仏教の開祖・釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)の勘違い

釈迦牟尼は本当に悟りを開いた人か

釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)は仏教の開祖とされていて,悟りを開いた人と仏教徒からは信じられていますが,本当にそれが正しいかどうか,考察してみました。

ガウタマ・シッダールタは,前世で人並み外れた利他的なことをしたと言われています。 例えば,飢えた虎のために自分の身を投げて虎の命を救った,つまり,飢えに苦しむ虎を哀れに思い,自分の体の肉を食わせた,という話があります。 前世では,それほど愛に満ちた人だったというわけです。 しかし,ガウタマ・シッダールタとして生まれてからは,前世の行いからは考えられないほど利己的(自己中心的)な生き方をしています。 例えば,自分の初めての子どもが生まれた時,「ラーフラ(「妨げ」という意味)が生まれた……」(つまり,「悩みが生まれた」という意味)と言ったそうです。 性交をすれば当然子どもが生まれるでしょうし,子どもが生まれたら,その世話などがとても大変で,またその子の将来を思えば悩みが増えることくらい,誰にでも分かっているはずです。 にもかかわらず,彼は子どもを作った挙げ句,「悩みが生まれた」と言ったのです。 これほど無知でネガティヴで無責任な父親がいるでしょうか。 シッダールタのこの話は,彼の前世の物語から考えられる人物像とあまりにもかけ離れていて,とても同一人物の話とは思えません。 つまり,彼の前世の美談は単なる作り話にすぎないと考えるのが妥当です。 そうすると,前世というものの存在自体もきわめて疑わしいと言えるでしょう。

さらにシッダールタは,自分の悩みを解決したいがために家族を捨て,苦行の旅に出ました。 前世の物語のように,本当に愛のある人なら,自分で作った家族のために責任を持って,自分の人生の全てを捧げるのではないでしょうか。 にもかかわらず,彼は誰にも告げずに家族を置き去りにし,育児放棄をして,父親として果たすべき当然の責任を放棄して,一人で勝手に旅に出たのです。 シッダールタのこの行為は,人として最悪です。 あまりに無責任で,自己中心的にもほどがあります。 ここで,「彼は人々の苦しみを解決したいがために,苦行の旅に出たのだ」という反論が考えられます。 しかし,その「人々」の中には自分の家族は含まれていないのでしょうか。 彼の妻ヤショーダラーは優しく,よく気遣いができる女性だったらしいですが,本当は育児放棄などして欲しくなかったと思います。 彼は,このような,誰にでも分かる当たり前のことにすら気づかなかったようです。 もし本当に子どもを心から愛していたのなら,子どもの誕生を妻とともに何より喜ぶはずですし,自分の妻と子どものことを第一に考えるはずです。 しかしシッダールタはそうしませんでした。 自分が突然いなくなったら,妻も子どもも悲しむだろうと彼も考えたと思いますが,彼はそれ以上に自分の悩みを解決することを優先したのです。 さて,ここで,「突然旅に出たのはあくまで人々のためであり,自分の利益のためではない」という反論が考えられます。 しかし,現実に妻と子どもを捨てた以上,人々のため,という言い訳は通用しません。 本当に愛のある人なら,人々のためであっても,家族を捨てることはしません。 「人々」と「家族」を天秤にかけ,「家族」を捨てるという行為は,まぎれもなく死罪に値する大罪です。 このことは,しっかりと強調されなければなりません。 これが分からない人は,そもそも「罪」というものが分からない,きわめて自己中心的な人です。

では,「罪」とは何なのか,と反発する人がいるでしょう。 「罪」を知るためには,キリスト教の聖書をよく読んで下さい。 具体的な聖書箇所を挙げるなら,旧約聖書に書かれているモーセの律法(出エジプト記,レビ記,民数記,申命記に書かれている613の命令)や,新約聖書のマタイの福音書5〜7章の「山上の垂訓」を読んで下さい。 モーセの律法(神がイスラエル人に与えられた法体系)は現在では無効になっていますが,当時,神がイスラエル人に求められた聖さと義しさのレベルの高さは現在でも変わりません。 なぜなら,神のご性質(聖さと義しさ)はいつの時代においても不変だからです。 特にモーセの律法は613の命令からなる統一体なので,たった一つの命令に違反しただけで,613の命令の全てに違反したことになるのです(ヤコブ2:10)。 これが聖書の教える神の聖さと義しさのレベルの高さです。 シッダールタは異邦人(ユダヤ人から見た外国人のこと)なのでモーセの律法とは無関係ですが,異邦人であるシッダールタには私たちと同様に,神から自然界や良心を通した啓示(一般啓示)が与えられていました(ローマ1:20参照)。 もしシッダールタがこの一般啓示に応答して,まことの神を求めていたのなら,彼にはさらなる啓示が与えられ,神の救いの福音を聞くチャンスが与えられたはずですが,残念なことに彼は神が与えて下さった一般啓示に応答せずに,神を拒み続けて死んだようです。 したがって,聖書によれば,シッダールタは悟りなど開いておらず,滅んでいることになります。 つまり,今もシッダールタは「ハデスの苦しみの場所」(ルカ16:19〜31参照)にいるということです。 ちなみに,山上の垂訓の内容は,メシアであるイエスによるモーセの律法の正しい解釈を示したものです。 イエスは当時のユダヤ人たちに,モーセの律法の正しい解釈を教えられました。 それが「山上の垂訓」と呼ばれているものです。 この山上の垂訓を読んだら,自信を持って「自分は全ての戒めを守っている」と豪語できる人など誰もいないと思います。 神の求める基準は,人間がどれだけ修行しようとも,決して届くことがないほどに高いのです(エレミヤ17:9,コロサイ2:23参照)。 さて,まことの神(実在しておられる唯一の神)が人に求める聖さと義しさの基準がいかに高いのかを理解できたら,自分を含めどんな人間でさえも,聖書の福音を受け入れて,神の恵みによって救われない限り,決して神の怒りから逃れられないことが分かるはずです(ローマ1:16〜2:16参照)。 つまり,神から見たら「義人は一人もいない」のです(ローマ3:10,詩篇14:1〜3,53:1〜3参照)。 このように聖書の教えを正しく理解すれば,シッダールタや自分自身の罪が痛いほど分かるようになるでしょう。 また,このことからも,シッダールタの前世物語は嘘だと証明されます。 もし彼の前世物語が事実なら,シッダールタは妻と子どもを捨てるという大罪を犯すわけがないからです。 後に,シッダールタの妻ヤショーダラーと息子のラーフラは出家したそうですが,彼らが悟りを開いたという歴史的証拠はないようです。 そして,妻と子どもを捨てたという大罪に対する償いが完全になされたという証拠も何一つありません。 この罪の問題は非常に大事なことなのですが,なぜか何も語られていません。 その訳は,シッダールタ自身,悟りを開いたと思った後でさえ,自分の罪というものが良く分かっていなかったからでしょう。 つまり,以上のことから考えると,シッダールタは悟りを開いていなかった,ということになります。 「悟りを開いた」と思ったのは,単なる勘違いにすぎなかったのです。 そして生涯,この勘違いに気づかなかったようです。 何と愚かなことでしょうか。

さて,シッダールタは,ブッダガヤーの菩提樹下で悟りを開いたと言われています。 しかし,悟りを開いたというのは嘘です。 前述したことからも既に嘘だと分かりますが,他にも理由はあります。 それは,自分が悟った内容は難しすぎて,他の人には理解できないと考えたことです。 もし彼のその考えが正しければ,仏教は存在しなかったはずです。 しかし,彼以外にも,多くの弟子たちが悟りを開いたと言われ,いまだに仏教という宗教が存在しています。 これは矛盾です。 つまり,ブッダ(「目覚めた人」という意味)となったはずのシッダールタは考え違いをしていたということになり,決して悟りを開いたわけではなかったのです。 また,他人には難しすぎて理解できないだろうと考えたのは,とても傲慢です。 彼はブッダとなったはずなのに,自分の傲慢さにも気づきませんでした。 何と愚かなことでしょうか。

またシッダールタは,悟りを開いた後,誰にも理解できないのならもう生きている意味はないと思い,自殺しようとしたそうです。 しかし彼は,自殺しようとしていた所を梵天に説得されて,初めて,自分の得た真理(と彼自身が思い込んでいたこと)を人々に伝えようと決意したそうです。 彼は,説得されなければ,自分がしようとしていたこと(自殺)が正しくないことだと気づかなかったようです。 「釈迦に説法」という慣用句がありますが,実に皮肉なことに,釈迦は梵天に説法されたのです。 そのような人が,悟りを開いた,つまり,「まよいを脱して真理を会得」(『広辞苑』第五版)したと言えるでしょうか。 彼は,説得されている時に「まよった」のではないでしょうか。 自分の得た(と彼自身が思い込んでいた)真理を人々に伝えるべきかどうか,悩んだはずです。 つまり,全然まよいは解けていなかったのです。 したがって,悟りを開いたというのは嘘になります。 しかし彼は,そのことに気づかなかったようです。 何と愚かなことでしょうか。

以上のことから,釈迦牟尼(お釈迦さま)と呼ばれる人は,悟りを開いていなかったことが証明されました。 彼は生涯,悟りを開くことはありませんでした。 ところで,仏教の教理は釈迦牟尼の教えが土台となっています。 しかし,仏教における一番の教師である釈迦牟尼が悟りを開いていないのなら,彼の教え,つまり仏教の教理が正しいという保証は全くありません。 釈迦牟尼は悟りを開いておらず,その教えも決して正しいとは言えないとなると,もはや仏教徒の信じる土台は根底から崩れてしまいます。 つまり,いくら修行しても決して悟りは開けないし,苦しみから救われることもないのです。 したがって,その結論として,仏教には信じる価値がないと言えます。 仏教を信じている多くの人々が,その間違いに早く気づいてくれますように。 そして,聖書の福音(特に1コリント15:1〜4)こそ,信じる価値があることを知ってくれますように。

参考文献

2017年11月22日更新
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