古書〜世界をあなたに〜




エリックは頬杖をついて机の上の本を睨んだ。
きちんと積み上げられたそれは、やはりきちんと上からバックナンバーがそろえられている。
たった一巻を除いて。
彼は手を伸ばして一番上をとった。無造作に数ページめくり、たまたま開いたところへ無意味に視線を滑らす。
そこの『F』という文字が飛びこんできた瞬間、押さえつけていた感情が、猛烈な勢いで爆発した。
「まだか!あいつはまだ来ないのか!」
返事はない。だだっ広い部屋に不気味なこだまが帰ってくるだけだ。
しかし、エリックは知っていた。
ここにいなくとも、ドアの向こうでは誰かが自分の様子をうかがっているのだと。
(実際はエリックの部屋から半径百メートル以内が危険区域指定 Byマダム・ジリー)
「どいつもこいつも!ろくでなしどもめ!」
息を殺したような静けさが、さらに怒りに油を注いだ。
「私を誰だと思っているんだ!このオペラ座のマエストロだぞ!偉大な作曲家だぞ!支配人どもめ、誰のおかげで仕事があると思っているんだ!私だ!私だ!私だ!私だ!聞いているのかー!」

フィルマンはくどいほど祈りを唱えながら、部屋の前を通り過ぎ、戻っていた。
第一声からドアや壁がびりびりと震えている。安普請なわけではない。彼の声が凄まじすぎるのだ。
震動は今やびりびりからガタガタに変わり始めている。
支配人は自身も震えが止まらなくなる前に、ここを逃げ出したいと思い始めていた。
しかし、それをしたらどんな目に遭うか・・・・・・・。
進むも地獄、戻るも地獄。
ひとまず、声の届かないところまで戻った。最後に落ち着こうとした。
「何で私がこんなことに・・・・・」
手の中の包みを今一度見つめ、奇跡を必死で求めながらゆっくりと開く。
「はぁ」
だが、現実だけが厳粛に彼を見つめていた。
がっくりと首を落とした。
「なーにしてるんですぅ?」
いきなり脳天気な声が響いたと思うと、後ろからのびてきた手が支配人の顔を挟んで引き起こした。
「アンドレさん・・・・・頼むよ、今はかまわんでくれ」
きしませながら首を回して視線を向けるが、気がつかなかったらしい。
今度は哀しいほど明るい声がした。
「やりましたねぇ、さすがフィルマンさんだ。あ、今からマエストロに持っていくんでしょ?急いだ方がよくないです?」
その声に顔がざーっと青ざめた。
「殺生なことを・・・・。これをよく見てくださいよ」
半ば悲鳴に近い声に首をかしげながら、相棒は渡された包みを確かめた。
そして再び首をかしげた。
「いいんじゃないですか?マエストロのご注文の品でしょうに」
男の喉元まで怒りがこみ上げてきた。だが、ぐっと飲みこんでにんまりと唇をゆがませると、相棒の腕をつかんだ。
「そーうなんだよ、アンドレさん!いやぁ、とーっても苦労したよ!ジラルダン氏のところから、セーヌ川の店までかけずり回ってねぇ!君は忙しそうだったから、気がつかなかっただろうけど!まぁ、済んだことだ。気にしてないよ」
奇妙に裏返った声でしゃべりながら、フィルマンはつかんだ腕にぐっと力をこめた。
「やだなぁ、そんなに握らないでくださいよ。あなたと趣味は違うんですから」
一瞬迷ったが、力を緩めて腕が逃げるのに任せた。それから、さも親しげに彼の肩を抱くと、薄笑いを浮かべた。
「いやいや悪かったよ、アンドレさん。ところで、ひどく困っているんだが、力を貸してもらえないかな?今コルレオーネ伯爵からの使いが来て、私はどうしても会わなければいけない。だが、これをマエストロへ届けねばならんし・・・・・。代わりに用件を訊いてもらえないだろうか?」
さりげなく相棒の手の中の包みを押しつける。
「お使いって言うとロシュフォール氏でしょうかねぇ?」
相棒の表情が曇ったのを見て、フィルマンはほくそ笑んだ。
申し訳なさそうに声を偽った。
「その通りなんだ。・・・・それに、もしかしたら、いや、間違いなく内密な話があると思う。この間私だけに話したいと・・・・」
アンドレの中で天秤が動いている。怪人を選ぶか、あの伯爵の右腕を選ぶか。
私なら、躊躇なくロシュフォールを取る。
相棒には悪いが、たまには私の苦労をわかってもらおう。
イヤと言うほど。
やがて、勝利の女神はほほえんだ。
「いいですよ。訊いてきます」
「は?」
フィルマンは耳を疑った。しかも場違いなほど声はさわやかだ。
「フィルマンさんがマエストロのところへ行かなくちゃ!ずいぶん苦労したんでしょ?だったら、あの人のうれしそうな顔はあなたが見なくちゃいけないですよ。功労者ですからね!そう思いませんか?」
支配人は口を金魚のようにパクパクさせた。
そしてアンドレは実に誠実な笑みを浮かべながら、包みを返した。
「さぁ、お待ちかねですよ、行ってください」
実に力強く、相棒は背中を押した。
足を踏ん張ってみるものの、よろめいた。
「あ、あの、あの・・・、一緒に行かない・・・かな?」
息も絶え絶えに誘う。答えは素早く、清々しく返った。
「だめですよ、そんな遠慮してちゃ!ご褒美はあなただけがもらうべきです!」

壁にはすでにひびが入っていた。
支配人は期待と不安で軽い眩暈を覚えた。
このドアの向こう、さっきからこそとも音がしない。どうやらマエストロは部屋を出ていったらしい。
今のうちに、これをおいて逃げてしまおうと再び決心した。
ノブを握った。
「ムシュウ・・・?」
返事は無い。支配人は深く息をついて、それから勢いよくドアを開けた。
「貴様、礼儀をしらんのか?」
「ひぃ!」
間違いなく悪魔も素足で逃げ出すだろうと思った。ドアの内側に怪人が仁王立ちになっている。
「あ、あ!・・・・・・・これは、これは、マエストロ、お元気でなにより・・・・」
うわずった声を絞り出して笑顔を作るが、みるみる凍りついた。
「フィルマン・・・・」
エリックは覆い被さるように身を乗り出し、目だけを下へ動かした。
「いいか、私は今おまえのために怒りを抑えている。おまえのためだ」
動いた眼が自分の腕の中に止まったのを彼は気がついた。視線がそのまま心臓を貫いたとも感じた。
足がずぶずぶと床に沈んでゆく。必死で踏ん張って、彼は包みを怪人に捧げた。
「お待たせしました!」
ひったくるように受け取ると、オペラ座の怪人は満足そうに唇をゆがめた。
悪魔の微笑みが死刑宣告に見えた。
怪人は包みを開け、ゆっくりと中のものを取り出した。
支配人は心の中で何度も念仏を唱えた。(彼の実家は浄土宗)
だが、願いは。
「フィルマン」
低く押し殺した声が支配人の心臓をなめた。
蛇のようにひんやりした指が、耳の下を通ってうなじに巻きついた。
「ご、ご注文の品ですが・・・・・お気に召しませんで?」
「気に入る?なぜ?」
「な、なぜって」
気持ちの悪い汗が全身から噴き出した。
「私がこんなものを望んだと言うのか?」
怪人は冷徹な声で囁いた。
「こんな手垢のついたものを私に読めというのか?貴様、私にむりやり仕事をさせるかわりに、どんな協力もすると言っておきながら・・・・自分の罪深さがわかっていないようだな?」
それからうなじに爪をたて、ぐっと押しつけた。支配人は今にも気絶しそうだった。
彼は信心深い男だった。毎朝毎晩365日欠かさず経文を唱え、お供えをし、彼岸参りは仕事を休んで行い、坊主の肩もみもし、ハゲ頭をワックスで磨き・・・・・・。
それなのに、見捨てられたのか?
「エリック、待って、話を聞いてあげましょうよ」
唐突に響いたそれは、まさに観音菩薩の声だった。
「クリスティーヌ、おまえは関係ないから下がっていなさい」
怪人は後ろへ行った手を強引に引き戻した。しかし白い指を絡めたまま、恋人は怪人の横へ立った。
彼女の毅然とした表情を、支配人は祈るような気持ちで見つめた。
「いいえ、あなたのことなら、あたしにも大切なことよ」
恋人の言葉と微笑みに、怪人は表情を緩めた。 だがそれも一瞬のことだった。
「そうかもしれないがね・・・・・・。すでに結論は出ているのだ。おまえだったら、こんな侮辱を受けて黙っていられるのかな?」
フィルマンはもう男の顔を正視できなかった。そう、結論は出てしまったのだ。
「エリック、今日は何だか変よ。きっと疲れているのね。いつもなら一方的に誰かを責めたりしないのに」
クリスティーヌはさも心配そうに、恋人の髪を何度もなでた。
みるみる怪人の怒りは気まずい色に変わった。
何度か咳払いをした後に、わざとらしく声を装って告げた。
「おまえの言うとおりかもしれんな。・・・・・・良かろう、ひとまず話を聞いてやろうじゃないか?」
間違いなくこれが支配人に与えられた最後のチャンスだった。
フィルマンは思い出せる限りの真実を吐き出した。
「マエストロ、とにかく探したんです!ご注文の本を探してこの一週間夜も昼もなく!カルナヴァレ屋敷(オスマン知事のパリ大改造に伴い、資料館として買い取られた邸宅)から、ジラルダン新聞社の倉庫、アヴァス通信社(当時で最大の通信社)の秘密の書斎、パサージュの古本屋、セーヌ川の露店まですべてしらみつぶしに探しました!でも出てこなくて、やっと知り合いのところから見つけたんです!それも門外不出の品を無理矢理かりて来たんです!わかってください!!」
しゃべり終えて、息も絶え絶えになってフィルマンは怪人を見た。
マエストロは手にした本に視線を移していた。その瞳が彼に戻された。
その色はさらに冷たかった。
「だから、何だというのだ?」
・・・最後の審判は下った。フィルマンの脳裏を盛大なお葬式の場面がよぎった。
彼は震える手を合わせた。
「お願いです、もう限界です・・・・・」
答えはなかった。
代わりに支配人にぐっと身を寄せた。
「エリック、やめて!」
クリスティーヌは二人の間に割って入ろうとした。しかし、二人の距離は唇が触れ合うほどに近い。
突如、フィルマンの背後に白い影が現れた。そして、男でもゾクゾクするような声が響いた。
「お願いだよ、ハニー。その唇は私だけのものにしておくれ」
エリックは反射的に飛び退いた。反射的というより、本能的な拒絶反応。
「きっ・・・きさま!」
ふふっと声の主が艶を含んだ笑みを浮かべた。そして筋肉の盛り上がった腕で、まさぐりながらフィルマンを抱きすくめた。支配人は突然起こったことが、理解できずにいるのだろう(そりゃそーだ。)石のように固まっている。
エリックは勝手に足が後ろへ下がろうとしているのに気がついた。
ぐっと歯を食いしばり、その場に踏ん張る。
「ダロガ!!何しに来た!」
窓がびりびりと震えた。
しかしダロガはまるで耳に入らなかったのように、うっとりとフィルマンの頬を撫でている。
支配人は大男の腕にすっぽりと収まった格好で、まだ固まっている。
「そんなに怒鳴らなくても良いじゃないか。メッセンジャーの仕事をしているんだよ」
「だったら、さっさと済ませて出ていけ!」
傭兵の将軍は顔色一つ変えない。
彼はクリスティーヌにきれいなウインクを投げると、続けた。
「残念ながら、君あてじゃない。私の・・・」
そしてダロガは太い指を自分の唇に押し当てると、腕の中の男の唇に押しつけた。
「ハニー宛てだ」
「!」
さすがの支配人も白目をむいて、くたくたと倒れかけた。
それを力強く受け止めて、見せつけるように男の首筋へ唇を押し当てている。
クリスティーヌは目を丸くして、凍りついた。怪人は全身の毛が逆立つのを感じた。
先ほどまでたぎっていた怒りはどこかへ吹っ飛んだ。
そのときエリックの中でのたうっていた思いは以下。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!こんなカップルは観たくない!
だが怪人はかろうじて威厳を保ちつつ、口を開いた。
「ご苦労なことだ。用事が済んだなら、そいつを連れてどこかへゆけ。私は仕事で忙しい」
言いながらも、ついに窓際にへばりついたエリックに、ダロガは寂しそうに肩をすくめた。
「つれないね。長の友人なのに」
甘いため息を吐く。
「別れのキスはくれないのかい?あのころみたいに!」
そして口をすぼめた。
「きさまぁ!」
怪人は手にした本を振り上げた。
ダロガは両手をあげてウインクした。
「それは大切な物だろ?・・・・・名残惜しいが、退散するよ。心配しなくていいよ。君の本心は分かっているからね。愛する君」
ダロガはフィルマンをひょいと横抱きにすると、ドアを閉めた。
ふぅうと怪人は大きく息をつくと、座った。全身の鳥肌がまだ修まっていない。
そして恋人の異様な視線に気がついた。
「あの、・・・・あなた、ダロガさんを好きなの?」
エリックはクリスティーヌのこの素直さを、だれよりも慈しんでいた。愛していた。
だが、何もこんな時に信じなくても良いんじゃないか?
「違う!あいつと私は何も関係ない!」
「そんな・・・・・どうして・・・・」
青い瞳が潤んだ。
彼女の恋人は必死に続けた。
「私が愛しているのは、おまえだけだ。クリスティーヌ、どうか分かってくれ!あいつはふざけているだけだ!私はあんなごつい男は趣味じゃない、ち、ちがう、男は好きじゃない!本当だ!」
ひざまずき、彼女の白い手を両手で握りしめた。しかし恋人はまだ涙を浮かべている。
ぽろりと、真珠のような涙がこぼれた。
クリスティーヌは静かにかぶりを振った。
「お願い、エリック、違うと言って」
「そういっているじゃないか、私は両刀使いなんかじゃない」
「・・・・・・」
エリックは彼女の青い青い瞳を見上げた。
濡れてさらに美しさを増したそれには、悲しみだけが浮かんでいる。
瞳は語る。
あの人を愛しているって言って。
怪人は戸惑った。
彼が黙っていると、恋人は彼の手をふりほどいた。膝をつき、エリックの頭を両腕でかかえた。
「ダロガさんを好きって言って。大好きって言って・・・・・」
恋人は首を振りたかった。
ところが彼女の力は驚くほど強い。それよりも腕が首を締め付けていて、どんどん気が遠くなる。
薄れゆく意識の中でエリックはふと思った。
もしや、クリスティーヌは私を捨てるつもりなのか?よりによってダロガのところへ?
このままでは、死んじゃうかも・・・しんない・・・。だが、死んでも『愛している』なんて言わないぞ!
怪人はパクパクと空気を食べると一気に吐き出した。
「イヤだ!」
ぽたぽたと大粒の涙が彼の頬に落ちた。
「どうして・・・・・」
天使は涙を拭おうともせず、エリックの冷や汗の浮かんだ額に暖かな唇を押しつけた。
腕がゆるんだ。恋人は酸欠の頭痛に耐えながら、詰問した。
「クリスティーヌ・・・・・、私を責めるのはなぜだ?罪を犯したというのか?私が愛しているのはおまえだけだ。それはいけないことなのか?」
クリスティーヌはきつく瞳を閉じ、落胆したようにつぶやいた。
「あたしだけなのね」
そして腕の中の恋人をあやすように揺らすと、静かに言った。
「時間が必要なんだわ」
エリックはぎくりとした。
まだ私を捨てるつもりなのか?じっくリと時間をかけて?そ、それだけはイヤだ!
おそるおそる顔を上げると、彼女と目があった。
もう涙はなかった。深い青色の中にあるのは慈しみと愛情に化けた何か。
女は魔物か?
人生は出会いと別れの連続だ。そして残酷な別ればかり、うんざりするほど経験してきた。
その中で、彼女との出会いだけは違うと確信していた。
エリックは震える声を絞り出した。
「教えてくれ・・・・・。なぜ私を嫌いになったんだ?」
「エリック?」
驚くほど素っ頓狂な声だった。しかも歌手だけあって、ちょっと耽美な響き。
「待って、言っている意味が分からないわ。どうしてあなたを嫌いなの?」
怪人はちらりと希望がみえた。
彼は優雅に立ち上がり、恋人を見下ろした。大げさなほど両手を広げる。
「それは私の質問だよ、愛しい天使・・・」
威厳の中に優しさをこめていった。それから密かな哀願も。
彼女はきょとんとしたまま、答えた。
「・・・エリック、あたしはあなたが好きよ。愛しているわ。それはいけないこと?」
彼女の瞳は澄みきっていた。
人差し指を唇に押しあて、その指を彼女の柔らかな唇へあたえた。
ほんのりと頬が染まった。その薔薇色に感動を覚える。
エリックの中で急速に力が漲ってきた。
クリスティーヌが私を愛している。こんなにはっきりと伝えている。
今までのことは私の思い過ごしなのだ!
彼は震える声で言った。
「愛しているよ、私のクリスティーヌ・・・」
手をさしのべる。その手を柔らかく握って、恋人は立ち上がった。
天使はそっと彼の胸にもたれた。そして、顔を上げた。
「人を好きになるのって素敵なことね。あたし、好きな人がたくさんいるのよ」
輝くような笑顔だった。エリックは腰に回しかけた手を止めた。
天使は彼の頬に手を当てた。
「支配人さんも」
「え?」
青ざめた。
「ムシュウ・レイエも」
冷や汗が全身から吹き出した。
いったい彼女は何を言っているんだ?
しかし、かまわず彼女は続けた。
「ほかにもたくさん・・・・・」
エリックはしつこいほど彼女の言葉を頭の中で繰り返した。
だが、謎は深まるばかり・・・。
クリスティーヌは私を愛していると言わなかったか?
天使の笑みが柔らかなものに変わった。
「好きな人の顔を思い浮かべるだけで、とても心が暖かくなるの。それはとても素敵・・・・。だからあなたにもダロガさんを好きになってもらいたかったんだけど・・・ああ、ごめんなさい。考えを押しつけちゃいけないわね。エリック?」
怪人は言葉の終わらないうちに、がっくりと膝を折った。
頭がクラクラした。
彼の中では、名前の挙がった人物がずらりと並び、最後に彼が立っている。
訊いてみたかった。私の立場はなんなのか。だが、声が出ない。
「大丈夫?つまずいたの?」
疑いを挟む余地のない誠実さで、天使は彼を支え、心配そうな顔をする。
エリックは・・・・どんよりと笑いを返すしかなかった。

運命の女神もちょっとは情けがあるらしい、とエリックは思った。
クリスティーヌが彼が仕事をしている間、部屋にいると約束したのだ。
穏やかな日差しが差しこんでいる。金色の光に包まれて、彼女の姿がとても眩しかった。
怪人はようやく手に入った本を机に置き、胸をときめかせながら開いた。
だが裏表紙を見て、思わず怒鳴りそうになった。
細かな細工の施された革張りの表紙からは想像できないほど無数のシミが浮かび、奇妙な煙草の臭いもする。
エリックは手袋をはめ、忌々しげにページをめくった。
「フィルマンめ、何が秘蔵の品だ。偉そうなことを言っていたが、どうせエコス街当たりで見つけてきたんだろう・・・よくもこんな品を・・・」
言葉に苛立ちをこめたが、声は抑えた。目だけ恋人に向けるが、聞こえなかったらしく、ソファで熱心に本を読んでいる。
半分だけほっとして、彼は次のページをめくった。今度は書きこみもあった。
むっとして、次へ。以下10ページまで同じ。
イライラはだんだんとボルテージを上げてきた。カリカリと頭をかき、頬杖を突く。
汚れだけじゃなく、別のなにかが彼の感情を逆撫でしていた。
次のページがそれを教えた。
めくった時に巻きおこったかすかな風が、彼の脳裏に一つの言葉を蘇らせのだ。
『ペルシャ』!
一瞬にして身体がこわばった。
過去が猛烈な勢いで怪人の心を埋め尽くそうとしていた。
ペルシャ王の嘲笑が、宦官たちのまなざしが、奴隷たちの恐怖が、忌まわしいことすべてが彼を絡め取ろうとしていた。
怪人と呼ばれた男は、歯を食いしばった。
こんなことに負ける私ではない!
だが、あえなく魂が軋み始めた。
そのとき、ふぅっと何かが彼の心に触れた。
それは、優しげな女性のぬくもりに似ていた。
ふいに呪縛がゆるんだ。
ぬくもりに導かれるように彼は自分を取り戻した。
震えながら息を吐き、気が付くと、目の前にコーヒーが置かれていた。
「エリック、あまり根を詰めないでね」
はっとして声のほうをむくと、彼女がさりげなく白い手を彼の手に重ね、笑みを浮かべている。
そのさりげなさが、愛しかった。
怪人はゆっくりと息を吸いこんだ。それとともに何かが胸を満たす。
たが、それが今は不安だった。
「これ・・・・何が書いてあるのかしら?文字なの?」
ページの右端の文字を見る。
それが何だか分かってエリックは唇をかんだが、黙って読んでみた。
読んでみてほっとしたが、呆れた。
「・・・・・こう書いてある『犬がやかましいので、しっぽをふんずけてやった』、『隣の女は私娼をしてた。こっちまで疑われて迷惑!怒鳴りこんでやった』・・・・・・何とも読むに耐えないらくがきだ!」
「ほかには?」
「『もう一度シブーストが食べたい。今度は3つ』。下品なやつだ」
エリックは吐き捨てた。しかし、恋人は興味深そうにつぶやいた。
「日記みたいね。思い出がいっぱい書いてあるんだわ」
怪人はちらりとクリスティーヌを見たが、また視線を走らせた。
「これはなんだ?『青の時間を5ビン』、『ジッキーの礼状を早めに』?」
エリックは怪訝な顔で恋人を見返した。彼女はくすっと笑って囁いた。
「パスカル・ゲルラン氏の香水よ、エリック。あたしもつけているわ」
言って彼がデザインしたハンカチを差し出した。
あたりのコーヒーの匂いに紛れてしまうが、ほのかに花の香りがする。
「いいね」
頷きながらも、エリックは思った。
本当は彼女自身の香りが好みだ。俗世とはかけ離れた清らかさがある。きゅっと切なくなって、彼は再びページに目を戻した。恋人もまた、自分の仕事に戻った。
ふと、気になった。
この文字には見覚えがある。イスラムの知り合いはダロガだけだが、彼のくせ字と、妙に似通っているのだ。
だが同時にクリスティーヌに言われた『日記』という言葉が引っかかって、後ろめたくなってきていた。
怪人はそこで詮索をうち切った。
次のページをめくると挿し絵があった。
左にバルバリ(手回しオルガン)が描かれており、右にはその由来が記されている。
これこそ彼が求めていた部分だった。
さいわい書きこみもなく、作曲家は気分良く字を追った。
ところが、よくよく見るとバルバリの解説の欄に、小さくラテン語とカタルーニャ語で追加がしてある。
筆跡から見て、同じ人物だった。
好奇心に勝てず、読んでみた。
『ヴァンドーム広場のバンゴ氏は、いつも陽気な曲をかけてくれる。夫も大好きだったし、私も彼と出かけるのが何より楽しみだった』
『結婚記念日に、バンゴ氏の伴奏でダンスを披露する。たちまち人だかりが出来てしまい、恥ずかしい』
エリックは知らず笑いを浮かべていた。
「ずいぶん快活なご婦人だ」
それは彼の友人・ヴィクトーリアにも通じることで、この名も知らぬ婦人と彼女のイメージが重なる。
不思議に彼女が犬を踏んづけたことも、愉快なことに感じられてきた。
自分はいい加減なものだと思いつつ、読みすすもうとしてハッとなった。
ちくちくと良心が痛んでいる。だが勝手に目が文字を追っていた。
『嫌い大嫌い!バルバリなんて大嫌い!この世のすべてのバルバリは壊れてしまえ・・』
ぎょっとして、急いで続きを探すが見つからない。
エリックは焦る自分をいぶかりつつ、次をめくってみた。
果たして、ページの隅に小さく文字が刻まれていた。
『あなたの願いを叶えてはいけなかった、いけなかった・・・。バルバリの曲でお葬式なんてしてはいけなかったのよ。ヨシュア、あなたとの思い出はいつもバルバリと一緒だったのよ。今は見るたびに目をそらし、聴くたびに耳をふさぐわ。私の涙はまだ、枯れない・・・・・!』
エリックは深く息をついた。
胸をえぐられるような悲しみがそこにあった。
エリックはこの人物を想像してみた。
高価な香水をもらえる立場にあり、言葉に優れ、がさつだが、夫を大切に思っている。
「クリスティーヌ、この本の持ち主は、誰だったかな?」
恋人が意外そうに目をぱちくりさせた。
「ムシュウ・フィルマンは具体的なことは言っていなかったから・・・・・。でも、いきなりどうしたの?」
怪人は言葉に詰まった。理由が自分でも思い当たらないのだ。
衝動的に言葉が飛び出してしまったから。
「・・・・・・さあ、何となくね・・・・」
他人を気にするなんて、今日の自分は変だと彼は思った。だが天使はそう思わなかったらしい。
「魅力的な人だったから」
遠い目をして呟いた。
彼は訝しんだが、なぜか納得できた。
窓から射しこむ光が彼女を照らす。髪がきらきらと虹色に反射している。
「美しいな・・・・・」
「なぁに?」
見惚れていた自分に気が付き、あわてて本に戻った。
ページを進めるが、もう書きこみはなかった。惜しかったが、さらに進んだ。
「次は」
めくると、折りこみになっている。
広げてみると、通りの一つ一つにまで名前の入ったパリの地図だった。
「エリック、お茶のお代わりは?あら、ここはアンジェリーナの家よ」
クリスティーヌがモンマルトルの一角を指さした。
「あ、そうだな。しばらく会っていないが、どうしているかな?」
「元気だと思うけど、あした行ってみましょうか。おいしいお菓子があるのよ」
「いいね」
エリックは頷きながら、指でオペラ座から小さな淑女の家までたどってみた。
途中で止める。
「ここは、」
「ほら、パン屋の『ラ・レニエール』よ。毎朝クロワッサンを届けてくれている・・・」
「あ、あのふくよかなご婦人の。あそこのパンはとても美味だね」
エリックの口の中には今朝食べたパンの味がよみがえった。
ずいぶん前に彼は女主人と会っていた。
そのとき二言三言交わしたのだが、内容が思い出せない。
「覚えている?」
それをすくい取ったかのように、天使は怪人の目をのぞいた。
「あなた、彼女に『遅いぞっ!』って怒鳴ったの。その時の様子・・・・おなかを空かせた子供みたいだったわ」
言葉の終わらないうちに彼の中に、鮮明な情景が蘇った。
そうだ、自分はとにかくパンが恋しくて、矢も楯もたまらずに彼女を迎えたのだ。
クリスティーヌのいたずらっぽい、それでいて暖かい笑みに気まずかったが、腹は立たなかった。
「エリック、気が付いていた?ミッシェルさんはね、とてもうれしかったんですって。だから朝一番にここへ来てくれるのよ」
怪人は目をぱちくりした。
「冗談だろう?」
恋人は微笑みを浮かべたまま、首を振った。
「どんなに雨が降っても、風が強くても」
「そういえば・・・・・」
思い返すといつも同じ時刻に香ばしい匂いが台所から漂っている。
クリスティーヌの言葉が真実だと分かっている。だが自分にそんなことが起こっていることが、今ひとつしっくりこない。
「私が金持ちだから?」
口に出して、しまったと思った。
天使はきっぱりとしかし、穏やかに言った。
「あなたの喜ぶ顔が早く見たいんですって」
エリックはうつむいた。
「・・・・・すまない、私は・・・・」
恋人は彼の頭を柔らかく抱き、一度ぎゅっと抱きしめた後、ラ・ペ通りを示した。
「ここは、ムシュウ・デモンドのお店よ。昨日あなたの夜会服を届けてくれたでしょ」
怪人の中に目つきの鋭いやせた男の顔が浮かんだ。
専属音楽家になってからのつきあいだが、彼の好みをよく分かってくれる職人だった。
「ここは、あなたの帽子を作ってくれる店。近いうちに新しい帽子のデザインの確認をしたいって、言っていたわ」
「分かった、ルモニエには私から出向くと伝えてくれないか?『カフェ・ド・フォア』か『リッシュ』なら落ち着いて話ができる」
クリスティーヌはうなずきながら、紙にペンを走らせた。
「ピニョン御兄弟の店ね」
「そうだ」
はっとしてエリックは引き出しを開けると、小さな包みを机に置いた。
そして、彼女のメモの横に進めた。そして、ぼそりと付け足した。
「5才の息子がもうすぐ誕生日を迎えると言っていたから」
「まぁ、素敵ね」
「そうでもないさ」
男はぶっきらぼうに言うと横を向いた。
クリスティーヌには怪人と呼ばれた男の気遣いが、とても嬉しかった。
彼女は輝くような笑みを向けた。
「今すぐ行って来るわ」
そして彼女はプレゼントを大事そうに抱えた。
「頼む」
弾む足取りで出てゆくのを見送ってから、席を立ち、陽の当たるソファに移った。
明るい光の中で、もう一度地図を眺めた。
一つ一つ、知っている店を目で指で確かめた。
アンジェリーナの家、仕立屋、ビストロ、宝石商、ウーブリ売り、帽子職人、貿易商人、免許医、水売り、透視画師・・・・・。
すべてを数えたら、十指では足らなかった。
怪人は深く息をついた。
全部、『オペラ座の怪人』から『エリック』に戻って、知り合った人たちばかりだった。
誘われるように窓辺にたった。
エリックの全身を包むように射す光。一瞬まぶしくて目を閉じた。
開け放たれた窓から、パリの街が一望できた。
精一杯身を乗り出し、左から右へ、出来る限り眺めてみた。
「ここにいるのだな・・・・・」
一人一人の顔が浮かんだ。
誰の彼も大切な人に思えた。
そして目にはいるすべてのもの、アパルトマンのさびたベランダや、路地の水たまりすら親しいものに見えた。
繋がっている。
かみしめるように呟いた。
私は独りじゃない・・・・・・。
オペラ座の地下深く『怪人』と呼ばれていた頃、友は孤独だけだった。
それが今は。
「ただいま、遅くなっちゃって」
急いできたのだろう、愛しい女が頬を紅潮させてドアを開けた。
彼は早足で歩んできた女の手を取り、そっと握った。
「どうしたの?何かあった?」
心配そうにまなざしを向けるクリスティーヌを見つめかえし、怪人は小さく首を振った。
そして再び視線を世界に向けた。
心が震えている。涙が出そうなほど、震えている。
独りじゃなくなった、それだけのことが、どうしてこんな気持ちにさせるのか分からなかった。
「クリスティーヌ・・・・・。しばらくこうしていさせてくれ」
それきり、口を閉じた。
「エリック・・・・?」
天使は戸惑った。
ただ、怪人の中で何かが芽吹いたのを感じていた。
豊かで揺るぎない何かが。
天使は愛しさでいっぱいになって、ぎゅっと彼の手を握り返した。

自分を取り巻くあらゆるものが愛おしくてならなかった。
エリックはまぶしそうに目を細めた。
クリスティーヌと向かい合い、彼女の手を自分の心臓の上に置いた。
「分かるかい?とても、心が温かくなっている。おまえの言ったように・・・・・」
クリスティーヌはもう一方の手も添えた。
「ええ、とても・・・・・。」
ところがどういう訳かいやな予感がして言葉を足した。
「もちろんおまえが一番大切だがね」
それからエリックは、本を手に取った。
奇妙な臭いもシミも変わらず彼を苛む。
だが、そのすべてが怪人には心地よいものに変わりつつあった。
「エリック、あたしもそう思うわ。」
瞳の穏やかさが教えたのか、彼女が静かに言った。
「いきなり、どうしたんだね・・・・?」
身を引いた。しかし、とどまった。
彼女といたときに沸き起こった思い。
感謝を。
素晴らしい本を与えてくれた人に、心からお礼が言いたい。
それと、ついでにフィルマンに詫びを入れたかった。
気に入らない男だったが、支配人も自分と繋がっていると気づいたとたん、少しだけエリックは反省したのだ。
「おかしな話だろうか?私が・・・その、・・・本の持ち主に礼を述べたいと・・・思うのは。」
エリックは顔を赤くしながら、かろうじて言い終えた。
クリスティーヌは汗ばんだ彼の両手をぎゅっと握り、首を振った。
「いいえ、素敵なことよ。あなた、その人がとても好きになったのね?」
その言葉がすっとしみてきて、彼はためらいなく頷けた。
「きっと。会ったこともない人間にこんな気持ちを持つのは妙かもしれない。だが、ここがとても暖かい」
エリックは胸を指さした。
「分かっているわ・・・・私」
恋人は彼の手を自分の頬に押し当てた。
「それで・・・どうしたらいいんだろう?こういうことは、ちょっと苦手で・・・・・。経験が少なくてね・・・」
はにかむ男に彼女は言った。
「私は手紙をもらうのが好きよ。何度も読み返せて、何度も嬉しくなるから」
エリックは急いで机に戻ると、便せんにペンを走らせた。
途中まで書いて、破り、また書いて、破り。
ずいぶん時間をかけて手紙は完成した。
そして彼は満足そうに、封筒に納めた。

二人が支配人のオフィスの前に立ったとき、中から複数の男の声が伝わってきた。
エリックはまたもやイヤーな予感に襲われた。
だが、意を決してドアを開けた。
「マエストロ、どうなさいました?」
フィルマンが血相を変えてすっ飛んできた。
エリックは彼が着く前に、懸命に言葉を絞り出した。
「さっきは・・・・わ、悪かったなっ・・・」
はじめ支配人は何を言われたか、分からなかった。
しかし、心の中で反芻するうち、何とか飲み込めた。
「あ、謝って、おいで・・・で?」
おそるおそる訊いているうちに、エリックの目がつり上がった。
だが、怒りを必死で我慢して怪人は吐き捨てた。
「そう言っているだろう・・・・・・!聞こえなかったのか!」
「わ、わかりましたぁっ」
悲鳴を上げた支配人は、ゆっくりと歩んできた男の後ろへ飛び込んだ。
男はガリガリと頭をかきながら、陽気に手を挙げた。
「や、エリック。」
「ダロガ、まだいたのか?」
エリックの陰気な声を気にした様子もなく、男は傍らのクリスティーヌにひざまずいた。優雅なしぐさで手を取り、唇を押しつける。
そして傍らの友人に色っぽいウインクを投げた。
「先ほどのご無礼をお許しください、マドモアゼル。貴女なら恋人に会えた喜びを、きっと理解してくださるはずです」
「私の恋人にさわるな!」
力一杯ダロガの手をはねのけると、クリスティーヌを後ろへ隠した。
ダロガはちょっと肩をすくめた。
「おいおい、見損なわないでくれ。ところでエリック、まだ用事があるんじゃないのか?」
「フィルマン!」
エリックはダロガを無視して、懐から封筒を取り出し、支配人に突きつけた。
「これを本の持ち主に届けろ、早急に!そいつを使ったらどうだ?メッセンジャーだろう?仕事をやって、さっさと追い出せっ」
受け取った男は怪訝な顔でダロガを見上げた。
メッセンジャーは恭しく押し頂いた。
「おっしゃるとおり。ありがたく・・・・・」
言葉の終わらないうちにエリックはきびすを返した。
一刻も早く出ていきたかった。
そのとき、背後で紙の裂かれる音がした。
怪人はぎょっとして振り返った。
「きさまっ!人の手・・・が・・み・・・・」
怒鳴り声は瞬く間に小さくなり、さーっと血の気が引いた。
「本の持ち主って・・・・・?」
クリスティーヌが信じられないというふうに怪人とメッセンジャーを交互に見た。
「うふん・・・・・エリック、う、れ、し、い、よ・・・・・」
エリックは全身の毛を逆立てながら後ずさった。
それにダロガは怪人からの『熱烈な』文を手に、意味ありげな微笑みで答えた。