吸いこむたびに胸の中がひやっとする。
見上げると、空に灰色の重い雲が立ちこめている。
さきほどまで賑わっていた大通りも、寒さに追われてか、いつの間にか人影がまばらになっている。
ゆきが降るかなぁ…………。」
そわそわとアンジェリーナが空を指さす。
「あたしね、ゆきの夜に生まれたの。とっても寒い日で、風がきらきら光っていたって、おかあさまが教えてくださったわ。」
彼女の言葉を私は思い描いてみた。
雪がとだえ、黒くのしかかっていた雲がさけてその間から月の船が姿を表す。
船からおりてくる、まっすぐで白いリボン。リボンは雪に覆われた地上に舞い降り、染み透り、その内側から再び青白い光に生まれ変わって大地を照らす。
浮かび上がる石造りの家。煙突から細く煙がのぼっている。窓に暖かな光があり、若い母親がその腕に生まれたばかりの子供を抱いている。清らかな寝顔。
風が雪を巻き上げ、白い粒は月の光に星となる。
この世のすべての幸を合わせても、かなわないほどの歓びの誕生。
なぜ私はそこに立ち会えなかったのか、無理な話と分かっているが、悔しい。
「でもね。」
アンジェリーナは顔をこわ張らせた。
「そこにいたのは四才になるまでで、ある晩、たくさんのたいまつの火が窓から見えて…………。たくさんのおとなの人が怖い顔で立ってて…『いみをはらえ!』って叫んでいたの。」
私は耳を疑った。『いみ』は『忌み』しか有り得ない。彼女にはまったく似つかわしくない言葉だ。
だが、彼女には分かっていないのだろう。こんな悪意の籠った言葉を理解していないのは、心底ほっとする。    
しかし私は無意識のうちに少女の肩を抱いていた。
「それからどうしたんだね?」
少女は懸命に記憶を辿っているのか、ややあって話はじめた。
「ええと……よくおぼえてないの。ただ、しばらくおうちがなくて、誰かのところに泊めてもらったり、おとうさまと星を見ながら眠ったりしたことはおぼえている。ここへ来たのはいつだったかな?マロニエの花がとってもきれいだった時!」
アンジェリーナの話は信じがたいものだった。だが、嘘をつく子ではない。
幸い、この逃避行が彼女をそれほど苦しめたわけではなさそうだ。話す時の表情や、口振りからそれがわかる。しょせん子供だし、悲しみなど感じないに越したことはないのだ。
………私は違ったが………。
だが、どこのどいつだろう?彼女らを『忌み』などとよぶのは………!考えつかない。分からない。アンジェリーナも彼女の母もごく普通の人間だ。私のように『怪人』ではない。
不意に、自分がたどった道を思い出した。ここへくるまでの呪われた人生。記憶が蘇るたび、唇をかみ締めるが、それでも日に日に遠いものに変わってゆく。
「おじさーん?」
くいっと手が引かれたと思うと、アンジェリーナが私の手を小さな手のひらでこすっていてくれた。
「エリックおじさんの手って冷たいから、あっためてあげるね。」
「あなたの手はとても暖かいね。」
少女は頷きながらも、ふと表情を曇らせた。
「…………おとうさまにもよくこうしてたの。」
この子の父親は亡くなったと聴いているが、病死だろうか?
私は次の言葉を待った。だが、彼女はうつむいてしまっている。長いまつげの瞳を何度もしばたたせている。重苦しい沈黙だった。
しかし、アンジェリーナは何事もなかったように笑顔を向けた。
「あのねぇ、あたし、おとうさまにいろいろ教えていただいたのよ!おとうさまが行った国に咲く花や、動物や、星の名前や、神話!天気のよみかたもよ!おとうさまは本当にものしりだったんだから!」
「そうか……偉いひとなんだね。」
「そうよ、いろいろ知っていらしたんだから!」
少女は得意げに胸を張った。だが、その姿が痛ましい。    
「おとうさまはね、『世界にはたくさんの美しいものがあるから、見ておきなさい。』っていつも言ってらしたの。だから毎日気をつけているの。おじさんの歌も、とってもきれい!ねぇ、なにか歌ってほしいな!」    
少女は瞳を輝かせて、私を見上げた。
こんな目で見つめられたら、天使だって断れない。
それに私は彼女を喜ばせてあげたかった。
見渡すが幸い人通りは、ほとんどない。
「アンジェリーナ、ちょっとここへおいで。」
私は彼女をだきあげると、耳元へくちびるを寄せた。    
「あなたの歌を謳うよ。」
ささやくように、少女の心へ賛歌を奏でた。
彼女は目を閉じていたが、なぜか唇をかみ締めていた。    
そして歌が終わりに近づいたとき、ポトポトと大粒の涙があふれてきた。
「どうしたんだい?どこか痛い?」
私は戸惑って彼女を地面に下ろした。
少女はしゃくり上げながら、私にしがみついた。
「おとうさまはおっしゃったわ。『世界にはたくさんの醜いものがある。それでも目を逸らしてはいけない』って。おじさん、醜いものって、『忌み』のことでしょ?あたしたちのことでしょ?あたしたちが『忌み』だから追いかけられて、おとうさまは亡くなったのでしょ?どうして『忌み』なの?あたしたちは何をしたの?目を逸らしちゃいけないって分かっているけど、分かっているけど……!でも………!」
彼女は顔を私のコートに押しつけた。
ちいさな肩が小刻みに震えている。
「アンジェリーナ………!」
その時の私は抑えがたい怒りと悲しみ、そして血みどろの殺意の渦巻く『オペラ座の怪人』に戻っていた。
指が白くなるほど拳を固めていた。
大切なアンジェリーナを苦しめたやつらを、この手で引き裂いてやりたい!
横を通り過ぎた男が、ちらりと私を見て顔をひきつらせた。
彼が慌てて走り去ったところで、少女が悲しげな声を上げた。
「おじさん、そんなこわい顔しないで………!」
そして、堅い拳をほぐそうと幼い指を私の指の間に押しこもうとした。
「おじさんは心配しなくても…いいの。」
せいいっぱい笑顔を作ろうとするが、こみあげてくる涙がかき消す。
「みーんな、あたしが悪いんだ………か……。」
声はみるみるか細くなり、アンジェリーナは冷たい地面にしゃがみこんだ。
『ぜんぶ僕が悪いんだから!』
彼女の声にかつての自分の声が重なった。
そうだ、私も母に同じことを叫んだ。
『ぜんぶ僕が悪いんだから!』
幼い頃、母は世界のすべてだった。その母にののしられ、憎まれ続けた私は己を呪わしいものと思うしかなかった。
あのころの身を裂かれるような悲しみが蘇ってくる。    
アンジェリーナが『忌み』のはずはない!私はよく知っている。誰かがそう信じこませたに違いない。
こんなちいさな子供に何て残酷なことをするのか!
私は足下にうずくまるものに手を伸ばそうとした。
だが、迷った。
それからどうすれば、彼女を救ってあげられる?
いくら考えても答えがみつからない。
胸がつぶれそうに苦しい。
一瞬雲がさけ、眩しい、しかし暖かな光が私を包んだ。    
「あなたはどうしてほしかったの?」
朝焼け色の瞳の女が、目の前に立っていた。
「私は………………。」
長い間、心の奥に沈めてあった映像が浮かんできた。    
「あなたなら、できるわ。エリック……。」
「クリスティーヌ……?」
なぜか恋人の名が口をついた。
女は春の陽射のような笑みを浮かべた。
そして、初めからいなかったかのように消えた。
私はハッと我にかえった。
現実かと見まがうほど鮮明な幻だった。
だが、そうは思えなかった。天使のように慈愛に満ちた声が耳に残っている。
足下から少女の押し殺した泣き声が、聞こえている。私はおずおずと膝をついた。
「アンジェリーナ。」
そして、思い切って、少女を抱きしめた。
「大丈夫だよ、アンジェリーナ。あなたは『忌み』じゃない。私は知ってる。」
「ちがうの……?」
弱々しい声がすがりつく。
私は彼女の頬をなで、涙をぬぐった。
一瞬、自分が母にそうされているような錯覚を起こした。私はあらためて腕の中にいるものを確かめた。
「クリスティーヌもフィルマンもレイエも、みんなあなたが大好きだ。知っていたかい?」
「ほんと?」
アンジェリーナが顔を上げた。真っ赤な目の中にかすかに光が見えている。私はゆっくりと頷いた。
「本当だよ。可愛いアンジェリーナ、本当だよ。……私もあなたが大好きだ。だから、何も心配しなくていい。今度あなたを『忌み』呼ばわりする奴が現れたら、私がやっつけてやる。守ってあげるよ。ずっと。」
言葉は心からの真実だった。それは同時に幼い頃一番望んだ言葉だった。
口を閉ざした私は不思議な気分を味わっていた。まるで自分がエリックではないような、自分が母に抱きしめられているような感覚。
たとえようもない安らぎと共に。
少女はじっと私の目の奥を見つめていた。
応えるように私も彼女の瞳を見つめた。
やがてアンジェリーナはちいさく柔らかい手を、私のゆがんだ頬に押し当てた。
それは今までになく暖かく心地よかった。
「うん………あたしもおじさんが、大好き………!」    
そして両腕を広げてきゅっと私を抱き締めた。
    
「あ、やっぱりふってきたぁ!」
ふんわりと真綿のような雪が舞っている。アンジェリーナは受け止めようと手のひらを差し上げ、走り回っている。急に走るのをやめて、私の横に駆けてきた。    
「何かあったのかい?」
少女は困り果てたという表情で私を見上げた。
「あのねぇ、おとうさまが言ってらしたんだけど、『男が女を守るのは彼女が恋人の時』って……………。どうしよう……?あたしはおじさんの恋人さんになっちゃうんでしょ?でもクリスティーヌお姉さんがいるのに、あたし恋人さんにはなれないよ?」
「あの……それは、ちょっと………。」
今度は私が困ってしまった。











           indiraより

再版はできないのですが、この話を茶々猫さんに漫画にしてもらいました。彼女の描くアンジェリーナはとってもキュートです。