地獄におちてもいい?
「え?あれは誰?」
馬車から降りた時、あたしは思わず自分の目を疑った。体格はエリックにソックリな人が、子供の帽子を目深にかぶり、泥だらけで、しかもあちこちを花で飾られて、オペラ座の裏口に立っている。
向こうもあたしに気がつき、『うっ』と声を上げた。そして慌てて足をひきずりながら、立ち去ろうとした。ところが、そのとき彼の後ろから少女が現れ、怪訝そうに彼の袖をつかんだ。
「どうしたの?おうちに着いたよ、おじさん。ほら、恋人さんもいるよ。」
一瞬にして彼の体が凍りついた。
「こんにちは。おねえさん」
少女はにっこりと笑った。
「そうよ。お仕事はもう終わりなの?」
あたしは上の空で頷いた。とにかく目の前の人物が気になって仕方がない。
「おじさん、早く着替えたほうがいいよ。おうちに入らないの?」
ますますアンジェリーナは不思議そうに彼を見上げた。エリックは?と言う言葉がのど元まで登ってきたとき、突如、男は帽子を脱いで、それを少女に渡した。
「ありがとう。もうこれはいいよ」
そして何事もなかったかのようにあたしを見ていった。
「おかえり、仕事はどうだったかね?」
「えっ、あのっ、………ええ、無事に終わったわ、エリック。あちらの支配人がとても親切にしてくれて。」
「そうか………。」
満足そうにエリックはうなずくと、アンジェリーナの頭に手をのせた。
「アンジェリーナ、疲れただろう?おじさんの家で少し休まないかい?」
だが少女は首を振ると、残念そうにいった。
「ごめんね、もうすぐおかあさまがお帰りになるから、あたしも帰るわ。」
「そうか………。今日は楽しいかったよ。または遊びにおいで。」
なごり惜しそうに彼は天使の髪をなでた。
「うん!さよなら、おじさん、おねえさん。またあそぼーね!」
そして、アンジェリーナは何回も振りかえりながら走っていった。
「クリスティーヌ、私は用事があるから先に戻る。レッスンは昨日と同じ時間に行う。疲れているだろうが、遅れないように来たまえ。」
ふだんより優雅に振る舞いながら、エリックは裏口のドアに手をかけた。
「あの、でも、エリック、その姿は一体………?」
そしてあたしの言葉の終わらぬうちに、そそくさと中に入ってしまった。
「何があったのかしら?あの人があんな格好でいるなんて………。」
思い出しただけで吹き出してしまう。
「アンジェリーナと遊んでいたのかしらね。………。」
彼は少しずつ、世界を広げている。
人間として。
「アンジェリーナは、エリックを真っ直ぐ見ている。あの子は光そのものだわ。彼を明るい所へ導いてくれる………。でも!」
彼のスタイルをまた思い出してしまった。
「よーし、どんな遊びをしていたのか、教えてもらいましょ!」
エリックは地下の家に必死の思いでたどり着いた。とにかく体中がいたい。
ベッドに身を投げると、もう動けなかったが、気持ちだけはせいていた。
「早く体を洗って着替えないと、クリスティーヌを待たせてしまう。」
もたもたと起き上がり、のろのろと浴室に向かう。彼自身、これほど動けないとは思わなかった。クリスに会って、ほっとしたのか、とも考えた。
「口が裂けても、井戸に落ちたとは言えないなぁ………。それにしても、くそ、力が入らない………!」
爪がわれ、傷だらけの指先では、ボタンも思うように外せない。
その時。
ギックリ!
腰に激痛が走り、彼はスーッと気が遠くなった。
エリックは夢を見ていた。クリスティ−ヌとは別の女性が、慈愛に満ちたまなざしで自分を見つめている。そして白くたおやかな指で傷の手当てをしてくれている。よく見ると、彼女は人間ではなく、背中に純白の翼を持っていた。
「天使だ………。」
あたしは彼の言葉にぎくっとした。しかしすぐに思い直した。
正体が分かるはずはないもの。
「それにしても、どうしてこんなにケガをしたの………?」
アンジェリーナは楽しそうだったから、悪い事が起こったとは思えない。
おそらく彼女と遊んでいて負ったものだろう。これだけの傷をだれにも悟らせずに家に戻ったなんて、信じられなかった。
「強い人ね……。でも、無理をしないでね……。」
包帯でミイラ男になってしまった彼に囁いて、顔を胸にそっと押し当てた。
足の傷がひどかったが、手当てはしたし、ほかの小さなケガもすべて薬をつけた。全身の筋肉が悲鳴を上げているので湿布もした。
天使として、これでは死なないって分かっているけど、心配で胸がつぶれそうになる。
「エリック………。良くなるまで、ずっと側にいるから…はやく元気になってね。」
実際、エリックはどうにもならなかった。
10本の指全部を傷めているので何もできない。
それに足も腰も痛むのでベッドから出られなかった。あたしはその日から、彼に付き添っていた。
「昼ごはんできたわ。今日はマダム・ジリーから差し入れをいただいたのよ。」
エリックはベッドに深くもぐり、出てこようとしない。それどころか、返事もなかった。ふーとあたしは溜め息をついた。
皿をサイドテーブルに置き、ベッドに腰かけた。肩と思しきあたりに手を乗せて、困った調子で囁く。
「エリック、ねぇ、出てきて。昨日から何も食べていないのよ。ほら、あなたの好きなものも作ったわ。」
やはり返事はなかった。代わりに彼の腹の虫が声を上げた。
昨日の夜から3回分の食事をすべて彼は拒否していた。正確には2.5回分。
彼が倒れた初めの晩は、あたしが差し出すスプーンを渋々口に入れさせてくれた。
「はいどうぞ。熱いから気をつけてね。」
スープを息でさましてから、彼の口元に持っていった。エリックは不機嫌そうに顔を突き出した。
「まるで赤ん坊だな。」
とぼやきながら。でも、まんざらでもなさそうに。
「アゴにたれちゃったわ。ほら。」
あたしがナプキンで拭こうとすると、彼はあわてて顔をそむけた。
「それくらい自分でできる!」
そしてあたし手からナプキンをひったくろうとした途端、
「い、痛いっ!」
叫んで、ひっくり返った。その衝撃でまた悲鳴が上がる。
「大丈夫!?」
エリックは半ば白目をむいている。
「痛みどめよ、飲んでエリック!」
歯を食いしばっている彼の口をこじあけて、薬を放り込んだ。
しかし、無理やりやってしまったので、再び怪人は絶叫した。
ようやく痛みが治まって、(ずいぶん憔悴したが)あたしたちはディナーを再開した。
ところが、やっと半分が終わったところに、いきなりムシュウ・アンドレが飛び込んできた。
「ああマエストロ!ケガをなさったのは本当ですか!?」
エリックは差し出されたスプーンをくわえようと、大きく口を開けたまま、こおりついた。
「しっ、失礼しましたっ!!」
アンドレは再びドアの向こうに消えた。
この間約3秒。
あたしはあっけに取られたまま、しばらくドアを見つめていた。
この間エリックがどんな表情を浮かべていたか、見なかったのは、たぶん幸いだろう。
ようやくわれに返ったあたしが、ベッドを振り向いたときには、彼は深ーく毛布をかぶって、二度と出てこなかった。
7日後。
「彼の具合はどう?」
キャンセルできない舞台がはねたあと、マダム・ジリーが部屋に招いてくれた。
「それがマダムが教えてくださった通りにしたら、ごはんだけは食べてくれるようになったんですけど。」
「そう、良かったわね。…ほかにも問題が?傷は良くなっているんでしょう?」
あたしはユウウツな顔でうなずいて、溜め息をついた。
「出てきてくれないんです。ベッドから一歩も。」
「えっ!?」
マダムは信じられないという顔で、あたしを見た。
「本当なんです……。ずーっとすねてて。」
ジリーはまじまじとあたしを見ていたが、やがて腕組みをして、何度もうなずいた。「出てこないだけならまだいいんです。何もないなら!でも、仕事の締切りが迫っていて!エリックは一小節もスコアを仕上げていないんです。このままだと、彼の作曲家としての信用が………。」
「そうだったの……。」
マダムは優しくあたしの肩に手をかけた。
「あなたも大変ね。でも。」
不意にマダムは深刻な顔になり、分厚い新聞の束を見せた。
『スクープ!作曲家エリック氏が××××××で×××××!××××!!』
『オペラ座支配人が語る、エリック氏は△△△△△△!◆◆◆◆!!』
『これが真相!!エリック氏の☆☆☆☆☆!!!』
思わず笑ってしまうような内容から、とても活字にできないものまでがパリ中の新聞すべての一面を飾っていた。
目を通したとたん、あたしの顔からざーっと血の気が引いた。
「どうしてこんなデマが!?エリックが知ったら…!」
一瞬、彼をベッドからおびき出すには絶好のエサなどと、悪魔的な考えが浮かんだが、却下した。
「まったくね。事の発端は彼にあるけど、ひどすぎるわ。」
マダムは溜め息をついた。彼女はあたしの向かいに座った。
「デタラメをなくす一番いい方法は、エリックがちゃんと出てくることだけど、どうしても駄目?」
あたしは力なく、首を振った。
「駄目なんです………。なだめて、おだてて。最後に、『出てきてくれたら、キスしてあげる』って言っても頑として聞いてくれないし……。」
「キス?」
マダムは怪訝な顔をした。
「え?いえっ!」
慌てて口を押さえたが、顔が真っ赤になってしまった。『キスしてあげる』と甘く囁いたとき、彼の頭が毛布から顔をだした。
しかし、それは2、3秒のことで、再び彼は毛布の住人に戻った。
「それじゃあ、足らないわ!『一緒に寝てあげる』っていわなきゃ!」
「ゑ!?」
あたしは信じられないという顔で、マダムを見た。マダムは自信たっぷりに続けた。
「メグがレッスンを嫌がったとき、『一緒に寝てあげる』っていったら、素直に言う事を聞いたわよ!」
あたしには返す言葉がなかった。
エリックはそろそろ、毛布の生活に飽きていた。指先の傷は良くなっていたし、腰や足もほとんど痛まなかった。
自分の事はすべてできる。
といって、何事もなかったように以前の生活にも戻れなかった。
作曲家はオルガンの前に座った。
それだけで、ワクワクしてくる。
「そういえば、仕事の依頼がきていたな。ええと…。」
彼はスコアボードに重ねられた楽譜を探り、まっさらのものを正面に据えた。
「締め切りは明後日か。タイトルは考えてあったんだな。」
スコアの一番上にペンを走らせ、しばし考えた。
「始まりをこうして……いや、…なおして……うーん………そうだな!」
エリックはひらめいたメロディに胸がどきどきした。
「そうだ!これだ!」
そして、確かめるためにキィに指をおいた途端、はた、と気が付いた。
「弾いたら、クリスに私が起きてきたことがばれてしまう…………!」
彼はガックリと肩を落として、席を立った。
そして、イライラと部屋中を歩き回った。
指が鍵盤を求めてウズウズしている。ちょっと気を許すと、勝手に動き出しそうだ。
「なんとかしたい、なんとかしたい、なんとかしたい、なんとかしたい。」
呪文のごとく呟いていたが、ふいに彼はポンと手を打った。
「何も自分から出ていく必要はない。クリスが出てきてって私に頼めばいい。それで私が渋々とでていけば、すべて思惑通りだ。そうすれば彼女は……。」
エリックは甘く囁かれた言葉を思い出した。
『キスしてあげる』。
そして、どこがいいかなぁと考えて、ポッと顔を赤くした。
毛布に潜って、待つこと30分。ついにエリックの待ちごかれた人が帰って来た。ドアが開き、コツコツと足音が近づき、毛布のすぐ外で止まった。
「エリック、具合はどう?」
彼は無言のまま、声の主に背を向けた。そして次の言葉を待った。
思った通り、彼女は彼の肩に手をのせ、懇願した。
「出ていらっしゃいな。あまり寝てばかりでは体に悪いわ。少しだけでもそこを出て、散歩にいったら?気分もよくなるわよ。」
ふと、いつもと声が違うと、思いもしたが、クリスティーヌ以外がこの部屋にくるはずはなかったし、気のせいだと彼は思い直した。
「エリック………聞いてる?」
エリックはもちろん、答えなかった。
ふっと溜め息が彼女の口からもれた。少したって、もう一度溜め息がもれた。ぎゅっと、彼の肩がつかまれたと思うと、彼女はエリックの耳の辺りに唇を寄せた。
「出てきたら、キスしてあげるわ。一緒に眠ってもいいわ。」
この言葉に怪人はドキンとした。
思わず声を上げた。
「本当に!?」
声は甘く優しく返って来た。
「本当よ。約束するわ…………エリック。」
ドキッ!ドキッ、ドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキドキ……ドキ………ドキ……………ドキ。
やっとの思いで、怪人は胸の高鳴りを押さえこんだ。そしてもつれる舌を必死に動かして、声を出した。
「君がそこまで言うなら、出てやってもいい……よ。」
エリックは、再び激しくなった高鳴りを懸命に押さえて返事を待った。
「いい子ね…じゃあ、目を閉じて………。」
いわれた通りに彼は目を閉じた。
毛布が頭の先からおなかの辺りまでめくられた。ぎし、とベッドがきしんだ。
胸の高鳴りはピークに達していた。
怪人の顔に彼女の手がふれた次の瞬間。
ちゅっ★
待ち望んだ瞬間のはずなのに、エリックは妙な感じを覚えた。
クリスティーヌの唇はもっと柔らかではなかったか?嫌な予感を感じつつ、彼は目を開けようとしたが、そのとたん顔全体が二つのふくらみの間におしつけられた。
彼女の手が優しく彼の頭を撫でている。
悪い感触じゃない。でも嫌な予感は強まるばかり。彼女は囁いた。
「あまりクリスを困らせてはだめよ、エリック。」
エリックは反射的に顔を上げた。
「………っひゃ───────!」
そしてベッドを飛び出した。
エリックは混乱した頭を鎮めようと、オペラ座を上へとのぼった。
「一体何が起こっているんだか……。マダムとキスをしたなんて、クリスがしったら何て言うか………。」
ばれたときの場面を想像して、彼は深〜〜〜〜く息をついた。
ふと気がつくと、エリックは楽屋裏にきていた。帰り支度をしているのだろう、少女らの賑やかな声が聞こえてくる。
「ねぇねぇ、あれ読んだぁ?あの人が××××××って新聞!」
「読んだわ!でもあれって本当だと思う?」
「あたしは本当だと思うわ。××××××っていうの」
「絶対よ。ほら、この新聞の記事を見てよ。同じこと書いてある。」
「あら、私は別のものを見たわ。☆☆☆☆☆ですってよ!」
「でも………ほかの新聞でも別のことが書いてあるのよ。どれがホントなの。」
「どれも真実よ!それっぽい人だもの!」
「そうよね〜〜〜〜〜!」
「まったくね〜〜〜〜!」
「だけどいいかげん迷惑だわ。支配人さんは『宣伝になる』って言ってるけど、両親はうるさいし、友達もいろいろ聞いてきてさ………。」
聞くつもりはなかったが、ついつい耳をそばだててしまう。呆れつつ、呟く。
「××××××だの、☆☆☆☆☆だの、若い女が口にすることじゃないぞ。」
通り過ぎようとした時、ドアが勢いよく開き、少女たちが出てきた。そして、エリックに気が付いた途端「キャァッ!××××××よ!」
「いや〜〜〜ん!***だわ!」
「○○○○○○!」
悲鳴を上げながら、彼女たちはクモの子を散らすように逃げていってしまった。
「何なんだ………?私が××××××で、☆☆☆☆☆で、***?」
しばらく、エリックは合点がいかなかった。自分には身に覚えのない単語が連なっていたせいもある。ところが突然、思い当たった。
「アンドレの奴だな……!」
怪人は支配人室に向かって、足速に歩き出した。
「君はそういうが、クリスティーヌ、我々は何も知らんのだ。何度も言っているだろう?…………………まぁ君が疑うのはもっともだ。新聞記者たちとは仲よくしているからね。公演の宣伝をしてもらうときは大切な連中だ。だが、今回は一切関係なし!アンドレ君もわたしも、彼らにはひとっことも喋っていないんだから!」
オオゲサすぎるほどの身ぶり手ぶりをくわえて、フィルマンは話し終わった。話し終えはしたが、やはり落ち着かない。
「やはり、そう言われるのですね……!」
あたしは怒りで震えるのを必死で抑えて、チラリとアンドレを見た。
息をひそめてなりゆきを見ていた彼は、あわてて目をそらした。
「ねぇ、プリマドンナ、もう30分も話し合っているんだ。疑るのもこれくらいにしないか?我々は同じ仕事をする仲間だろう?」
あたしは無言のままフィルマンを見た。
そして、
「まだ終わりませんよ。…………はぐらかそうとなさるんですね?」
言葉は氷のように冷たい。
一瞬さーっとフィルマンの顔色が変わったが、すぐに元に戻った。
それから、わざとらしく肩を落としてみせた。
「参ったな。君も他の歌姫と同じく、難しい人だ。我々がこんなにも誠意を見せて話しているのに。………まあ、そういうところも魅力的だね。」
支配人たちは申し合わせたように笑った。
もちろん、聞き入れなかった。
あたしはツカツカとフィルマンのデスクに歩みより、持ってきた新聞のたばをバンと叩き付けた。
「訂正をしてください……!全新聞に!今日中に!こんなデタラメを並べられては、エリックだけでなく、オペラ座の評判も落とします!」
フィルマンは分からない人だ、と言う顔をして首を振った。
「無茶なことを言う。どれだけ金がかかるか分かって言ってるかね?…………良いじゃないか、ほっとけば。それに良い宣伝になる。オペラ座に縁のない人もマエストロの名前を覚えてくれる。仕事も増えるだろう。そう思わんかね。」
あたしはグッと拳を固めた。
「あなたたちは……………っ!」
その時、部屋の明りがフッとゆらいで、支配人たちの背後にすぅ…………っと不気味な影が立ちのぼった。
『やぁ、………支配人諸君、久し振りだねぇ。君達のおかげでわがオペラ座も素晴らしい公演を続けられる。感謝しているよ、……心から………。』
地獄の使者そのものに、声は二人に囁いた。フィルマンの顔から冷や汗が滝のように流れた。アンドレが小さく悲鳴を上げて、彼にしがみついた。
彼は背中に張りついたアンドレの手をはがすと、引きつった顔に無理やり笑顔を作った。
影に向かって、もみ手をする。
「これは………これ……は、マエストロ、今日は意外な登場のしかたですな。素晴らしい!次回の公演でご披露いただきたいほどです!」
影は音もなく二人の前に移動した。そして、見下ろした。
『………それはどうもありがとう……………。君に褒めてもらえるとは思わなかったよ。新聞記者の方々も気に入ってくださるかな?』
「ええ、それはもう!大評判になるでしょう!」
焦りのあまり声が裏返ってしまっている。
影は紳士的にしかし冷ややかに続けた。
『そうだな、彼らはとても優秀だ。どんな些細なことでも記事にしてしまう。……とても興味深い内容にね。見事な文才の持ち主ばかりだ。この私も見習わなくてはね。……しかし、記事を書くには材料が必要だ。何かいいものはないかね、ムシュウ・アンドレ?』
アンドレは気が狂ったように首を振った。
「な、何にもないです!あなたは音楽の天才なのですから、いまさら記事など書かれなくても…………」
影は穏やかに答えた。
『いいや、そうではない。人間はいろいろとやってみることだ。どんな才能が隠れているか分からないのだから。…………そうだ、このところ、新聞を賑わしているのはどんな事柄かね?』
支配人´Sは卒倒しそうなほど青ざめた。
「さっ、さあ、何でしょう!?このところ忙しくて新聞に目を通していないので……………。」
信じてください!といわんばかりにアンドレはうなずいた。
しかし声は容赦なく続く。
『いけないな。君達は情報に敏感でなければいかん。………といって、私もこのところ、時間がなくてね。………申し訳ないがここ一週間分の新聞をとどけてもらえないかね?早急にだ。何かおもしろい記事があると聞いているのだ。頼んだよ……………私はとても楽しみにしている。』
言葉の終りに影は二人に覆い被さっていた。哀れなフィルマンとアンドレは懸命に何かをいおうとしているが、ひたすら口がパクパクするだけで、言葉が出ない。影は天井一杯に広がると、にやりと笑い、言った。
『仕事が残っているので、これで失敬するよ。………ムシュウ・フィルマン、君はさっき褒めてくれたが、やはり良くないね。私の姿は………………………まるで悪魔のようだ………!』
最後の言葉だけを意味ありげに二人に囁くと、影は瞬く間に消え去った。
「エリック!」
あたしは部屋を飛び出した。
彼のとった行動は腹立たしかったが、半面ほっとしていた。
果たして、暗い廊下にオペラ座の怪人・エリックが満足そうに立っていた。
彼はあたしに気がつくと、目を伏せたが、すぐに嬉しそうに話しかけてきた。
「クリスティーヌ、私の事で支配人に抗議にいってくれたんだね?」
「そうよ、あんまりひどいんですもの!でも良かった、出てきてくれて!」
あたしは思わず彼に抱きついた。遠慮がちに彼の腕が背中に回る。
「………………あまりおまえが出てきてほしいと頼んだからね。」
仕方ないという口調で彼は言った。それからモゴモゴと口を動かした。
「なぁに?エリック。聞き取れなかったわ。」
不思議に思って彼の胸の中から顔を上げた。
見つめられて、慌ててエリックは顔を背けた。
「どうしたの?」
だんだんと彼の顔が赤くなってくる。背中の腕もじっとりしてくる。
「エリック?具合が悪いの?」
やはり答えはない。沈黙すること数十秒。ついにエリックは顔を横に向けたまま、蚊が泣くよりも小さな声をしぼり出した。
「…………出てきたんだから………キスをしてくれないか………な?」
「キス?」
今度はこっちが焦った。そして、
別にかまわないけど、今どうして?と喉元まで上ってきたとき、思い出した。『出てきたら、キスしてあげる』って約束していたことを。
エリックは、今や茹で上がったばかりのタコのように真っ赤な顔をして待っている。
つられて恥ずかしくなってしまうし、無いはずの心臓までどきどきしそう。
「クリス………はやくしないと、人が来る…から。」
エリックはぎゅっと目をつぶって、顔をよせた。その時本当に曲がり角の向こうから足音が響いてきた。
あたしは慌てて彼の顔に手をそえると、歪んだほおに柔らかく唇を押し当てた。
「え!?」
期待が外れたと言う顔で彼はあたしを見た。
なぜ?と問い返す間はなかった。
人影が角にさしかかる前に、エリックはあたしを横抱きにして、走り出していた。
地下の家に帰って、まずエリックがしたことは、作曲ではなかった。
彼は自分が何か企むときにかならず向かう机に座り、便箋にしきりに書きつけていた。
「エリック………お仕事は?まだ残っているんじゃないの?」
「仕事?ああ、………そうだったな。」
「シメキリは大丈夫?」
「うん……ちょっと……。」
「何をそんなに夢中になっているの?」
「楽しいことをしようと思ってね、……。」
彼はふり返りもせず、愉快そうに答えた。
やがて怪人はペンを置き、さも面白そうに書き上がったものをきれいに折り、封筒におさめると、封をした。
その数、10以上。パリの新聞社の数と同じだった。
「それは……何?」
いやーな予感を覚えつつ、尋ねる。
エリックはにんまりと笑いを浮かべた。
「親愛なる新聞記者のみなさまにね、ささやかな贈り物だよ、クリスティーヌ。そろそろ別の話題が必要だろうと思ってね………。」
エリックが何を言いたがっているかはすぐに分かった。あたしはめまいを覚えた。
「あのね、エリック……あなたの気持ちは分かるけど、それじゃあ何の解決にもならないわ。お願いだから、それはやめて。」
怪人はむっとして言った。
「なぜだ?おまえの気持ちがわからないな。」
「ドロ試合よ、きりがないわ。」
「なぜだ!?私は仕事を与えてやるんだ。人助けだぞ!」
あたしは拳を固めて、声を張り上げた。
「違うわ、大違いよ!エリック、やめてちょうだい!お願いだから!」
あたしは手を伸ばして、手紙をひったくろうとした。だが、指先がかすっただけだった。
怪人はイライラしながら怒鳴った。
「やめろ!これは一種の宣伝だ!支配人もそう言っている!」
ゴゴォ………。微かな地鳴り。ティーカップがかたかたと音をたてた。
「宣伝じゃないわ!あなただって本当は分かっているんでしょう!?仕返しなんてやめて!」
「うるさい!」
ズズン………ズズズ………。
「エリック、あなたにはもっと大切なことがあるのよ!仕事を忘れないで!もう時間がないのよ、仕上げなければたくさんの人に迷惑がかかるわ!」
エリックは腕を大きく振り上げた。
「やかましい!ジャマをするな!仕事などどうでもいい!私はやつらに復讐するのだ!」
あたしの中で何かが切れた。
「いいかげんにしてっ!!」
ズズズン…………!
ズズズズズズッ!
ズズズンッ!!
部屋全体が大きく揺れたと思うまもなく、オルガンがひっくり返った。シャンデリアが激しく左右に振れる。テーブルの上にあったティーカップが床に落ちてくだけ散った。
「わぁぁあっ!地震だ!」
さっきまでの剣幕はどこかへふっとび、エリックは真っ青になって叫んだ。
だがあたしは容赦しなかった。
「地震がなんだっていうの!あたしの話を聞いてっ!」
あたしは彼の腕をグイっとつかんで引っぱったが、エリックはまるで気がつかなかった。それどころが、顔色が青を通りこして真っ白になっていく。
「地震だ!地震だ!ぎゃ………!助けてくれぇ!」
怪人は悲鳴を上げながら、ベッドに飛び込んだ。振り飛ばされて、あたしは床にたたきつけられた。
「エ………エリック………!?」
オペラ座の怪人は頭から毛布をかぶり、がたがたと震えていた。
不思議なことに、地震はこの地下の家だけに起こっていた。
しかも、あたしが怒り続けている2日間、絶え間なく続いていた。
エリックは今度こそベッドから出てこなかった。
再びマダム・ジリーがあたしを部屋に招いてくれた。
「どう?」
あたしは力なく首を振った。
「もう………どうにもなりません……。もう、どうしていいのか。今日が締切りなのに、エリックは何もしてなくて………。」
「力を落とさないで………。今回は彼の責任ばかりじゃないわ。きちんと話せば依頼主も分かってくださるわ。」
マダムは力づけるように、ぎゅっとあたしの手を握った。
「………あたし、エリックがあんなに地震嫌いとは知りませんでした。もう揺れないのに、まだ心配しているんです………。」
床に目を落として、マダムはしみじみと呟いた。
「あの人にも苦手なものがあったのねぇ。」
「あんな時に揺れなくてもよかったのに。」
あたしも床を見た。マダムの手が、肩に乗せられる。
「元気を出して、クリスティーヌ。とりあえずエリックの手紙が新聞社に渡らなかったんだから………。少しは良いことがあったのよ。これからもっと良いことがあるわ。信じて……ね。」
あたしはマダムの微笑みにうなずきを返した。ノックがあった。
「ママ、クリスティーヌはいる?お客さまがいらしているの。」
メグが鈴のような声でドアを開けた。
「あたしに、お客さま?」
メグは可愛らしくうなずいて、ドアの向こうへよびかけた。
「どうぞ、入ってもいいわよ、お嬢さん。」
現れたのは、人形のように愛らしい少女だった。
「こんにちわ、おねえさん。」
アンジェリーナはあたしのほうに駆けてきたが、表情を曇らせている。
「どうしたの?アンジェリーナ、元気ないわね。」
ううん、と愛らしい天使は首を振った。そして、手に持っていたバスケットをあたしに差し出した。
「これ、おみまいです。おじさんは病気なんでしょう?おかあさまが、しんぶんをごらんになって、おしえてくれたの…。………おじさん、だいじょうぶ?おとうさまみたいに、いなくなったりし……」
アンジェリーナは最後まで言えなかった。大粒の涙がポタポタと絨毯に落ちる。あたしは少女を優しく抱きよせた。
「大丈夫よ、大丈夫…。エリックは病気じゃないの。」
「ほんと?ほんと?おねえさん、ほんとうにだいじょうぶなの?」
アンジェリーナはしゃくりあげながら、じっとあたしの顔を見つめた。
あたしはつややかな巻き毛をなでて、そっと彼女の額にキスをした。
「新聞に書かれていたことは間違いなの。心配しないでって、お母さまに伝えてね。」
「おじさんに会える?」
あたしは戸惑った。でも、このまま彼に会わせずに少女を帰すのは、あまりにかわいそうに思えた。
「そういえば、エリックがアンジェリーナに会いたいって言ってたわ。一緒に行きましょう。」
「うん!」
やっと彼女は元気を取り戻した。
もしかしたら、という淡い期待は見事にうらぎられた。エリックのベッドには毛布がもりあがっている。ゆっくりと規則正しく上下しているところを見ると、眠っているらしい。
あたしは怒りがこみあげてくるのをかろうじて押さえながら、アンジェリーナをソファーに座らせた。
「ちょっと、待ってね。今エリックにしらせてくるから。」
少女は不思議そうにベッドをゆびさした。
「おじさん、おひるねしているの?」
あたしは苦笑いして答えた。
「そうなの。でも、もう起こさなくちゃ、いいえ、起きるわ。」
“起きるわ”と言う言葉に祈りをこめた。
「ふーん、大人でもおひるねするんだぁ。ねぇ、おねえさん、あたしが起こしてあげてもいい?」
「え!?……あ………。」
あたしが答える前にアンジェリーナはベッドに向かって走り出した。
「お……じ……さん?」
そしてモソモソと毛布の中に潜ってしまった。小さなかたまりが大きなかたまりの横に行き、止まった。
「おじさん?おひるねの時間はおわりですよ、起きてくださぁい。」
エリックは呼ばれて、うっすらと目を開けた。が、見えるはずもない。
「……う………ん、クリスティーヌ……………?」
彼は腕を伸ばして、呼びかけたものを抱きよせた。彼の胸にマシュマロに似た柔らかさが伝わる。指で巻き毛を何度もすく。
「まちがえちゃダメよ、アンジェリーナよ。」
言いながら少女ははいあがって、怪人の顔の前にきた。
「アンジェリーナ?クリスティーヌ……?」
エリックはまだぼんやりしている。無理もない、この二日間ほとんど眠っていなかったのだから。少女は耳元で言った。
「アンジェリーナ!」
だが、まだぼーっとしている。愛らしい天使はちょっとの間考えていたが、
「……もう、おねぼうさんね。お仕事があるんでしょ?じゃあね、おかあさまのいつもしてくれるオマジナイをしてあげる。すぐに目がさめるよ。」
そう言うと、毛布をめくり、ベッドを出た。エリックは顔が出てしまい、眩しそうに目を細めている。
「どうしたの?」
怪訝に思ってたずねるが、アンジェリーナは振りかえらずに、しきりに口の中で何かを唱えている。
「おまじないって言ってたけど………。」
唱え終わると、彼女は仰々しくエリックの顔の前に身をかがめた。
それから、チュッ☆
「…………んわっ!」
エリックは真っっ赤な顔で飛び起きた。あたしは唖然とそれをながめていた。
「おじさん!おはようっ!目がさめたでしょ!?よーくきくんだから!」
怪人は見事にパニックに陥っている。
「おじさん、ほぉら、もう起きたんだから、お仕事しなくちゃ!」
彼の視線があたしとアンジェリーナの間を何度も往復した。だが、言葉にならない。
「はーやーくー。」
そんな彼の様子には一向にかまわず、少女は怪人の腕を引っぱって、オルガンの前に座らせた。
あたしはようやく我に返った。可愛らしい天使があたしを呼んでいる。
「おねえさん、おじさんのお仕事はどの楽譜をつかっているの?」
あたしはすかさず、白紙のものをスコアボードに置いた。
アンジェリーナはエリックの右手にペンを握らせた。
「はい、じゅんびばんたん!おじさん、お仕事がんばってね!」
なすがままになっていた怪人も、やっと正気に戻った。だが、すでに時は遅かった。
この少女の前で『いまさら仕事はしないっ!』とは、言えなかった。
クリスティーヌのまなざしも厳しい。
「どんなお歌をつくるの?できたらきかせてね、おじさん。」
どんな子供より愛らしく、アンジェリーナは笑った。エリックはただ黙って………ひきつった微笑みを返すしかなかった。
奇跡的にスコアは仕上がり、(ペンをおいた途端、エリックはまた倒れた)
エリックの信用は失われずに済んだ。
スキャンダルな記事もなりをひそめつつある。
ところが、フィルマンとアンドレがエリックの報復を恐れるあまり、支配人の仕事をすべて彼に『譲って』、フランクフルトに逃亡。
エリックは恐ろしく多忙な生活を送るハメになってしまった。
不幸はそれだけではなかった。
いろいろな新聞を読んだアンジェリーナが、エリックの元にやってきては質問をくりかえす。
「ねぇねぇ、おじさん、『×××××』って何?」
「これもわかんないの。『☆☆☆☆☆』っておじさんのこと?」
「『***』は?」
もちろん、エリックには答えれるはずもない。
アンジェリーナは彼にとって、『最も可愛らしい悪魔』になってしまった。
P.S この一件で、クリスティーヌは『なまずの歌姫』と一部の人から呼ばれた。
♪あとがきと言う名のたわごと♪
読んでいただき、ありがとうございました。
第一作とずいぶん雰囲気が違うので、戸惑われたと思いますが、いかがでしたか?
毎回エリックは大変な目に遭っていますが、どうか怒らないでくださいね。
基本的にエリックは人との触れ合いを体験出来てないと思うんです。だから、握り締めた手の温もりや、いつもそばに誰かがいる、そんな人としての幸せを、彼に与えたいと思っています。
これからも、それを胸に小説を綴ります。