花嫁奪還vs愛娘奪還vs愛娘奪還





ヴェネチア。総督府宮殿内、ヴェンドラミンの寝室。
新婚一日目の朝、買い換えたばかりのダブルベッドには、二人の人物がシーツにくるまっていた。
差しこむ朝日に一人が目を覚ました。この部屋の主、アンドレア・ヴェンドラミンである。
「おはよぉ・・・・・アナベラ。儂の奥さん・・・」
とろんとした目で、傍らのシーツのふくらみを揺さぶる。
だが、荒い寝息が響くだけで一向に起きる気配がない。
「アナベラ?おねぼうさん。起きてくれないなら・・・・・」
新婚さんのお約束と言えば、『おめざめのキス』。ヴェンドラミンはゆっくりと身を起こすと、そーっとシーツをめくるやいなや、力強く抱き寄せた。
が、唇がふれる一瞬前に本能がそれを阻止した。
絶叫が上がる。
「なぜ、おまえがここにいるんだ!シルヴェストロ!」
「ん〜?」
ヴェンドラミンの腕の中にはアナベラの養父であり、ヴェンドラミンの義兄のシルヴェストロ・ダンドロがいる。
ヴェンドラミンは飛び退くとベッドから出ようとした。だが、動けない。
「おや?おもったより腕が太いねぇ、アナベラ・・・」
ダンドロは目を閉じたまま、ヴェンドラミンの腕を掴み、しつこく撫でている。
「離せ、離せ!」
ところが、この男、意外と力が強い。ヴェンドラミンはアリ地獄の巣に落ちたようにずるずると、ダンドロの腕の中に収まってしまった。
「アナベラ〜アナベラ〜可愛い娘〜♪これからもおとうさまと暮らそうねぇ♪」
ごつごつしたひげ面にほおずりされて、ヴェンドラミンの全身に鳥肌が立った。
「ひぃぃっぃぃぃぃぃぃぃぃ〜!」
叫びながらも腕をさまよわせると、ベッド横のテーブルにあった水差しに手が触れた。
必死で掴むとダンドロめがけて中身をぶちまける。
「おや?うわぁぁぁっ」
全身ずぶぬれになって、ダンドロはベッドから転げ落ちた。
「何でおまえがここにいるんだ!アンドレア!」
「それはこっちの台詞だ。アナベラはどこだ?」
「あの子は・・・・」
「あっ」
同時に声が上がった。昨日の記憶がもどると共に、二日酔いの気持ち悪さも強烈に復活した。
結婚式で、この男たち、奈良漬けになるほど呑んでいる。が、やっぱり年には勝てない。
ヴェンドラミンとシルヴェストロ、まとめて床につっぷした。
「は、吐きそうだ」
「頭が・・・割れる・・・」
アナベラがそばにいてくれたら、とにかく駆けつけてくれるだろう。
と、ここまで夫と養父は考えた。
そして、『ヴェンドラミン様、しっかりなさってください。あたしがずっとそばにいます。もう、あなたの妻ですもの』と言ってくれるだろうと、ヴェンドラミンはほくそ笑み、『ダンドロ様、しっかりなさってください。あたしがずっとそばにいます。もう、夫の元には帰りません』とダンドロは想像して、にんまりとした。
だが、可愛いアナベラはいないのだ。
それもこれも。
男たちはお互いをみつめて、大きくため息をついた。
アナベラは今、ダンドロ夫人、フアナ・デ・アレ・カスティーリャ・ダンドロの館にいる。館の場所も判明している。窓から見えるジュデッカ島の中ほど、レデントーレ教会の裏側だ。対岸へ行き、島を縦断して館へ行くのが最短距離だが、鉄壁を誇るカスティーリャ・ロッソを相手にすんなりと奪還できるとは思えない。よって、島の半分まで迂回して救出することになる。
だが、この館の主の怒りを買えば、ヴェネチアなど一瞬にして崩壊するだろう。
たとえヴェネチアの総督だとしても。
「う〜」
お互いに考えも浮かばないまま、時間が過ぎた。
気持ちを入れ替えようと、よろよろと立ち上がり、ヴェンドラミンはサンマルコ広場に通じる窓を開けた。
とたんに嵐のようなざわめきが総督を包んだ。
「閣下、総督閣下、がんばってくださぁい!」
「信じていますっ!奥様を取り返してぇっ!」
「ヴェンドラミン様、アナベラ様が今か今かとお迎えを待っていますよ〜」
広大な広場を何千もの市民が埋め尽くし、口々に叫んでいる。
圧倒されて、ヴェンドラミンはよろめいた。
そして、はっとなった。
「儂はなんと情けない男だ。アナベラ、許してくれ」
無論、いまでもフアナは恐怖の対象だ。だが、そんな事に負けないくらい、アナベラを愛しているっ。
別人のようにきびきびと動き出したヴェンドラミンを怪訝に思って、ダンドロも窓辺に立った。
養父も同じ光景を見た。
だが、広場の片隅で行われているイベントも見逃さなかった。
大きな黒板に自分ともう一人の名前が記され、それぞれに数字が書きこまれている。
一人の男が黒板の前の男に耳打ちすると、さった数字が書き換えられた。
ポケットから双眼鏡を取り出し、じっくりと文字を追う。
殴り書きで『麗しきアナベラを取り返すのは誰か?ダンドロorヴェンドラミン?』
名物トトカルチョである。
今のところ、9対1でヴェンドラミンに圧倒的な人気が集まっている。
音もなく、ダンドロに黒いしっぽがはえた。二日酔いもどこかへ吹っ飛んだ。
「そうか、私の実力を知らないな・・・」
ドアの閉まる音がして振り返ると、ヴェンドラミンがいなくなっている。ダンドロも急いで部屋を出た。
総督府宮殿を縦断し、C・D・X本部へ向かう。
ところがドアの前に来ても中は静まりかえっている。常時30人は詰めているはず。
張り紙があった。
『大変申し訳ございませんが、本日は臨時休業とさせて頂きます』。
「臨時休業だと?世界最高の情報機関が?」
我が目を疑った。だが、はたと思い当たった。
昨日の総督の結婚式を邪魔するために、全世界に散らばった部下を強制的にかき集め、反対派の連中と渡り合ったあげく、全員が飲み潰されたのだ。従って、きょうは一人残らず、二日酔い。
この経過の詳しくは、前話『掠奪された総督の花嫁 あるいはヴェネチア一往生際の悪い男』を参照されたし。
「こいつらがあてにならないとなれば・・・」
打つ手は、まだある。
きびすを返すと、港に急いだ。
広場に面したゴンドラ乗り場は何百もの市民であふれかえっていたが、ダンドロが姿を現すやいなや、左右に分かれた。
「ダンドロ卿!ダンドロ卿!我々を裏切らないでください!」
「総督に負けないでー!」
人々の激励を浴びて突き進んで行くと、舳先に銀の天使をつけたゴンドラが彼を待っていた。
水平線に目をやれば、少し先をヴェンドラミンのゴンドラが走っている。
ダンドロは乗りこむと、大きく手を振り上げた。
「君たちの期待は決して裏切らん!」


同じ頃、ジュデッカ島。フアナの館『深紅の竜』。海に面した三階の部屋。
「ああ、アナベラ、どうか分かっておくれ。あたしはただ、あなたと一緒にいたいだけなんだよ。お願いだ、ずっとここにいておくれ」
フアナはうろたえてアナベラに話し続けている。
しかしアナベラは涙声で答える。
「いいえ、おかあさま、あたしはもう、ヴェンドラミンさまの妻なのです。この身も魂も何もかも、あの方のもの。どうか、帰してください」
これが昨日、フアナがアナベラを連れ出したときから繰り返されている。ほぼ半日は続いているわけだが、フアナは執念深さから、アナベラは愛の深さからお互いに平行線をたどっている。
ついにフアナは肩を落とした。
「ちょっと、休憩しようね。でもね、もどってきたらもう一度話しをしよう。ね、アナベラ」
「でも、あたしの気持ちは変わらないのです。ごめんなさい、おかあさま・・・」
アナベラの言葉に寂しげな微笑みを浮かべ、フアナは部屋を出て行った。
がちゃりと鍵のかかる音がした。
「もう、どうしたらいいのかしら」
途方に暮れて窓の外を見やる。教会越しにジュデッカ運河を挟んでサンマルコ鐘楼が見える。その横が総督府宮殿。あそこには愛しいアンドレア・ヴェンドラミンがいる。
「昨日はあんなにお酒を召し上がっていたわ・・・。お体は大丈夫なのかしら」
力なく窓辺に寄りかかり、ふと眼下に視線を落とすと、見慣れないゴンドラが屋敷のすぐ横の小運河に係留されている。男たちがこちらを見上げていた。屋敷の壁になじむ色のマントをはおっているが、この二人をアナベラは知っていた。
こっそりと手を振った。
「おい、あそこにいらっしゃる。気がついてくださった」
ダンドロ腹心の部下、ニコロが小声で囁いた。傍らの男は手にした薔薇の花束を注意深く腰につけた。ニコロが怪訝そうにのぞく。
「何を持っているんです?あ、奥方様を慰めようと?」
とんでもないという顔でナーディル・カーンの腹心の部下、パオロは首を振った。
「・・・・これは海戦用の武器だよ。まだ実験段階だけど持ってきたんだ。見かけは花だけど、海水に溶けるとゼリー状になり、一秒間に三乗の割合で体積が増える」
「あっという間に巨大なクラゲができあがると?・・・そうか、船なら足止めになりますね。でも、それだけ体積があるなら沈んでしまいませんか?」
パオロはちょっと得意げになった。
「増殖しながら空気を取りこむんだ。だから最低30分は浮かんだままだ・・・・・、あ」
パオロはいささか時間をとりすぎたと恥ずかしくなった。いまは別の目的がある。
足下のロープを肩にかけた。
そして、頷いた。
「よし、準備OKだ。ニコロ、一分でお連れするから、船の用意を頼む」
パオロはロープを肩に担ぐと、あっという間に壁を登っていった。
この青年将校はロッククライミングも得意としている。(まじめだから、夜這いはしない♪)
30秒でアナベラのいる部屋に入った。恭しく頭を下げる。
「奥方様、お迎えに参りました」
ホッとしたが、ためらいつつ言った。
「准将、こんな事をなさっては、あなたのお立場が・・・」
パオロは肩をすくめて見せた。
「私の武勇伝の一つになります。さぁ、宮殿にもどりましょう。ヴェンドラミン様がお待ちかねです。・・・・御身にふれること、お許し下さい」
アナベラが頷くのを見届けて、すばやく柱の一本にロープを結びつけた。パオロは彼女を抱き上げた。
それから自分とアナベラにロープを巻きつけると窓に足をかけた。
「目を閉じていてください」
ふわっと身体が浮いた気がした。と思ったらもう地上に着いていた。
ニコロが跪いていた。
「ヴェンドラミン夫人様、船が用意されております。こちらへ」
「はい」
さっと立ち上げると、ニコロは小運河へアナベラを連れて行き、隠してあったゴンドラに乗せた。あとから来たパオロはさらに奥へ進む。見ると、別にもう一隻が浮かんでいた。
「パオロさん、先に行きます。後方援護を頼みます!」
「まかせとけ!」
アナベラとニコロをのせたゴンドラが、滑るように運河を走った。
このまま島にそって進み、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島との間を抜け、ジュデッカ運河へ入る。そのあとはサンマルコ広場まで一直線に漕げばいい。問題は潮の満ち引きだった。こちらへ来るときは引き潮だったが、今もそれに近い。まもなく変わるはずだが・・・。
「あの方は、ヴェンドラミンさまは、お具合が悪そうではなかったですか?最後にお会いしたときは、ひどく酔っていらしたわ」
問われて、ニコロはすまなそうに首を振った。
「奥方様が行かれてから、ダンドロ卿と総督閣下を部屋にお連れしましたが、そのあとは・・・・。我々はすぐにこの救出計画に取りかかったので・・・」
「そう・・・」
アナベラは目を伏せた。不安が顔に出そうになるのをぐっとこらえる。
「仮に二日酔いだとしても、奥方様がお帰りになれば、すぐに元気になられますよ」
わざと陽気に振る舞い、背後のパオロを振り返ったときだった。
『深紅の竜』から警報が鳴り響いた。


銀の天使のゴンドラが金の天使のゴンドラに追いついたのは、まもなくだった。
ヴェンドラミンの背中を睨みながら、ダンドロはにやーっと笑った。
計画はすでにできあがっている。
スピードを上げ、ゴンドラを並べると、声を張り上げた。
「おーい、アンドレア、置いてきぼりはあんまりだよー!そんなに急ぐと落っこちるぞー。おまえはカナヅチだろう?」
悪びれた様子など微塵もなく、ヴェンドラミンは振り返った。
「夫が妻を迎えに行くのだ。おまえは関係ないだろう?あ、こら!」
話しの終わらないうちに、ダンドロはヴェンドラミンのゴンドラに乗り移った。すーっと主を失ったゴンドラが流されてゆく。
「つれないなぁ。僕はアナベラの父だよぉ」
目をきらきらさせながら、ねこなで声を出す。
「おまえの魂胆などお見通しだからな。儂より先にアナベラを助け出して、館へ連れ帰るつもりだろう?
そうはいかんからな。あれは儂の妻だから!」
もちろん、図星。だが、ダンドロはしおれた花のようにうなだれた。
「ああ、そうだよね、昨日までの僕を見ればそう思うのは当然だ、よ。でもね、アンドレア、僕は君がどれだけアナベラを愛しているか、知っているし、あの子も同じ気持ちだって、知っているよ。君のそばにいることがあの子の最大の幸せなんだって、ようやく、ようやく、ようやく分かったんだ!僕はアナベラを愛している。だが、愛する娘の幸せを願わない親はいないだろう?だから、君に全力で協力しようって、神に誓ったんだ!ああ、昨日までの僕は本当におろかだった。許してくれ、アンドレア!」
明らかにヴェンドラミンの心に響いたようだ。目元がにじんでいる。
我ながら名演技!と心の奥でにんまりしたが、最後のとどめも忘れなかった。
優しくヴェンドラミンの肩を抱き、ジュデッカ島にそびえる館を指さす。
「今まで我慢してきたが、今度こそ、フアナにガツンと言う!いいな、アンドレア、僕にまかせとけ、絶対にアナベラは取り返してみせる!」
『フアナ』の名前が出て、ヴェンドラミンの顔色が変わった。蚊の啼くような声でごにょごにょと言う。
「・・・おまえだけに、任せるのは・・・・・」
すかさず人差し指を口に立て、ダンドロは頼もしげに言った。
「分かっているよ、君がフアナを苦手にしてるのは。だからこそ、任せてほしいんだ!何たって、僕は夫なんだから!」
立派すぎる態度に後光が差している。ついヴェンドラミンは頷いてしまった。
そして、ダンドロは勝利の雄叫びを上げた。
「よし!館に着いたら、あとは任せてくれ!それまでは君の仕事だ!がんばって漕ぐんだー!」



「お待ち!アナベラをお返し!」
サン・ジョルジョ・マッジョーレ島まであとわずか。ここを抜ければジュデッカ運河へ出られるというときに、船体を真っ赤に染めたゴンドラが大船団でせまってきた。先頭は竜をいただく船。必死の形相で剣を振りかざしているのは、フアナ。
ニコロはあらん限りの力で船を漕ぐ。もともとスピードを重視した特別艇であり、辛うじて逃れている。
だが、振り返ればパオロがすこし遅れている。彼の船も同じ仕様だが、軍人とはいえ、やはり慣れない人間にゴンドラは難しいのか?いや、とニコロは考え直した。パオロの操船が素人ばなれしているのは、行きに確認している。なら、なにか考えがあるのだ。
パオロがマントを指さした。
「な、んですか?」
続いて自分とアナベラを交互に指さした。そして、ちらりと腰にぶら下げた白薔薇の花束を示す。
ニコロは瞬時に理解した。
「奥方様、これから船が大きく揺れます。私が合図したら伏せてください」
「は、はい、でも何を・・・・・?」
アナベラの危惧を察しで、ニコロは穏やかに笑った。
「お館さまが危険な目に合われることはありません。ちょっと一休みして頂くだけです」
ニコロは振り返った。
パオロが花束をむしり取った。
赤いゴンドラに向けて投げる。
ぽちょりと落ちて、波に揺られる。
「な、なんだい?花なんか投げて?」
フアナは怪訝そうに、目の前をたゆとう花を凝視した。
「ニコロ、離れろっ」
「伏せてくださいっ」
パオロが叫ぶのと同時に花はゆっくりと沈み、そして大音響がひびき、白煙が上がった。
白煙は数秒間、敵とこちらを遮断した。
「おかあさま、パオロ准将!」
アナベラが身を乗り出して背後を探ると、パオロがマントを裏返して羽織り直し、素早く反対方向、すなわちリド島に向けて船を走らせていた。マントの裏地はアナベラのドレスと同じ色合いに染めてある。
もちろん、金髪のカツラも忘れない。
気がつくと、アナベラはニコロのマントを掛けられていた。
「おかあさまは?」
だが、ニコロは白煙が消える前に船を走らせていた。だが、さっきより速い。
潮の流れが変わり始めていた。
ようやく追っ手から遠く離れた頃、ニコロは言った。
「パオロさんが投げたのは、水に溶けると周辺の水分をどろどろにして、船の動きを封じこめるものです。効果はおよそ30分ありますから、奥方様がお屋敷につくまで、フアナ様はあのままです」
ほっとしながらアナベラが遠くを見ると、言葉通り、赤い船団は微塵も動かない。
ただ、わめき声だけが潮風に乗ってくる。
前方に目を向けると、小さく、だが決して見間違えることのない人がこちらに向かってきていた。
「ヴェンドラミンさまっ!」


「あ、あれは、シルヴェストロ、アナベラだっ!」
はじめこそ勢いよかったが、慣れない船こぎでそろそろ倒れかけていたヴェンドラミンは、ようやくアナベラ姿を見つけた。
「どこだ?あ、あそこにいる、ニコロがやったのか。よくやったぞ!」
ダンドロは立ち上がると、ヴェンドラミンを押しのけて、大きく手を振った。それからもっともらしくヴェンドラミンの肩をたたくと、ひったくるようにオールをとった。
「疲れたろう?あとは僕にまけせとけ」
ふっと嫌な予感がしたが、もう、体力がない。ヴェンドラミンはくたくたになった身体で腰を下ろした。
「かわいいアナベラ〜、おとうさまがいま迎えに行くよ〜♪」
鼻歌まじりに波をかき分けながら、もう一度アナベラを見定めようとしたダンドロは、彼女らの背後に急速に近寄ってくるものに気がついた。

ニコロは急にオールが重たくなったような気がした。だが、いまは満ち潮で、しかもここはジュデッカ島とサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に挟まれているため、漏斗効果で引きこまれるように運河へ出られるはずだ。だが。
アナベラも気がついた。海水を掬ってみる。すると、あろう事か、どろりとしていた。
「これって、あなたが言っていたものが流れてきているのじゃないかしら。ほら、いまは満潮だから・・・」
だが、ニコロはもっと恐ろしいことを考えていた。
自分たちが試作品のうえにいるのだとしたら、試作品が潮の流れに負けたんだ。それなら・・・フアナ様も流れてきているはず。
その首筋にひやりとしたものが当たった。
「ニコロ、いい子ね。アナベラをお返し」
「おかあさまっ」
数十隻にのぼる深紅のゴンドラが、アナベラたちを取り囲んでいた。
フアナは身の毛もよだつような笑顔で、ニコロの頬を撫でた。
「おかあさま、やめてください!剣を納めてください!」
アナベラは必死でフアナの腕にすがった。待ってましたとばかりにその腕を掴む。
そして、聖母のように微笑む。
「ああ、分かったよ、アナベラ。乱暴はしないよ。ただし、あなたが一緒に来てくれるなら、ね」
「奥方様、いけません!」
蒼白になりながらも、ニコロは声を絞り出した。しかし、アナベラはフアナの向こうにぐるぐる巻きにされたパオロの姿も見ていた。
アナベラは毅然と立ち上がった。
振り返りたかった。そこには夫がいるはずだった。でも、ぐっとこらえた。
「まいります」


アナベラたちのゴンドラまであと30m足らず。だが、ヴェンドラミンたちのゴンドラは潮に流され、急速に離れていった。
「シルヴェストロ、何してる、はやく漕げ!」
不審に思ったヴェンドラミンがよろよろと立ち上がって、ダンドロを揺さぶるが、彼は前方を見つめたまま固まっている。
「いったい何が?」
ヴェンドラミンも彼の視線の先を追った。
そこには真っ赤なゴンドラに囲まれたアナベラとニコロ、そしてフアナの姿があった。
しかも、フアナがアナベラの腕をつかみ、自分の船に乗せようとしている。
ヴェンドラミンの脳裏に、昨日の悪夢が甦った。
「貸せっ」
突っ立っているダンドロからオールをひったくると、猛然とこぎ出した。
「待て、アナベラ、待て、いま迎えに行くっ」
その声にダンドロも我に返った。予備のオールを持ち出して、二人がかりでこぎ、ついに竜をいただくゴンドラまで5mの距離に来た。
「おや、坊やたち、来たのかい?」
アナベラの腕を掴んだまま、フアナが凄みのある笑みを見せた。
「ヴェンドラミンさま、おとうさま!」
絶叫してアナベラは身を乗り出す。だが、フアナががっちりと押さえている。
「フアナ、儂の妻をかえしてくれ」
内心おそろしかったが、勇気を振り絞って声を放った。
「まあまあ、凛々しいこと。あなたの夫はすてきねぇ」
余裕でアナベラに視線を移し、次にダンドロを睨んだ。
「シルヴェストロ坊やはどうなの?」
言ってはいるが、その態度は完全に発言をゆるさない。
「わ、わたしは、ね、」
言葉が唇で凍りついている。顔色もない。
フアナはふんと鼻で笑うと、剣を振り上げた。
「坊やたちはさっさとおうちへお帰りっ!」
「は、はいっっ!」
「シルヴェストロ、まて、まだ話は終わっていない!」
冷や汗を滝のようにかいてオールを振り上げたダンドロを、ヴェンドラミンが体当たりで止めた。
不安定なゴンドラの上で急に動いたものだからたまらない。大きく揺らいだと思うまもなく、二人は海へ投げ出された。
「ヴェンドラミンさま、あなたぁ!」
「ま、待って、やめてアナベラ!」
フアナの腕を振り切ると、アナベラは夢中で飛びこんだ。
衝撃で身体が深く、深く沈んだ。
とにかく浮かび上がろうと思った。ところが、豪奢なドレスがまとわりつき、水を含み、彼女を沈めようとする。
死の恐怖がアナベラをパニックに陥れようとした。だが、負けるわけにはいかない!
めちゃくちゃに水をかいて海面まで上がってきたとき、ふっと、身体が軽くなった。
そのあとはすーっと浮かび、気がつくと顔が出ていた。
理由が分からずあたりをさぐると、自分の腕や足、全身があの粘着力のある、しかしたっぷりと気泡を含んだ膜に覆われていた。
どこかで自分や夫を呼ぶ声がしていた。ニコロがこちらへ泳いできていた。赤い船体も視界の端っこにあった。
しかし、振り切って泳いだ。
「ヴェンドラミンさま、どこですか、返事をしてくださいっ」
彼が泳げないことをアナベラも知っていた。
すぐそばにダンドロが仰向けで浮いていた。
だが、夫の姿がない。
おそろしさで気が狂いそうだった。アナベラは懸命に水面をのぞいた。
その時、間近で黒いものが揺らめいた。
一気に潜った。
それは、ヴェンドラミンが堅く目を閉じてゆっくりと水底へ落ちてゆくところだった。
アナベラは手を伸ばした。
一度かすり、二度目にようやく袖の端を掴んだ。
渾身の力をこめて引っ張り上げ、海面にもどる。
「ヴェンドラミンさま、ヴェンドラミンさま、しっかりなさって下さい!」
アナベラの悲鳴にも灰色の瞳は開かれない。呼吸が止まっている。身体はどんどん冷たくなる。
「こっちへ!」
声が降ってきたと思うと、確かめるまもなく赤いゴンドラに引き上げられた。
ダンドロは隣の船に寝かされた。
「起きて、死なないで、息をしてくださいっ」
悲痛な叫びがこだまする。だが、答えはない。
「あたしを独りにしないで・・・」
大粒の涙が頬を流れる。
それもつかの間、ぐっとこぶしで拭き取ると、ヴェンドラミンに覆い被さった。
紫色になった唇に息を吹きこむ。何度も、何度も。
「死なないで!お願い、生き返って!」
自分も苦しくなって、気が遠くなる。
「奥方様、代わります!」
ニコロが叫んでいた。血の気のなくなった顔で、アナベラはきっぱりと首を振った。
自分の命を注ぎこむように、続けた。
ふっと、ヴェンドラミンの口から空気が漏れた。次の瞬間、みるみる顔色がもどり、目を開けると何度も咳きこんで水をはき出した。
「ヴェンドラミンさま!」
「ア、アナベラ・・・・・」
目に涙を一杯ためて、アナベラが自分を見つめていた。
髪は乱れ、生気のないやつれた姿だったが、ヴェンドラミンには神々しいほど美しかった。
両腕を伸ばし、あらん限りの力で抱きしめた。
「ああ、逢いたかった・・・」
アナベラも愛しい夫をきつく抱きしめた。
「ちょっと、大丈夫かい?苦しくないかい?」
さすがのフアナも青ざめて、二人のそばに膝を折った。
ヴェンドラミンは今一度アナベラを抱きしめ、威厳をもって答えた。
「フアナ、アナベラがほしいなら、儂を殺してから連れて行け」
アナベラは顔を上げると、きっぱりと告げた。
「いいえ、あなたが死んだら、あたしも生きてはゆけません」
フアナはすくっと立ち上がった。そして、ゆっくりと隣の船に移った。
「あたしはそこまで野暮じゃないよ。もう手は出さない。二人で幸せにおなり。さて・・・」
隣の船ではまだダンドロが目を閉じて、否、ときどき薄目になってあたりを伺っていた。
船から落ちたとき、気を失った。おかげで水も飲まず、目を覚ましたときは船に寝かされていた。
首を動かせないので音でしか周りのことは分からないが、どうやらアナベラが口移しでヴェンドラミンに空気を与えて救ったらしい。
ヴェンドラミンが助かったのは嬉しいが、それ以上にダンドロを浮きたたせたのは『次は自分の番!』という期待だった。
あの可愛い顔で泣きつかれ、口移しで息を吹きこまれたら、喜びで気絶するかもしれない。そうしたら、アナベラはもっと優しく介抱してくれるだろう。
思わずにやけそうになって、ダンドロは慌てて唇を噛みしめた。
ところで、ニコロはダンドロの足下にしゃがんで、じっと様子を眺めていた。
顔色もいいし、ちゃんと息もしている。ほっといても目を覚ますと思うが、いつまでたっても起きない。
次に浮かんだ考えをフアナが口にしたのは、ダンドロが気を引くように弱々しくうめいた瞬間だった。
「シルヴェストロ坊や、いつまでタヌキねいりしてるんだい?」
雷のような声といっしょに強烈な一発が頬に炸裂した。
「きゃー起きます、起きます、ごめんなさいっ」
ダンドロが跳ね起きたさきに、フアナが不敵な笑いをうかべて仁王立ちになっている。
彼の全身から、さーっと血の気がひいた。
むんずとダンドロの襟首をつかんで逃げられないようにして、ニコロに命じた。
「ヴェンドラミン夫妻を宮殿までおくっておあげ。お友達も一緒につれておゆき」
優しく慈愛に満ちた声に、ニコロは深く頭を下げると、解放されたパオロと共に、夫妻のゴンドラに移った。すーっとゴンドラが水面を滑り、ジュデッカ運河へ飲みこまれ、少しずつ、小さくなって行く。
舟影を見送りながら、フアナは息をついた。
「寂しいねぇ・・・でも、諦めるのもつらいねぇ・・・」
目を彼方に向ければ、対岸に巨大な総督府宮殿がでーんと建っている。
きらっとフアナの目が輝いた。


翌朝、ヴェンドラミンとアナベラは宮殿の真下から響いてくる音に飛び起きた。
「なに?何が起こっているの?」
不安げにアナベラはヴェンドラミンにしがみつく。彼女を抱きかかえたまま、ヴェンドラミンは窓から港を見た。
「わぁぁっ!」
港一面が真っ赤なゴンドラに埋め尽くされ、それぞれ一杯に荷物を積んでいる。
ばん!と勢いよくドアが開かれ、満面に笑みをたたえたフアナが飛びこんできた。
「アナベラ、ここへ引っ越してきたわよ!これからも仲良く暮らしましょうねぇ!」

・・・こうして二人の新婚生活は幸せから遠ざかってゆくのだった。