カフェにて

部屋の前でエリックは、ちょっとドキドキしていた。
これまで彼女と出かけることはあっても、いつもクリスティーヌが誘い、彼がくっついて行くパターンばかりだったのだ。
胸の高鳴りを気にしつつ、怪人は軽くノックした。
「クリスティーヌ、私だ」
うわずった声を悟られないかヒヤヒヤする。
幸い気づいたそぶりもなく愛らしい声が帰ってきた。
「入ってきて」
その声に彼の胸はさらにドキドキした。
しかし紳士らしい態度でドアを開けた。ルモニエの帽子を取り、ぎこちなく笑う。
「どうかしたの?」
天使は不思議そうに帽子に目を留めた。
洗練されたデザイン。そこだけじゃなく、身につけたすべてが、完璧に彼を引き立たせている。
恋人の視線にじっとりと汗ばんでくるのを感じながらも、平静に言った。
「近くに新しいカフェが出来た。その・・・行ってみないか?」
「嬉しいわ。行きたかったけど、独りじゃつまらなくて・・・。あなたといけたらいいって思っていたの」
鮮やかな微笑みに、心臓はまさにオーバーヒート寸前まで高鳴った。
エリックの頭上で、天使たちがラッパを吹き鳴らす。
それは、初デートが(いまさらながら)成立した瞬間だった。

オペラ通りからルーヴル宮殿へ向かう途中にその店はあった。
ところが周りの店は繁盛しているのに、その店だけは奥のカウンターからサル(テラス席)まで、ぽつんぽつんとしか客がいない。
エリックは向かいの通りから様子をうかがっていた。気持ちを表に出さなかったが、クリスティーヌも同じだったらしい困惑した顔で彼を見上げた。
「ここでいいのかしら?」
彼も気にくわなかったが、ここでつまずいたら、二度とデートは成功しない気がする。
怪人はもう一度店の名を確かめると、きゅっと恋人の手を握った。
「いいや、ここだよ。いま空いているのは偶然だろう、そうに違いない」
「きっとそうね」
恋人は明るく答えると、彼の手を握り返した。
エリックはさりげなく引き寄せると、そのまま彼女の腰に手を回して並んだ。
「ボンジュール、ムシュウ!」
めざとくギャルソンが歩み寄ってきた。帽子を目深にかぶっていたせいか、エリックの顔に気が付かなかったようだ。
入口から少し離れたサルを示した。
大きめのテーブルを囲むいすは2脚だけで、一方の後ろはジャスミンの垣根があり、清かな甘い香りが漂っている。近くに客はない。
エリックは垣根側を彼女に勧め、自分はさりげなく(恋人なんだから当然だ!)隣に座った。
「ムシュウ、ご注文は?」
ギャルソンがメモを片手に歩み寄ってきた。
怪人はBIOSSONを探したが見あたらない。
おそらくこの店は、カウンターにかけられているのだろう。
「どうしましょう。わからないわ」
エリックは待ってましたとばかりに口を開いた。
「紅茶はどうかな?『ロブノール』、まぼろしの湖をイメージしているそうだ」
「ほかには知っているの?」
「『マナス』、ミルクと相性がとてもいい。『リージェント』はどうだろう?繊細ですっきりした味だ」
クリスティーヌは首を振った。彼は軽く失望しながら、続けた。
「あ、そうだ、これならおまえにぴったりだ、『ジャスミン・チェンフェン』。さわやかで一度飲んだら忘れられないよ」
しかし同じリアクション。二人のやりとりを観て、ギャルソンは下がった。
エリックはちょっと焦りを感じた。
「クリスティーヌ、これは?『アダムズピーク』、春の野をイメージだって。だめかい?」
しかし彼女の唇はかたく閉ざされたまま動かない。
どうしてうまくいかないんだろう?じりじりと焦ってくる自分を必死でなだめて、次の言葉を探した。
「あ、おまえが好きだって言っていた、『キャラバンヌ』もある。今日はそんな気分じゃないかな、『ポートルイス』は?『パンドール』?『グランシーヌ』?」
焦って一気にしゃべって息がのどがカラカラだ。
彼は祈るように彼女を見据えた。
だが恋人は目を伏せたまま、なにも言わない。
こうなると、焦りを通り越して不安になってくる。
私は何か失敗しているのか?
いくら考えてみても、そう思えない。
だがクリスティーヌは優しい女だ。
何かが彼女を困らせているのだ。
エリックは思い切って口を開いた。
「私が悪いことをしてしまったんだ・・・・と思う。それが何なのか教えてもらえないか?」
「え?」
恋人は全く思ってみなかったという顔をした。
「あなたは何もしていないわ。」
「だが、おまえは黙ってしまうし・・・・」
彼女は迷った様子で首を振った。
口元まで答えが上ってきている。
怪人は問いただしたいのをぐっとこらえて、待った。
天使はちらりと恋人をみて、小さく息をついた。
ちょっと頬を膨らませた。
「だって、・・・・・落ちこんじゃったの。あなたがあんまり詳しいから」
すねた顔に、エリックは力が抜けた。
そして、男として大いに誇らしかった。でも、ちょっと後ろめたい。
何故なら、彼女の評価が正しくないことを知っている。
エリックは緩みかけた頬をきゅっと引き締め、考えた。
恋人の尊敬を受けたのは、嬉しい。でも、落ちこませるつもりはなかった。
このまま、黙っていてもいいかもしれない。だけど。
「あ、いけない、いけない」
クリスティーヌが懸命に笑顔を作っている。
怪人はその姿に呆れるほど簡単に迷いを捨てた。
私は男のプライドより、恋をとりたい!
「その・・・違うんだ、一夜漬けで覚えたんだ。」
「お漬け物?」
「そうじゃなくて・・・・・おまえにいいところを見せようと思って・・・その。」
後は口の中でもつれた。恥ずかしさと焦りで顔がほてってくる。
もしかしたら、笑われると思った。すると本当に笑い声がした。
「やぁだ、エリックったら。でも、・・・・・とても嬉しいわ。あたしのためにしてくれたんでしょう?」
「いや、あの、そうだけど・・・」
くすくすと彼女は笑っている。
なんて綺麗な声なんだろうと、聴き入ってしまう。
エリックはすっと肩の力が抜けている自分に気がついた。
不思議に笑みがこぼれてくる。
恋人同士のたわいない会話が、こんなに楽しいなど思いも寄らなかったと。
ギャルソンが再びやってきた。
「お決まりですか?」
クリスティーヌは、よどみなく答えた。
「ええ、ジャスミン・チェンフェンを」
「ウィ、マダム」
「私は・・・」
言いかけたとき不意に風が吹いて、甘ったるい香りを運んできた。
一瞬の後、エリックは思い切りよく言った。
「エスプレッソ!濃いものを!」
「ウィ」
ささっとペンを走らせると、男はポケットからよれた絵はがきを取り出し、遠慮がちにマエストロに差し出した。
「サインをいただけませんか、ムシュウ」
エリックはきょとんと声の主を見上げた。そこには賞賛に満ちたまなざしがある。
「名前を?これは葉書だろう?私は手紙を書くつもりは・・・・・」
ギャルソンはマエストロの返答に、次の言葉を出せないでいる。
そっと、恋人が耳打ちした。
「エリック、そうじゃないわ。あなたのファンなのよ」
怪人はさらに目を丸くして、彼女と男を交互にみた。
ギャルソンは気迫のこもった笑みを作って見せた。
そして付け加えた。
「こんなもので気を悪くなさらないか心配ですが・・・・・、いつマエストロにお会いしてもいいように持っていたものですから・・・・・」
エリックは改めて葉書を見た。所々折れて汚れていたが、上質なものだった。
彼はぎこちなく、それでもできる限りの誠意をこめて、葉書にサインを入れた。
ギャルソンは受け取ると、深々と頭を下げた。
「母に送ってやるんです。」
今にもスキップしそうな勢いで店の奥に引っこんだ男を見送って、怪人は照れくさそうに笑った。
「私がサインを求められるなんて、なんだか、とても不思議なものだ」
クリスティーヌは言った。
「あたしはとても嬉しいわ」
「そうかなぁ」
くすくすと恋人は笑った。
そのとき、背後から誰かがエリックの背中を突っついた。
「おじさん、どうしたの?」
聞き覚えのある声に振り返った。
すると後ろに紙袋をもったアンジェリーナが立っている。
「やぁ、久しぶりだね。今日はどうしたんだい?」
少女は嬉しそうに笑って、手にしたものを見せた。
「あのねぇ、チョコレート屋さんに連れて行ってもらったの。おかあさまがとてもお好きなの。おじさんは好き?」
「チョコレート?」
少女は頷いて、隣の店を指さした。
人だかりの中、ちらりと店の看板が見えた。
『カドベリ商会』とある。
「新しいお店なの?」
クリスティーヌが隣からいすを引っ張ってきて、彼女に勧めた。
「そうよ、えーと、『ドーバー海峡を越えてきた最強のお菓子屋』さんっておじさんが教えてくれたの」
エリックは眉をひそめた。
「おじさん?」
アンジェリーナは元気いっぱいに頷いた。
「そう!ナーディルのおじさん!」
怪人は鳥肌が立った。
「あいつは・・・いや、おじさんは近くにいるの?」
エリックのこわばった声に気づかず、彼女は屈託なく答えた。
菓子店の客がようやくまばらになった。
「そこ!」
彼女が指さした先には、さわやかに女性客に手を振る菓子職人がいた。
エリックは反射的に顔を背けた。
が、ナーディルの敵ではなかった。
「やぁ、エリック」
職人にしてはあまりに体格のいい初老の男が、にこやかにやってきた。
ひくっと顔がつるのがわかったが、それでもエリックは考えた。
先日のこともあるし、もう少し愛想よくしよう。
だが、彼の決意は一瞬のうちに翻った。
「マドモアゼル・ダーエ、今日もお美しいですね」
ダロガは跪くと、クリスティーヌの手を取ったのだ。
「やーん、あたしもぉ」
差し出された小さい手をペルシャ人は柔らかく握った。
「これは失礼。小さい淑女」
形よく刈りこまれた髭が、笑顔をさらに魅力的にした。
こんな顔を向けられたら、同性は引きこまれるか、嫉妬を覚えるかのどちらかだ。
怪人は陰気なまなざしをダロガに向けると、こっそりと懐からなじんだ道具を取り出した。
口元を右手で隠し、べろーんと舌を出す。
利き手を一振りする。
菓子職人が優雅な身のこなしで、かがんだその時。
音もなく、ダロガの下のイスが後ろへ引いた。
怪人はほくそ笑んだ。
だが、傭兵の将軍は目にも留まらぬ早さでイスを掴むと、何事もなかったかのようにゆったりと腰を下ろした。一瞬、愉快そうな笑みが浮かんだのをエリックは見逃さなかった。
「このような席にお招きくださって、私は幸せ者ですよ、マドモアゼル」
ダロガは声を低くして、囁くように言った。
「たぐいまれなる美女に囲まれるなんてね」
怪人は頭から湯気がでそうだった。
エリックのとなりにいるのは、クリスティーヌ。
クリスティーヌの隣にいるのが、ダロガ。
ダロガの隣にいるのが、アンジェリーナ。
そしてアンジェリーナの隣にいるのが、エリック。
こうなると、当然エリックの正面はダロガ。
「えー?あたしもびじょなの?照れちゃうぅ」
アンジェリーナが顔を真っ赤にして声を上げた。そして、確かめるようにエリックを振り返った。
「その通りだよ、アンジェリーナ」
渋々、彼はうなずいて見せた。
ちらりと恋人に目をやると、彼女は恥ずかしそうに下を向いてしまっている。
その色を観て、はっきりと彼女が困っていると確信した。
ちょうどギャルソンが注文の品を持ってきた。
「ねぇーえ、おじさん、あたしびじょなのよ!」
アンジェリーナは得意げに、胸を張った。
彼は洒落たポットをテーブルに置きつつ、優しげに笑った。
が、次の瞬間、その場の空気の冷たさに背筋が凍りついた。
素早く残りの品を並べると、本能的に少女の手を引いた。
「美しいお嬢さん方、カウンターの奥にとっておきのケーキがあるのです。今日の記念にぜひ差し上げたい。こちらへ、どうぞ」
「やったぁ!おねえさんいこうよ!」
アンジェリーナが袖を腕を掴むのを気にしつつ、クリスティーヌはエリックを見た。
怪人は押し黙ったまま、目配せした。
ダロガはウインクした。
気配を悟ったのか、数少ない客もそそくさと席を立った。
舞台は、整った。
エリックは冷ややかな視線を向けた。
「しばらく姿を現さないと思ったら、メッセンジャーをクビになったんだな?おおかた女客に時間をかけすぎたのが原因だろう?」
薄笑いを浮かべるが、ペルシャ人はあっさりと言った。
「今朝はマダム・ジリーとムシュウ・ブケーから手紙を預かって、配達を済ませたよ。おまえさん、ほとんど部屋から出ないから、気がつかないんだ。・・・・だけど、私に会いたいのなら、いつでも行くよ」
熱く潤んだ瞳に見つめられて、エリックは思わず腰を浮かせた。だが考えた。
やんわりと両手を広げて、友人に前に立った。
「きさまの本心は分かっている。クリスティーヌもアンジェリーナも私から離れないからな。パリで女性たち誰からも愛されているのは、私だ。ダロガ、きさまの心の中で燃えさあかる火が見えるぞ。私が欲しくて気が狂いそうだろう?」
怪人は威圧的に、しかし誰もが魅了される声でささやきかけた。
ダロガは大きく目を見開いて、しびれたように動けないでいる。
うまく暗示にかかったようだ。
エリックはほくそ笑んだ。
今度は切なく甘くささやいた。
「ダロガ、私を思うとき胸がかきむしられるような気がするだろう?矢も盾もたまらなくなるだろう?目の前にいる男を抱きしめたくなるだろう?」
ペルシャ人はうっとりと頷いた。
何事かと通行人たちが足を止めて、人垣を編み始めた。
さぁ、もっと集まって来い!怪人は心の中で叫んだ。
「自分にもっと素直になれ。本心をさらせ。ためらうことは、何も、ない」
誘うように、怪人はダロガの耳に唇を寄せた。
ぞくっと彼がふるえた。
「さぁ・・・!」
細い指先で男の唇をなぞった。
吐息とともに、唇がゆっくりと開いた。
エリックは怪しく目を細めた。
人垣が一斉に彼に注目した。
「じゃ、遠慮なく!」
にやりと笑うと、筋肉の盛り上がった腕が怪人の両腕を掴み、後ろのテーブルへ仰向けに押し倒した。
あまりの素早さにエリックは逃げる余裕がなかった。
観客の間からどよめきがあがる。
「ぎゃー!放せ!放せ!この変態!」
怪人が力の限り暴れても、びくともしない。
ダロガは愛しさに目をキラキラさせながら、顔を寄せた。
人垣から一斉にあがる「いけ」「そこだ」の声。
ペルシャ人は彼らにウインクして見せてから、エリックの唇を指でなぞった。
「ずっと、この時を待っていたよ」
エリックは頭の先から足の先まで青くなった。
怪人は真剣に思った。
後悔は先に立たないが、今度ばかりは先に立ってもらいたかった!
そして、男たちの唇がまさに触れようとしたその時、ふいにエリックは体が軽くなった。
「惜しいけど、ここでは雰囲気がでない。今夜迎えにゆくからドレスアップして待っていてくれ」
色っぽいウインクを投げて、ダロガは立ち上がった。
「冗談じゃない!」
ギャラリーからブーイングがあがった。
怪人は悪魔もたじたじになる目つきでにらんだ。
しかし全く応えない様子でダロガはにこやかに人垣に向き直ると、せわしく何かを配りはじめた。
「押さないでね。並んでください」
「何してるんだ、きさまは!」
ペルシャ人はごつい腕を伸ばし、そっと恋人の頬をなでた。
「今夜のデートのチケットだよ、ハニー。ギャラリーが多いと燃えるんだ」
「いいかげんにしろ!」
人垣は瞬く間にくずれた。
騒ぎを聞きつけて、クリスティーヌたちが戻ってきた。
「どうしたの?顔色が悪いわ」
「ほーんとだぁ。でもナーディルのおじさんは何で笑っているの?二人でゆかいなことをしていたの?」
アンジェリーナはしきりに気になる様子で、男たちの周りをくるくると回った。
「それはね」
アンジェリーナにそっと耳打ちしようとダロガは身をかがめた。
だが、『恋人』のすさまじい表情を見て、腰を伸ばした。
そして唇に指を立てた。
「ないしょ」
「えー、どぉしてぇ?知りたーい、しりたーい。ないしょなんてずるーい」
アンジェリーナはダロガの腕を引っ張って放さない。
クリスティーヌはどうなのかと、エリックはハラハラしながら振り返った。
「いつか話してくださるから、待ちましょうよ。ね?」
妙にあっさりと天使は言うと、少女を半ば強引にテーブルに引きずっていった。
このところ、クリスティーヌは『知らない方が幸せセンサー』をインストールしたらしい。かなりの高性能だ。
とりあえず怪人はほっとして、素早く乱れた上着を直すとテーブルに戻った。
が、横を見るとちゃっかりダロガがいる。
「きさま、仕事に戻らなくていいのか?」
横目で睨むが、彼は店を肩越しに見て首を振った。
「今日はもう閉店だ。チョコレートは売り切れてしまったからね。・・・・・おっと、煙草が切れた。買いに行ってくるよ」
二度と戻ってくるなと腹の中で罵りながら、エリックはそっぽを向いた。
気まずい雰囲気が漂った。
恋人はギャルソンを呼び止めて、裏の白い葉書を一枚もらった。
そして、男に差し出した。
「お願いがあるの、今日の記念に何か描いてほしいの」
「絵を?」
天使はジャスミンの垣根を後ろに立った。
それは、息をのむほど美しい絵だった。
怪人は何度も頷いた。
今日は初デートの記念日だ!あいつなんかもうほっとこう!
「あ、あたしもまぜて!」
「いいよ、横に立って」
もう一枚葉書を都合した。
何を思ったかアンジェリーナはイスを持って恋人の横に置いた。
それからちょこんとイスの上に立った。
こうすると、二人の顔がほとんど同じ高さになる。
エリックはほほえましく思いながら、ペンを走らせた。
ペンが踊るように紙面を滑り、大まかなデッサンができた頃、ペルシャ人は戻ってきた。
抜け目なく友人の手元をのぞいた。
すかさず鋭い声が飛んだ。
「じゃまするな」
ダロガは両手をあげて穏やかに言った。
「私は美の崇拝者だ。決して無粋なまねはしないよ」
誉められてまんざらでもなかったが、それでもエリックは無視した。
「おねえさん、あのね、動いちゃだめ?」
こっそりと囁く声がエリックに届いた。
紙面を見る。考える必要はなかった。美神たちに合図した。
「終わったの?早すぎるわ」
「大丈夫だよ」
「いいの?」
遠慮がちにアンジェリーナが戻ってきた。
「まだ、半分くらいしかかけてないよ」
「憶えたからね」
クリスティーヌもやってきて、葉書を見る。
彼女には言葉の正しさがすぐにわかった。
「アンジェリーナ、向こうに小さな煙草のお店があったでしょう?その隣の帽子のお店に行ってみない?」
「小さなけいじばんの横の?」
「そう、すてきな帽子をいくつか見つけたの。でも、どれにしていいか、迷っていて。一緒に行ってくれない?」
「行く!」
少女は自分からクリスティーヌの手を握ると、走り出した。
「行って来るわ、エリック、ダロガさん」
「早く戻っておくれ、マドモアゼル!」
エリックはクリスティーヌの配慮がとても嬉しかった。できれば、ダロガも追い払って欲しかったが、そうなれば迷うことなく二人についてゆくだろう。
すごーく嫌だが、横に置いておく方がまだマシだと思った。
怪人は一心不乱に小さなキャンバスに向かった。
荒い線しかなかったキャンバスが、ジャスミンを背にたたずむ美少女たちの絵に生まれ変わるのにほとんど時間はかからなかった。
しかもその正確さは、芸術の神も恥じ入るほどのもの。
2枚とも完成というところで、怪人は嫌みなくらい得意げに傍らの男に差し出した。
「どうだ、すばらしいだろう?おまえより遙かに物覚えがいいからな」
「言葉もない」
賞賛に満ちた響きに怪人はあざけりの笑みで応えた。
が、ダロガは珍しく挑戦的な口調で返した。
自信ありげに瞳が光る。
「私に絵心はないが、記憶力はいい。証明しようか?」
ふんと鼻で笑った。
「できるものならな」
ダロガはすっと、はす向かいのたばこ屋の横を指さした。
木製の掲示板がかけられている。
文字は読めないが、何かが記されたメモが20枚ほど張り付いていた。
エリックはギャルソンから紙を一枚もらった。
彼がペンを握ったのを確認して、ダロガは口を開いた。
「適当に場所を言ってくれ。右横のメモとか、一番下とか」
エリックは生返事をしてから、慇懃に言った。
「右から番目のメモをお願いします」
「『絵のモデルをします。どのような場所にも伺います。連絡先はラ・ブルドネー大通りの”ダペルランドス”まで』。」
「左隅から二つ上は?」
「『ダンスを教えます。情熱のラテンダンスから優雅なワルツまで。連絡先はコルドリ通り”舞踏靴”』」
「中央から斜めした二枚重なったうちの下」
「『革製品を格安でおわけします。お望みのものがきっとあります。連絡先は”ショセ・タンタン”へ住所は・・・・』」
結局、ダロガは全てにすらすらと答えた。
正直おもしろくなかったが、まだ勝負は着いていない。
エリックはメモを持つと立ち上がった。
回答者は不敵な笑いを浮かべて後に続いた。

ダロガは、ぽかんと口を開けた。エリックは、勝ち誇った顔でそれを眺めた。
「大口をたたいた割には、情けない結果だったな」
彼の言葉も耳に入らず、ペルシャ人は掲示板を穴が空くほど見つめた。
もしやと木枠の右端に目をやると、あったはずの傷がない。
口ひげに手をやり、ふむ、と小さく息をついた。
おもむろに友人に向き直った。
「私の負けだ」
あっさりと言われて、エリックは拍子抜けした。
ダロガは懐から煙草を取り出した。
何気ない仕草で、背を向ける。
ほどなく紫煙が立ちのぼっていった。
「・・・・・・」
背中ににじむものをとらえた時、怪人は思いがけず友人の肩をたたいた。
「まぁ、気落ちするな」
自分で言って驚いた。ダロガも信じがたいという表情を見せる。
エリックはうろたえてしまったが、目をそらせつつも残った言葉を吐き出した。
「リターンマッチはいつでも受けるぞ」
「うれしいね」
古い友人は黒曜石の瞳を細めて、柔らかな笑みを浮かべた。
そして、色っぽいウインクをした。
「お言葉に甘えて、次の会場のベッドの中でね」
「前言撤回っ」
陽気な笑い声がした。
帽子屋のとびらが開いた。と思うと、でてきた少女がめざとく男たちを見つけた。
「あれ?おじさんたち、どうしたの?」
とっさにエリックは指さした。
「掲示板をね、眺めているんだ」
「あ、これ?いっぱい書いてあるけど、何なの?」
ダロガがまるで用意してあったかのように答えた。
「仕事や友達を探しているんだよ」
「そっか、ここならいろんな人が読んでくれるもんね」
アンジェリーナはしきりに感心しながら頷いた。
エリックも興味深そうに改めて眺めている。
男の様子にダロガはまさかと思ったが、今は言わなかった。
「そうだ、アンジェリーナ、絵ができあがっているから見ておいで。テーブルの上だ」
「わーい」
少女が走っていったとき、クリスティーヌも出てきた。
「今度は・・・大丈夫そうね。・・・・・絵はできたの?見たいわ」
恋人を迎え入れ、エリックは囁いた。
「テーブルにあるよ。気に入ってくれると嬉しいが」
「見てくるわね、ありがとうエリック!」
恋人も見送って、エリックは再び掲示板に目を向けた。
「これだけあると、選ぶのも大変だな」
「スリーサイズと顔がわかれば、もっと良いけどね」
怪人は怪訝そうにペルシャ人を見た。
「商売に姿かたちは関係ないだろう?肉運び人はちがうそうだが」
まじめに言われて、ダロガは驚きと呆れとほほえましさの入り交じった顔になった。
「本当に知らないのか?ここにメモを張っていったのは、春をひさぐ女性たちだ。たとえば、『英語を話せる方を募集します。受付時間は夕方の5時から夜中の3時まで』。これは『イギリス紳士のお相手をします』時間の意味は分かるだろう?」
全て終わる前に怪人は、耳まで赤くなった。
「だ、だったら、アンジェリーナに嘘をつかなくてもっ」
ダロガはガリガリと頭をかいた。
「あんな小さな子に本当のことを教えるわけに行かないだろう?」

カフェに戻ると、二人が葉書を手にはしゃいでいた。
「すごいねーおじさん、絵描きさんもやれるよ」
「気に入ってくれて、嬉しいよ。おまえは?」
クリスティーヌは輝くような笑顔で、葉書を抱きしめた。
「嬉しいわ、大切にするわね」
エリックは満足してうなずくと、彼女の手を引いた。
「そろそろ、戻ろうか。レッスンの時間だ」
「そうね。アンジェリーナはどうするの?一緒に帰る?」
少女は首を振った。
「さっきおねえさんと決めたことをすませてから、帰るの。ナーディルのおじさんは?」
男は名残惜しそうに少女の髪をなでた。
「一緒にと言いたいが、用事がある。気をつけてお帰り、アンジェリーナ」
「はーい、じゃあ、またねぇ」
少女に見送られて、ダロガは歩き出した。
「またな」
背中に声をかける姿に、クリスティーヌは意外そうに、そして微笑んだ。
「仲良くなったのね」
「そうじゃ、そうじゃないけど、何となく、・・・・・」
エリックは戸惑ううちに顔が熱くなった。
つんつんと袖が引っ張られた。
「あたしも行くね。おじさん、今度、おねえさんとうちへ来てね。おかあさまが珍しいスパイスを手に入れたから、ごちそうしたいんですって」
エリックは名残惜しそうに、彼女の頭に手を置いた。
「喜んでと、伝えておくれ」
「はーい。じゃあねえ」
通りを横切ってゆくのを眺めて、エリックたちも歩き出した。
半ばまで来たころ、怪人は思いだした。
「クリスティーヌ、アンジェリーナと何か決めたって?」
「ええ、素敵なことよ。お友だちをふやす魔法よ。今日は忘れられない日になるわ。ありがとう、エリック」
何かがひっかかった。
だが思い出そうとする前に、クリスティーヌが腕を絡めてきて、彼は忘れてしまった。
恋人のぬくもりにときめきを憶えながら、エリックは考えた。
色々とトラブルがあったデートだったが、やはり来てよかった。
また、いや、ぜひ!彼女とデートしよう!今度はじゃまの入らない、ずーっと遠くで。

だが、彼の決心はもろくも崩れることになる。

みなと別れた後、アンジェリーナは帽子屋の横へ来た。
そして、もらった葉書につたない字でメッセージを入れた。
『お友達になってください。住所は・・・』。
背伸びすると、一番下に届いた。余っていたピンで落ちないように留める。
「やっぱり絵があった方が、いいよね」
少女はにっこり笑って、『掲示板』を眺めた。

翌日、オペラ座の玄関は休演日にもかかわらず、花束を持った紳士(自称も含む)で埋め尽くされた。原因を知ったエリックは・・・・・・二度とデートはすまいっと堅く心に誓った。













      indiraより

どうにも幸せに縁遠い話になってしまいました。ナーディルはこのあと、アナベラに会いに行くことになっています。「逝く恋」に続くわけです。