あの時の割れんばかりの拍手が、今もあたしの耳に残っている。
その瞬間から、エリックは『オペラ座の怪人』ではなく『偉大な音楽家』として生きている。
「エリック、どうしてるのかしら。もう5日も会っていないわ。」
期待をこめて鏡をみつめるが、彼の気配はない。地下深く、彼の家でスコアにペンを走らせているんだろう。
「あまり無理をしないでって言っても、聴かない人だし。」
ちょっと溜め息をつく。でもそれが彼の幸せな姿だから、嬉しくもある。
「少しだけ………見せてね。邪魔はしないわ。」
目を閉じて、意識を彼に向ける。視界に鮮かなビジョンが弾けた。
ところがオルガンの上に乱雑に散らばったスコアが見えはするものの、肝心な主の姿がない。
「あれ……?どこにいったの?」
さらに意識を集中しようとしたとき、不意に覚えのある声が響いた。
「クリスティーヌ……。」
「きゃぁっ。」
驚いて振り返ると、いつのまにかエリックがあたしの後ろに立っていた。声に気まずそうな顔になる。
「どっ……どうしたの?びっくりしたわ。」
「いや……大した用事はない。おまえの姿が見えたのでね。」
エリックはさり気なく言ったが、顔色があまり良くない。
「疲れた顔だわ………大丈夫?」
いたわりを込めて腕に触れる。
「大丈夫だよ、クリスティーヌ。仕事が……少しね。」
彼は笑って、言葉を切った。決してあたしに心配をかけないように無理をしている。
しかしいつになく参っていると分かった。
窓から、明るい陽射しが差しこんでくる。香しい春の光。
「ねぇエリック、少し外に出ない?いい天気よ。」
「外へ?この真昼に?」
彼は反射的に顔に手を当てた。
あたしは彼の残った手をぎゅっと握った。
「エリック、何も恐れないで。あなたはもう『オペラ座の怪人』ではないわ………。」

半時間後、あたしたちはバスケットを持って、オペラ座を出た。
地下道を通って南の森へ。このルートを取ったのは、エリックが地下道を使いたがったせいもあるが、何よりも近道だった。
「………………。」
森に出た途端、エリックは立ち止まった。眩しげに目を細め、そしてゆっくりと息を吐いた。
「明るい……。」
柔らかい光が若葉を透かし、穏やかな風が梢を揺らしている。
微かに漂う甘い花の香り。
かつての怪人は魅せられたように、長い間立ち尽くしていた。
そしてあたしもまた、彼の心がふるえているのを、静かに感じていた。そっと寄り添った。
「クリスティーヌ、行こうか?」
やがてエリックはいつもの口調に戻ると、あたしの腕に触れて合図し、ゆっくりと歩き出した。
「待って、エリック!」
あわてて追いかけて、並んで歩く。見上げると、エリックはいつになく穏やかな顔をしている。足取りも軽い。人間として、初めて地上にあがった喜びをかみしめているのが分かった。彼は歩きながら、全身で世界のすべてを感じ、受けいれ、自分の奥深くに染み込ま
せていった。
まるで自分の闇を光に変えるように。
「ほら、クリスティーヌ。」
エリックは大木の根元に立つと、ゆびさした。
「こもれびが、これほど美しいとは思わなかったね。風に揺れるさまは歌っているようだ。」
「歌を?」
「そうだ……、こんな具合に。」
彼は即興で歌い始めた。それは思いつくままつづられた歌に違いなかったが、一つ一つのフレーズが完璧に調和し、輝きを放っていた。
エリックはあたしに手を差し延べた。
共に歌おうと。
あたしは彼の手を取り、触れ合うほどに身を寄せた。天使の声があたしを導く。初めはぎこちなく重なる声。だが、たちまち一つにまじり合い、昇華される。高く、美しく、澄みきって……。
かつてのすみか、はるかな天まで届いただろうか?………歌が…いつ終わったのか覚えていない。気がつくと、エリックは根元に座り、あたしは彼の肩に頭をもたせかけていた。
彼は穏やかな口調で言った。
「クリスティーヌ……。」
「なぁに?」
「世界は………。」
言いかけて、彼はあたしの手を柔らかく握った。そして目を閉じた。
触れあった肌を通して伝わる、彼の心。
“世界は美しいもので満ちている。そして私はそこにいる。”
(そうよ、エリック。あなたはここへ帰ってきたの。)そう言葉で伝えたかった。
かわりに彼の手を握り返した。

……遠くから…誰かが近づいてくる。
あたしは気配の漂ってきた繁みを凝視した。しかしそれより早くエリックが気付いて、身をこわばらせた。
「何者かがこっちに向かっている。」
恐れと嫌悪のいりまじった声で彼は呟くと、正確に侵入者のやってくる方向をにらみつけた。
「エリック、大丈夫よ。今日は日曜日だから、誰かが森にピクニックに来てるんだわ。」
だが怪人はあたしの言葉などまるで耳に入らず、目を離そうとしない。
「エリック、大丈夫よ。あなたは今では偉大な作曲家なんだから、何も恐れないで。」
優しく、力つけるように囁くと、ようやく彼は視線を離した。
目はあたしを見ていたが、頬はまだ緊張でピリピリしている。
その異様にひきつれた頬に手を添えたが、怪人は気づかない。
そっと、口づけした。
「ク……クリスティーヌ?」
突然の事に怪人は驚き、頬を染めた。あたしはいたずらっぽく笑った。
「あたしをちゃんと見てね、エリック。あなたの恋人を忘れないで。」
“恋人”という言葉に罪を感じないではなかった。でもかまわなかった。エリックはあたしの言葉と態度にはじめは戸惑っていたが、やがて真顔になり、言った。
「では、美しき歌姫よ、…私のあかしを、そなたに。」
怪人の指があたしの唇に触れた。その指が震えている。天使は静かに瞳を閉じた。
「クリスティーヌ……………。」
甘く重なる唇。だが切ない感触に……胸が締めつけられる。
「おまえがいれば、私は大丈夫だ…………。」
囁いて、エリックは彼の宝物を大切に抱きしめた。 
気配は確実に濃くなっていた。真っ直ぐにこちらに向かっている。
エリックもそれは分かっていたが、表情は穏やかさに満ちていた。
「訪れた人がだれでも、私たちのお茶会に御招待しましょう。」
彼はあたしの手を握ったまま、振りかえった。
「良いアイディアだ。君がいれた紅茶を味わってもらおう。お客の中に子供がいたら楽しいだろうね。」
彼の言葉が終わるかどうかのうちに、それは現実になった。
「おかあさま、こっちよ、早くきて。こっちから歌がきこえていたの!」 
愛らしい声と同時に姿を現したのは、明るい金髪と美しい青い瞳をもった少女だった。
エリックは微笑みかけた。
「ようこそ、小さな淑女………。」
だが彼の言葉は絶叫にかき消された。
「化け物!娘にさわらないで!アンジェリーナ!逃げなさい!」
少女と同じ髪と瞳をもつ女性が立ちすくんでいた。恐怖にガタガタと震えながらも、エリックをにらみつける。そしてひったくるように少女の腕をつかむと、彼女を連れて死に物狂いで走り出した。エリックは親子の消えた繁みの方を向いたまま、何も言わなかった。だが心は………。       「エリック………。」
怪人の肩が震えている。
「エリック!」
叫び声の一つ一つが鋭い破片となり、男のたましいをズタズタに引き裂こうとしていた。やっとの思いで抜け出した漆黒の闇が再び彼を飲みこもうとしている。あたしは夢中で彼を抱きすくめた。ただ、それしかできなかった。
怪人は顔を歪めたまま、必死で声を押さえていた。だが、嗚咽がもれる。
「ごめんなさい……あたしがいけないのよ…………。」
エリックの悲しみが痛みになって、あたしの心に突き刺さる。たましいが引き裂かれる。でもそれでいい。少しでも彼が癒されるなら!
不意にエリックはあたしの手を握ると、顔を上げた。怪人はいつもそうするように、あたしに微笑んだ。 
「何でもないことだ、クリスティーヌ。私は平気だ、心配するな。」
彼の心は泣き叫んでいるというのに。完璧にふだんの調子で言い、繁みに背を向けた。
あたしの胸もまた、潰れそうだった。だが、微笑みかえした。
「お茶の続きをしよう…………そうだ、ジャムを少しもらえないかね?ロシア風にしたい。」
「じゃあ、あたしも。」
あたしはバスケットを探って、ジャムを取り出した。その時、何かがエリックの後ろの繁みから飛び出してきた。
あたしは身構えた。もう悲劇は繰り返さない。エリックを守らなければ!
ところがあたしが止めるまもなく、侵入者は振りかえった怪人の手に何かを押しつけていた。
「さっきはごめんなさい!これあたしとおかあさまからのおわびです!」
怪人は驚いて、手の中の物と、目の前の人物を交互に見た。
摘まれたばかりの春の花と、愛らしい少女。
どれだけ視線を往復させても、エリックには分からないらしかった。
恥ずかしげに立つ少女の後ろに、もっと顔を赤らめた婦人が現れた。
「…………先程は、本当に申し訳ないことを………。酷いことを言ってしまって………。アンジェリーナに叱られました。『けがをした人に何てことをいうの!』って。心から、お詫びしますわ。」
婦人の言葉が偽りでないことは確かだった。誠実な瞳がそれを物語っている。エリックはようやく事態を飲みこんだ。
「お顔はいたくないですか?それって、けがをしたんでしょう?」
アンジェリーナは心配そうに、恐る恐るエリックの顔に触ろうとした。一瞬、エリックが怒ると思ったが、彼は首を振っただけだった。
それから、あたしにするように優しく答えた。 
彼の心の中で何かが弾けたのがわかった。
「大丈夫だよ、お嬢さん。あなたこそほら、指を怪我してる。痛くないかい?」
アンジェリーナは驚いた顔で指を見て、つついたりしていたが、やがてにっこりと笑った。
「へいき!こんなことしょっちゅうだもん。こないだだって、ころんでヒザをすりむいたの。でもすぐ治ったわ。」
「そうか、元気だね。」
「うん!」
母親が心配そうにエリックのひきつれた顔を見た。
「よっぽどひどい事故に遭われたんですね。お気の毒に……。」
今度こそ、怪人が逆上すると思ったが、彼の態度は和らいだままだった。
「御心配なく。これは生まれつきなのです。」
彼女は心に偽りのない表情を浮かべて言った。
「色々と……御苦労をされたんですね。」   
彼女の言葉は、当然触れてほしくない話題だった。だが、彼は穏やかな顔で答えた。怪人の中で弾けたものが光となって、彼を満たそうとしているのが、あたしには見えた。
「あなたのおっしゃる通りでしたが、今は……。」
言って、エリックはあたしを振りかえった。
「お幸せなんですね。」
と彼女は嬉しそうに微笑んだ。アンジェリーナが得意げに声を上げた。
「おじさんの恋人なんだ!」
エリックは分からないほど微かに照れて、苦笑した。あたしは頬が熱くなってくるのを気にしながら、二人に声をかけた。
「よろしかったら、一緒にお茶にしませんか?」
「ええ、喜んで。私、朝焼いたばかりのパンを持っていますわ。」
アンジェリーナがエリックの袖を引っ張った。
「ねぇねぇ、おじさん。さっき歌っていたのは、おじさんと、おじさんの恋人さんでしょ?もういちど歌ってほしいな。」
母親のほうもそれを聴いて目を輝かせた。 
「私からもお願いします。遠くからでしたが、あんな美しい歌は初めて聞きましたわ。今評判のオペラ座の方たちより、ずっと素敵でした。」
あたしとエリックは顔を見合わせた。
「その人達を見たことはないんですか?」
「残念ながら……ヴァレ伯爵さまの主催されたときに行ってはいるのですが、席がずっと後ろの方で、歌っている方の顔はまったく見えなかったのです。御名前だけは伺っているんですけど。」
あたしたちはお互いにどう答えていいか、分からなくなった。
オペラ座の人間が黙ってしまったのを見て、今度は婦人が困っている。でも、こんな愉快なことって………!あたしは音楽家の手を取って、二人で立ち上がった。
「エリック、歌いましょうよ。」
「そうだな、クリスティーヌ。」
「えっ?」
婦人はあまりの驚きに大きく目を見開き、そして頬を真っ赤にした。
「ご、ご、ごめんなさい!私ったら、何てことを!もう、私って、何て馬鹿なのかしら!」
エリックがくすくす笑っている。肘で突っついた。
「だめよ、エリック。失礼よ。」
「ああ、そうだな。すまない。」
アンジェリーナが不思議そうに眺めている。
「どうしたの?おかあさま?」
エリックはアンジェリーナを手招きした。
そして、やってきた彼女の頭を愛しげに撫でながら言った。
「あなたの名前はね、『可愛らしい天使』と言う意味があるのだよ。知っていたかい?私の恋人もね、歌の天使なんだ。これから二人の天使の歌をうたってあげよう。」
「うん!」
エリックはあたしに目配せした。
そして、エリックの唇から歌が流れ出した。
天使に導かれ、この世界で人々と共に生きてゆけるという喜びが、高らかに。

この時エリックが歌ったものは、後に『天使たち』と呼ばれ、多くの人々を魅了することになった。そして、アンジェリーナ親子との付き合いは、エリックがいなくなる日まで続くこととなった。






日曜日に 〜アンジェリーナ〜