「メグ、それをここへ持ってきなさい。」
「これを……?分かったわ、ママ。」
メグは言われたとおりに暖炉の上から、美しい装飾の施された小箱をあたしのベッドに運んでくれた。受け取り、そっとフタを開ける。
あの不可思議な事件が終りを告げた日から、幾度となくくりかえしてきた、儀式。たぶんこれが最後。
箱の中には、古びた仮面が収められている。それを何度もなでる。目を閉じて。こうしていると、彼との日々が鮮やかに思い出される。
「ママ、一度聞いてみたかったの。なぜ、そんな顔をするの?大切に持っているの?それは恐ろしいファントムの仮面よ。」
邪魔をされたが、怒る気にはなれなかった。ふたを閉め、メグの顔をみつめた。おそらく、今しか話す機会はない。
「そこに座りなさい。」
娘はベッド横のイスに腰を下ろした。じっとあたしの言葉を待っている。どこから話したらいいか迷う。しばらく考えて、口を開いた。
「あなたは、パパを憶えてる?」
娘は首を振った。
「あの男は、あなたが3才の時にいなくなったのよ。」 
「亡くなったのよね。ママはそれから、私を連れてあのオペラ座に住みこんだんでしょう?バレエ教師として。」
「そう。助手として雇われたのよ。あたしは生家が裕福だったから、バレエを習っていたの。コンクールで入賞したこともあるわ。その時の知り合いが、紹介してくれたのよ。」
「もう20年近くも前ね。それからどうやって、あのファントムに関わったの?」
あたしはもう一度ふたを開けて、仮面をみつめた。
「それは、あたしの人生で一番重要な事件だったわ。」
犯罪者としてね、そう言おうと思ったが、言葉を飲みこんだ。

「もう、死んでしまいたいっ!」
あたしは両手の中に顔を埋めた。とっくに枯れ果てたと思った涙がまたあふれてくる。テーブルの上には請求書が何十枚も重ねられている。利子が利子を呼んで、元金の何倍にもなってしまった、借金。払っても、払っても、終わらない。自分が作ったものなら、まだ納得がいく。しかし、すべては夫アンリと愛人の作ったものだった。
その夫も、この世にはいない。あたしを捨てて、女と逃げる途中、強盗に殺されてしまった。後に残されたものは、莫大な借金と彼によく似た幼いメグだけだった。
捨てられてから、7年。このオペラ座にバレエ教師の助手として働きながら、なんとか暮らしてきた。しかし、育ち盛りの子供と、借金をかかえる生活はもう限界だった。
あたしはこの朝、恥を忍んで支配人の部屋へ行った。
借金のあることを話し、助けを乞うた。
話が終わると、支配人は口元に穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「君の名誉のためにも、聞かなかったことにするよ。私には関係のないことだしね。…………ただし、これ以上はなしたいと言うのなら、今後の身の振りかたを考えてもらうよ。」
口調は穏やかだったが、目には軽蔑の色がありありと浮かんでいた。あたしは黙って、部屋を出た。
「死んだほうが楽かもね…………。」
ベッドですやすやと眠る、娘を振り返った。アンリにそっくりで、母親になつかない娘。この手で殺しても、心は痛まないにちがいない。
本気で考えてはいなかった。
「みなしごをだれが育ててくれるの?一緒に連れて行くしかないわ。」
本当にもう道はないかしら?と考えてみた。しかしそれは考え尽くしたことで、たった一つの望みも絶たれた今、あたしの行く先には、心中しか残されていなかった。
手の甲でぐいっと涙をぬぐった。ゆっくりとベッドに歩み寄る。そして一瞬だけメグの顔を見て、ためらわずに細い首に手を伸ばした。
「ほんの少しだけ、我慢するのよ。……ママもすぐに行くから!」
手の中にメグの命がおさまった。
まさに首を締めあげようとした時、すぅっと黒いものがあたしの腕をつかみ、難なく引きはがすと、そのままあたしを鏡の前に連れて行った。影は鏡に消えた。
あたしは自分に起こったことが理解できず、恐れと驚きで突っ立ったままだった。鏡の中から、声が響いてきた。
『まだ道は残されている、マダム。』
(何が起こっているの?)
動かそうにも体が動かない。パニックに陥りそうなのを必死で落ち着かせて、鏡をみつめた。だが、何もいない。映っているのは、顔をこわばらせた自分の姿だけだ。
『……これは失礼した。ご婦人を立たせたままだった。』
音もなく椅子があたしの後ろへ移動した。操られるように座る。
「だれ…………?」
うやく掠れながらも声が出た。声を出すことでいくらか落ち着いてきた。もう一度はっきりと言った。
「だれ?」
鏡の中の虚像がわずかに揺らいだ。あたしの声に動揺したかのように。しかし返ってきた答えは、冷静で、柔らかだった。
『私はこのオペラ座の支配者だ。』
「支配人ならムシュー・ルフェーブルがいるわ。」
『支配人ではない。私は支配者だ。闇の……ね。』
言葉の最後は悪魔的な響きがあった。あたしの心臓を冷たいものが、すぅっと撫でた。しかし気力をふるいたたせ、背筋をピンと伸ばした。鏡をにらみながら、懸命に考えを巡らせた。
(鏡の中にいるのは、尋常なものじゃない。神か悪魔か。きっと後者だわ。でも、どうしてここにいるのかしら?あたしに何か用があるの?)
そう思った途端、何も怖くなくなった。それにこれがすんだら、もう一度自殺するつもりでいる。死を決意した人間に怖いものなどなかった。
あたしは鏡の向こうを見据え、声を放った。
「あなたが何者かは分からないけど、あたしをどうするつもり?」
『マダムに手伝ってもらう事がある。』
声は調子を変えない。
「手伝い?あたしを雇うの?支配者ならそういう事もできるわね。」
皮肉すらこめられた。しかし、相手は意に介さない様子で答えた。
『その通りだ。君を雇いたい。報酬は一回につき、百フラン。仕事はいたって簡単だ。私の手紙をルフェーブルに届けてくれればいい。』
その言葉に耳を疑った。一体どこの世界にそれだけの作業に大金を払う人がいるだろう?
「信じられないわ。あなたがたとえ天使でも、信じない。」
くすっと、鏡が笑った気がした。
『もっともだ。だが、信用してもらわねば。証拠を見せよう。』
言葉が終わるかどうかのうちに、あたしの膝上に、黒い封筒と分厚い白の封筒が現れた。
悲鳴をこらえて、手にとった。黒いほうは赤い臘印が押され、白いほうは封が閉じ切れず、札束がのぞいている。
『どうだ?私と契約するがいい。』
あたしは何も聞こえなかった。目だけが札に釘付けになっていた。白い封筒の中に希望がのぞいていた。
(一回で100フラン。……………何回か行なえば、借金が返せるかもしれない。でも………。)
得体の知れない相手に、こんな条件で雇われるのは狂気じみていた。しかし断れば、無事でいられるとは思えなかった。
(ほかにどうしようもないわ。生きのびなければいけないし。)
さっきまで死ぬつもりでいた自分が奇妙に思えた。一度深呼吸した。
「契約するわ!」
小気味よさそうな声が返った。
『よろしい。ではさっそく仕事をしてくれたまえ。何か聞きたいことはあるかね?』
「契約期間はいつまでなの?次に手紙を届けるときはいつ?あなたへの連絡方法は?」
『質問に答えよう。一つ目は、目的を達するまでだ。二つ目は、来月の初め、今と同じ様に君のテーブルに置いておく。三つ目は必要無い。』
答えには有無を言わせぬ響きがあった。あたしはとりあえず頷いた。手紙を持って、立ち上がった。もう一度、鏡の向こうを見た。
「………あなたの正体を見てはいけないんでしょう?」
一瞬の沈黙があった。微かにただよう殺気。そして地獄の使者そのものに声は答えた。
『あなたは賢明だ。ファントム”の正体など知らない方がいい、マダム。さあ、行くがいい。』
あまりの言葉の冷たさに全身がこおりついた。しかし、勇気を奮って歩き出した。
「ムシュー・ルフェーブルがこれを受け取るかしら?」
呟きに、勝ち誇った声がささやいた。
『間違いなく受け取る。そして私と君の前にひれ伏すのだ。愉快だろう?マダム。』
(あの高慢な男が?)
信じがたかったが、声は予言者のごとく聞こえた。
(あたしを罵った男が、ひれ伏す?)
心の中にその様がありありと浮かんだ。あたしはニヤリと笑った。

それからの数か月は、実に楽しかった。何よりおもしろかったのは、あのルフェーブルがてのひらを返したように、あたしの顔色をうかがい、気を遣っていることだった。
予言通りにあたしたちにひれ伏している。
手紙の内容は知らなかったが、当然まともなものではないと予想していた。しかし、ビジネスと割り切っていた。“仕事”は数多くあり、支配者はその度にきちんと支払ってくれた。あたしの借金もほとんど終わっていた。あたしと“ファントム”の関係は良くもなく悪くもなかった。初めてのときと同じ様に、鏡の中から声を送る。紳士的に魅惑的に。最初のように恐ろしい言葉を発することはなかったが、言葉の奥はいつも冷たかった。“ファントム”の話の内容はいつも仕事のことだけで、プライベートにはお互い一切触れなかった。そしてあたしには一度も姿を見せなかった。姿が見えないのはやはり気味が悪かったが、いつも視線を感じていた。

この奇妙な関係が崩れる時がきた。それはメグによってもたらされた。
「ママ、大変なことが起こったのよ。御者のジェリさんが馬車ごと川におっこっちゃったんですって!幸いすぐに助けられたけど、馬は駄目だったって。彼は“ファントム”の呪いだって、言ってるの!」
興奮してまくしたてる娘の言葉に眉をひそめた。
「だれの、呪い?」
「“ファントム”よ!ルフェーブルさんに手紙が来てて、私に逆らえばどうなるか見せてやるって、書いてあったって言うの!」
その言葉は、あたしの中の何かを呼び起こした。娘は続けた。
「怖いわ!ママ!今までは変な影を見たり、声を聞くくらいで、誰も恐ろしい目には遭わなかったのに。これからどうなっちゃうのかしら?」
メグは震えながら、あたしにしがみついた。無意識に娘を抱き締めながら、あたしも自分が犯していた罪に激しい恐れを感じていた。
(あたしは彼と同罪だわ!ただルフェーブルを困らせたいためだけに犯罪に手を貸した!)
あたしは鏡に目をやった。
(もうここにはいられないわ!逃げよう!)
怯える娘をなだめすかしてベッドにねかせ、あたしはオペラ座を出た。途中何度も振り返って、誰もついてこないのを確かめ、鞄屋に入り、大きなバックを買って、急いで劇場に戻った。ノブに手をかけたとき、中から、聴いたこともないような美しい歌が流れてきた。死の恐怖さえも忘れさせるほどの優しい歌だった。うっとりしそうなのを押さえて、ドアを開けた。ベッドのそばに闇のように黒い服を着た男がたっていた。あたしは直感でそれが誰なのか知った。
「ファントム!」
男はゆっくりと振り返った。顔の半分を仮面で覆い、氷のように冷たい目をしている。口元には笑み。彼は親しげに声をかけてきた。
「だめじゃないか、マダム。娘はおまえを恋しがって泣いていた。こんなに怯えた子供をほっておいて母親失格だ。………おや、旅行でもいくのかい?」
「メグに何をしたの?」
ファントムはあたしの言葉に、意外だという顔をした。
「歌っただけだ。おまえの代わりに子守歌を。」
彼の言葉は耳に入らず、あたしはベッドに駆け寄った。言葉に偽りはなく、娘はすやすやと眠っている。とたんに緊張の糸が切れて、あたしは床に座り込んだ。魔のように黒い影があたしにかぶさった。見上げると、白い仮面が闇の中であたしを見下ろしていた。
「マダム、私との契約はまだ切れていない。ストライキかね?それとも休暇でアルルへ?あそこは君の故郷だね。」
あたしは背筋が凍りつくのを感じた。彼は続けた。
「私はご婦人を傷つけるのを好まない。特に母親はね。」     
ファントムは何もかも見抜いている。あたしに逃げ場は残されていなかった。でも悪事に手を貸すのは、もう耐えられない。だけど、生き延びるにはこのままでいるしかない。あたしだけなら殺されてもいい、しかし、メグは………。悪魔はあたしの心を見透かすようにみつめている。長い沈黙が続いたあと、彼は何かに気付いて立ち上がった。
「もう日が暮れる。パリの夕日はペルシャよりぼんやりしているな。」
窓からさす赤い光が、彼を照らしていた。
「ペルシャ?」
その瞬間一つの言葉が、あたしの中で蘇った。
“この化け物は、昔ペルシャの王様のために鏡の宮殿を作ったのよ。”
(この男は、悪魔じゃないわ!見世物小屋にいた男!)
あたしはもう一度ファントムをみつめた。不思議と恐怖が遠のいてゆき、かわりに勇気が湧いてきた。
立ち上がり、そばの椅子に座り、正面から彼と向き合った。あたしの落ち着いた表情に、男は不可解な顔を見せた。戸惑ってさえいる。
「なぜ母親は例外なの?」
突然の質問にファントムは驚いている。まじまじとあたしを見た。
「なぜ知りたいのだ?」
「あなたはあたしのすべてを知ってるのに、あたしはあなたを何も知らないもの。」
ファントムは、無表情になり、答えた。
「知ったところで、どうにもならないが。…………私にも理由は分からない。ただ、そう決めている。なぜなんだろう?」
優しく尋ねた。
「何か思い出が?」
彼は目を伏せた。
「楽しい記憶は一つもない。母は美しい人だったが、私の顔を見て、いつも泣いていた。君と同じアルルの人でね。」
「顔?」
口に出してから、あっと思った。これは禁句。彼も一番触れられたくないことだったんだろう、燃えるような憎悪が目に浮かんだ。しかしすぐに消え、見たこともない切なさが現れた。
「マダム、私は知りたい。母親は子供のためになら、人も殺すだろうか?君のように。」
あたしはぎくっとして、左袖を掴んだ。押し付けられて、ひやりとしたナイフの感触が肌に当たる。あたしはぐっと彼を見据えた。
「その通りよ。母親にとって、子供は命よりも大切な物だから。」
ふいにファントムは寂しげな表情を見せた。
「私の母にその強さがあったら…………。メグは幸せだな。」
彼はそのまま背を向けた。足速に鏡に歩き出す。そして、
「無駄話は終りだ。マダム今後どうするか一晩ゆっくり考えるのだ。」
叫ぶように威圧的な口調で言うと、彼は鏡の縁に手をかけた。
「どうして他の人を探さないの?」
振り返らずに答えた。
「…………君しかいないからな。」
胸がずきっと痛んだ。ファントムは縁の飾りをゆっくりとひねった。
「………ファントム、なぜこんな話をあたしにしたの?」
彼は動きを止めた。そしてわずかに首を向けた。
「分からない。………忘れるのだ、忘れてくれ、マダム。」
そう言った男があたしには子供に見えた。心に深い悲しみを沈めた小さな子。それは同情を引くための芝居だと、男の人はいうだろう。だがあたしは女。ましてや母親。泣いている子供の声を聞き逃すはずがない。だきしめて守ってあげたくなる。たとえ、彼が悪魔のように恐ろしい人間でも、受け入れることができる。
彼の姿を探したが、いつの間にかいなくなっていた。
でも鏡の向こうに気配がある。こっちを見ているのが分かった。あたしは鏡に向かい、言った。
「あたしの声が届いてるはずね、そのまま聴いて。あたしは旅行を中止するわ。仕事が残っているもの。」
『仕事?』
驚きと疑惑の入りまじった声が返った。
「そうよ、あなたの仕事を手伝うこと。」
『私が完全にこのオペラ座を支配し、音楽の王国を作るまで?』
「そうよ、あなたを手伝わなきゃいけないわ。」
『………言わせてもらえば、信用できないね。君は私を一度裏切ろうとしたのだから。』
声は明らかな疑いに満ちている。しかしあたしは凛と答えた。
「裏切らないわ。母親は子供を見捨てたりしないもの!」  
『子供?私が?』
あたしは笑いかけた。
「やんちゃな子供だわ。いたずらが過ぎるしね。」
ちょっといい気になりすぎた?と思ったが、彼の声は今までになく穏やかだった。
『意味が分からないね。私は君よりずっと年上だよ。』
あたしはクスクスと笑った。
「いいのよ、分からなくても。あたしは分かっているんだから!」
『私が子供?悪い冗談だ!』

こうしてあたしはファントムの“共犯者”を選んだ。あれほどこうなるのを恐れておきながら、彼の悲しみを知った途端、さっさと犯罪者になってしまったのには我ながら呆れる。でもこれが母親のしたたかさ、強さなのかもしれない。
その後、ファントムが誰かを傷つけることはなく、今まで以上に穏やかになった。オペラ座自体も彼の経営方針の指導により、(ルフェーブルは脅迫と思っているが)華やかさを増すことになった。だれもが生き生きと働いている(支配人は別として)。ファントムは事業主としても天才だった。
そうしてこの幸せは、あの歌姫・クリスティーヌが現れるまで続く。




共犯者

なぜマダム・ジリーはファントムの協力者となり得たのか??

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