春はぽかぽか
暖かな風が梢を渡っている。
陽射しもやわらかで、暖かい。てのひらで光を受け止めると、いっそうそう思う。
そして、こういう光があたしたちにとって一番のごちそうになる。
あたしたち天使は、もともと人間の食べ物をうけつけない。
食べ物はどんなに形を変えても、何かの命が元になっているから、それを食べる、つまり奪うことは許されない。
だから、食べているように見えても、実際はそのまま天界に送っている。………祈りともに。
それで、太陽の光がゆいいつあたしたちの命の源になっている。
「クリス!」
遠くからエリックの声が響いてくる。
姿は見えないけど、気配が近づいてくる。
「ちょっと………待ってね。」
あたしは半透明になっていた手のひらに慌てて色を戻すと、声を上げた。
「ここよ、エリック!」
「クリスティーヌ!」
小径を走ってくる彼の姿が見えた。
手を振るあたしを見つけ、スピードを上げる。もうずっと、仮面はつけていない。その姿が、彼の気持ちがとても嬉しかった。
「さ………っ捜したよ……っ……。」
到着するや、肩で息をしている。
「だいじょうぶ?ごめんなさい、ちょっと日に当たっていたの。レッスンのお時間?」
いいや、と荒い呼吸を鎮めながら、エリックは首を振った。
「用事は…………ない……、いいや、忘れてしまったよ。」
あたしを見つめていた目がそらされ、ぽっと頬が染まった。
それがどんな意味か分かった。でも同時にせつなかった。
その気持ちをムリヤリ飲みこんで、あたしはつんつんと彼の袖を引いた。
「座らない?今日はとても陽射しが気持ちいいのよ。」
「日向ぼっこかね?」
眉間にちょっとしわを作って彼が言う。
「だって……もったいないわ。こんな素敵な昼下がりを、家の中ですごすなんて。」
さっさと緑のきれいな芝生に腰を下ろして、彼を見上げる。
エリックは首をかたげたまま、答えない。目だけが忙しく動いている。森はしんと静まりかえり、
だれも近づいてくる気配は、ない。
エリックはちらりとあたしを見、それから咳払いをした。
「…………どうしても、私といたいかね?」
「?ええ。」
返事をして、思う。
そうね、エリックにこの暖かで、穏やかな午後を確かめてほしい。
こんな日もあなたにはあるのよって。
怪人はもう一度、今度は首を回してしっかりとあたりを確かめ、言った。
「私は忙しいんだが、おまえがどうしてもと言うのなら、きいてやってもいい。その代り言う事を聞いてくれるかね?」
尊大な態度で。でも、どこか落ち着かない態度で告げる。
「ええ、どんな事でも。」
彼は無茶を言わないって、分かっているから、安心して返事をする。
怪人はホッとした顔をすぐに厳しくして、あたしの肩に手を置いた。
置かれた手がかすかに震えている。
「目を閉じて……。動かないで。」
言葉の最後に、甘い響きがあった。あたしは目を閉じた。
ずし……っと膝に重みがかかった。それから左手が引っ張られ、そっと、優しく握られる。
「目を開けてもいい。ただし、私がここで何をしていたかは、絶対に喋ってはならない。いいね?クリスティーヌ。」
強い口調で言う彼の顔が、だんだん真っ赤になってゆく。
もちろん、怪人の目はきつく閉じられたまま。
「はい、エリック……。」
「よろしい………。」
必死に威厳を保とうとする口調が、なんだかおかしかった。
きゅっと握りかえした。
………重ねられた手から、エリックの心が静かにうちよせてくるのを感じる。
(私は、いまだれにも追われず、恐れられず、愛する女に身をゆだねている。すべてから解放されたような幸福………。私にこんな日が訪れようとは……………。)
まるで、この陽射しのように安らかな感情。
でも、ところどころにちりばめられた不安と、恐れ。
(これは間違いなく現実だろうか?クリスの手のぬくもりは本物だろうか?私を照らす太陽は?葉ずれの音は?………目を覚ましたら、わたしは冷たい地下にいるんじゃないのか?)
瞬く間に不安と恐怖が大きくなり、彼を押しつぶそうとする。
あたしは思わず、右手で彼の手を握り締めた。何気なさを装ってよびかける。
「エリック?」
怪人ははっと目を開け、じっとあたしを見つめた。
「クリスティーヌ……?」
「そうよ。」
あたしは愛をこめて笑いかけ、柔らかく手を握りなおす。
彼の腕が伸びて、あたしの頬に触れ、髪の中にすべりこんだ。
確かめるように指が髪を梳いている。
エリックは眩しそうに目を細めた。
「おまえは、ずっと、ここにいた?私は独りじゃない?」
「そうよ、エリック。そうよ、あたしはここにいるわ。」
(独りじゃない………。)
怪人の心が、みるみる穏やかになっていくのを感じた。
指が降りてきて、くちびるに触れる。
「私だけの天使…………」
くちびるにあった手がうなじにまわり、あたしの顔を引き寄せた。
あたしは静かに目を閉じた。
「愛しい天使………。」
いましもくちびるが触れ合うというその時、あたしも怪人も注がれる視線に気がついた。
ぞっとしてそちらを見ると、ムシュウ・アンドレが口をあ〜んぐり開けて立っていた。
ピシッと凍りつく空気…………。
だが最初に行動を起こしたのは、支配人だった。
「ああ、マエストロ!」
アンドレは走りよると、ポケットから真っ白な布を取り出した。
「マエストロ!今は一番陽射しの強い季節です。どうぞ、これを!」
うやうやしく膝をつき、エリックに差し出す中年男。そこに怪しさなど、微塵もない。
エリックは吊り上がった目を少しだけ緩め、横柄に受けとった。
それから、ぶっきらぼうに言い放った。
「失せろ!」
「………ではこれで………。」
支配人は意味ありげにニーッコリと笑い、頭を下げた。
怪人はレースのハンカチーフをあたしに差し出した。
「ありがとう、ムシュウ・アンドレ………。まぁエリック、きれいなベルギーレースだわ。」
「ふん、下らん。安物だな!」
「エリックったら………。」
たしなめたが、きかない。
ちらちらと横目で、まだ去らないアンドレを気にしながら、エリックは見せつけるようにあたしの膝の上で頭を動かした。
そして、まだボンヤリしている支配人に怒鳴った。
「何をしている?さっさと帰れ!」
「はいすぐに………。」
愛想よく返事をして、こっそりとアンドレはポケットに手をしのばせた。彼は前回の事件から、学ぶところはちゃーんと学んでいた。
アンドレの手の中でキラリと光る『撮りっきりコニカ・ミニ』。
それに気が付かず、エリックはいらいらとあたしの髪をもてあそんでいる。何を考えたか、不意に彼の両腕があたしの首に巻きついた。
「っちょ、ちょっと待って………っ……。」
ものすごい力であたしの顔を引き寄せようとする。しかしこれこそ!アンドレの待ちかまえた瞬間だった。
支配人の指がシャッターにかかる。
あたしとエリックが感づく。
「きさまっ!」
エリックは超人的な速さで起き上がり、アンドレに掴みかかろうとした。
「あ!だめ!」
引き止めようと、とっさにエリックの顔面を思い切り、押さえつけた。
「ぶわっ!」
その一方、心の中で叫んだ。
『彼方へ!』
叫びの終りと同時に、空に巨大な黒いかたまりが現れ、アンドレ目指して落ちてきた。
「わぁぁぁっ」
と思うと、あっというまに彼を包みこみ、賑やかにさえずりながら、またたく間に空の彼方へ飛んで行った。
あたしは、ほっと息をついた。見あげると、何事もなかったかのように空は澄みわたり、残されたのは、草の上の数枚の羽と、『撮りっきりコニカミニ』だけ。
「クリス……………く、苦しい………!」
あたしの膝の間でジタバタともがくものがある。指の間から声が漏れている。あたしははっとなって、押さえつけていた手を放した。
「はぁ」
怪人が息も絶え絶えになって、スカートの間から顔を出した。
顔にバッチリとあたしの手形が残っている。
「いきなり……ゲホッ……何をするのだ、おまえは……。」
「あの……それは………。」
とりあえず、きちんと膝を揃えてから、彼の頭をのせ直した。
「だいじょうぶ……?」
恐る恐るきいてみる。
エリックはむっとしたまま、吐きすてた。
「まったくおまえは、淑女のたしなみというものを知らん!どこの世界に人の頭をスカートに押し込む女がいるのだ!」
言われてハタと気がついた。
あたしって、とてつもなくはしたない真似をしてしまった……らしい。
「でも…………あの………。」
「言いわけなどするな。」
怒鳴りつつ、彼はなぜか頭を膝の上で動かした。理由がつかめず、のせ具合が悪かったのかしら?と思う。
怪人の顔に不機嫌な色が浮かぶ。ところが目が怒っていない。
「いいかね、クリスティーヌ、淑女というものは……」
なぜエリックは怒りながら、妙な目付きをしているのかしら?
人間は怒るときは目も吊り上げるはずだけど、変に垂れ下がっているし……………。エリックはこんな怒りかたはしないわ。
どういう事なのか………よく分からない。できるだけ、読心はしないようにしているから、なんとか理解したいけど、人間は難しいわ。
分からないことは、聞いた方がいいのかしら?
「おまえはプリマドンナなのだぞ。どんな時にも自覚を持って・・・ 」
いま一度確かめようと、彼の顔をのぞきこんだ。不意に近づかれて怪人はギョッとする。
「ねぇエリック、あたしが悪いのは分かるわ。でもあなたはなぜ、そんな目をしているの?なんて言うか……顔は怒っているのに目が笑っているように見えてしまって……」
「なっ………?」
エリックの顔がこれ以上ないくらい気まずいものになった。
(彼の顔にははっきりと『にやけていた』とあるが、アイラには読み取れない………。)
「……?怒っているの?」
この言葉でさらに彼の顔色が変わる。赤くなったり青くなったり、目まぐるしい。
「エリック、顔色が変よ。大丈夫?」
一体どうなっているのか、本当に分からない。
「だ、……だいじょぶ、が、………。」
さっきまでの荒々しさが消え、しどろもどろになっている。
「が……?」
心配になって、さらに顔を近づけてみる。
エリックはとっさに目を細め、手をかざした。
「眩しいな……クリスティーヌ。何かないかね?」
「は?」
まるで何もなかったかのように、エリックの声音は完璧にふだんの調子に戻っている。いや、いつも以上に紳士的でさえある。
「聞こえなかったかね?ほら、さっきアンドレ氏がいい物をくれただろう?」
声はさらに柔らかい。しかし決してあたしを見ない。
「あ、はい!」
あたしは慌ててもらったハンカチーフを怪人に渡した。
エリックは声音からは考えられない素早さで、それをもぎ取ると、さっと自分の顔にかぶせた。くつろいだようすで両手を胸の上で組む。
あらためて眺めると、このハンカチーフはレースが大部分で布の部分は、握りこぶしくらいしかない。
「やはり今日は陽射しが強すぎるようだ。だが、これを使うと、ちょうどいい。…………そうだろう?」
最後の言葉が、強引に同意を求めているように聞こえる。
「そ……そうね。」
戸惑いながら答えると、エリックは満足そうにう なずいた。
それから、思い出したように付け加えた。
「そう言えば、彼はどうしたね?」
「ムシュウ・アンドレのこと?『急に用事がある』っておっしゃって、帰っていかれたわ。カメラを忘れるほど急いでいらしたけど、一体どうなさったのかしらね………。」
ふんと、怪人は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 「身のほどを知ったのだよ、………さて、クリスティーヌ、私はしばらく眠ることにするよ。約束を忘れてはいないね?ここであったことは、だれにも喋ってはいけないよ。」
威圧的な口調だけど、どこか心細い。気になったが、あたしはとりあえず全てが事もなく収まったことに、ほっとして、
「分かっているわ、エリック。」
と、返事をして、彼の手を柔らかく握りしめた。
「うむ………。」
エリックもまた遠慮がちに返してきた。
陽射しは、ポカポカと心地よくふりそそぐ。誘うように。
不意に彼の手が緩んで、見下ろすと、眠っている。
「子供みたいに寝るのね…………。おやすみなさい、エリック。」
彼の手にそっと、くちびるを押し当てた。
アンジェリーナは、いつものように森で妖精さがしてしていた。
「妖精さーん、いませんかぁー?いたらへんじしてくださーい。」
大きな青い目で薄暗い木のうろや、小さな花の中をのぞいては、声をかけている。
「今日はいなのかなぁ。これあげようと思ったのに……。」
少女は小さな手の中の、さらに小さな草の指輪を見ながらつぶやいた。ちょっと拗ねた少女の顔がパッと輝いたのは、こんもりした茂みをまがった時、アンドレが消え去ってから10分ほどたった頃だった。美しい女が草の上に座り、男は女の膝を枕にして横になっている。
「おじさんだ!」
アンジェリーナは駆けよろうとして、足元の何かにつまずいた。それは小さな四角い箱で、『撮りっきりコニカミニ』とかいてある。
「カメラ……?かな?」
首をかしげながら、拾い、エリックたちに走りよった。
「おねえさん、おじさん、ねてるの?」
呼びかけるが返事がない。少女はエリックのかぶっているレースをすこしめくってみた。
「おじさん、おひるねですかぁ?」
しかしエリックはちょっと顔をしかめただけで、やはり目を覚まさない。彼の恋人もうつむいたまま、動かない。アンジェリーナはつまんないという顔で、持っていたカメラをあちこちいじった。偶然、ファインダーをみつけ、そこから目の前を見通す。
そこにはもちろん、二人の姿がある。
「えーと、こうして?」
彼女はシャッターにも手を掛けた。
「これを………おすのかな?うん、わかった!」
アンジェリーナはもう一度エリックに近寄った。
「お写真とってもいいですか?」
レースの中から微かな返事がかえった。
「ど………ぞ…………。」
もちろん怪人は目覚めてはいない。これは寝言だった。
しかし少女は、エリックの顔の覆いをめくった。
「とりまぁーす!」
言葉の終らないうちに何度もシャッターのおりる音が、森にこだました。やがて彼女は嬉しそうにカメラを下ろすと、告げた。
「おかあさまにお願いして、え……と、ゲンゾウしてもらいます。たのしみにまっててね!……これはね、おやくそくのしるしです。」
アンジェリーナは、エリックの小指に青い花を編みこんだ草の指輪をはめた。
「じゃあ、さようなら!」
そして少女はカメラを大事そうに抱えると、走っていった。
小鳥のさえずりが、そこここから聞こえてくる。ねぐらへと急ぐ声。
「………いやだ………眠っていたんだわ………。」
目覚めて空を見ると、きれいな金色の光が走り、うっすらと雲が染まっている。あたりは日陰になってしまったが、空気はほんのり暖かい。
「もうすぐ日がくれるのね…………エリック?」
「うん?」
男はレースをかぶったまま、両手をふりあげて伸びをした。
「ああ、クリスティーヌ、私はずいぶん眠っていたようだね。」
とても穏やかな、幸せそうな声が返ってきた。
「ええ、あたしも眠ってしまったわ。……帰りましょう。オペラ座のみんなが心配するといけないわ。」
「そうだな。腹が空いたな。」
言ってエリックはレースを取った。
立上がり、あたしに手を差し出す。手を取って立ち上がって、彼と向かい合う。
「………?」
辺りがどんどん暗くなってゆくせいで、彼の顔が分からないけど、どうも顔の色が変だわ。まだらになっているの?
「どうかしたかね?」
あたしの視線に怪人がいぶかしげな顔をする。
人間の顔がまだらになるなんて有りえないわ。
あたしは、首を振った。
「ううん、何でもないわ。エリック、さぁ、帰りましょう。あら?」
あたしは、そこにあったはずの物がないのに気がついた。辺りを歩き回ったが見つからない。
「どうしたね?」
「だれか来たのかしら?カメラがなくなっているの」
「無くなっている?…………アンドレのヤツは逃げ帰ったし、ほかに誰も来るはずはない…………。いや…………?」
エリックは眉間にシワをよせて、腕組みをした。
「こどもの声を聞いた覚えが………かすかにあるぞ。そうだ、……………アンジェリーナだ。」
「あの子が?………エリック、その指輪は?」
「指輪?」
言われて彼は小指にからまるものを取り外した。
「これはまた……可愛らしい………手製のものだ。おまえが?」
あたしは首をふった。そして思い当たった。
「それはアンジェリーナが作ったものよ。あたし、前にもらったことがあるわ。」
エリックは指輪をてのひらの上で転がしながら、嬉しそうに言った。
「あの子がくれたのか。このところ会ってなかったから、話をしたかったな。」
それから指輪を大事そうにポケットにしまった。
「カメラをあの子が持っていったとしても、悪いことにはならないよ。何も心配することはないさ、クリスティーヌ。」
彼の言葉に促されてうなずく。
「そうね。その通りだと思うわ。」
森はさらに暗くなり、足元がおぼろげにしか見えなくなっている。エリックは西の空にかがやく星を指さした。
「一番星が出ている。あれはなんていう名前だったか………。」
「あれは、ヴィーナスよ。宵の明星ね。」
言って、ふっと別の名が頭をよぎった。
その名を『ルシファー』と言う…………。
「クリスティーヌ、行こう。」
エリックが歩き出した。その後を追いかけつつ、
「そうね、アンジェリーナなら、大丈夫ね……。」
あたしは無意識のうちに呟いていた。
なんだか、いやーな予感がしてならなかった。
オペラ座に帰ると、メグが心配そうに駆けよってきた。
「おかえりなさい!どこに行ってたの?ムシュウ・レイエが探していたわよ。今度のオペラの打ち合わせをしたいって。ムシュウ・エリックは一緒じゃなかった?」
「私なら、ここだ。」
ばたん、とドアの閉まる音ともにあたしの後ろにエリックが現れた。
「え?ムシュウ、その顔は?」
メグは真ん丸な目をこれ以上できないくらい見開いて、怪人の顔を指さした。
「メグ、エリックは帰ったの?」
マダム・ジリーもやってきたが、夫人も彼の顔を見るなり、同じリアクションを見せた。だが、声は上げなかった。代わりに体がぶるぶるぶるぶる震えている。
「どうなっているんだ?」
「さぁ……?」
あたしはエリックを振りかえった。そのとたん、背後で声が上がった。
「もーう、いやー!ウソみたい、顔が、顔に!」
「 はっきりとついてる!もうだめ、我慢できない!」
そう叫ぶと、メグはこぶしで壁を、夫人は杖で床をバンバン叩きながら猛烈な勢いで笑い出した。
「わ、私の、顔?」
説明してくれといわんばかりに怪人はあたしを見たが、そのあたしも、
「う、ぷっ!」
慌てて口を押さえた。一言でも喋れば、メグたちと同じになってしまう。
「クリス?」
困惑した顔で怪人はあたしをのぞきこんだ。その距離20センチ。
「だ、だめ!」
「ク、クリス?」
それ以上近寄られたら、笑っちゃう!
「だっ!」
どがっっ!あたしは彼を力一杯つきとばし、逃げ出した。
「ク…………クリスティー……ヌ……………?」
エリックは呆然と女の消えた廊下のかなたをを見つめた。
そこからかすかに気の狂ったような笑い声がこだましてきていた。
「何なのよぉ、うるさいわね。」
うっとおしげな声と共に、はち切れんばかりの肉体美の女が姿を現した。
「おや、マエストロ?」
彼女もエリックを見て、一瞬、顔をこわばらせた。だが、彼女は冷静だった。
さすが、プリマドンナ・カルロッタである。
彼女はくるりと背を向けると、大急ぎで控え室に戻り、手に何かを握って帰ってきた。
「ほほほ、マエストロったら、斬新なメイクですわねぇ。」
そして意地悪く笑いながら、それを彼に向けた。
彼女の手鏡とご対面した彼は、その場に凍りついた。
エリックの顔は鼻を中心に、繊細なバラもようがきれいな日焼けのあとになっていた。
そして、さらに災難は遠慮なくやってくる。
日焼け騒動の翌日。
アンジェリーナは仲良しのレクシアと宝物のみせあいをしていた。
「次はこれよ、ヴォルガ川の石。」
得意げにいびつな石をつまみ、窓から差し込む光にかざしてみせる。
それを下からのぞいたアンジェリーナは歓声を上げた。
「わぁ、みどりいろに透けてきれい!キラキラしてる!」
「すごいでしょ。特別に貸してあげる。アンジェリーナは、何?」
促されて、少女は抱えた箱の中から、ふさふさの鳥の羽根を出した。
「おじさんの新しいお帽子のかざりなの。きれいだっていったら、くださったの。」
「叔父さま?」
アンジェリーナはニコニコとうなずいた。
「エリックおじさん!おじさんはねぇ、お歌を歌う人なの。とってもお上手なのよ。大好きなの!」
『大好き』という言葉にレクシアの眉がピクっと動いた。
彼女はアンジェリーナより二つ年上の10才だが、妙にマセているところがある。
「ふーん、歌手なのね。どんな人?」
意味ありげに笑い、レクシアは羽飾りをなでた。
「あのね、このひとなの。」
アンジェリーナは箱から一葉の写真を出して、少女に渡した。
「わ、すごい!」
レクシアの頬が、ゆでタコみたいに赤くなった。
「こっちの人がおじさんで、こっちの人が、恋人のおねえさん。」
「ひざまくらなんかしてもらってる!やだ、手なんかつないでる!アツアツじゃなーい!すごい!すごい!すごい!」
友達のあまりのはしゃぎように、アンジェリーナはきょとんとなった。友人から写真を返してもらって、しげしげと眺める。
「どうしたの?ひざまくらって、へん?あたしもよくおかあさまにしていただくわよ。」
レクシアはおもいっきり呆れ顔になった。
「そうじゃなくって………。」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
この二人が、誰なのか思い当たった。
レクシアは自分の宝箱の中から、薄紅の小石を取りだした。
それをアンジェリーナに見せながら、猫なで声を出した。
「ねーぇ、この写真とこれを交換しない?私、これがとても気に入ったの。大切にするから!」
レクシアはわざとらしく『大切』を強調した。
純真な少女は少しのあいだ考えていたが、やがて、写真と小石を友人に渡した。
「いいわよ、はいどうぞ!」
アンジェリーナは何も知らずに、嬉しそうに笑った。
レクシア・クロード・レイエも写真をみて、にーんまりと笑った。
やっぱり、レクシアの写真はパリ中の新聞を賑わした。
何人もの記者がオペラ座におしかけて、エリックにインタビューを求めたが、彼は決して部屋をでようとしなかった。
そのため、いろいろな憶測が記事をかざったが、 それでもエリックは現れなかった。
そして怪人は一日に何度も鏡をのぞきながら、
「アンジェリーナが相手では怒れないし…この顔では外に出れないし……クリスティーヌには笑われるし………はぁあ……………。」
とふかーい溜め息をついていた。
indiraより
はるかむかーし、「プレゼンツ」という合同本に載せた話です。茶々猫さんにイラストを入れてもらって、そのおかげでずいぶん立派になりました。
アイラが「光を主食にしている」という設定はその後の「セクハラ」に使いました。