5月の空は澄み渡り、さわやかな風が私の頬を撫でてゆく。
眼下には活気にあふれたパリの街が広がっている。
アポロン像のもと、ここには誰もいない。
誰一人私を訪ねる人はいない。
それなら、・・・それなら・・泣いてもいいだろう・・・・・。
『フィガロ』の紙面に踊った文字を見て、私はクリスティーヌを睨んだ。
「これはあの男の記事だ。いったいどういうことだ?」
彼女に見せつけるように紙面を目の前に突き出す。
恋人は困惑した顔で何度も首を振った。
紙面のトップに否応なく人目を引く文字、『マエストロ・エリックはついに帝王の座から引きずりおろされる!新たな皇帝は若干18才の天才・アンドレア!』。
怒りで新聞をつかんだ手が震えた。
クリスティーヌは私の手を握り、声を絞り出した。
「分からないわ、何が起こったか、なぜこんなことになったか分からないわ。でも、きっと理由があるのよ」
「あるものか!あいつは私たちをまんまと利用したのだ!今頃はさぞかしいい気分だろう!『オペラ座の怪人』を手玉に取ったのだからな!」
手を振り払い、新聞を床にたたきつけた。
記事の横に書かれた風刺画の男が、にやにやと私を見上げている。
デフォルメされていたが、実に特徴を捉えていた。
私は紙面がぼろぼろになるまで踏みにじった。
脳裏につい一月前の出来事がよみがえる。
あの日はとても日差しがうららかで、仕事も一段落してゆっくりと過ごしていた。
そこへクリスティーヌが見慣れない男を連れてきた。
みすぼらしい身なりで持ち物も壊れかけた鞄一つだったが、澄んだまなざしがすべてをうち消すほど魅力的だった。
コルシカ島からわざわざ音楽を学びにパリへ来たという。
名を『アンドレア』と言った。
クリスティーヌはヴァンドーム広場で彼に声をかけられ、話すうちに私に会わせたくなったのだという。
彼は鞄から楽譜を取り出した。
アンドレアは訛りの強いフランス語で懸命に私に見てくれと言った。
気乗りしなかったが、クリスティーヌも勧めるので一通り眺めた。
箸にも棒にもかからない曲だった。
はっきりと才能はないと、告げた。
思いもしなかったのか、彼は泣き出した。
恋人は青年を慰めつつ、私に力になってほしいと懇願した。
仕方なかった。
私はレッスンをする気はないが、これを参考にしろと、ほぼ完成していた新作を彼の鞄に押し込んだ。惜しい作品ではなかったし、次のアイデアもいくつか浮かんでいた。
彼はとたんに泣きやみ、ハシバミ色の瞳を今度はうれし涙でぬらして何度も頭を下げた。このとき私ともあろうものが、油断していたのだ。
純真な田舎者に悪事が働けるなど考えもしなかったのだ。
「エリック・・・・・・」
彼女の瞳が濡れていた。私にはクリスティーヌがどんな気持ちなのか、手に取るように分かった。
柔らかな唇がかすかに動いていた。
だが言葉を紡ごうとして、かすれて消えてしまう。
急速に怒りが萎えた。
私は唇をかみ、何度も頭を振った。
「クリスティーヌ・・・・・。分かっている、おまえばかりが悪いんじゃない。私が迂闊だったのだ!」
「そうじゃないわ」
「私のせいだ!」
再び感情が爆発した。
だがこれ以上彼女を責める気はなかった。アンドレアのことも憎らしかったが、それよりも自分に腹が立っていた。
しかし激しく燃えさかる身体の奥深くに、凍りつくような流れを感じる。
今の生活を手に入れてから、知らず押しこめていたある感覚。
「自分以外を信じなければ、いい。今まで通りに。それですべて解決だ」
全く意識していなかった。
しかし、はっきりと言葉になっていた。
「今、なんて・・・・・?」
天使は自分でも訝しそうに口を開いた。
私自身も半ば信じられないでいた。
「クリスティーヌ、私は今なんと言った?」
「こういったわ『自分以外を信じなければ、いい。今まで通りに』って・・・・・。エリック、あたしの聞き間違いよね?」
すがるように視線を向けられて、私は息が詰まるような気がした。
しかし私の中で今まで欠けていたものが、ぴったりとはまった気がした。
まるで見えているように恋人の表情がこわばる。
彼女はおずおずと私へ手を伸ばした。
「お願い、答えて・・・・・!」
冷たいものが喉元まで上っていた。
だが、くちびるが凍えて動かない。
クリスティーヌは意を決して言った。声が震えていた。
「あたしも信じられなかった?」
答えられなかった。
魂が引きちぎれんばかりに叫んでいる。
愛している、おまえだけを愛している!だが・・・・・!
瞳の翳りが彼女に答を与えてしまっていた。
哀しいほど頬が蒼く、透き通った。
クリスティーヌは弱々しく首を振り、私の腕をつかんだ。だが、振り切った。
振り切って、走り出した。
追いすがるような彼女の泣き声にも、私は、走り続けた。
私は激しく混乱していた。
なぜこんなに胸が締めつけられるのか、分からないでいた。
人を信じ切れないでいること、愛する女でさえ信じ切れないでいること、それを知られたこと、彼女を苦しませたこと、何もかもすべてが哀しかった。
それでも、なぜ哀しいか分からない。
覚えている限り、自分一人を信じて生きてきた。
誰も私を信じなかった、誰も私は信じなかった。
それでもクリスティーヌと過ごすようになって、私は人を信じるようになったと思っていた。アンジェリーナの笑顔や、クリスティーヌの歌声、すべてが大切になった。
だが、どこかで疑っていたのだ。いつも、いつも、彼らを。
どうしても拭いきれない感覚・・・。
凍える川が私の奥深くを流れ始めたのはいつだったろう。
「恵まれすぎて、いい気になっていたんだ・・・」
5月の空は澄み渡り、さわやかな風が私の頬を撫でてゆく。
眼下には活気にあふれたパリの街が広がっている。
アポロン像のもと、ここには誰もいない。
誰一人私を訪ねる人はいない。
それなら、・・・それなら・・泣いてもいいだろう・・・・・。
渡る風が少し冷気を含んできた。
まだ、涙は枯れない。
ふと背後に気配を感じた。
「竜涎香、霊香、薔薇、菫、黄水仙、どれがお好みかな?」
耳障りな声とともに、5枚のハンカチが目の前に差し出された。
応えないでいると、さらに続いた。
「じゃあ、クマツヅラ、ジャスミン、ラヴェンダー・・・・・」
泣きすぎて痛む頭をこれ以上悩ませたくなかった。
後ろ向きのまま、ぼそりと言った。
「菫だ、ダロガ」
「私も同感だね」
あざとい刺繍の施されたハンカチを受け取り、はれぼったい目にさりげなく押し当てた。
かすかに漂う香りが、少しだけ慰めになった。
「何しに来た?」
いつもならもっと毒のある言い方をしてやるが、そんな気分になれない。
傭兵の将軍は一人分のあいだを開けて、隣へ立った。
そして懐から包みを取り出した。
「私の淑女がそれは素敵な香りの持ち主でね。煙草の匂いで台無しにしちゃいけないだろう?」
「ふん、エセ女権拡張論者」
ははは、と陽気な笑い声がした。
そして両切りのボイヤールをくわえた。
目を閉じて深々と吸い込む。それから満足したようにゆっくりと息を吐いた。
ほどなくきつい香りが紫煙となって空へ上っていった。
「パリの5月は美しいな。芽吹いたばかりの緑もかぐわしいが、もっと素晴らしいものが
街にあふれている!」
ダロガは身を乗り出して、眼下に広がる景色を眺めた。
それを横目で見た私には何が目的か、すぐに分かった。
「パリの娘たちはおまえなど眼中にないからな。恥をかきたくなければ、じじいはおとなしくしていることだ」
「年を取ってこそ魅力は増すものさ。ハンカチをくれたマドモアゼルたちは、みな私にぞっこんなんだ」
ペルシャ人は軽いウィンクをよこした。
私はさっき彼が読み上げた香料の数を思い出した。迂闊にも男に向き直ってしまった。
「き・・・さま、8人もの女性とつきあっているのか?」
しかしダロガは私の顔に気づいた様子もなく、鈍く輝く銀髪を掻き上げ、唸った。
「いや、違う。・・・・・腰がきゅっと引き締まっているのがブランシュで、笑うとえくぼが二つできるリリ、アルジェリアのミシュリーヌは緑の瞳がきれいだし、ミコノス島のレラは一番グラマラスだったなぁ、それから・・・」
指おりが足らなくなったのか、今度は煙草を並べ始めた。
私は呆れた。
「おまえ、どれだけつきあえば気が済むんだ?このドン・ファンが!」
ダロガはきれいな笑いを見せた。
「愛は出し惜しみしない主義なんだ」
ふんと顔を背けた。
ダロガは指先で煙草をはじき、落ちた灰が風に乗ってゆくのを愉快そうに目で追っている。
まもなく一本目が終わると思うと、私は急に不安になった。
「どうした?」
盗み見る視線に気がついて、ダロガは包みを差し出した。
「飲むか?」
「私は歌手だぞ、ばか」
「はっはっは、そうだった。ペルシャで別れてからおまえの歌を一度も聴いていないから、うっかりしていた」
「物忘れがひどいのは年寄りの証拠だ。おまえ夜中に何度も用を足しにゆくだろう?」
ダロガはにやりと唇を引き上げた。
「そういった経験はないな。もっとも愛する人を一瞬でも独りにするの主義に反する。特にベッドの中はね」
「そうじゃない!」
私はあわてて、そっぽを向いた。
今の顔を見られたら、何を言われるかしれたものじゃない。
再び陽気な笑い声が響く。
「初なやつだなぁ」
「見境のないやつよりましだ!」
やはり応えなかったらしい。彼は短くなった煙草を握りつぶして消すと、2本目に火をつけた。
私は不思議にほっとした。だが、どれくらいの時間ここにいるつもりか、知りたくもあった。
「きさま、そんなにゆっくりしていていいのか?ご婦人を待たせているのだろう?」
ドン・ファンは煙草を燻らせながら答えた。
「プルーデンス夫人はちゃんと待っていてくれる。」
自信たっぷりな声だった。
「そんなに信用しているのか?」
「もちろん!私はすべての女性を信じているよ、エリック」
「・・・・・自分が単純すぎると考えないか?」
問いかけが意外だったらしく、ダロガは目を丸くした。
「純粋と言ってくれると、嬉しいね」
彼の屈託のなさに呆れつつ、私は吐き捨てた。
「物は言いようだ」
言ったが、歯切れ悪かった。私は半ば羨ましかったのだ。
クリスティーヌに『何があってもおまえを信じている』と告げられたら、どんなに良いだろう。
ダロガは煙草を口の端にくわえたまま、大きく伸びをした。
それから気持ちよさそうに息を吐いた。
「なぁ、エリック、こうしているとペルシャ時代を思い出さないか?」
切ないまま、ぼんやりと頷いた。
目を閉じると、どうしようもなくクリスティーヌの姿が浮かんだ。
グッとこみ上げてきたが、何とか耐えた。
「おまえは王のお気に入り、私はおまえの監視役。お互い、年を取ったな」
「それだけじゃない・・・・・。立場も性格も変わったな。ペルシャのころはあんなに堅物だったくせに、今はドン・ファンだ」
私は菫のハンカチを振って、肩をすくめた。
ダロガは気にした様子もなく、残り少なくなった煙草を消した。
だが3本目に手を伸ばしたりしなかった。
「あれからずいぶん時間がたったんだ。いろんな経験をして私も変わる。おまえもずいぶん変わったぞ、エリック」
ふいにダロガのまなざしが優しくなった。
「私が?」
感慨深げに頷いて、古い友人は遠く青い空に目を向けた。
「おしゃべりになった」
ちょっとがっかりした。
彼は愉快そうに続けた。
「人は変わるんだ、エリック。自分が望むままに」
ダロガの言葉がすうっと私の奥深くへしみこんだ。
それとともに胸が激しく高鳴り始めた。
「だから、人生は面白い。そうだろう?」
友人は魅力的なウィンクを投げた。
それから懐の時計を取り出した。
一瞥して仕舞うと手を挙げた。
「じゃあな、エリック。これからデートだ」
そして優雅にきびすを返すと、歩き出した。
「ダロガ!」
「何だ?」
男は首だけ向けた。
「・・・世話をかけたな」
ごく自然にわき上がった言葉だった。
しかし友人は怪訝そうに首をかしげた。
「何のことだ?」
「クリスティーヌに頼まれたんだろう?」
「今日は会っていない。けんかでもしたのか?」
「違うが・・・」
言いよどんでいると、ダロガはもう一度手を振って早足で歩き出した。
夕闇に紛れ消える背中を見送って、私は眼下へ目を向けた。
カンテラドルにぽつぽつと灯が宿り、あちこちの窓からも暖かな灯が漏れる。
家路を急ぐ人々、かすかに呼び売りの声も響いてくる。
穏やかな気持ちで見つめている自分に気が付いて、知らず笑みがこぼれた。
「すべては変わる・・・・・」
もちろん簡単ではないだろう。それでもどこにも迷いがない。
ダロガの言葉が、私の魂の傍らに寄り添っている。眩しい光を放って。
まず、急いで下に降りていって、恋人に会おう。
すべてを告白し、許しを請おう。
それからこう伝えよう。
『今から人を信じるようにする、心から、いつわりなく、自分のため、おまえのために』クリスティーヌはどんな顔をするだろう?
私は菫のハンカチを大切に懐へ仕舞い、しっかりとした足取りで歩き始めた。
天才と騒がれたアンドレアだが、その後の消息がぷっつりと途絶えた。
数年後ようやく彼を捜し出したスポンサーが作曲を依頼したが、彼は絶対に引き受けなかったという。
失踪前に、白い軍服を着た男と二人でいるのを目撃されている。
それが関係あるのかは、・・・・・分からない。