馬車の窓のクリスティーヌに言った。
「向こうの支配人には私から話をつけてある。安心して行ってくるがいい。………それから、楽譜に細かい注意をはさんでおいた。分からないところがあれば、読みなさい。……おまえには不要かもしれんがね。」
歌姫は頷いて、それから私に心配そうに目をむけた。
「今日はもうお仕事しないでね。このところずっとですもの。少し休んだほうがいいわ。」
一瞬の間をおいてから、黙ってうなずいた。
馬車がゆっくりと動き出した。
「エリック、エリック、早く帰るわね………!」
「気をつけて。」
愛しい女が窓から顔を出す。私は軽く手を振り、馬車が見えなくなるまで、見送った。
「さて……部屋に戻るか。」
クリスティーヌは言ってくれたが、手を休める気にはなれなかった。
なぜなのか。私の中から突き上げてくるものが、熱く激しいものが、私をつねに駆りたてるのだ。歌え、歌え、と。
ゆっくりと踵を返す。裏口のドアに手をかけたとき、名を呼ばれた気がして、振りかえった。
「おじさーんっ!」
見れば、愛らしい少女が手にもった帽子を振りながら、全速力で走ってくる。不思議だが、『おじさん』と呼ばれても少しも腹が立たない。むしろくすぐったい。
「こんにちわっ!」
そのままの勢いで少女は私のふところに飛びこんできた。
思わずよろめきそうになるのをこらえて、抱きとめた。
「やぁ、アンジェリーナ。元気だね。」
「うん!」
少女はにっこりと笑ってうなずいた。
「今日はどうしたのかね?あなたのお母様は?」
彼女は自分の駆けてきた道を振りかえった。
「あのねぇ、おかあさまはお仕事なの。さっきおみおくりしたとこ。おるすばんなの、あたし。」
アンジェリーナはつまらなさそうに、寂しそうに答えた。
その口調が気にかかった。
「いつもなのかい?」
少女は私を見上げて、一瞬泣きそうな目をしたが、すぐにいつもの無邪気さを見せてうなずいた。
「へいき!なれてるもん!」
その健気さが哀れだった。この子はこのまま独りぼっちで一日を過ごさなければならないのだろうか?
何かしてやりたい、という思いが込み上げてきた。
初めての感情に戸惑いを覚える。だが、ためらわなかった。
「もし時間があるのなら、おじさんと一緒にいないかい?」
アンジェリーナは不思議そうな顔をした。
「どうして?恋人さんは?」
「クリスティーヌはお仕事でいないんだ。夕方まで帰ってこない。」
「なぁんだ、おじさんもおるすばんだったんだぁ。……あ、でも、お仕事は?じゃまをしてはいけませんって、おかあさまに言われてるの。」
私は、クリスティーヌの言葉を思い出した。
「今日はお休みなんだ。」
少女の顔がぱっと輝いた。
「じゃあ、おじさん、あたしね、いいところに連れてったげる。」
「どこだね?」
「ないしょ!」
アンジェリーナは嬉しそうに言って、私の手を引いた。

初夏を迎えた森は、春よりさわやかさと活気に満ちていた。
二人で奥に向かう道を歩いていた。
何のためらいもなく手を握り、右側を歩く彼女が分からなかった。
私の手はひからびているし、右の顔は仮面を着けていないのだ。
アンジェリーナは歩きながら、歌っていた。残念ながら、クリスティーヌのような才能は無さそうだ。
だが、ずっと聞いていたい気持ちになった。
ふいに歌がとぎれた。
つん、と袖が引っ張られた。見下ろすと、アンジェリーナがじっと私の帽子を見つめている。
「どうしたね?」
「あのね………。」
少女はモジモジしながら、自分の帽子を脱ぎ、私の帽子を指さした。
「帽子?」
私も帽子を脱いだ。アンジェリーナは恥ずかしそうに言った。
「その帽子、かぶってみてもいい?だって、羽かざりがとってもきれいなんですもの。」
「どうぞ、小さな天使。」
私は身をかがめて、彼女の小さな頭に帽子をかぶせた。やはり大きすぎた。すっぽりと顔まで隠れてしまっている。だが、その姿も愛らしい。サイズは合わなかったが、彼女は気に入ったようだ。嬉しそうにかざりを触っている。
「おじさん、もう少しかぶっていてもいい?」
「かまわないよ。」
「あ、でもおじさんの帽子がなくなっちゃうから……。これあげる。」
そう言って、天使はわたしにリボンと花のかざりの付いた帽子を被せた。ちょっと、これには戸惑った。でもアンジェリーナは満足したようだ。
「かっこいいよ。」
そう言われては、脱げなくなってしまった。
「まだ歩くのかね?」
「もうちょっと!」
少女は走り出した。
子供といえど、けっこう力があるものだ。私をぐいぐいと引っ張っていく。けれど、それも楽しい。子供のように胸が弾む。
アンジェリーナはまだ森の奥へ進む。あまりこっちは人の訪れない場所だ。壊れた井戸や、深い穴がいくつかある。
気をつけねば。
しかし、アンジェリーナは帽子で前が見えにくいのにもかかわらず、よどみなく走って行く。
「もうすぐだよ、おじさん!」
少女は嬉しそうに、前を指さした。見れば、一本の大木がそびえ立っている。おそらくその下に、彼女の言ったものがあるのだろう。
やがて、私たちは大木の根元に着いた。
「ここかね?」
「うん!ほら、ここなの!」
アンジェリーナは、苔むして半ば崩れかけた古井戸を見せた。
「これはね、まほうの井戸なの!この間おかあさまに読んでもらった本に出てくるのと、そっくりなんだもん!」
少女は瞳をキラキラさせて私を見上げた。私は笑いかけた。
「そうだね、すごい発見だ。おじさんも探していたんだが、見つけれなかったんだ。」
「すごいでしょ?」
アンジェリーナは得意げににっこりした。
私は彼女と反対側に立ち、井戸を覗きこんだ。底まではずいぶんとあるようだ。漆黒の闇に満たされている。風?が吹き上げている?冷気が私の頬をなでている。放棄されて、100年はたっているだろう。
アンジェリーナは井戸のふちに手をかけ、じっと覗いている。 
何かを待ち望んでいる表情だ。私は彼女の言う童話を知らないが、おそらくそこには妖精か、魔法使いでも井戸にひそんでいるとあるのだろう。少女の夢を壊すつもりはない。しばらく黙って付き合ってあげよう。しばらくして、アンジェリーナは首をかしげて言った。「どうして出てこないのかなぁ………。お話では、まっていればすぐに出てくるのに………。」
同意を求めるように彼女が私を見た。私も困った表情を作ってみせた。
「そうだね、どこかに出かけてるのかもしれない。……アンジェリーナ気をつけるんだ。あまり覗きこむと、危ないから。」
「もうちょっと。」
その時。
「いたっ!」
喜々と少女が声を上げ、井戸の底をゆびさした。
「おじさん、ほら!」
見ると、闇の中で何かがユラユラと光っている。
「あの光が妖精なの!早くあがってきて!」
アンジェリーナは頬を紅潮させて、片手を伸ばした。無論、光がちがづいてくるはずはない。あれは、木洩れ日の反射だ。
それより、このままでは彼女が危ない。
「アンジェリーナ、危ないよ、こっちにおいで!」
夢中になっていて聞こえていない。だが、あれ以上身を乗り出すと、確実に転落してしまう。
少女は残った手も底へ伸ばした。
「は、や、く、こっちに、来て!………きゃあ!」
アンジェリーナの体が、井戸に吸い込まれるのと、私が彼女の服を掴むのとは、ほぼ同時だった。

「おじさん!おじさん!しっかりして!」
泣きそうな声が、私の頭にガンガン響いた。
呻きたいのをこらえて、ようやく目を開けた。
声ははるか頭上から降ってきていた。
私はほっとした。逆光で顔は見えないが、アンジェリーナは元気そうだ。
「アンジェリーナ…………。あなたは怪我をしなかったかい?」
「おじさん!あたしはへいき!おじさんは大丈夫?」
「…………心配しなくていいよ。」
そう言ってはみたが、実際はしたたかに腰を打っているうえ、右足をくじいている。
アンジェリーナを助けた代わりに自分が井戸に落ちるなど、まったく考えられない不様さだ。クリスティーヌに見られなかったことが救いか。
「もうすぐ妖精がたすけてくれるわ、まってて!」 
参ったな、そんな物は存在しないのに。どうしたら、彼女を傷つけずに済むだろう。私はひらめいた。
「おじさん?」
私はわざと返事をしなかった。
すぐさま少女はくり返した。だが、黙っていた。くり返すたびに声の間隔はせまくなり、心配そうになる。胸が痛んだが、こらえた。そして彼女の声が悲鳴にちかくなったとき、私は“妖精の声”を放った。
『少女よ………。』
「おじさん!」
『いいや…、心優しい少女よ。わたしはこの井戸の底に住むものだ。』
霧のように声で井戸で満たす。厳かに、神秘的に響くこれを彼女は信じてくれるだろうか?
答えは完璧に出た。
「わぁ、妖精ね!おねがい、おじさんがおっこっちゃたの、たすけて!」
『わたしは長い間……ここから出ていないのだ………いま花は咲いているかい?見せてくれないか。たくさん、……たくさん、底を埋め尽くすほどに………。』
「わかった!すぐにつんでくるから!」
バタバタとアンジェリーナが走っていったのが感じられた。
これでいい、彼女がくるまでに、井戸を這い上がるのだ。
私はポケットを探ってみた。何か入っているはずだ。だが、出てきたのは、小さなランプだけだった。私は苦笑した。パンジャブの縄は捨てたのに、いつも地下で使っていたこのランプは持っていたとは。
私はまだ、あの闇の世界に囚われているのだろうか?だが、ぼんやりしている暇はなかった。私はランプを点け、かざしてみた。予想した通り、びっしりと湿ったコケに覆われている。
光に驚いたのか、小さなトカゲが壁を横ぎった。底へランプを向ける。濡れているのはわかっていたが、濁った水があちこちから染み出していた。
「のぼるか………。」  
私はランプを口にくわえ、指をかろうじて分かるすきまに突っこんだ。やっては見たものの、力が入らない。いまにも壁を引っかきそうだ。
しかし、こんな事でひるむ私ではない。痛む体をふるいたたせ、一歩一歩と私はのぼり始めた。
ようやく半分ほどのぼったとき、頭上から何かが降ってきた。
ひらひらと舞い落ちるものは、色とりどりの花だった。雪のように舞い、ゆっくりと闇に吸いこまれてゆく。私はアンジェリーナが顔を向ける前に、“妖精”になった。
『少女よ、まだ足りない………!』
「うん!」
彼女の気配が消えた。
これでいい。うまくいけば、彼女が二回目の花をくれると同時にのぼりきるだろう。
しかし、アンジェリーナは予想よりはるかに早く戻ってきた。
そのうえ、摘んできた花も倍だった。
「うぷっ!」
油断していた私は花の直撃を食らい、そして、もっと何かずっしりしたものを抱えて、落ちた。
今度は気絶しなかったが、ケガはひどかった。背中を打ち、左足から血が流れていた。その血がびっしりとしきつめられた花を染めてゆく。
「おじさん、しっかりして!」
アンジェリーナが私の腹の上にのっかり、揺さぶった。私は平静を装って、起き上がった。
「やぁ、アンジェリーナ。どうしてあなたがここに?」
「それがね………、いそいでお花を入れようとおもったら、つまずいちゃったの………。ごめんね、おじさん。いたかった?」
私はにっこりと笑ってみせた。
「アンジェリーナ、心配ないよ。本当におじさんは頑丈だからね。あなたこそ、大丈夫かい?」
うん、と頷いたが彼女はぎゅと、私の首を抱きしめた。私はその髪を撫でながら、自分の心臓が暖かく鳴っているのに気が付いた。
少女が離れたとき、私はすみっこに落ちていたランプを拾い、彼女に示した。思った通り壊れてはいなかった。
「見てごらん、魔法を見せるよ。」
言葉の終わらぬうちに、ぽっと明りが点った。
「わぁ、すごい!」
私は囁いた。
「これはね、遠い国で魔法使いの弟子たちが作ったんだ。あなたのことを知ってるよ。話しかけてごらん。」
アンジェリーナは目をきらきらさせて、口を開いた。
「こんにちわ、ランプさん。」
一瞬あって、光が答えるように点滅した。
「光でおしゃべりするのね!」
再び点滅。私はそれを彼女に渡した。手元に無くても、操るのは簡単だ。彼女がそれに気をとられている間に、私は自分の傷を調べた。
背中から腰にかけてひどくぶっているが、骨は折れていない。右足も動かすのは辛いが、挫いただけだ。だが、左足のくるぶしの上を切っている。大きくないが、深い。まだ血が止まらない。
シャツを裂いてきつく巻きつけた。 
「あっ!きえちゃったぁ。」
アンジェリーナは首を傾げながら、ランプを私に見せた。受けとって、調べると、オイルが無くなっていた。私はランプを耳に寄せて、彼女を見た。
「君と遊べて楽しかったよ。ちょっと休憩するね。って、言ってる。」
彼女は羨望のまなざしを向けた。
「おじさんは、お話できるんだ。」
私はウィンクした。
「ずっと友達だからね。…あなたもいつかできるよ。」
「ほんと?うれしいな。」
少女はニコニコしてランプを撫でた。
ふと、彼女は顔を上げた。
「妖精は?どこにいったの?」
「さあ………さっきまではいたんだがね……。」
アンジェリーナはきょろきょろと辺りを見まわしたが、不意に私にしがみついてきた。不安そうに呟く。
「おじさん、ここは暗くて、さむいね……。妖精はどこにいっちゃったのかしら。早くここから、でたいな………。」
私はうなずきながら、彼女を暖めるように痛む膝の上にのせ、柔らかく抱きしめた。
「もうすぐ戻ってくるよ。」
「はやくきてほしいな………。」
疲れが出たのだろう、そのままアンジェリーナは眠ってしまった。
子供とは暖かいものだな、と思いながら、私は思案をめぐらせた。
時間がどのくらいたっているのか分からないが、井戸のうえに広がる木の影の具合から、たぶん今は午後の1時か2時くらいだろう。
しかし、長居はできない。今は敷きつめられた花が防いでくれているとはいえ、いずれ水が染みてくる。もともと冷たくうすら寒いところで体が濡れては、いくら私でも辛いし、アンジェリーナにはなおさらだろう。それに……闇が……私を懐かしそうに呼ぶのだ。“オペラ座の怪人”と呼ばれていたころ、愛した闇。私の醜さを隠してくれる闇。私そのものの………闇。
漆黒を見つめていると、かつての獣が私の中から蘇ってくる気がする。いや…………仮面さえ手にすれば、闇の支配者が復活するだろう。
誘われるようにゆっくりと手を伸ばした。   
「おじさん………?」
その時、眠そうに目をこすりながら、アンジェリーナが目を覚ました。
「妖精は?」
私は冷たく首を振った。
「いないの?」
信じられない、という顔で彼女は私を見あげた。私は唇を噛んで、目をそらした。
憎しみと羨望が奥深くから、ふきあげてくる。
この娘はどうして、こんなにも美しい肌を持っているのだ?
なぜ私はこれほど醜い?
「もどってくるかなぁ………。」
心細げに呟いて、少女は私を見た。
闇が私の中にしのびこみ、支配する。
「戻ってこないよ………。」
私は無意識のうちに手をアンジェリーナの頬に当てた。
「私が化け物の顔だから…………………。」
そして、手を彼女の首元へ滑らせた。
アンジェリーナはきょとんとなった。
それから暗い中、目を凝らして私の顔をジーッと、見た。
一通り眺めて、すくっと立ち上がると、可愛らしく両手を腰に当てた。
「おじさんは、しらないの?男は顔じゃないのよ。中身で勝負するの。…そう、おかあさまがいってたわ。」
呪縛が一気に解けた。
私は何をしていたんだ?アンジェリーナを殺すつもりだったのか?
どうにも否定できない事実に心臓が凍りつく。
私は些細なきっかけで、あの気違いじみた世界に逆戻りしてしまう。
死ぬまで逃れられないのか………?
どうか私を救い出してくれ………!
震える声でたずねた。
「あなたはどう思ってる?」
天使は小首をかしげた。
「うーんとね、よくわかんない。………でもね、おじさんは好き。優しいし、お歌がじょうずだから!」
その時、私は自分の目の前にいるものを改めて見た。この弱々しく暖かいものが、私に今を思い出させてくれた。   
憧れてやまなかった、光の世界。そして、私を受け入れてくれる、少女。愛しいクリスティーヌ。そこに怪人は生きている………!
私の奥底に何があろうとも、もう二度と戻りはしない。決して。
「それとねぇ……。」
ふいに天使は抱きついてきた。
「おとうさまみたいに、あったかいな!」
彼女の小さな体をうけとめた。苦しいほど抱きしめたいのを、私はぐっとこらえた。 
空を見上げると、眩しいほど美しい世界が私を待っていてくれた。
私は“最後の妖精”を演じた。
『少女よ、たくさんの花をありがとう………。こんな素晴らしい贈物ははじめてだ。………君の望みをかなえよう。言ってごらん……。』
彼女は声の聞こえたすみっこの影を見た。
「きゃぁ、妖精がかえってきた!………おねがい、ここから出して!」   
アンジェリーナは声に向かって叫んだ。
私は心をこめて、囁いた。
『では……目を閉じておくれ、愛しい子………。』
少女は素直に目を閉じた。私はそっと彼女の耳にくちびるを寄せ、昔やったように声を使って眠らせた。
それからシャツを裂いてひもを作り、アンジェリーナを背負うと、しっかりと自分にくくりつけた。一度目より、はるかに条件は悪かった。
だが指先から血が流れても、挫いた足が悲鳴を上げようとも、のぼり続け、長い苦闘の果て、私は井戸のふちをしっかりと掴んだ。
最後の力をふりしぼって、体をもち上げようとした。ところが、もう体が言うことをきかなかった。そのうえ彼女を結びつけいていたひもが緩んできた。
「……落ちては………だめだ………っ!」
彼女の体がずるずると、滑り出した。片手で少女をつかんだ。
「だめだっ!」
叫びが井戸に吸い込まれる。
だが、ついに私は力つきた。二つの体が宙に舞った。その時。
『さらばだ。』
ふっと体が浮き、次の瞬間には外に放り出されていた。私は何が起こったのか分からなかった。
顔を上げて井戸を見たとき、もろかったふちが揺れ、あっという間に内側へ崩れてしまった。
後にはポッカリと穴だけが残った。
「なぁに………?なんの音?」
アンジェリーナの術が解けた。彼女は緩んだひもを外して、私の背から抜け出ると、井戸だった穴を覗いた。私はそのすきにひもを始末した。
「くずれちゃったよ……、おじさん。」
彼女は残念そうに、そばにきた私を見あげた。
私は黙って彼女の頭に手をのせた。
「妖精が、おじさんにおやすみって言ったよ。」
「ねちゃったの?まだお昼なのに……。」
「また百年たったら、会おうって。」
アンジェリーナはしばらく底を見つめていたが、やがて闇に向かって言った。
「おやすみなさい………。ねがいをかなえてくれて、ありがとう。」
それから近くに咲いていた花を手折り、静かに投げいれた。
花の行く先を追いながら、私は考えていた。
『さらば』と言ったあの声は、だれだったのか?私たちを助けた力は何なのか?本当に妖精が存在したのか、それとも、私が訣別した闇の仕業なのか?答えは永久に分からないだろう。
「おじさん、ひどいどろだらけ!」
彼女の声に我にかえった。いや−な予感を感じつつ、あらためて自分を確かめた。
左足の血は止まっていたが、あまりの泥まみれ、ずたぼろの服に言葉がなかった。
「これは参ったな。」
「早くおうちにかえって着がえたほうがいいよ!」
うちに帰れって言われても、この格好を人に見られるのは……。
「ほら、は−やく−。」
アンジェリーナは私の背中をぐいぐい押した。
「ちょっと、………待ってくれないかね、このままでは……。」
躊躇する私を見て、彼女ははっとした。 
「わかった、おじさんは顔を見られるのが、はずかしいんでしょ?しんぱいしなくても、だいじょうぶ!帽子でかくせばいいんだから!」
わかってない……。
だが、…………………………………………せっかくの好意だ。
「そうしよう。おじさんの帽子はどこにいったかね?」
天使はきょろきょろと辺りを見た。そして大木の後ろに走って行った。戻ってきた彼女の手には、リボンと花の帽子が握られていた。
「………あの……私の……は……?」
「ごめんなさい……おっこちた時になくしちゃったみたい。だから、あたしの帽子をあげる!」
しょげて、泣きそうな少女の申し出を受けないわけにはいかなかった。私はいいよと、ひきつりそうに笑って、彼女の頭を撫で、帽子をかぶった。
「うん、やっぱりかっこいいよ、おじさん!」
ようやく元気を取りもどしたアンジェリーナは、天使の微笑みを見せた。
帰り道の途中で、アンジェリーナは私がみっともなくないようにと、服のあちこちを花で飾ってくれた。
しかし、………やっとオペラ座に帰り着いた時、早めに仕事を終えたクリスティーヌと、ハチ合わせる羽目になってしまうとは予想もしていなかった。



    





        indiraより
「まぼろしの日々」を描いてしまってから、不抜けていたんですけど、やっぱり描きたくなって描いた復帰一作目。

妖精の森