カフカな日


眠れぬままカフカの本を読んで、ふと気が付くと朝になっていた。
「ああ・・・、ファントムのおかげで・・・」
乱れた髪を手櫛でなでつけながら、フィルマンはデスクの上に散らばる書類と、封筒をうつろに眺めた。
書類は全て請求書。封筒も請求書が入っている。
支配人は黒い封筒を手に取り、差出人の『O・G』という文字を爪で何度もひっかいた。
彼の不眠の原因は、この中身にあった。
毎月決まった日に届けられる、『給料の催促』。
スポンサーに貴族が付いているとはいえ、毎月二万フランなど、払い続けられる訳がない。
これまでは何とかしのいできた。
だが、それももう限界だった。
次を払えば、確実にオペラ座は破産する。しかし、払わなければどんな災難が降りかかるか知れたものじゃない。
フィルマンはぐっと胃のあたりを押さえた。
よろめきながら、身支度のために鏡に向かった。
「ひっ!」
声はその先、喉に張りついた。
彼の正面には、男が映っていた。
だが、昨夜までの見慣れた顔ではない。
皮膚ゆがんでめくれあがり、鼻はつぶれたように残骸しかなく、目は瞼がなく、ぎらぎらと輝いている。
支配人は、思い当たった。
『オペラ座の怪人』!
だが、なぜ?
なぜ奴がここにいる?
とっさに顔に手を当てた。
鏡の中の怪人も同じ動きをする。
ざらついた感触に鳥肌が立つと同時に、張り付いていた悲鳴が炸裂した。
疑いようもなかった。
フィルマンは、『オペラ座の怪人』になっていた!
どうして、いったいなぜ、何が原因だ?
夢じゃないかと、顔をたたいてみた。
違う。
顔を洗ってみた。
戻らない。
傷クスリを塗ってみた。
べたついた。
フィルマンだった男は途方に暮れて、机の上の封筒に視線を向けた。
こんなことをしている暇はない。
そうだ、私には今すぐかたづけなければならない問題があるのだ!
彼は懐からしわくちゃの紙を取り出した。
そこには懇意にしている、銀行家の連絡先が記されている。
ここが最後の頼みの綱。
時計を見ると、約束の時間まで二時間ほどある。
彼はいま一度、鏡に向かった。
少し気分が落ち着いてきたらしい。それほど驚かず、冷静に見つめられた。
彼はうなった。
「この顔じゃ、だめだ。会ってももらえない・・・やはり医者にいってみよう。」
黒い帽子を目深にかぶると、部屋を出た。

はじめ、かかりつけの免許医のところへ行った。
医者は黙って首を振った。
いつも腹痛の薬をもらう薬剤師へ駆け込んだ。
困惑した顔で出口を指さされた。
まじない師も頼ってみた。
妖しげな煙を焚かれて、気分が悪くなった。
その他思いつく限りの手段をとった。
だが・・・・。

フィルマンはセーヌ川に映る、途方に暮れた怪人を見つめた。
万事手を尽くしながら、何一つ事態は好転しなかった。
彼は天を仰ぎ、呪いの言葉を呟いた。
「これまで何一つ悪事を働いたこともない私に、どうしてこんな仕打ちをなさるのです?」
うなだれて時計を見ると、約束の時間はとうの昔に過ぎていた。
もうおしまいだ・・・・・。
約束の給料は支払われず、オペラ座にとんでもない災いが起こる。
彼は深く息をつき、川面を眺めた。
あのオペラ座の怪人が映っている。
いっそ身投げしようかと考えたとき、彼の脳裏にあるものが浮かんだ。
無性に恋しくなった。
「最後に一目・・・っ!」
怪人は走り出した。

先週手入れしたばかりの庭を通り、玄関の階段を登り駆けたとき、ドアの向こうから声が漏れてきた。
「いやだわ、あなた。それはリンゴジャムよ」
最愛の妻の声だった。フィルマンはすがりつく思いでドアに手をかけた。
だが、ハッとした。
あなただって?誰のことだ?
彼はノブを離し、台所に面した窓へ急いだ。
ここからこっそりと中をのぞける。
「そうだったかね、じゃあ、これは?」
フィルマンは自分の目と耳を疑った。
テーブルに座り、妻と楽しげに食事をしてるのは、自分じゃないか???
激しいめまいを覚えながらも、フィルマンは通りに出た。
打ちのめされていた。自分の家には自分がいる。
もうどこにも帰れない・・・。
とぼとぼとポン・ヌフ橋まで戻り、人通りが絶えるのを待った。
他にどうしようもなかった。
うちには戻れず、ファントムの給料は払えず、大いなる災いは起こる。
水面に映る男をじっと眺めた。
こいつのおかげで私の一生はめちゃくちゃだ。
ぽつんと何かが帽子をうった。
振り仰ぐと、いつの間にか空はどんよりと曇っている。
雨だと思う間もなく大粒の雨が立て続けに降ってきた。
通りの人々は足早に走り去った。
時は来た。
フィルマンは靴を脱いだ。
十字架を切り、思い切って飛ぼうと身構えたとき、唐突にあることに気が付いた。
自分が『オペラ座の怪人』になったのなら、金を払わなくても良いんじゃないか?
そのとおりだ!
ぱーっと気分が明るくなった。
何も自分が自分に払う必要なんてない。これで年間二十四万フランは節約できる。オペラ座の経営も順調になるぞ!
フィルマンだった男は、スキップしながらオペラ座へ帰った。

その後フィルマンだった男は、すみかを主のいなかった地下へうつした。
結局、顔は元に戻らず、恋しい妻に会いたいのをぐっとこらえる毎日だったが、オペラ座の経営が順調だったので満足した一生を過ごした。
フィルマンになった男は、家庭の味にすっかり満足し、かつてのような凶暴さは消え、初めての支配人業にもすぐに慣れ、穏やかな一生を過ごした。

ところで、歌姫になるはずだったクリスティーヌ・ダーエだが、『音楽の天使』が現れなくなってしまったため、コーラスガールのままだったが、いつまでも夢見る乙女のはずはなく、自分からラウルを引っかけて結婚した。