴェンドラミンが顔を上げるとマリアンと目があった。
その表情の険しさに驚いたが、寂しさがにじんでいるのも見逃さなかった。
「さぁ」
しかし、それ以上のゆとりがもてず、恋人に促されて歩き出した。
アナベラの部屋にはいる。
総督はこみ上げてくる衝動を抑えて、示されるまま椅子に腰を下ろした。
「何ですの?」
自分に注がれる視線にアナベラは頬を染めながら、ティーカップを運んできた。
「うん・・・・」
ヴェンドラミンは感慨深げに頷いて、カップを受け取ると、アナベラに隣に来るよう促した。
そして綺麗に整理され、家具の少なくなった部屋を見渡し、安心半分残念半分の顔をした。
「結局、君一人で引っ越しの準備はすませたのか」
「ええ、あとは総督宮殿に送るだけです」
心ここにあらずという口調に、ヴェンドラミンは眉を寄せた。
そうでなくてもこの館に、なにやら緊張した雰囲気を感じる。
マリアンと何かあったのだろうか?ふと思ったが、二人が片時も離れられないほどの親友だと知っていた。あれほど堅い結びつきは珍しい。常々うらやましいと思っていた。
ちょっと迷ったが、ここへ来たもう一つの目的を告げた。
「君がずっと世話になっているマリアンと話をしたいんだが、彼女、時間はあるだろうか?」
その名前にアナベラはぎくっとしたが、顔に出る前に綺麗な笑みにすり替えた。
「訊いてきます。すこしお待ちになってください」
そして足早に部屋を出た。やがて、アナベラは独りで戻ってきた。
申し訳なさそうに口を開く。
「いまはどうしても時間がとれませんって・・・。申し訳ありませんって、何度も謝っていたわ」
ヴェンドラミンはおおらかに笑った。
「ヴェネチアの総督を袖にするとは、マリアンらしい。さてはヴァン・カレシンが来ているのかな?」
顔を向けられて、一瞬アナベラは言葉に詰まった。
「いえ・・・カレシン様のご友人のジュスティニアン様が来ておいでです」
ふと、奇妙な言葉の響きだとヴェンドラミンは首をひねった。
アナベラがこんな言い方をしたのは初めてだった。
何かに怯えているような、ひどく暗いものを感じさせた。
「さっき、マリアンと一緒にいた男かね?」
「ええ」
返事はしたが、消え入りそうな声だった。目も伏せられている。
「アナベラ」
ただごとではないと、直感した。ヴェンドラミンは誰もが惹かれずにいられない、優しい笑みを向けた。
「儂に出来ることはないかな?」
考えるより早く、首を振っていた。
おそらく女の本能がヴェンドラミンに真実を告げることを拒んだのだろう。
「そうか」
本心では食い下がりたかったが、そうしたところでアナベラが話すはずもないことを知っていた。
ヴェンドラミンは立ち上がった。
「名残惜しいが、そろそろ総督宮殿に戻らねば。シルヴェストロに内緒で来たんでね」
悪戯っぽく言うと、大きく腕を広げてアナベラを抱きしめた。
耳にくちびるを寄せ、心をこめて囁いた。
「儂のアナベラ、独りで無理をしてはいけないよ」
「はい・・・」
その言葉にアナベラは涙をこぼしそうになった。
ぐっとくちびるを噛み、代わりに切なくなるほどヴェンドラミンを抱きしめた。
アナベラたちを見送って、マリアンはジュスティニアンをいつもの中庭へ案内した。
「今日はこの間の続きを話してくださるんでしょう?カレシン様はミコノス島の入り江でどうなさったのです?」
興味津々という顔でマリアンは男を促したが、相手はうなずきはするものの、一向に話し出そうとしなかった。それでもカレシンの恋人は、辛抱強くまった。
恋人に会うことが叶わない今、思い出に浸ることが唯一の慰めだった。
ジュスティニアンは注意深く獲物の表情を読みながら、絶妙のタイミングで口を開いた。
「シニョーラ・エンバー、今のあなたにはカレシン様の話に聞き入るより、大切なことがありませんか?」
「カレシン様のことより?」
マリアンは怪訝な口調で聞き返した。狩人は慎重に言葉を選んだ。
「分かっておいでのはずだ。あなたの心を悲しませている原因を取り除いてあげたいのです」
思いやりのこもった優しい言葉に、マリアンは気持ちが揺れた。
さらに諭すような口調が続く。
「私は若輩ですが、カレシン様から人の本質を見抜くことを学びました。その力は十分にあると思っています。マリアン、あなたは本当は誰よりも清らかで優しい女性だ。アナベラにあんな態度をとったこと、後悔なさっているでしょう?本当はこれまでのように親友に戻りたいのでしょう?」
「御・・・存知・・・だったのですか」
声が震えて、視界が潤んできた。
羞恥心より、誰にも言えない辛さを理解してもらえたという安堵感の方が勝っていた。
一昨日、逆上して大好きだったアナベラにひどい仕打ちをしてしまったが、時間が経つにつれ、マリアンは自分の立場を改めて考える余裕が出来ていた。貴族の自分より身分の劣る女に差をつけられ、嫉妬にまみれてみた。しかし恋人には妻があり、どうあっても自分は愛人どまりなのだと悟ったとき、激しい後悔がマリアンに押し寄せた。
一言でいいからアナベラに謝りたいと考えた。だが機会は訪れなかった。
マリアンはこぼれそうになった涙を慌てて抑え、子供のように安心した笑顔を見せた。
「あなたは何もかもお見通しですのね」
「すべてではありません。白状してしまえば、カレシン様がヒントをくださったのです。あなたの身をとても案じておられる。こんな時にそばにいれなくて、とても申し訳ないと。そこで、カレシン様が一つの提案をなさいました。あなたとアナベラが仲直りできる場を設けようと」
マリアンは身を乗り出した。
「どのような?」
ジュスティニアンはマリアンが何の疑いもなく聞き入ってくるのに、暗い愉悦を覚えた。
一気にしゃべった。
「カレシン様の船、イーハ・ヒューン号で、カレシン様とアナベラの結婚祝いを催すのです。主催は船首ですが、あなたがもてなしを受け持てばいい。一対一ではやりづらいでしょうから、この館すべてのご婦人を招待なさればどうでしょう。そして折を見て、アナベラと仲直りをなさい。アナベラもそう望んでいるはずです」
この提案に、マリアンは瞳を輝かせた。天にものぼる心地だった。
「ぜひ、そうさせてください」
満足げにジュスティニアンは頷くと、続けた。
「シニョーラ・エンバー、これからあのお方に会いに行かれませんか?今日はカ・ドーロでヤハシッキ候とお会いになっています。少しくらいの時間は取れるでしょう。催しの打ち合わせをなさるといい。私がご案内します」
もちろん、言葉に真実はなかった。
だが、すっかりジュスティニアンに心を許しているマリアンは見抜けなかった。
黙ってしまったが、その内側では喜びと不安が交錯していた。
あと一度でいい、お目にかかりたい。あの方の腕に抱かれたい。
しかし、それが愛人の負担になることも十分承知していた。
ついにマリアンは答えを出した。
「いいえ、参りません。立場はわきまえています」
凛然と言う姿は儚く、美しかった。
ジュスティニアンはこみ上げてくる笑いを押し殺し、深々と頭を下げた。
見送りはいいと告げて廊下に出たとき、ヴェンドラミンはマリアンと出会った。彼女は一人で、総督と目が合うと気まずそうに会釈した。
「これは・・・シニョーラ・エンバー。ここで会えてよかった。あなたに礼を言わなくてはと、ずっと気になっていたのだ」
「お礼ですか?」
マリアンは意外そうな顔をした。
ヴェンドラミンは暖かく柔らかな笑みをたたえ、言った。
「今までアナベラを支えてくれて、感謝している。あなたのおかげで彼女がどれほど勇気づけられたことか。いくら感謝しても足らない。これから立場は変わってくるが、あなたはアナベラの大切な友人だ。変わらずに力になってやってほしい」
深々と頭を下げられて、マリアンは慌ててヴェンドラミンの体を起こした。
「おやめください、そんなことをなされてはあなた様のお立場に障りますわ」
総督は朗らかに笑った。
「儂の立場など、惜しいものじゃない」
「そうおっしゃっても・・・」
気にするなと手で合図して、ヴェンドラミンは玄関に向かった。
ふいに思い出したように振り返った。
「・・・あの男、あなたが先ほど一緒に歩いていた黒髪の男は、ジュスティニアン?」
「ええ、そうです。北欧で毛皮を扱うご商売をなさっていると伺いましたが、何か?」
その答えに納得しかねるように首をひねった。だが、言葉はない。
マリアンはこみ上げてきた不安に耐えきれなくなって尋ねた。
「どうなさったのですか?ご不審な点でも?」
はっとなって、総督は小さく首を振った。
そして安心させるように明るく言った。
「知り合いに少し似ていたような気がしたんだが、どうも名前が思い出せなくてね」
困った困ったと言いながら、ヴェンドラミンは歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、マリアンの胸を不吉な予感がかすめていった。
ゴンドラから次第に遠ざかる白銀館を眺めながら、ヴェンドラミンは考えていた。
『ジュスティニアン』がC・D・Xの情報員・カレシンの元で働いていると、ダンドロから聴いたのは昨日だった。ヴェンドラミンと面識は無かったが、名門グリマーニ家の出身だという。
言葉通りなら、怪しむべき点はない。
「儂もすこし心配しすぎかな」
小さく苦笑してみたが、浮かんできた疑惑を打ち消すことができない。
なぜかジュスティニアンが肩書き通りの男でないと考えていた。
アナベラの反応も引っかかる。
過去にどんな関係があったんだろう?
意味もなくアナベラとジュスティニアンが一緒にいる場面が頭に浮かんで、ヴェンドラミンは例えようもなくイヤーな気分に襲われた。
その正体が分かって、総督は顔をしかめた。
「還暦をとうに過ぎて嫉妬も何もないだろう・・・」
忌々しくつぶやいて、もう一度考えを戻した。
いま海賊『隻眼のジュスティニアン』の情報はすべて、ジュスティニアンが報告している。
それが、嘘なら?
いま、ヴェネツィアの主力艦隊は国を遠く離れている。
ヴェンドラミンの背筋を冷たいものが走った。
ゴンドリエーレに鋭い声を発した。
「ダンドロ家へ急げ!」
ヴェンドラミンから話を聴いたダンドロは言った。
「おまえさんの勘が、当たらないことを祈るよ」
そして部下にグリマーニ家を探るように命じた。そして、口ごもりつつ、告白した。
「実を言えば、ジュスティニアンを白銀館に行かせるよう、カレシンに頼んだのは、おれだ。思慮がたらなかったか・・」
そういわれても、ヴェンドラミンには事情が飲みこめなかった。
「なぜ?」
「あー、それはなぁ」
答えようとするダンドロの額に汗が浮いていた。
が、覚悟を決めたらしい。きっぱりと言った。
「可愛い娘の様子をジュスティニアンが知らせることになっていたからだ」
「あ、なるほどね・・・」
あっさりとヴェンドラミンは納得した。
この男がアナベラを溺愛しているのは承知していたから、この程度は予想していた。
だが、それは別問題だ。
「ジュスティニアンを捕らえるのは、どうだ?」
ヴェンドラミンの提案をダンドロはしばらく考えていたが、やがて首を振った。
「・・・早計過ぎる。まだ、奴が海賊と決まったわけではないし、仮にもグリマーニ家の人間だ。下手に捕まえでもすれば、政治上の問題になるぞ。・・・、アンドレア、おまえが一番よく知っている事じゃないか、どうした?アナベラが絡むからか?」
いつになく厳しい口調で言い、義兄は総督を見据えた。
「そうかも・・・しれん」
「しっかりしろよ」
ぱんぽんと総督の肩を叩き、ダンドロは努めて明るい声を出した。
「なあ、もう少し別の見方をしてみよう。おれたちは海賊のことでちょっとばかり神経質になっている。・・・・・その男、むかし白銀館でもめ事を起こしているんじゃないか?ああいうところは上手にもみ消してしまうから、こっちでも調べられないときがあるが」
半分納得して、ヴェンドラミンは頷いた。
「案外、そうかもしれんな」
蓋を開けてみたら、くだらないことかもしれない。
そう思い至って、ヴェンドラミンは少しだけ安心した。
だが、まだ何かひっかっかっている。マリアンと一緒にいた男を、どこかで見たか、何かで調べたことがあるような気がしてならないのだ。
それを考えるとき、得体の知れない嫌悪感に結びつく。
「杞憂だろうが、アナベラの身が心配だ。二人ほど護衛につけたい」
もっともだという顔を見せたが、ダンドロは言った。
「・・・それは避けるべきだ。いいかよく聴いてくれ。いまジュスティニアンはアナベラの様子をおれに知らせることで、こちらとつながっている。つながっていれば相手の動きを掴みやすい。これは逆の立場でも言える。危険な賭かもしれないが、護衛をみて、奴が姿をくらませでもしたら、とんでもない事になるかもしれないのだ」
「分かった」
不安を隠せない様子で、総督は頷いた。
夕方までにすべての調書が総督とダンドロのもとに届けられた。
グリマーニ家に関する調書を隅から隅までよんだが、特に不審な点はなく、二人は安堵した。
それだけでなく、まもなく一人娘のカテリーナが結婚式を行うために、婚約者と共にアドリア海を航海していることも分かった。
相手はグリマーニ家より格上の貴族で、いわゆる玉の輿だった。
「これは豪勢な組み合わせだな。莫大な持参金がいっただろう」
ダンドロはカテリーナ・グリマーニと少し言葉を交わしたことがあった。
深紅のヴィーノを片手に、ため息混じりでしゃべっている。
「漆黒の髪がそれは見事な娘でね。これが白い肌にとても似合う。・・・そういえば、すこしアナベラと似た面立ちだったな」
うっとりと話し終えた義父に、ヴェンドラミンはあからさまに呆れ顔を向けた。
「・・・それで、その娘はいつ頃帰ってくるのだ?」
「海が荒れなければ、明日だ」
「・・・しばらく晴天が続きそうだ。問題ないだろう。ジュスティニアンの疑いも晴れたし、やっと落ち着くことが出来そうだ」
やれやれとヴェンドラミンは立ち上がり、窓から港を見下ろした。
高いマストを三本立てたひときわ目立つ商船があった。フィギュアヘッドは女神だが、光の加減か片目が抉られているようにも見える。
「あれは?」
ヴェンドラミンの指先をたどったダンドロが答えた。
「ああ、カレシンのイーハ・ヒューン号だ」
「ずいぶんと大きい・・・あれは※『カティーサーク』タイプの高速船だな」
「そうだな」
特に関心のない様子でダンドロは答えた。
仕事が残っているのか、机に積まれた書類を手にしている。
「儂はもう一度、白銀館へ行ってくる」
悔しそうに義父が、手をひらひらさせた。
「行ってこい、アナベラが心配なんだろう?おれがすごーく心配していることもしっかりと伝えてくれ、分かったな!」
その態度がなんだかおかしくて、でもヴェンドラミンが笑いを堪えているとき、C・D・Xの一人が部屋に入ってきた。
ダンドロの腹心の部下で、いつも冷静沈着な男だが、今日は様子が違っていた。
「どうした?ニコロ」
胸騒ぎを覚えて、ダンドロが促した。
ニコロは一枚の紙を差し出すと共に、張りつめた声で告げた。
「条約を破って、トルコ軍が侵攻してきました。総大将はイブラヒム宰相!艦隊数は約30です!」
とっさには信じられなかった。二人は顔を見合わせた。
長年の間、しばしばトルコと諍いはあったが、そのつど和平交渉を積極的に勧めていたのは、イブラヒム・パシャだったのだ。
「こっちの主力艦隊が出払っているときに、ずいぶんとタイミング良く出てきたな」
ダンドロはニコロを呼び寄せ、大会議場を開けるよう命じた。
ざっと頭を巡らせ、こちらの艦隊が出港する時間を予想した。
「ぎりぎりで、明日の昼すぎか・・・」
それから、コンタリーニ家に遣いをやるように言った。
カレシンにしばらく会えない旨を伝えて欲しかったのだが、ニコロはけさがた商人の使いと名乗る男がきて、『カレシンは重要な取引で数日、留守になる』と伝言したという。
商人だからそういうこともあるだろうと、ダンドロは深く考えなかった。
そして、ニコロに続いて部屋を出ようとしたとき、背後に誰もいないことに驚いた。
「アンドレア?」
一緒に来ると思っていた男は、海の向こうを静かに眺めている。
もう一度呼ばれて、総督は振り向いた。
はっとするほど、瞳が強い光を帯びている。
「儂が行こう」
凛と声が響いた。
「待て、その必要はない!」
ダンドロは総督と正面から向かい合った。しかし、吹き出す気迫に押される。
「・・・・、総督自らが出向いて、殺されたらどうする?アナベラの気持ちを考えているのか?たとえ殺されないまでも捕虜になどなったら・・」
言葉は途中で消えた。
ヴェンドラミンは両手で力強くダンドロの肩を掴み、安心させるように笑った。
「『カノッサの屈辱』など恐れるものか!忘れたのか?シルヴェストロ、儂はヴェネチアの総督、すべての国民の盾となる男だ。就任の誓いは偽りではない。・・・・あの宰相が戦いを挑むとは、よほどの理由があるに違いない。イブラヒムとは何度も交渉をして、お互いを知り尽くしている。儂が必ず和睦を成し遂げる。断じてこの国を戦火にさらしたりはしない」
反論しようとした言葉が、胸にわき上がった熱に飲みこまれた。
この大胆さ、自ら危険を背負う勇気、そして、たぐいまれなる包容力。
ダンドロは今ほどアンドレアを総督に選んで間違いはなかったのだと、思った時はなかった。
涙が盛り上がりそうになるのをぐっと堪えて、深く頭を下げた。
「頼む・・・!」
「任せておけ。こんな仕事はアナベラに結婚を申し込むより、よっぽど簡単だ。ついでに、イブラヒムから金角湾でも結婚祝いにせしめてくるからな」
おどけてダンドロの口まねをしてみせた。
その笑顔の中に一点の曇りもなかった。
※カティーサーク・・・英国J・ウイリス氏の依頼で建造された963トン、全長83mの木鉄交造船で最高17.3ktsで航行。帆船史上最速を誇るクリッパー。シドニー〜ロンドンを最短71日で結んだ。2004年現在、グリニッジの乾ドックに建設当時の姿で永久保存されている。
同じ頃、白銀館のある部屋を一人の客が訪れていた。
ノックされて、アナベラはドアを開けた。
「どなた?」
そこにはジュスティニアンが立っていた。アナベラは一気に血の気が引くのを覚えた。
真正面から見る男は、過去の一場面と重なり、直ちに覆い被さってきそうだった。
「どうかなさいましたか?」
辛うじて気力を奮い立たせ、気取られないように微笑む。
それでもくちびるが震えてくるのを隠せなかった。
ジュスティニアンの目を狡猾な光が過ぎった。だが慇懃な物腰で真っ白な封筒を差し出した。
「シニョーラ・コルフェライ、カレシン様からのご招待状です。受け取ってください」
いぶかりながらアナベラは手に取ると、その場で開封した。
素早く記された文字に目を走らせる。
そこには言葉通り、明日イーハ・ヒューン号でアーネスト・ヴァン・カレシン主催の祝宴があると書かれていた。自筆の署名も入っている。
だが、ジュスティニアンの笑みに邪悪なものを感じないではなかった。
「シニョーラ、すぐにお返事をいただけますか?シニョーラ・エンバーも是非とおっしゃっています」
恐怖で思考が停止しそうになる前に、アナベラは必死で考えた。
これにはカレシン様もマリアンも関わっている。当然ヴィゴも・・・。
たとえヴィゴが関わっているとしても、これは正式な招待状だわ。
それに私が受ければ、祝宴で彼女はカレシン様と過ごす時間がもてる。
・・・マリアンの喜ぶ顔が見たい。
「いかがですか?」
囁くような優しげな声が降りてきた。
だが、心を決めても疑いは晴れていない。
アナベラは一つの賭に出た。
まっすぐに男を見上げた。
「ヴィゴ、あなたでしょう?5年ぶりね」
毅然とした態度に、ジュスティニアンは目を見開いたが、まばたき一つの間で柔和な笑顔になった。
「覚えていましたか」
懐かしささえ漂わせて、アナベラを見下ろした。
ぞっとして後ずさりかけたが、踏みとどまった。
「忘れられるはずがない!」
発せられた言葉のあまりの激しさに自分でも驚いた。
これほどの憎悪を潜ませていたとは。
「私もだ」
しかし平然と受け止めるとヴィゴは、次を待つように首をかたむけた。
アナベラの怒りも途切れなかった。
「なぜいまごろ現れたか、当てるわ。あたしの過去をネタに恐喝にきたんでしょう?」
有無を言わせぬ口調に、ヴィゴは全く予想もしなかったという顔をした。
そして、短く笑った。穏やかに言う。
「高級娼婦ともあろう人が、くだらない戯曲を観すぎですね。・・・そりゃあ昔はいつも金に困っていましたが、今はありすぎて困るほど。この5年で自分の船も会社も持ったのです。いまやスウェーデンで私の名を知らぬ者はないくらいですよ」
注意深く男の話を吟味した。いくらか真実みも感じられる。だが。
察してなおも諭すように言葉を重ねた。
「あなたが私をどう思っているか、分かっているつもりだが、・・・あれも仕事だ。しかたがありませんでしたね」
言葉が終わるやいなや、アナベラは爆発した。
「あんなひどいことが・・・・仕事?」
怒りが激しすぎて声がかすれていた。
しかし、ちらっと視線を向けただけで、ヴィゴは口を閉ざさなかった。
「そう、仕事だ。私もあなたも。分かっているはずだ。私たちは仕事仲間でした。苦労を共にした仲間が結婚をするなら、祝うために駆けつけてもおかしくない。そうでしょう?」
いかにも親密な笑顔を向けられたが、アナベラには納得できなかった。
やれやれとヴィゴは息を吐き、あからさまな侮蔑を浮かべた。
「無駄話はこれくらいにしましょう。私との関係がどうであれ、これはカレシン様のが主催されるものだ。ご自分の立場をわきまえているなら、祝宴はご出席なさいますな?」
正論だった。暗然とアナベラは答えた。
「分かっているわ」
「明日の夕方お迎えにあがります」
紳士然とヴィゴは頭を下げ、きびすを返した。
白銀館をでて、徒歩でしばらく狭い路地を歩いたところで、ジュスティニアンは薄暗い角に潜む影に声をかけた。
「全員そろったか?」
「さっき」
声がして、がっしりとした体つきの男がよってきた。櫛の通された事など一度もなさそうな赤毛で、無精髭が頬から顎にかけてはえている。
古びたチョッキに点々と赤黒いシミが浮いていた。
「誰を殺ったんだ?」
「金をたんまり持った野郎を一人」
平然と言った男を、ジュスティニアンもまた、無感情な目で見た。
「死体は?」
「ぶつ切りにして、犬にやった。ここの犬はよく喰うな」
小さなカンポを過ぎると、細い運河に出た。ゴンドラが待っていた。
二人が乗ると、待ちこがれていたように勢いよく水面を走り出した。
「あの娘は、まだ、生きているか?」
船を操る男が野卑な笑い声を上げた。
「今晩もやるおつもりで?」
「生きてりゃいい」
ジュスティニアンは濁った目で、遠く夜景に影を浮かび上がらせるイーハ・ヒューン号を眺めた。
磨き上げられた甲板を通り抜け、ジュスティニアンは階段を下りていった。
船の底は空気がよどみ、か細いランプの光がいまにも闇に飲みこまれようとしている。
一つの粗末なドアの前で足を止めると、中からぼそぼそと人の声が聞こえてきた。
重い鍵束を取り出し、その一つでドアを開けた。
部屋の中は灯り一つきりで、闇に沈んだ部分に大勢の怯えた人間の気配を感じさせた。
頼りない灯りの真下に、上等な服に身を包んだ男が立っていた。男の顔は威厳を保っていたが、瞳にはかつての鋭さは残っていなかった。
「カレシン様」
ジュスティニアンはうわべの敬意をはらって頭を下げた。
「決心はつかれましたか?あなた様にも悪いお話では無いはずですが?」
重い足取りで前に出ると、カレシンは残った力でかつての友人を睨んだ。
「私に選択権などないだろう?」
あんまりにも心外だという顔をした。
「ひどい勘違いをなさっている。あなた様は自由に選べる。『船員と共に皆殺しにされる』か、『隻眼のジュスティニアンに協力して生き延びる』か。そうだ、もう一つ条件をつけましょう。『協力するなら、シニョーラ・エンバーを助ける』いかがですか?おっと、上品すぎますかね?では、『協力しなければ、昼夜ぶっ通しで海賊たちが犯す』。やつらはずっと女に飢えてやがるからなぁ・・・なんなら、あなたの目の前でご披露してもよろしいですよ?」
陰惨な笑みを見せながら、すでにジュスティニアンは相手の回答を掴んでいた。
ここ一月のつき合いで、カレシンが情に厚く決して仲間を見捨てない人間だと分かっていた。
そして、マリアンを誰より愛していることも。
やがて、悄然とマリアンの愛人は答えた。
「貴様らに協力する」
満足そうに口の端を引き上げると、ジュスティニアンは言った。
「契約は成立しました。すべてが終われば解放します。それでは失礼します」
うなだれるカレシンを横目で見ながら、ジュスティニアンは部屋を後にした。
船長室に続く階段を上りながら、ジュスティニアンはついてきた若い男に命じた。
「明日の祝宴が終わり次第、船員は残らず殺して樽詰めにしておけ。カレシンは最後だ。おれを養子にするという遺書を書かせるまで殺すな」
男は愉快そうな笑い声を上げて、目をぎらぎらさせた。
「頭はヘドが出るくらい嫌な奴だぜ。さすが先代が見こんだ野郎だ。当然、奴の女房も片づけるんだろう?」
海賊は軽く肩をすくめた。
「カレシン様の奥方様は心臓が悪いんだとさ。ババァなんぞ殺したっておもしろくもねぇからな。神様は全く慈悲深いお方だ」
「けけっ、まったくで。そんで遺産を手に入れたらどうするんで?」
数秒、ヴィゴは答えなかった。薄闇でなければ、彼の顔にあこがれに似た色が浮かんだのを見ただろう。
「・・・・・・いい加減ヴェネチア海軍がやかましいからな、しばらく海賊稼業休みだ。今度は傭兵でもやろうぜ。『ローマの掠奪』もいい」
「そいつは、いいや!」
男が愉快でたまらない様子で相づちを打った。話の終わったところで、二人は船長室にたどり着いた。
部屋の横にいた見張りの男に去るよう、顎をしゃくり、再び鍵束を取り出した。
「何している、行け!」
ヴィゴの怒気を含んだ声を浴びても、未練たらしく見張りの男は立っている。
一緒に来た男が手を振って催促した。
「ほら行けよ、明日になりゃ俺たちにもおこぼれがあるからよ!」
舌打ちが聞こえたが、のろのろと歩いてゆくのを確認して、ヴィゴは施錠を解いた。
ついてこようとする部下をじろりと睨む。
「はいはい、分かっておりますよ。どうぞご存分に!」
乱暴にドアを閉じると、驚いたように続き部屋の寝室から音がした。
ヴィゴは大股で寝室に入った。入り口のランプを灯す。
乱れたままのベッドの上には人影があった。猿ぐつわをされ、両手足を縛られた若い女が転がっていた。
漆黒の髪に透けるような色白の娘は男の姿を見ると、せわしく息を吐きながら不自由に手足を縮めた。青い瞳は大きく開かれ、くちびるは小刻みに震えている。半裸になった肢体のあちこちにアザや浮き、傷には血がこびりついていた。
ヴィゴは女をじっと見下ろしたまま、服を脱ぎ捨てた。
全身が肉欲で激しくたぎっていた。
女はくぐもった悲鳴を上げて身をよじったが、容赦ない平手を食らって静かになった。
ぐったりとなった足の戒めを解き、力任せに膝を割ると、覆い被さった。
寝台が大きく軋み、女の青い瞳から涙があふれた。
毎夜凌辱されてもまだ泣けるのが、ヴィゴは不思議だった。
体の下の瞳を見れば、そこには絶望しかない。
婚約者が死んだと知れば、舌をかみ切るだろうか?
荒々しく獣じみた息を吐きながら、ヴィゴは数年前の自分を思い出していた。
白銀館にアナベラが移った後、大金が手元に残っていた。街では流行病でばたばたと人が死んでいたが、女将と自分には関係ないと高をくくっていた。
ある朝、女将はベッドの中で冷たくなっていた。昨晩まで二人で愉快に酒を飲み、けだもののように愛し合った。だが・・・。
ヴィゴは神を呪った。世の中すべてを恨んだ。
あとはお定まりの転落だった。酒場でちょっとした諍いから相手を殺し、逃げているところを片目の老人に拾われた。それは海賊だった。ヴィゴは言われれば、殺人も誘拐も強姦もなんでもやった。これっぽっちもためらわなかった。
やがて、ヴィゴは二代目の『隻眼のジュスティニアン』になった。
ヴィゴは激しく突き入れながら、娘の猿ぐつわを取り払った。
髪をぐいっと引っ張った。
「さあ、言ってみろ!」
それを合図に娘はすすり泣きながら、声を絞り出した。
「私はあなたのものです・・・・私は、あなたのものです・・・・・わた・・・」
消え入りそうな声を、ヴィゴは別の人物の声として聴いていた。
彼の耳にアナベラの噂が入ってきたのは数ヶ月前だった。
その時、真っ先に思い出したのが彼女の瞳だった。
娼館にいたころ、ある日を境にアナベラは別人のように強くなった。どんな事があっても弱音を吐かない女になった。
なにより瞳に誰をも圧倒する輝きがあった。輝く瞳で運命を切り開いていった。
それを思い出したとき、ヴィゴは狂ったようにアナベラが欲しくなった。
心のどこかで、もう一度やり直したいと願っていたのだろう。
アナベラがそばにいれば叶うと、そう信じていた。
しかし、常に追われる身の海賊が簡単に近寄れるはずがない。
だが、チャンスが訪れた。
ヴェネチアの貴族グリマーニ家が、多くの借金を抱えて困窮しているという情報だった。
皮肉なことに、海賊の手元にはありあまる金があった。
その夜も一晩中、部屋から女の悲鳴や泣き声が漏れてきていた。
時間は少しさかのぼる。ヴィゴが白銀館を後にしてしばらく経ったころ、アナベラの部屋をヴェンドラミンが訪れた。
返事はなかったが、胸騒ぎがして入ってみると、すでに陽が落ちて久しいのに部屋は暗闇に閉ざされていた。
「アナベラ?」
「ヴェンドラミン様・・・・?」
目をこらすと、窓辺の長椅子に膝を抱えるように、恋人がうずくまっていた。
総督は、この姿勢はアナベラが何か悩んでいるときの癖だと知っていた。
ランプを手に、そっと近づいて横に腰を下ろした。
どんなときでも微笑みをくれるアナベラが、今日は目も合わせないばかりか、ひどく思い詰めた表情をしている。
次第に強まってゆく不安を飲みこんで、ヴェンドラミンは優しくアナベラを抱き寄せた。
すがる思いで男の厚い胸に顔を埋めると、どうしようもなく涙がこみ上げてきた。
無言のままヴェンドラミンは震える肩を抱き、何度も金色の髪を撫でた。
ヴィゴが去ったあと、アナベラは仕掛けられたワナに、まんまと引っかかってしまったと思った。
あの男がすんなりと祝宴をすませるなど、信じられなかった。
必ず悪辣な要求を突きつけてくる。
ヴェンドラミンは妻になる女性が、少しも頼りにしてくれないことが歯がゆく、悔しかった。
だが、聡明なアナベラが理由もなくそう振る舞うはずはない。
小刻みだった震えが大きくなり、胸元が熱く濡れてきた。声を殺して愛しい人が泣いている。
「アナベラ・・・」
ヴェンドラミンは彼女の顔を上げさせると、手のひらで涙をぬぐった。
まっすぐに緑の瞳を見つめた。
アナベラもまた、見つめ返した。そのまなざしがヴェンドラミンの胸をえぐった。
「どうした?」
急激な勢いで言葉が飛び出そうとした。しかし、アナベラは口をつぐんだ。
義父が手を尽くしてるが、二人の結婚はまだ一部の貴族から根強い反対を受けている。
そんなときに自分の過去で総督に迷惑をかけるなど、決して出来なかった。
なんとしても自らの手で決着をつけねばならなかった。
しかし、すべはない。
大きな手のひらで、ヴェンドラミンは小さな子供をあやすように、アナベラの頬を撫でた。
その仕草は慈しみにあふれていた。
ヴェンドラミンはすべてを受け止める覚悟を決めた。
「君の抱える荷が重すぎるなら、儂が一緒に持とう・・・・・」
なんとしても救いたい、力になりたいという願いがこもっていた。
アナベラは目を閉じた。ぎゅっと閉じた。
そうしないと、再び涙があふれてしまって、声をなくすから。
「儂の大切なアナベラ」
優しい声がゆっくりと染みこんで、アナベラの心をしっかりと包んだ。
再び開かれた瞳は、微かな光を宿していた。
アナベラは口を開いた。
「あの男が、やってきました」
「あの男?ジュスティニアン・・・?」
その名前を聞いたとき、彼女の体が大きく震えた。
一瞬、沈黙があったが、声ははっきりと発せられた。
「そうです。ジュスティニアン、ヴィゴはあたしの最初の男です」
この告白にヴェンドラミンは大きな衝撃を受けた。
アナベラは男の心の内を察していたが、懸命に声を出した。
「最初の娼館にヴィゴがいました。当時のあたしは鶏ガラみたいに痩せていて、金髪だけがとりえでした。館に着いた夜、ヴィゴは『こんな娘が処女でも何の価値もない』といって、あたしを無理矢理・・・・!それから毎晩何時間もあたしを仕込むと言って・・・・。でも、辛くて、悲しくて、泣いてばかりで・・・言うことを聞かないといって、何度も殴られました・・・・」
あまりの衝撃に、ヴェンドラミンは慰める言葉を失った。
同時に激しい怒りがこみ上げてきた。すぐにでもここを飛び出して、ジュスティニアンを探し出し、その首をへし折ってやりたくなる。
しかし、アナベラは告白を続けた。もはや自分では止められなかった。
「ずっと忘れていました。忘れようとしました。でも、あの男が、別の名前で現れました。そして、明日、カレシン様の船に来るように命じました・・・・」
アナベラが顔を上げた。だが、瞳は濡れていなかった。
悲しみがあまりにも深いとき、人は泣けないとヴェンドラミンは知っていた。
荒れ狂っていた感情が急速に鎮まり、ただ一つの思いが男を満たした。
彼の腕の中で、恋人は声を失ったようにくちびるをきつく結んでいる。
事実、アナベラは次の言葉を無くしていた。
自分を抱きしめている恋人の腕が、次第に冷えてゆくように思えてならなかった。
その証拠にヴェンドラミンは何も口にせず、動こうともしない。
アナベラもまた、微動だに出来なかった。
激しい後悔が彼女を苛んでいた。
自分は甘えていたのだと、高級娼婦にあるまじき告白をしたのだと悟った。
総督はこんな女は望まない。ましてや、体を汚された女など愛する価値もない。
それでも、アナベラは総督を気遣った。どうすれば、彼の名誉を守れるか考えていた。
だが、浮かぶのはヴィゴのことだけ。やはり、あの男に運命が引き寄せられる・・・・。
どれくらい時間が経ったのか、ついにアナベラは決心した。
魂の引き裂かれる痛みに悲鳴を上げそうになる。
だが、声に変えた。
「ヴェンドラミン様、そろそろお戻りになりませんと、ダンドロ様が心配なさいます」
力無く微笑んで、立ち上がろうと顔を上げたとき、ぽたりと暖かいものが頬に落ちた。
あっと、息をのんだ。
「・・・君がずっと辛い過去に耐えていたのに、知らなくて・・・済まなかった」
幾筋の涙がヴェンドラミンの頬を伝っていた。
慌ててハンカチーフを取り出して、恋人の頬に押し当てた。
「泣かないでください。あたしのことで悩まれる必要なありませんわ・・・」
細い指に自分の手を重ね、ヴェンドラミンは首を振った。
重なった手が、とても温かかった。
「アナベラ、儂は言ったはずだよ。『君の抱える荷が重すぎるなら、儂が一緒に持とう』と。」
「ヴェンドラミ・・・」
声が途切れ、視界が熱くかすんできた。それでも自分を見つめる灰色の目が語るものを、アナベラはしっかりととらえた。
そこには揺るぎない愛があった。
ヴェンドラミンはアナベラの心をほぐすように、一つ一つの言葉に心を込めた。
「君を愛している。過去の君も、今の君も、これからの君もすべて」
無惨な過去も愛してくれるという、その言葉に胸が震えた。
「ヴィゴとの事も・・・」
静かに頷き、恋人の柔らかな手を大きな手がぎゅっと握りしめた。
そのぬくもりの中で、アナベラの悲しみは静かに消えようとしていた。
「あなたに愛されて、あたしがどれだけ幸せかご存じですか?」
ヴェンドラミンはアナベラの微笑みが、これほど美しく思えたときはなかった。
「その質問はそのままお返ししよう・・・」
たくましい腕が華奢な肩を抱きしめ、アナベラは微笑みとともに目を閉じた。
一筋の涙が柔らかな頬を伝う。
長く甘いくちづけを交わし体を重ねてゆく恋人たちを、ランプがほのかに照らしていた。
翌朝、思い出したように、ヴェンドラミンが言った。
「今日は宮殿に来るといい。カレシンには儂が使いを出す」
アナベラは昨夜までとは別人のように、安心しきった顔をしていた。
緑の瞳は澄み、柔らかな光をたたえている。
ゆっくり身を起こすと、恥ずかしげに両手を前で交差させた。
差し込む朝日がまぶしかったからか、アナベラがまぶしかったからか、ヴェンドラミンは目を細めた。
「風邪をひいてしまうよ」
ヴェンドラミンはそばの椅子に手を伸ばすと、引っかけてあった総督のマントをたぐり寄せた。
昨夜の名残で色づいている肌へ、守るようにかける。
うれしそうにマントで体を包むと、アナベラはまっすぐに恋人を見た。
「わがままを許してください。あたしは行きます」
よどみない口調に、ヴェンドラミンは戸惑いながらも言った。
「無理をしなくてもいい。もう君は十分苦しんだ」
それでもアナベラは鮮やかな笑みで答えた。
「いいえ、あたしはヴィゴと決別するために行くのです」
彼女の言葉には、不思議なほど余裕を感じさせた。
「ヴェンドラミン様は教えてくださったでしょう?『この国では一夜で財産を無くす者も、成す者もいる。ヴィゴがカレシンと対等につき合えるほどの商人になったとしても不思議じゃない』・・・。昔がどうであれ、あの男が総督の花嫁になる女に、何かするとは思えません。商人なら何をしても不利益ですから。それに、今夜の宴はマリアンがカレシン様にお会いするチャンスなのです。あたしは、マリアンの望みを叶えてあげたい。」
「だが・・・」
次の言葉を、アナベラは甘いくちづけで止めた。ふわりと金木犀の香りが二人を包む。
はじかれたように恋人の腕が柔らかな体を抱き寄せる。
昨夜のようにお互いのぬくもりを確かめ合ったあと、ヴェンドラミンは決意した。
「儂が同行できればよいのだが、今は叶わない。・・・代わりにC・D・Xのプリコラを、知っているね?彼女を供にしてくれ。お願いだ」
「はい」
アナベラは素直に頷いた。
同じ頃、カナル・グランデ沿いに屋敷をかまえるグリマーニ家の前を、匹のやせこけた犬がしきりに顎を動かしながら歩いていた。
玄関先にいた当主・ヤコポ・グリマーニは大の犬好きで、手にしたパンを犬に向けて振ってみせた。
「こいこい、焼きたてのパンだよ」
犬は盛んにしっぽを振りながら走ってきた。
ところが差し出したパンをくわえようとして、哀しそうに啼いた。
「どうしたんだい?うん?」
ヤコポの目を鋭い光が刺した。のぞき込んだ犬の口に何かがある。
「かわいそうに、どれ、何か変な物を食べさせられたのかい?歯に引っかかっているよ」
よほど弱っていただろう。犬は抵抗もせずにヤコポに口を開けられたまま、ひんひん鼻を鳴らしている。
それはすこし手間取ったが、はずせた。
ヤコポは老眼でしょぼついた目でそれを確かめた。
あちこち汚れて傷ついているが、どんな状態になろうと決して見まちがえる事のない品だった。
胸をえぐるような叫びが、あたりにこだました。
驚いて犬が逃げ出した。
それは愛娘の婚約者に、ヤコポが自ら選び与えた指輪だった。
「だんな様!」
異変に気がついて、老執事が飛び出してきた。
だが声をかけられても、ヤコポは狂ったように震えるだけだった。
執事はヤコポを引きずるように屋敷に戻した。
死人のような顔色の主人を何度も何度も揺さぶった。
「だんな様、だんな様、しっかりなさってください!」
はずみで床に転げ落ちた指輪が目に入ったとき、執事もまた声を失った。
老練な執事は、最悪の事態が起こっていると悟った。
「まだお嬢様が亡くなったと決まったわけではありません!気をしっかり持ってください!」
『若い女は他に使い道がある』という言葉を、あえてのみこんでの励ましだった。
「・・・・・その通りだな・・・」
繰り返される執事の慰めに力を得たヤコポだったが、同時に激しい後悔に苛まれていた。
カテリーナを嫁がせるために、莫大な金が必要だった。ヴェネトの土地を売っても追いつかず、途方に暮れているとき、黒髪の若い男が訪ねてきて協力を申し出てくれた。
一も二もなく飛びついた。だが、男の正体が分かった時・・・すでに後戻りできなくなっていた。
あの凶悪な海賊、『隻眼のジュスティニアン』の手足となり、さらに裏切らないよう保険までかけられた。それは、目に入れても痛くない愛娘と婚約者だった。
今となって、ヤコポに残された道は一つだけだった。
貴族としてメンツも地位も失う覚悟を決めた。
「娘を取り戻すには、ダンドロ様のお力を借りるほか・・・ないな。使いを出す準備をしてくれ」
しかし、老執事は首を振った。
「直に行かせては、ジュスティニアンどもに知れます。だんな様はシニョーラ・コルフェライをご存知ですか?ダンドロ様の御養女で、白銀館に住んでおられる方です。あの方宛に手紙を書かれませ。さすれば、間違いなくダンドロ様に届くでしょう!」
時間をおかず、グリマーニ家の使用人が白銀館に向かった。
その日、白銀館は朝早くから華やかな雰囲気に包まれていた。
ヴェネチアでも最高級の女たちが、お互いの美を際だたせようと腕によりをかけて着飾っている。
何しろ大商人カレシンの宴に、館の高級娼婦すべてが招待されたのだ。ジュスティニアンの話では、現在寄港している商人の中でも選りすぐりの男たちも招かれているという。あわよくば最高の顧客を手に入れる機会でもあった。
グリマーニ家の使者が到着したのは、ちょうどマリアンが支度を終え、廊下へ出たときだった。
使者は何気なさを装いつつも、急いで駆け寄ると彼女に封書を渡した。
「主人からの重要な手紙です。必ずご覧になってください」
それだけ伝えると、足早に出口に向かった。
使者はアナベラと面識がなかったが、光り輝くような女性と聴いていて、人違いをした。
愛する人に会える、その思いがマリアンを美の女神に変えていた。
「きっとカレシン様からね」
ときめきで苦しい胸を押さえて封を切り、一文字も見落とすまいと紙面に目を走らせるうち、マリアンの顔が堅くこわばっていった。
読み終えるやいなや、びりびりに切り裂いた。
「よくもこんな、でたらめを!」
そこにはジュスティニアンの正体、非道ぶりがびっしりと書き込まれていた。宛先も記されていたが、怒りの前に何の意味もなさない。
かくしてヤコポ・グリマーニの望みはついえたかに、見えた。
ヴェンドラミンは結局アナベラに訪問した目的を告げられないまま、宮殿に帰った。
私室にはすでにダンドロが待っていた。
決まり悪そうに支度を始める義弟に、鼻をひくつかせた。
「金木犀の香りがする」
「そ、そうかな?」
焦る朝帰りの男に、ダンドロは呆れ半分、諦め半分の顔をした。
「で、アナベラと話してきたのか?」
「・・・出来なかった。あの子に心配をかけたくない・・・」
「おまえはそういう奴さ」
言いながら、両腕でヴェンドラミンをしっかりと抱きしめた。
「かならず・・・帰ってこい」
「無用な気遣いだ、義父上」
「おまえにそう呼ばれるのは、勘弁して欲しいな!」
はは、と軽い笑いが舞い上がった。
ふいにいたずらっ子の目になると、ダンドロは机に向かって何事かを書き記した。
「あの子をここへ呼んで、おまえの代わりに相手をしてやろう。嫁に出したら、もう出来ないからなぁ」
わざと大声をだし、ヴェンドラミンの反応を伺う。
義父の溺愛ぶりにげんなりしつつ、腹の中で舌を出した。
「今日はダメだ。あの子は夕方からカレシンの宴に招かれている。準備で忙しい」
この意味をダンドロは深く考えなかった。代わりに幼児のようにふくれっ面をした。
「なんだ、つまらん。じゃあ、父親同伴で行こう!」
「そこまで親バカをさらすな。・・・・おまえより、C・D・Xのプリコラを貸してくれないか?アナベラに同行させたい」
「かまわんが、なぜだ?」
「プリコラは腕が立つからね。万が一のための・・・。いや、儂の杞憂だ」
ヴェンドラミンは心に浮かんだ不安を打ち消すように、口調を強めた。
その一時間後、予定より早く和平使節の出発する時間がきた。
総勢三十隻の軍船が、ひときわ目立つ船に率いられて港を出てゆく。ダンドロは引き絞られるような不安を胸に、総督宮殿の窓から見送っていた。
「必ず帰ってこい、ヴェネチアとアナベラのために・・・・・」
祈るようにつぶやく。だが、他にも気がかりなことがあった。
ヴェネチアを守る海軍は、一つはモロシーニと共に海賊討伐に、残った船はヴェンドラミンとトルコの船へ向かっていった。
現在、共和国にあるのは、わずかばかりの兵だけである。
万が一にも他国が攻めてきたら、ひとたまりもない。
「これ以上、アクシデントはないさ。アンドレアの心配性がうつったかなぁ」
やれやれと体をほぐしながら、視線を港の右へ移すと、イーハ・ヒューン号が見えた。
甲板の上を忙しそうに男たちが行き来している。
遠目からだが上等の服を着ているようだ。
「船で開催するのか。あの男も自分の商売で忙しいだろうに」
微笑みが浮かんだ。感謝の気持ちがわき上がり、自分も何かできないだろうかと考えた。
だが、後回しにした。
総督が不在となっている時は、代行として仕事は山積している。
少々重い気分で、ダンドロは部屋を出て行った。
薄暮が街を覆う頃、『カレシンの使い』が幾艘ものゴンドラを連ね、白銀館へやってきた。
客室なしのゴンドラに次々と女たちが乗り込む。
いずれおとらぬ艶麗な美女たちがゆっくりと大運河を下ってゆくのを、市民たちは熱狂的に見送った。
この国では年中どこかで祭がある。だが、これは生涯に一度お目にかかれるかどうかという、素晴らしいものに思えた。
先頭を行く『カレシンの使い』は大歓声を上げる市民を冷淡に眺め、つぶやいた。
「けけっ!女たちの最後の姿を・・・てめえらの目に焼きつけるがいいや・・・」
最後尾のゴンドラはひときわ目立っていた。アナベラとプリコラが乗っていた。
アナベラは総督に語った言葉を、微塵も信じていなかった。
自分の運命の先に、ヴィゴが立ちはだかっているのを感じる。
今夜あの男が、徹底的に自分を苦しめるだろうと分かっていた。
だが、不思議に少しも恐ろしくなかった。
体は離れてしまったのに、今でもヴェンドラミンの大きな温もりに包まれているような気がする。
支えてくれる人がいる。その真実がアナベラを誰よりも強い女性に変えていた。
同時にある決意をしていた。
守らなければ。
アナベラは幾度も繰り返してきた誓いを、改めて心に刻んだ。
ヴェンドラミン様があたしを愛してくださったことを、決して後悔なさらないように。
命に代えても、あの方の名誉を守らなければ。
アナベラは厳しいまなざしで、先頭を行くゴンドラを見つめた。
先を行くゴンドラから嬌声があがったのは、まもなくだった。
「コルフェライ様、ほら、あれを!」
プリコラの指さす先に、船体を数十のランプで浮かび上がらせたイーハ・ヒューン号があった。
真っ白な帆がたっぷりと風をはらんでいるが、艫綱でしっかりと港に結ばれ、巨大な身は微動だにしない。
桟橋には着飾った船員たちが二人一組で列をなし、客を出迎えた。
「さぁ、皆様こちらへ」
『使い』が誘うと、ゴンドラから次々と娼婦たちが桟橋を渡って船に歩いていった。
プリコラはアナベラにぴったりと寄り添いながら、薄闇をすかして船員たちの顔を伺っていた。
得体の知れない何かが、船員たちを取り巻いているように思えてならない。
手前の船員は緊張でこわばった顔をしており、その真後ろの船員もまた別の緊張を浮かべている。
それが人を変えても、最後まで続いていた。
腕利きの情報員であるプリコラにも見抜けなかったのだが、このとき後ろの船員はいつでも一刺しできるよう、鋭い短剣をイーハ・ヒューン号の船員に突き立てていたのだ。
船の前で集まった美女たちに、船員は一つずつ半透明の石でできた薔薇のブローチを渡した。
そして全員に行き渡ったところで、もったいぶった口調で言った。
「このブローチはある特別な工夫が施されております。必ず身につけてください。素晴らしい事が起こりますよ!」
期待に満ちた歓声があがって、娼婦たちはわれ先にとブローチをドレスにつけていった。
船員たちの手を借りて、船のホールへ入った女たちはその豪華さに息をのんだ。
「ようこそ、イーハ・ヒューン号へ!」
ホールの中央に勝ち誇った顔のジュスティニアンが立っていた。
アナベラの背筋を冷たいものが走った。
その時。ホールの灯りが一瞬にして消えた。
ざわめきの代わりに、ため息が女たちの口から漏れた。
ドレスにつけられた薔薇が柔らかな光を放ち、闇の中に神秘的な花畑を浮かび上がらせていた。
プリコラには、その石の名を知っていた。『ホタル石』という。
同時に不吉な考えが頭をかすめた。
「コルフェライ様、こちらへ・・・・」
プリコラがアナベラの手を引こうとしたその時、女たちに向かって何十もの足音が突進してきた。
絶叫が闇を切り裂いた。
「コルフェライ様!」
「どこ?どこなの?プリコラ!」
アナベラは必死に手を伸ばしたが、横からぶつかってきた何かにはじき返された。
「きゃほぉぉぉっ!捕まえろっ!」
「上等のオンナばかりだぜ!たまんねぇぜ!」
下卑た男の声と娼婦の悲鳴、人が床にたたきつけられる音、殴打される音、引き裂かれるドレスの音。
闇の中、自分を捕らえようとする手をかわし、プリコラはアナベラを引き寄せて、壁際に押しつけた。
「奴らは、ブローチを目印に襲ってきます。はずしてください。隙を見て、逃げます!」
アナベラは言われるままに薔薇をむしり取った。
だが、じっとりと絡んでくるヴィゴの視線を間近に感じていた。
「マリアンは、マリアンはどこ?」
自分の近くにいた親友が、どうなったか。最後に見たときは、まだ捕まっていなかった。
「あきらめてください」
「そんな、無茶をいわないで、あたしの友達なのよ!」
声のあまりの懸命さにプリコラは折れた。
運良く、すぐそばのドアから外の光が漏れていた。
「あそこから・・・出られる・・・!コルフェライ様、先に逃げてください。私はマリアンを捜してきます!」
「気をつけて!」
アナベラは一目散にドアに向かった。一刻も早く逃げて、港の警官に知らせなければ!
ドアが開いて人影が無事に出てゆくのを見届けて、プリコラも動いた。だが、彼女の胸元にはあの薔薇が残っていた。
「きゃぁっ!」
薔薇を目指して、強烈な一撃が加えられた。
すっかり濃くなった夕闇をかき分けて、アナベラは甲板にたどり着いた。
だが、波音がいつもと違っていた。
「そんな・・・・!」
遠く、遙か彼方に総督宮殿の灯がかすんでいた。
「この船は静かなのが自慢でね」
背後から振ってきた声に、アナベラの全身が総毛立った。
マリアンをはじめ、招かれた高級娼婦たち全員が海賊に捕らえられた。
ある者は気絶して海賊に抱え上げられ、ある者は泣きじゃくって仲間の娼婦にしがみついている。誰もが恐怖と絶望にうちひしがれていた。その中でマリアンだけが、気丈に海賊をにらみつけていた。
「私たちをどうするつもり?あんたたちの頭と話をさせなさい!」
だが、海賊はぎらぎらした目でマリアンの体を舐めるように見るだけで、応じようとしない。
それでもマリアンは声を張り上げた。
ついに赤毛の大男が前に出た。と思うと、マリアンのドレスの襟を掴んで、乱暴に引き裂いた。
「やめてっ」
あらわになった胸を両手で隠して後ずさるマリアンを、なおも男が追いつめようとしたとき、禿頭の男が止めた。
「やめとけ。このオンナは気が強いんだよ。舌でも噛まれたら、儲けがへっちまう。我慢しな」
「くそ」
忌々しげに吐き捨てると、赤毛の男は引っ込んだ。
禿頭は鋭い剣を娼婦たちに突きつけた。
「さぁ、泣くんじゃねぇ!おまえらの部屋へ案内してやる」
羊のように追い立てられて娼婦たちは暗い船底へ降りていった。
「今度来るときは、腰が抜けるほど可愛がってやる。まってろよ!」
海賊が去ると、女たちの泣き声がいっそう大きくなった。
マリアンはまだ泣けなかった。懸命にアナベラをさがした。
だが、見つかったのは気絶しているプリコラだけで、肝心の親友の姿はない。
ところが聞き慣れた声がした。
「マリアン、マリアンか?」
振り返ると、そこにカレシンが立っていた。
その背後に桟橋に並んでいた船員の姿もあった。
「アーネスト!」
「マリアン、ひどいことをされたのか?怪我はないか?」
カレシンは急いで上着を脱ぐと、マリアンの肩にかけた。
「大丈夫だ、もう心配ない」
元気づけるように優しく肩を抱かれて、マリアンの張りつめた気持ちが一気に崩れた。
「ア・・・・ネスト・・・私・・・」
大粒の涙がいくつもこぼれて、頬を濡らす。
「さぁ、私がいる、もう大丈夫だ」
しっかりと抱きしめられて、マリアンは次第に落ち着きをとりもどした。
同時に今朝とどいた手紙が、すべて真実を語っていたことにも気がついた。
手紙にはカレシンのことも記されていた。
マリアンの頬を別の涙が流れおちた。
「あなたに話したいことがあるわ」
思い詰めた声だった。カレシンは直感で彼女を部屋の隅に連れて行った。
声を潜め、マリアンはこれまでのいきさつを、特に自分が真実を握りつぶしてしまったことを告白した。
その間、カレシンは口を挟まず、ただマリアンの涙をくり返しぬぐった。
長い時間をかけて話は終わった。
マリアンは目を伏せて、きつくくちびるを噛んでいた。
重い沈黙が訪れた。
やがてかすれた声で言った。
「許して・・・」
もとよりカレシンは責めるつもりはなかった。むしろ、自分を求める気持ちがこの事件を招いたと分かった時、愛おしさがさらに深まっていた。
「元はといえば、私が奴に騙された事が発端なのだよ。君は犠牲者だ。・・・それでも自分が許せないなら、君の罪は私の罪でもある。・・・君は私の一部だから」
最後の言葉にすべての愛をこめた。
「そうね・・・」
マリアンは顔を上げなかった。しかし、両腕でしっかりと恋人を抱きしめた。
「希望を捨ててはいけない。必ず私が助けてみせる」
「麗しい光景ですね」
ドアが開いてヴィゴが入ってきた。背後に手下を数人連れている。
カレシンはとっさにマリアンを背後にかばった。
「何の用だ?」
「ご心配なく・・・。あなたにお願いがあって参りました」
慇懃に言ったが、瞳は残忍な光を帯びていた。
手下の一人がカレシンに一枚の紙とペンを押しつけた。
カレシンはそこに書かれた文字を見て、ぎょっとした。
「おまえを養子にする?何のまねだ?」
とぼけてみせたが、そこに隠された意味をカレシンは読みとっていた。
「私を殺したあと、病弱な妻が死ねば、莫大な遺産が手にはいる、そういうことだな」
うってかわって活力を取り戻しているのに、ヴィゴはいささか面食らった。
しかし、素直に頷いた。
「そこまで分かっていらっしゃるなら、話は早い」
「早くはないぞ。そうすんなりと遺産は渡さん。私の財産のほとんどはネーデルランドの銀行に預けてある。頭取は二十年来の友人だ。こんな書面だけで、きさまを養子などと認めない!」
しかし、海賊は平然と顎をしゃくった。
「では、努力して頂きましょう!」
赤毛の海賊が進み出てカレシンを突き飛ばすと、マリアンの腕を掴んだ。
濁った目が欲情でぎらぎらしている。
「可愛がってやれ」
必死で足を踏ん張るマリアンを冷静に見て、カレシンは言った。
「マリアン、君の命がここで終っても、君を愛する気持ちは死なない!」
マリアンはきっぱりと答えた。
「カレシン様、私の愛する方!生まれ変わっても、必ず私を見つけてください!」
二人のやりとりを見て、ヴィゴは舌打ちした。
芝居ではない。二人の結びつきの強さを海賊は知っていた。
マリアンは白銀館でも最高級の娼婦であり、手下の誰もがヤりたいとわめいていた。
そんなときに自殺でもされたら、手下の不満が爆発する。
自分一人がカテリーナをもてあそんでいることも、不満のひとつになっているのを知っていた。
「離せ」
言われて渋々男は腕を放した。ヴィゴはきびすを返した。
「あと一日、待ってやろう」
忌々しげに吐き捨て、出て行った。
日没から一時間後、総督宮殿の大会議場に吉報がもたらされた。
「和睦に成功です!というか、もともと戦争目的とは違ったようです。パシャは総督に結婚の祝いを届けに来ただけで・・・」
固唾をのんで待っていた元老院議員たちの間から、大歓声と笑い声があがった。
「やってくれたなぁ、アンドレア!」
ダンドロはようやく安堵すると、総督の私室に戻った。
窓から見える港はすっかり闇に沈み、時おり係留されたゴンドラが波に当たる音が聞こえる。
イーハ・ヒューン号はすでに姿を消している。
余裕が出て、やっとカレシンのことを思い出した。
「そういえば、館の酒蔵にヴェネト産の酒が届いていたな」
ダンドロはカレシンの好きな銘柄をよく知っていた。
頭の中のリストを探ると、ぴったりの物が見つかった。
さっそく手配をしようと立ち上がったとき、ダンドロの直感が何かを訴えた。
あれほど几帳面な男が、自分に宴のことを知らせずにおくはずがない。
『重要な取引』=『アナベラの祝宴』?
「どこだ?どこかに矛盾があるぞ?我々はどこで見落としているんだ?」
カレシンが上陸してから今日までの間の出来事を、残らず検討してみた。
すぐにカレシンは疑う余地がないと判断した。残るはジュスティニアンという男だけだ。
「名門グリマーニ家の男、グリマーニ家の婚礼、・・・この婚礼は『玉の輿』。ならば莫大な持参金がいる」
焦る気持ちを懸命に鎮めて、ダンドロはC・D・X の極秘調書を取り出した。
これにはヴェネチア貴族について、微に入り細に亙って調査したことが記されている。もちろん資産の事もふれられていた。
グリマーニ家の財産は、婚礼資金にあまりに及ばなかった。
ダンドロは唸った。
「かりに自分が海賊か何かで、怪しまれずにこの国に入り込もうと思ったら?名門貴族が困窮していて、自分に十分な金があったら?」
結論の果てを見て、ダンドロの顔から血の気が引いた。
イーハ・ヒューン号の姿はもう見えない。
C・D・Xの中でも武術に長けた者を数名引き連れて、ダンドロはグリマーニ邸へ急行した。
一行がグリマーニ邸についたとき、血まみれの老人が飛び出してきた。老人はダンドロを認めるなり、すがりついた。
「だんな様が、奴らに!」
広間に飛び込むと、今まさにヤコポが二人の男に斬り殺されようとしていた。
「やめろっ!」
ニコロの放った短剣が一人の肩を貫き、間髪を入れず、次の一撃が残りの男の腕を切り裂いた。
「殺すなっ!口を割るまで生かしとけっ!」
ダンドロの拷問は熾烈を極めた。自ら行うC・D・Xでさえ、たまらず途中で部屋を出て行った。
やがて血がべっとりとついたムチを持って、ダンドロは出てきた。
「くそっ・・・なんという失態だ・・・!こいつらは『隻眼のジュスティニアン』だ。我々はまんまと奴らの策にはまっていたのだ」
だが、『隻眼のジュスティニアン』の目的が分かった以上、ぐずぐずしていられない。
海賊に乗っ取られたイーハ・ヒューン号は、リド水門を抜け、アドリア海を東へ向かっている。
直ちに追っ手を差し向けようとして、ダンドロは愕然となった。
現時点で、モロシーニの率いる主要艦隊がキオッジャ水門を抜けて遠く離れており、残った艦隊はヴェンドラミンとともに反対方向のカオルレ沖にいる。
どちらもイーハ・ヒューン号から離れている。
それに月明かりもない中で、大海に浮かぶ船をどうやって見つけるというのか?
ダンドロの脳裏に、アナベラの泣き叫ぶ姿が過ぎった。
義父は必死で考えた。考えて、考え抜いて、一つの案が浮かんだ。
「ニコロ、非常連絡用の信号を上げる準備をしてくれ」
沈痛な面持ちで命ずる。ニコロが足早に部屋を出て行く姿を見つめ、すがる思いでつぶやいた。
「頼む、届いてくれ!」
数分後、轟音が街に響き渡り、閃光が夜空に炸裂した。
目が覚めたとき、アナベラの近くで誰かがすすり泣いていた。
頭が重かったが、なぜ自分が気を失っていたか思い出せた。
甲板まで逃げたとき、背後からヴィゴに首を絞められたのだ。
そのままここへ運ばれたらしい。
目を開けると、煌々とランプに照らされた部屋の隅に、黒髪の女性がうずくまっていた。
透けるような白い肌に無数のアザ、赤く腫れて血のにじむ傷、足の間から流れ出た血は乾いて固まっている・・・。
暴虐の限りを尽くされた無惨な姿に、アナベラは強い衝撃を受けた。
それはかつての自分の姿でもあった。
あの忌まわしい過去が怒濤となって押し寄せ、アナベラの心をぐちゃぐちゃに潰そうとした。
だが、彼女にはヴェンドラミンという大きな存在があった。
「許せない・・・・」
激しい怒りがこみ上げ、忌まわしい過去を打ち砕いた。
こんなおぞましい仕打ちを加えた男が許せなかった。
こわばった体を動かし、立ち上がる。
ベッドのシーツを引きはがして娘をくるんだ。
優しく母親のように抱きしめた。
力強く囁く。
「大丈夫、あたしが必ず助けます」
はじめ抱きしめられて動転していた女も、優しい言葉に勇気づけらたのか声を鎮めた。
この反応にアナベラはひとまず安心した。
雰囲気から貴族の娘と見抜いたが、気がふれていないか心配だったのだ。
娘は顔を上げた。艶やかな黒髪が美しい。秋の澄んだ空を思わせる瞳の持ち主だった。
ハンカチーフを取り出し、娘の汚れた顔をぬぐった。
「た・・助けて・・・・私は、グリ・・・」
穏やかに頷いて、指をくちびるに立てた。
「立てるかしら。歩ける?」
カテリーナは力を振り絞って頷いた。
その時、乱暴に扉が開かれた。
はっとして振り返ると、そこに不気味な笑いを浮かべたヴィゴが現れた。
「総督閣下、本国からの緊急連絡です!」
和やかにイブラヒム・パシャと歓談していたヴェンドラミンは、知らせを聴いて蒼白になった。
「話の途中で申し訳ないが、失礼する。イブラヒム、ゆっくりしていってくれ」
急いで部屋を出ようとするヴェンドラミンを宰相が止めた。
「アンドレア、水くさいことを言うな。私に出来ることがあるんじゃないか?」
「実は・・・」
ヴェンドラミンは盟友に、アナベラをはじめ白銀館の娼婦とイーハ・ヒューン号の乗員が海賊に捕らえられていることを告げた。
イブラヒムはすぐさま海図を持ってこさせた。
従者が素早く料理を片づけるのを待ちかねて、テーブルへ広げる。
「いま、私たちはここ」
大きなサファイアのはめられた指輪をはずして、カオルレとイエゾロの中間点においた。
「そして、海賊の位置がおそらく」
少し考えてスタールビーの指輪をリド水門から約50キロの地点に置いた。
「今日は潮が悪い。逃亡には向かない日だ」
言われても、ヴェンドラミンには慰めにならなかった。どう見積もっても直線距離で100はある。航行に向かないなら、さらに条件が悪い。
怒りと不安でどす黒くなってゆく総督の顔を伺って、イブラヒムはベリルの指輪をスタールビーの後ろへ置いた。3つの指輪がほぼ等間隔で一直線に並ぶ。
「これはどういう事だ?」
決まり悪そうにイブラヒムは答えた。
「トルコも海賊には手を焼いている。領海に入ったことは謝るから、いまは目をつぶれ」
「つまり、海賊掃討の艦隊がいるわけか」
頷いて、指をラヴェンナからイエゾロまで滑らす。
今度はイエゾロからラヴェンナのむこうへ滑らした。
ヴェンドラミンはハッとなった。
「海流がこう流れているから、ベリルは通常の2倍で動くな。我々も海流に乗れば同じ速度で行ける。・・追いつけるか・・・?」
目の前が急に開けてゆく気分だった。イブラヒムは得意げに言った。
「ま、そういうことだ。挟み撃ちにしてくれよう。これを東の果ての国では『災い転じて福と成す』という」
従者が指示を受けて、足早に出て行った。思うまもなく、ドン!ドン!ドン!と爆音が部屋の空気を震わせた。
「こちらも忙しくなるぞ。アンドレア、一緒に来い。我が軍が誇る最新鑑がヴェネチアより速い事を証明しよう」
ヴィゴの姿を目にしたとき、とっさにアナベラは娘を背後にかばった。
「人でなし!」
「そのとおりさ、証明してやるぜ」
ヴィゴは二人に近づくや、腕を振り上げた。
狭い船内で逃げ場がない。
強烈な一撃が二人を襲った。
「きゃあっ!」
壁にまともにたたきつけられ、衝撃で棚の本が床に落ちた。アナベラは娘を捜した。床にうつぶせている。動かないところ見ると、気絶してるのか。
「ははは」
心の底から楽しんでいる声だった。アナベラはぞっとしたが、微塵も逃げようと思わなかった。
痛みに顔をゆがめながら、落ちていた本をひったくって投げつけた。
「無駄なことだな」
こともなげに本をかわした。怯んだ隙にアナベラの腕を掴むと、力任せに壁に放った。
「きゃぁっ・・・」
鈍い音が響いた。叩きつけられる寸前、とっさに頭をかばったが、受けた衝撃は大きかった。
アナベラは朦朧としながらも立ち上がろうとした。だが、足に力が入らない。
「さぁ、諦めろ!」
ヴィゴは軽々とアナベラを抱えると、ベッドに落とした。起きあがろうとするのを踏みつける。
上着を脱ぎ捨て、ズボンを下げた。
「おまえはおれの物だ!」
「いやよっ」
アナベラはあらん限りの力で、のしかかってくる男の顔をぶった。
だが、ヴィゴには虫に刺された程度の痛みしか感じなかった。
いとも簡単に細い手首を片手で締め上げ、ベッドに押しつけた。
「あなたなんかに、決してっ・・・・!」
アナベラは必死でもがいた。
燃えるような瞳でヴィゴを睨んだ。
それを目の当たりにしたとき、ヴィゴは狂喜した。
この瞬間を気が狂うほど望んでいたのだ。
「おれの物だ!」
手を伸ばし、ドレスをまくり上げると力任せに膝を割った。
アナベラはぎゅっと目を閉じた。
このまま汚されるくらいなら、死ぬわ!ヴェンドラミン様の名誉のためにも!
舌をかみ切ろうとしたとき、ヴィゴの体が大きくのけぞった。
「何をするっ」
目を開けると娘がヴィゴに組みつき、ベッドから引きずりおろそうとしていた。
「じゃまだ!」
怒鳴るやいなや、娘を殴り飛ばした。
ぐったりした体をシーツの上から短剣で一刺しした。
「ぎゃあぁ!」
みるみるシーツが真っ赤に染まってゆく。それきり娘は動かなくなった。
「ひどいことをっ・・・・!」
「おれに逆らうからだ」
冷たく言い放って、再びヴィゴはアナベラにのしかかった。
その時、二人の背後で何かが動いた。
イブラヒム・パシャの信号を受けて、キオッジャ沖の精鋭艦隊はリド水門沖へ向かった。海流に乗ったいま、目的地点まで一時間半もあれば行けるだろう。だが、問題は月がないことだった。
「なにか目印があれば・・・」
先頭を行く軍艦『スレイマン』の艦長は悔しげにつぶやいた。
不安が、さらに艦隊司令官を焦らせる。
今夜は『隻眼のジュスティニアン』を捕らえる、またとない好機なのだ。
トルコもまた、この海賊に何度も煮え湯を飲まされてきた。
なんとしても捕らえなければならなかった。だが、闇夜が阻む。
それはヴェンドラミンたちも同じだった。
一時間後、司令官は予定より早く到着した。
見張りが全方向を探るが、船にともる明かり一つ、捉えられない。
それもそのはず、イーハ・ヒューン号は用心深くすべての窓に覆いをしていた。
これでは発見できない。
重苦しい空気に船員があえぎ始めたとき、十六夜が水平線にのぼった。
「あ、あれは!」
ほんの一瞬、黒い影がのぼり行く月のおもてを過ぎった。
トルコ軍が誇る船員の目は、それを見逃さなかった。
「イーハ・ヒューン号、発見っ!」
この声をうけて、船員たちから稲妻のようなどよめきがあがった。
「信号弾、用意!」
命令を受けるやいなや、夜空に閃光がひらめいた。
「追跡!」
先頭の船がぐっとスピードを上げた。
瞬く間に残り5隻の軍艦が扇状に広がって、イーハ・ヒューン号目指した。
抜群の操鑑で月が水平線を離れる前に、艦隊は射程距離に突入した。
船底へ急ぐ赤毛の男に、禿頭の海賊が声をかけた。
「どこへ行くんだ?今はブリッジにいろよ。変な花火が上がっていた。気をつけた方がいい」
だが、男はうっとうしげに鼻を鳴らすと怒鳴った。
「そんなもの、ほかっとけ。おおかたヴェネチアのお祭り花火だ。おれは用事がある!」
「オンナのところへ行くのか?お頭の命令がまだだぞ!」
禿頭は赤毛の男のチョッキを掴んだ。それを乱暴に振り払うと、拳を突きつけた。
「文句があるなら、お頭にいいな!ただし、今はお楽しみの最中だ、じゃますると殺されるぜ?」
それを聞いて禿頭は震え上がった。
「じょ、じょうだんじゃねぇ!」
「じゃあ、だまってな!どうしてもしゃべりたいんなら、隣の連中に言ってやれよ。
なぁ?」
禿頭が知らんぷりを決め込んだのを見届けると、赤毛の男は足を速めた。
船底へ降りると、男はもう我慢が出来なくなっていた。
体の血という血が欲望で煮えたぎっている。
だが、ドアは鍵がかかっていた。
狂ったようにノブを回したあと、思いついて短剣の柄を力任せにぶち当てた。
派手な音がして、ノブが転げ落ちた。
「やったぜっ」
体当たりでドアを壊し、中へ飛び込んだ。
しかし、中には娼婦以外の女もいたのだ。
「ぐふぅ!」
それがこの世での最後の言葉になった。
ドアが破られた瞬間、待ち伏せていたプリコラの一撃が男の脳天を打ち砕いた。
鼻と耳から血を流し、白目をむいた死体を無言で隅へ片づけたあと、プリコラはカレシンのもとへ戻った。
「これから、どうなさいます?」
圧倒的な強さに立ちすくんでしまったが、声をかけられて我に返った。
「予定通り動く。ジュスティニアンが漏らしたとおりなら、この船の海賊は10人足らずだ。私が甲板で引きつけている間に、君はアナベラを救い出せ。20分後に皆は上まであがる。上陸艇で一緒に逃げろ。こちらの船員は20人。白銀館のご婦人も20人。船の数は十分ある。コデガ、おまえが指揮をとれ」
20代後半の筋骨たくましい船員が進み出た。後ろに別の男が控えている。
「お言葉ですが、私もご一緒します。相手は凶悪な海賊ですよ。むざむざ見殺しにすると思いますか?」
「しかし」
「大恩ある貴方を残して逃げたと知れれば、お袋に八つ裂きにされますし・・・。ご存知でしょう?お袋は素手で牛の首を絞める女ですよ?なんと言ったってスパルタ出身ですから。同じ目に遭うなら、海賊の方がマシですね」
けらけらと笑いながら言うコデガに、カレシンは折れた。
二人のやりとりが終わるやいなや、船員たちの間からおれもおれもと声が挙がった。
カレシンは胸がいっぱいになりながら、他に4人を選んだ。
プリコラはドアの外を窺いながら、カレシンの言葉を慎重に吟味していた。
「この船の海賊は10人?C・D・Xの報告は30人だわ。・・・でもいまはコルフェライ様を救い出すのが先決よ」
マリアンがカレシンに駆け寄った。
「カレシン様、なぜ私を一緒に連れて行ってくれないんです?お一人で死ぬおつもりですか?」
カレシンはぎゅっとマリアンの手を握った。
いつもの悪戯っぽい目をする。
「何を言っているんだ?私は商人だ。わざわざ損な駆け引きをするわけないだろう?必ずあとから逃げる。一足先に館に戻って、パーティの準備をしていてくれ。いいね?・・・・だが、もしも」
「もしも?」
「・・・・もしも、戻れなかったら、ネーデルランドの館へ行って、妻のそばにいてやってくれ。君に頼める義理じゃないが、あれをひとりぼっちで逝かせたくない・・・」
愛人が妻の元に行くと聞いて、マリアンは躊躇したが、やがてはっきりと頷いた。
「約束します。奥様に尽くします」
「きっと素敵なケンカ友達になるよ」
「ひどい人っ」
カレシンは切なくなるほどマリアンを抱きしめ、そして、船員に向き直った。
「行こう!サルト、ご婦人方を頼むぞ」
まさに獣の咆吼だった。
同時にのしかかっていた男の体が横へゆがみ、地響きを上げて床に倒れた。
とっさに身を起こし、アナベラは何が起こったのか見極めようとした。
ヴィゴの横で死んだはずの娘が、真っ青になって震えていた。
両手で短剣を握りしめている。刃先からまだ新しい血が滴っている。
「畜生っ・・・よくもっ・・・・」
ヴィゴの背中から大量の血が噴き出し、床に血だまりをつくっている。
罵る声がどんどん弱まっていた。
「こんな奴、殺してやるっ」
震えながらも剣を振り上げた娘を、アナベラは止めた。
「逃げましょう、早く! こんな男、殺す価値もないわ」
蒼白になるほど固く握りしめた指をほどいた。
「あなたの傷はどこなの?」
シーツをめくると脇から乳房の下へ浅く切れたあとがあった。幸い出血はもうほとんど止まりかけていた。アナベラはホッと息をついた。シーツにくるまっていたおかげで、ヴィゴは適当にしか刺せなかったのだ。
急いでシーツを切り裂いて包帯がわりにすると、アナベラはヴィゴの上着を娘に着せた。
それから手櫛で乱れた黒髪を梳き、自分の髪留めでまとめた。
アナベラはふと手を止めた。自分がこんなにも冷静に動けることが、不思議だった。
だがすぐに自分の力じゃないと思った。
どんなに離れていても、すぐそばで総督が見守っていてくれる。
確かな実感がアナベラに力を与えていた。
「さぁ、家に帰るのよ」
娘の手を力を込めて握った。
娘もまた、握り返してきた。
「はい」
黒い瞳に小さかったが確かな光が宿っていた。
二人がドアを出たとき、轟音と共に、船が大きく傾いた。
「撃てっ!」
艦隊司令官の怒号が響き渡り、『スレイマン』の10ある砲門が火を噴いた。
砲弾は次々とイーハ・ヒューン号手前100mで炸裂した。そのたびに5mを越す波が起こり、船を激しく揺さぶった。
カレシンはコデガと一緒に階段を駆け上がっていたが、一人の海賊とも鉢合わせないのを不審に思った。
「待て!」
ばたばたと足音が近づいて来た。角に身を潜めた先を、海賊が叫びながら走っていった。
「攻撃だっ!みんな持ち場へつけぇ!」
耳を澄ませば、船内は騒然としている。その時船がぐらりと傾いた。
皆とっさに柱に掴まった。息つく間もなく今度は反対側に揺れた。
数回の揺れが続き、収まった。
途中まで同伴する予定のプリコラが冷静に分析した。
「このような攻撃はトルコ海軍です。威嚇射撃を繰り返して捕獲します。奴らも海賊を追っていたのでしょう。たまたま鉢合わせたとは考えられません。この船の正体を見抜いての攻撃です」
「では、ヴェネチアの情報が漏れたのかな」
きっぱりと首を振った。
「違うと断言できます。詳しくは機密になりますが、C・D・Xはトルコ内部の情報網も完璧に掴んでいます。明らかにトルコ軍は我が国と何らかの交渉を持ったのでしょう」
「つまり、助けが来た?」
難しい顔でプリコラは首を傾げた。
「ええ、まもなく助けがくるでしょう。急ぎましょう。この混乱に乗じて全員を脱出させなければ! トルコ軍は次に急接近をして船に乗り込んできます。巻き込まれては命の保証ができません。いまのうちなら上陸艇を使えます。行ってください。私はコルフェライ様を助けに行きます!」
プリコラは階段を駆け上った。
カレシンたちは急ぎ戻り、まもなく全員を引き連れて甲板後部へあがった。予想通り、海賊たちは一人もいなかった。トルコ軍の攻撃に備えて船内に戻っていた。
波の立たない船の反対側にある上陸艇のロープがほどかれ、準備された。
まさにマリアンを乗せた最初の船がおろされようとした時、凄まじい閃光が夜空を切り裂いた。
間髪を入れず船の手前50mに水柱が高く上がる。
「カレシン様!大波が来ます!掴まってください!」
コデガの声を聴いて、とっさにカレシンは手近にあったランプに灯を入れた。
「トルコ軍に合図を送れ!攻撃を止めないと、マリアンたちが海に沈んでしまう!」
アナベラたちは堅く手を結んだまま、前部甲板にでた。
さっきより船が激しく揺れて、正直立っているのが難しい。
波のくる方を向くと、遠く微かに船影がある。影は急速に濃さを増していた。こちらに近づいてきている。
「コルフェライ様!ご無事でしたか!」
「プリコラ!」
闇の中からランプを持ったプリコラが現れた。吐く息が荒く、ドレスのあちこちが破れて血がにじんでいる。
「怪我をしているわ、大丈夫?」
「海賊とやり合ったからです。たいしたことありません」
力強く答えが返り、アナベラは胸をなで下ろした。
プリコラは船の右側を指さした。
「トルコ軍が救援に来ています。見えますか?海賊どもは威嚇射撃をうけて、混乱しています。こちらにあがってくる気配はありません。もう心配はないでしょう。」
「マリアンは?カレシン様は?みんなは?」
アナベラの必死の問いかけに、安心できるようプリコラはにっこりした。
「ご心配なく。全員無事です。今頃は我々と同様、助けを待っているでしょう」
「よかったわ・・・・・」
だが、プリコラはその様子に胸が張り裂けそうな痛みを感じた。誤った自分の情報が元で、カレシンたちは上陸艇ごと海の藻屑になっているかもしれないのだ。しかし、彼らは数々の荒海を越えてきた男たち。もしかしたら乗り切ってくれたかもしれない。その一縷の望みにかけた。
プリコラはアナベラを導こうとして、その後ろの小さな人影に気がついた。
問うつもりで口を開きかけて、はっとなった。
海上のトルコ軍から、光で信号が送られている。一言も漏らすまいと全神経を集中した。
『攻撃を一時中止する。人質は船を全速で離れよ』。
その人質が誰を意味するのか分かって、プリコラは心の底から神に感謝した。
疲労も重なって、緊張がゆるんでしまった。
吹きつけてきた風に、血のにおいが混じっていることに気がつかないほどに。
プリコラの背後に音もなく大きな影が現れた。
それが目に入ったとき、恐怖のあまりアナベラの叫びは凍りついてしまった。
ランプの光に影が正体を現したと思った瞬間、プリコラの肩から血が噴き出した。
小さく悲鳴を上げて、プリコラは床に突っ伏した。
「ヴィゴっ」
「残念だったな・・・」
怒りで形相が変わっていたが、間違いなかった。背から腕にかけて血で染まっているが、すでに乾いている。
アナベラは倒れたプリコラをかばって立ちふさがった。
まっすぐに海の果てを指さす。そこには船影がくっきりと浮かび上がるまでに迫ったトルコ艦隊があった。
凛と声を放つ。
「もう終わりよ、諦めなさい!」
だが、ヴィゴは不敵な笑いを浮かべて、ちらりと後ろを振り返った。
「さぁ、どうかな?」
その瞬間、耳をつんざく爆音が響き渡り、トルコ軍鑑に向けて無数の光の矢が打ち込まれた。
艦隊から次々と巨大な火柱があがった。紅蓮の炎が夜空を焦がす。
アナベラは矢の放たれた方向を見た。その時、イーハ・ヒューン号の影から一隻の船が現れた。
艦隊の燃える炎で照らされた船首の女神の片目は、えぐり取られていた。
ヴィゴは地獄の使者そのものの声で答えた。
「あれが、おれの船だ。ずっとそばにいたのさ」
いつの間にかヴィゴのまわりに30人近くの海賊たちが集まってきていた。
「諦めるのは、おまえの方だ」
それでもアナベラは屈しなかった。くちびるを固く結び、ヴィゴをにらみつけた。震えている娘の手もきつく握りしめた。
薄笑いを浮かべ、アナベラを捕らえようとヴィゴの腕がのばされたその時。
「ぎゃぁあああああっ!」
断末魔の叫びが闇を裂き、幾人もの海賊が血しぶきを上げて倒れた。
「アナベラっ!どこだ!」
「ヴェンドラミン様!」
ヴィゴはとっさに声の響いた方を見た。
「ち、ちくしょう・・・・」
そこにはヴェネチア、トルコ両軍の兵が海賊をぐるりと取り囲んで立っていた。
彼らの足下には数個の首が転がっている。
ヴェンドラミンらは『スレイマン』から連絡を受けて、全速でここへ船を走らせていた。
海賊たちに動揺が広がっていた。だが、ヴィゴは怯まなかった。
「ヴェネチアの総督自らお出ましか!じじいが出しゃばりやがって!殺せ、首を取れっ」
頭の蛮声に応えて海賊たちが叫び、抜刀した。
ヴェネチア軍の勇猛果敢な兵が、トルコ軍はイエニチェリの精鋭が海賊を迎えた。
剣と剣のぶつかる音、肉を切る鈍い音、悲鳴、怒声、飛び散る血、切り落とされた耳、仰向けの死体。双方一歩も引かない激しい闘いが繰り広げられた。
「アナベラっ!」
白刃をかいくぐり、ヴェンドラミンは恋人の元へたどり着いた。
「ヴェンドラミン様っ・・・!」
「儂の後ろにいろ!」
しがみつきたいのを堪えて、アナベラは言われた通りに娘をつれて移動した。
アナベラは娘を胸に抱きしめて、何もみせないようにした。プリコラは腕を伝って血が流れるのもかまわず、背後で剣をかまえた。
幾人もの海賊がヴェンドラミンと斬り合った。だが、彼は決して負けなかった。
あたりにむっとする血の臭いが充満した。幾つもの切り落とされた腕や足、死体が床を埋め尽くしていった。
闘いは軍の圧倒的な勝利に終わろうとしていた。
その時、ヴェンドラミンの前にヴィゴが立ちふさがった。
「しぶといじじいだ。まだ生きてやがる」
吐き捨てたが、この瞬間を待ちこがれていたような声だった。
ヴェンドラミンは剣を構えた。
「おまえだけは許せん!」
言うやいなや斬り込んだ。
「は、はぁっ! おれの台詞だ!」
顔めがけて振り下ろされた剣を頭上で受け止める。
激しく火花が散った。
お互いの憎しみが力を漲らせ、かつてない凄まじい闘いが続いた。
いつしか生き残った海賊は、ヴィゴ一人になっていた。
だが、勝負はついた。
「あうっ!」
鋭い音がして、剣がはね飛んだ。
ヴェンドラミンの腕から鮮血が飛び散った。
「へっへっへ・・・・俺の勝ちだ」
がくりと膝を折ったヴェンドラミンのうなじに、ひたりと剣を据えた。
助けようとも兵は動けない。一歩でも動けば、取り返しのつかないことになる。
「ヴェンドラミン様!」
とっさにアナベラが駆け寄ろうとした。それをヴェンドラミンは手で制した。
「さぁ、命乞いでもするかい?やってみろよ。お客さんは一杯だぜ?楽しませてやれよ」
ヴェンドラミンは顔を上げた。威厳をもって応える。
「お断りだ!」
言い終わるや体をまっすぐに起こした。刃先が皮膚を一枚裂いたが、かまわなかった。
「おまえのような男に屈しはせん!」
ヴィゴは総督の鋭いまなざしに射抜かれたように、立ちすくんだ。
「は、は、は、・・ご立派なもんだ。だけど、知ってるかい?アナベラを『女』にしたのは、誰か?」
暫時、総督の気迫が弱まった。
ヴィゴは狂喜した。
いま、ヴェンドラミンの命はまさに自分の手の中にあった。
剣を振り上げ、ありったけの力で振り下ろした。その時。
「殺させないわ!」
アナベラが飛び出した。
寸前までヴェンドラミンのいた場所に剣が食いこんだ。
ヴィゴはすぐさま構え直した。
アナベラはヴェンドラミンにしがみつくと、鋭いまなざしを向けた。
「貴方なんかに、殺させない!決して!」
ヴェンドラミンは体を起こすと、アナベラをどけようとした。
「アナベラ、行きなさい!」
しかし、一歩も動こうとしなかった。全身から彼を守りたいという気迫が伝わってきた。
「う・・・」
ヴィゴから急速に力が奪われていった。
勝てない、どうしても勝てない・・・・。
このときついにヴィゴは悟った。
所詮、アナベラを手に入れるのは叶わぬ夢だったのだと。
自分の行く道は破滅の道しかないと。
「はは、ははは・・・」
自嘲的な笑いが漏れた。そして。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」
絶叫が上がった。背を向けると、猛然とヴェネチア兵に斬りかかっていった。
「逃すなっ!」
数十人の兵がどっと取り囲んだ。
一斉に振り上げられた剣が月光にきらめく。
「見るな。もう何も見なくていい」
ヴェンドラミンはアナベラをきつく抱きしめ、背を向けた。
アナベラは黙って恋人の胸に顔を埋めた。
高くのぼった十六夜が煌々と輝き、清らかな光で世界を照らしていた。
すべては終わりを告げた。
その後、黒髪の娘、カテリーナ・グリマーニは手厚い看病を受けたのち、グリマーニ家に帰された。
父親は死んだと思っていた娘がもどり、涙を流して喜んだという。
マリアンはアナベラとの友情を取り戻し、カレシンとネーデルランドへ渡った。病弱な妻を心をこめて世話し、妻の遺言で後妻に収まったと言われる。
アナベラがヴィゴを思い出すことは永久になかった。