一介の天使が定まった運命をくつがえすなど、不可能に近い。ましてや熾天使でもない、一番位の低いあたしに。だけど、どうして彼を見捨てれるだろう?
突如の悲鳴。
その時あたしは光に混じってオペラ座の上を飛んでいた。急いで声のほうに降りる。深く暗い地下には、二人の人間がいた。
立ちすくむ女とうずくまる男。あたりには血も凍る恐怖と、果てのない悲しみが渦まいている。男の顔をのぞこうと思った。だが、すでに不気味な仮面に覆われて、見ることはかなわない。
そして、その時から悲劇は始まった。
イラスト茶々猫様
遠くで誰かがオルガンを弾いている。きれいな旋律、歓びに溢れたメロディ。天界でもあれほどの音楽を聴いたことがない。誰の曲だろう?
カタ。耳元で物音がした。続いて声。
「起きたまえ、クリスティーヌ。お前のために曲を作ったのだ。」
クリスティーヌ?声はそう言ったのだろうか?あたしはノロノロとまぶたをあげた。一体何が起こっているのだろう?自分はどこにいるんだろう?クリスティーヌってだれ?あたしの名前はそれじゃない。それにどうして体が重い?これじゃあ人間と変わらない。
あらゆる疑問が頭の中をかけめぐっている。
ところが体のほうは意に反して起き上がってしまった。まるで声に操られるよう。
今まで自分が寝ていたベッドの端に座った。その横に大きな姿見が立ててある。あたしはそれをのぞきこんだ。映ったものを確めた瞬間、すべての記憶が蘇り、おもわず歓声をあげそうになった。
あたしは『クリスティーヌ』とすりかわることに成功した!
でも喜んではいられない。これから始まる悲劇を食いとめなければならない。
あたしは知っている。
クリスティーヌはエリックの素顔を知る。そして、そこから総てが狂いだし、いずれ彼は自ら命を絶つことになる。なんとかそれを回避し、彼を助けたかった。
エリックは今やオルガンに向かい、鍵盤に指を滑らそうとしていた。
夢の奥で聞いていた曲よりももっと美しい歌。それほどまでに彼の胸は幸福で満たされているというのか。クリスティーヌを手に入れたということに。
あたしの胸は少し痛んだ。
「クリスティーヌ来るがいい。おまえの曲だ!」
あたしは怪人の横にならんで曲に聴きいった。
「歌えるかしら………。」
懸命にクリスティーヌの喋り方を思い出して、声を出す。
しかし彼はいっこうに気づかず言った。
「弱音は不要だ。おまえにできない物はない!」しわがれた声がどこか弾んでいる。あたしは怪人の仮面を見つめた。天にいた時ですら、彼の素顔は見れなかった。本当はどんな顔をしているのだろう。
あたしの手が無意識のうちに伸びていた。
「仮面の下はどんな顔なの……?」
天使は生まれつきどうしようもなく好奇心がつよい。あたしも例外ではなかった。
だが、踏みとどまった。ここでクリスティーヌの二の足を踏む訳にはいかない。
ところが、怪人が怪訝そうに振り返った。そして、言葉が漏れる。
「仮面・・・・・?」
その時の自分の行動が、どうしても理解できない。
エリックの言葉に操られたとしか・・・・・。彼の奥深くに潜む願望に・・・・・。
次の瞬間、仮面は落ちた。
彼はうめきながら顔を両手で覆いかくして床にうずくまった。
「なぜ見たんだ!なんという事をしたのだ!おまえはこの世で一番重い罪を犯した、このバカ女め、呪われろ!」
サッと全身が凍りついた。そして思いだした。あたしは彼の素顔を知っている。最後を見ていたのだから。しかし恐ろしさのあまり記憶を封じていた。
今も封印はとけない。
だが、これではクリスティーヌと同じ結末を迎えてしまう。あたしは仮面を拾って彼の前に座った。
何か言わなければ、言わなければならない!
「うう…う……。」
しかし、言葉がでない。肩を震わして嗚咽する男に、何を言って慰めていいのか見当がつかない。
「エリック……。」
あたしはとりあえず彼の手に触れた。そのとたん反対側の手が伸び、あたしの腕をわしづかみにすると締めあげた。骨が折れる程のもの凄い力だった。
「おまえを決して許さぬ!」
地獄の底から響くような声を立ち上らせ、怪人は顔をあげた。
あたしの喉元まで悲鳴がこみあげてきた。その素顔は想像をはるかに絶するすさまじい形相を呈していた。目を閉じようとしても瞼が凍り付いている。
これではクリスティーヌがエリックを恐れても当然に思えた。
しかしむきだしの目の奥に映るものが見えた。それは怪人の………………永遠の孤独と絶望だった。
「エリック……。かわいそうな人…。」
あたしはおもわず怪人の背中に腕を回した。そして力一杯抱き締めた。
この時あたしは『心優しい天使』ではなかった。ただただ、エリックが哀れだった。
「かわいそうな人!」
涙があふれた。涙は怪人の頬に落ち、醜くめくれた皮膚を伝って床に散った。
「何を言って……い……るのだ……?」
エリックがあたしの胸の中から顔を上げた。その顔に混乱が表れている。怪人にとって、抱きしめられる事も、同情される事も初めてだと、この時気づいた。
あたしはそっと腕を解いた。
「おねがい…もう怒らないで………。」
とつじょ怪人は立ちあがり、背を向けた。そして、震える声で言った。
「向こうへ行け!独りにしてほしい!」
エリックは部屋を出ていった。地下の湖に通じるドアを選んだから、たぶんそこにいるのだと思う。
そして、あたしは溜息をくり返していた。二つの理由から。一つは、彼の仮面を剥がしてしまった事。そして、もう一つは、歴史を変えてしまった事。歴史を変えるなど、神にしか許されないことだ。考えただけで体が震えてくる。
でも、後悔はしていない。初めからそのつもりだったんだから!そして、やめる気もなかった。彼を救うまで。
遠くから微かに歌声が漂ってくる。
はるか上のオペラ座で、何か上演されているのだろう。
「誰かな、ウバルトかな?」
続いて別の声。今度は女性のようだ。
「クリスティーヌじゃない…みたい。カルロッタかな…。」
呟きながら、背筋がぞっとした。今、本物のクリスティーヌはこの真上にいる。もしエリックが彼女に会ってしまったら、大変な事になる。どうにかして、クリスティーヌをここから出さなければ!
しばらく考えてから、まだ彼が戻っていないのを確認して、翼を広げた。
小一時間ほどして、あたしは地下の隠れ家にもどった。翼をたたみ、クリスティーヌの姿に変わる。しかし熾天使でもないあたしにとって、これはなかなかきつい作業だった。
あたしはひどい疲労を感じてイスによりかかった。
「エリック……遅い……。」
彼の気配がまだ湖にあるのは感じている。何をしているのだろう?
あたしは閉じていた目を開いた。その先にオルガンがある。古びているが手入れのゆきとどいた物で、きれいな天使の装飾が施してある。開けられたふたの上に楽譜が重ねられていた。
エリックがあたしのためにつくったという物だろうか?
「見てみたい……。」
重い体をやっと起こして、オルガンの前に座った。天にいた頃は楽天のグループにいたから、何が書かれているかは読める。普通に書かれたものならば…の話だが……。しかし、あたしはそれを目にしたとたん、言葉を失った。
「血文字…なんて……。」
死んでしまうんじゃないかと思うほどの量だった。
「これって……!」
楽譜を読み進むうちにあたしは胸が熱くなってくるのに気づいた。
怪人の生み出したメロディは、言葉では表わせないくらい素晴らしいものだった。本物の音楽の天使でもこれほどの物はつくれない。
それでようやく血文字のわけが分った。彼は自分の芸術だからこそ、自らの命で記したのだ。
「エリック…素晴らしいわ……!」
不思議と身体に力がみなぎってきた。胸が高鳴って、苦しい。腰を上げ、椅子の後ろにしっかりと立った。そこに彼がいるつもりで!
空気を胸一杯に吸いこんで!
歌いたい!歌うわ!
その時、湖のドアが開いた。ハッとそちらをふり返った。
「エリック!」
名を呼ばれてドアの影で黒いものが震えた。そこには確かに彼がいた。
でも、何て小さく見えるのだろう?さきほどまでの自信に満ちた雰囲気がどこにもない。
「エリック…?」
不安になって、怪人に歩みよった。彼は怯えたまなざしであたしを凝視した。
まるで幻を見るかのようなまなざしをしている。
あたしは怪人に手を伸ばした。それと同時に彼の腕があたしの手を捕えた。
必死に何かを確めるように。
しばらく、怪人は腕をつかんだまま動かなかった。やがて、聞き取れないほど小さな息をもらした。
その時ようやくエリックの行動の意味が分った。
エリックの腕を通して怪人の心が伝わってくる。
生まれて初めて苦しみを分ってもらえたという喜び。それが幻ではないという幸福。
それも自分が愛するクリスティーヌからの……。天使は自然に人の心が読める。でも、あたしはそこまでで心を閉ざした。
静かに彼の腕を解いた。そして微笑みかけた。
「……向こうでお茶にしましょう…。それから、歌を教えて。ね。」
あの日からエリックは少し変わった。マスクは着けたままで、歌のレッスンも天から見ていた頃と変わらず厳しかったが、どこか以前とは違っていた。どこかしら雰囲気が優しい。言葉の端々、声の調子、表情、どこか優しい。毎日が充実しているようで、幸せそうにも見える。
あの時から彼の心は読まない。いいや、無意識のうちに心を閉ざしているのかもしれない。
そして、あたしはエリックの心の中については考えないようにした。
幸せにしてあげたい、とだけ考えるようになった。
「怪我をしたの?その手、血が出てるわ。」
あたしは傷にひびかないように気をつけて、怪人の手を取った。
「ああ、さっき引っかけた時にできたのだな。」
右手の甲が横に裂けて口を開いている。流れた血がこびりついて固まり、ブラウスを染めている。だが、どこにも手当てしたあとがない。
「酷い傷、痛むでしょう?何もしなかったの?」
彼は黙ってうなずいた。
「なぜ?」
「私には………必要ない。ほっておけば治る………それに自分で手当てなどしたこともないし、ましてしてもらったことがないのでね。母親にさえ。」
エリックは仮面の下に何も表情を浮かべず、答えた。
それは静かな、諦めの入りまじった声だった。だが、それは苦しいくらい胸を締めつけた。手を握ったまま、切なく見あげた。
「あたしを忘れないで………。そばにいるのに…。手当てぐらいできるわ。」
エリックはハッとして顔を上げ、そして安らいだ表情になった。
「そうだったな。私の天使よ。」
手早く傷を消毒し、包帯を巻く。エリックは初めてのことに戸惑っているふうだった。
あたしが側にいるだけでは、まだ彼は幸せになれないと、感じた。
どうしたらエリックを幸福にしてあげられる?
あたしは視線を天井に向けた。
高くて広いが暗い地下室の天井。年代物の調度品にかこまれているが、湿気の多い部屋。こんな所に閉じこもっているのがいけないんだろうか?彼を外に連れ出せない?
この部屋とオペラ座から一歩も出ない人だから、誰かに見られるのを嫌う人だから。
なら、夜だったらいいかもしれない。
エリックに外の世界の素晴らしさを教えてあげたい。
3日間が経過した。その間あたしはエリックの地下室に降りて行かなかった。「フィオーレ」の舞台に立っていたから。むろん、舞台は大成功だった。そしてその夜は「フィオーレ」の成功とプリマドンナ、クリスティーヌ・ダーエを称えるパーティが予定されていた。あたしは公演終了後、控室にひとりで戻った。
一時間後にはパーティの馬車が迎えにくる約束になっている。
でも出席する気はなかった。祝賀パーティと銘うっても、しょせんは支配人の売名でしかない。それに本物のクリスティーヌ・ダーエでもないあたしが出るのは気が引けた。
あたしはメイクを落としてかつらを外してから、鏡の前に立って自分の姿を眺めた。「フィオーレ」は、花の妖精とそれに相反する存在である嵐の王子がさまざまな困難に遭いながら、おたがいの思いをつらぬこうとする話。
もちろんあたしの役は花の妖精だった。しかし、主人公と言っても衣装は決して派手ではなく、ユリをイメージした、清楚で優雅なドレスになっていた。あたしはこれがとても気にいっていた。なぜならその白い色が天使のコスチュームを思い出させたし、なによりもウェディングドレスに似ているのが好きだった。
「クリスティーヌ、支度はできた?」
ノックと一緒に可愛い声がドアの向こうから届いた。あたしはノブをひねった。
影から巻毛の少女が顔を出した。あたしはすかさず辛そうな声を上げた。
「メグ、迎えの馬車が来たのね。ごめんなさい、あたし気分が悪くて行けそうもないわ…。」
しかし、彼女は全てを見透かすようなまなざしを向けた。
「だめよ、いかなきゃ。気分なんかすぐ良くなるわよ。それにあなたを連れていかなかったら、あたし、怒られちゃう。」
あたしは溜息をついた。メグの前で手を合せる。
「お願い!あなたがここにきた時には、もう居なかった事にしておいて!支配人には明日あたしからわけを話すから!」
懇願するように彼女を見つめた。今度はメグが溜息をついた。
「しょうがないわ。クリスティーヌ、会いたい人がいるのね。じゃあ、うまくやっておくから……、その代わり……。」
「なに?」
メグはちょっと恥ずかしそうに口を開いた。
「キスをして、あたしのほっぺたに。あなたみたいな天使の声が出るようにおまじないをしてほしいの!」
可愛らしい望みを聞いて、あたしは微笑んだ。彼女の顎にそっと手をかけた。
「いいわ、じゃあ目を閉じて……。」
柔らかな頬に小さなキスをプレゼントした。少しだけ力を使ったから、いつかメグは素晴らしいプリマになるだろう。
「ありがとう!クリスティーヌ!」
頬を鮮やかなバラ色に染めて少女は、楽屋の暗い廊下を走っていった。
後ろ姿を見送りながら、不意にある景色が心に浮かんだ。
森の中の澄んだ湖が、静かに空を映している。
空には丸い銀の船。地上すべてに清かな光で囁いている。
そこはどこだろうと考えた。感応できる範囲はたかが知れてるから、ここの近くだと思うけど…。
妙に心惹かれる。あそこに彼を連れて行きたいと強く願っていた。
「クリスティーヌ……。」
鏡の中から微かに覚えのある声が伝わってきた。
「エリック?」
あたしは駆けよった。それと同時に鏡に怪人の姿がすぅっと浮びあがった。
「おまえの舞台を観ていた。素晴らしかった、クリスティーヌ。私のプリマドンナよ!」
「あなたのおかげよ、エリック。そこへ行ってもいい?」
「よろしい、来たまえ!」
鏡を突き抜けて白い手が差し出された。あたしはきゅっと握りしめた。
そして部屋には誰もいなくなった。
地下の家に着くと、彼はテーブルの上の大きい木の箱を見せた。表面にはきれいなレリーフが施され、ほのかに花の香りが漂っている。
「これは?」
エリックは満足そうに答えた。
「私が造ったのだ。おまえのために。おまえの成功祝いだ。」
あたしはふたを開けた。
「まぁ!」
箱の中ではクリスタルで型どられた貴婦人や貴公子が、音楽に合せて華麗な舞踏会を繰り広げていた。
「これをあたしに?ありがとう!」
「ウィーンではこういうスタイルが流行っているそうだ。」
意外なエリックの言葉に驚いた。そんな事を言うなんて。眺めている間に名案がうかんだ。あたしはふたを閉じた。
「エリック、あたしも舞踏会がしたいわ!いい場所を知っているの。湖のある所よ!」
「湖?ああ、知っている。オペラ座のすぐ南の森にある。そこなら、ここから地下道で結ばれている。連れていってあげよう。」
月が静まりかえった森を煌々と照らしていた。
湖の透き通った水面を月光がきらきらと反射している。
あたしは今自分の出てきた繁みを振りかえった。そこには、息を殺して闇に隠れるようにエリックが立っていた。ところが、一向にそこから出てくる気配がない。あたしはてっきり彼も来てくれると思っていたが、それは間違いだった。
「来ないの?」
さり気なく尋ねる。しかし、彼は首を振った。
エリックが外に出て人に姿を見られるのを嫌うのは分っている。でも。
「どうして?独りじゃ踊れないわ。」
茂みまで戻り、腕を引いた。
あたしの言葉が終わるかどうかのうちに怪人の目がつりあがった。あの仮面を剥がした時のように怒り狂う姿が脳裏を掠め、背筋に冷たいものが走った。
しかし、彼はふっと目を伏せた。
「私にかまわないでくれ。クリスティーヌ……。」
穏やかな、しかし諦めの入り交じった声で怪人は呟き、手を外そうとした。
だが、あたしは思い切ってその手を止めた。
「ね、あなたの言った流行りのワルツを教えてくださいな。」
「クリスティーヌ……何を……。」
あたしは彼を、月の光に青白く浮かびあがる草の上にひっぱりだした。木箱のふたを開けると、華麗なワルツが流れ出した。
「一曲だけ、お願いします。」
微笑みながら彼と向かいあった。怪人はやれやれという顔をした。
そして、あたりを不安そうに見回し、誰もいない事を確認してエリックは言った。
「一曲だけだ。」
あたしはもう一度微笑した。彼の腕がこわごわあたしの手を取ろうとする。それが初めてのためと分っていた。怪人の手を止めた。
「手袋のままじゃ、おかしいわ。」
抵抗するスキを与えず、手袋を取り去った。その下からひからびた、しわだらけの指が現れた。瞬間、エリックは手を引っこめようとしたが、あたしはその指に自分の白い指をからめた。
「この方が自然よ、エリック……。」
あたしの行動に当惑した表情で、怪人が尋ねた。
「気持ち……悪くないかね……?」
「どうして?」
不思議そうな顔で仮面の男を見上げた。
「そうかね…?」
あたしを見おろす怪人の声が弾んでいた。
あたしは少しだけ心を開いた。そして、密かに安堵の息を漏らした。
エリックのダンスは緊張のためからか、ぎこちなかったが、しだいに優雅なものとなった。軽やかなステップにあわせて彼のマントが流れるように舞い、月の光に様々な影を地に落とす。あたし達は時を忘れて踊り続け、気がつくと音楽はとうに止まり、月は深く傾いていた。東の空が白々と明けてきている。
エリックは突然、ワルツを中止した。
「どうしたの?」
不安になって彼を見上げた。仮面の奥の瞳がじっとあたしを見つめている。
エリックは無言のまま静かにあたしから離れた。
あたりが薄明るくなってきた。いつもなら霧が出るのに、今朝は空気が澄みきったままで、怪人の姿をはっきりと浮かびあがらせていた。
あたしを見つめたまま、何か重要なことを思案しているようすだった。あたしは彼の心を読まなかった。ただ、答えを出すのを待った。
夜がすっかり明けた。朝日が木々の間から差し込み、エリックにあかるい光を投げかけた。その光を受けながら、彼は意を決したように、あたしに近づいた。そして、真正面まで来ると歩みを止めた。
「クリスティーヌ……。」
怪人はゆっくりと仮面に手をかけ、ためらわずに外した。
この世のものとは思えない醜い顔が現れた。しかし、あたしはもう恐れなかった。むしろ彼が自ら、それも明るい場所で素顔を見せた、という信じられない事実に驚きと喜びを感じていた。
「エ………。」
何か伝えたかった。でも、胸が一杯で言葉にならなかった。
エリックが何かを口にした。しかし、小さくて聞き取れなかった。
彼はもう一度、少しだけ声を大きくした。
「キスを……しても……いいかね……?」
ふりしぼられ、震えた声だった。あたしは半ば信じられないという気持ちで見あげた。
「嫌なら…かまわないが………クリスティーヌ……。」
消えいりそうな声だった。もちろん嫌じゃなかった。むしろ嬉しかった。
でもあたしは気づいていた。
彼が求めているのは『あたし』ではない、という事を…………。
しかし、それが彼の救いにつながるなら、何でもしてあげたい。
「キスをして……エリック。」
怪人も信じられないという顔で天使を見た。
震える両手があたしの肩に置かれた。彼の激しい胸の鼓動が聞こえてくるよう。
そしてそっと、まるで神様がするような優しさで、唇が額に触れた。
「クリスティーヌ………。」
力のすべてを出しつくしたように、腕が肩を滑り落ちた。
あたしは優しく彼の手を握った。
一瞬、背中から天使の翼が引きちぎれゆくイメージが脳裏をかすめた。
エリックの瞳を避けながら、口づけした。
目を伏せて言う。
「踊って……くれた……お礼…よ、エリック。」
だが、あたしの言葉など耳に入っていないように彼は立ちすくんでいる。
しかし、やがて自分をとり戻すと、確かめるように恋人の顔を見つめた。
あたしは彼のために微笑んだ。
がばっとエリックの両腕が伸びた。
「あっ!」
あたしの体を捕え、抱き締めた。
けれど、それはけっして甘い感触を持つものではなく、むしろ悲しくなるくらいせつない抱擁だった。
エリックの身体がこきざみに震えていた。
「クリスティーヌ……クリスティーヌ……!」
名を呼ばれるたびに胸が痛んだ。それきり、彼は黙った。
エリックはあたしを抱いたまま、涙を流していた。
控え室で楽譜を読んでいるとき、だれかに呼ばれた気がして振りむいた。その途端、部屋の明りが切れた。
『アイラ!』
呼ばれるはずのない名前に、全身が凍りついた。
続いて、何もない空間に小さな炎が現れ、みるみる燃え上がり、炎の色はそのままに、見覚えのある形になった。
『見つけたぞ、アイラ。さぁ、一緒に天へ帰るんだ。ここははおまえのいるべき場所じゃない。』
一つ深呼吸をして、答えた。
「いいえ、カイル。あたしは帰らないわ。いえ、帰れないの。」
あたしは毅然と答えた。炎が激しく揺らいだ。
『何を言ってるんだ!おまえは自分が何をしようとしてるのか、分かってないんだ!』
あたしは首をふった。そして努めて平然と答える。
「十分わかっているわ。あたしは一人の男を救うの。それだけ。」
『まったく分かっていない!いいか、アイラ、ここは我々にとって、過去の世界だ。おまえはすでに起こったことを、変えようとしている。歴史を変えるのだぞ?それがどれだけ恐ろしいことか、知っているだろう?』
「………あたしたち、天使のつとめは人間をみちびき、幸せにすることよ。主もおっしゃられているわ。」
炎がいっそう燃え上がっていくつにも分かれ、その一つがあたしの横をかすめた。
『それは詭弁だ。おまえの行いは罪以外のなにものでもない。堕天使になる気か?』
堕天使という言葉があたしを震えあがらせた。だが、カイルを見据えた。
「かまわないわ!」
『アイラ、よく考えろ。今ならまだ間に合う。おまえに関わったすべての人間の記憶を操作して、元に戻せば!』
「すべてを元に戻す?だめよ!そんな事をすれば、エリックはまた死んでしまう!…………カイル、お願いよ、あたしの邪魔をしないで。あの人にはあたしが必要なの。クリスティーヌが必要なの。あなただって知ってるでしょう?彼がどれだけ彼女を愛していたか、クリスがいなければ、どうにもならない。」
炎が小さく揺れた。
『だましてもか?』
辛辣な口調に口ごもりかけたが、答えなければならなかった。
「あたしのほかにだれが彼を救うの」
轟音とともに炎が爆発した。
「カイル!」
仲間の天使はすさまじい熱と光になって、あたしを取り巻いた。
『アイラ、考え直せ、堕天使になるな!そうしないと、今度はもっと多くの天使がおまえを追ってくる!』
しかし絶対にうなずくわけにはいかなかった。
「いやっ!」
『アイ……ラ………ッ………。』
炎の中に怒りがうずまいたと思うと、一瞬、哀しみが混じった。
『考え直せ!』
そして、何もかも闇に消えた。
「あっ!……。」
目を覚まして、身体が汗でじっとりと濡れているのに気づいた。耳にはまだ夢の中の声が生々しくこびりついている。
「あれは、夢じゃない。まだ体が熱い。カイルはあたしをみつけたんだわ。」
彼は言っていた。追っ手がかかると。一体どの天使があたしの事を知っているんだろう?
考えてみたが、愚問だった。
では、カイルはなぜ単独でここへきたんだろう?どうしても分からなかった。
「罪を犯した天使は地獄に落ちる。堕天使になって………。」
言葉とともに、恐ろしいイメージがあたしを震え上がらせた。
ここへきて、あたしはたくさんの罪を犯した。クリスティーヌとすりかわった事、エリックをだまし続けている事、そして、何より深い罪は、彼を愛してしまったこと。
お礼と言って交わした口づけには…、いつわりのない愛があった。
クリスティーヌとしてではなく、天使としてではなく、あたしという存在からの、心からの愛だった。
天使はつねに公平なまなざしで人を導かねばならない。いったん人と交わってしまえば天使としての資格はなくなる。それはあたしたちにとって何よりも恐ろしい犯罪。
しかし、すでに罪を犯していたのだろうと思う。
きっと、天から見ていた時からエリックに魅かれていた。賞賛の的だった翼は、きっとくちはじめている。
自分の肩からボロボロになった羽が惨めにぶら下がっているさまを、思い浮べるだけで身ぶるいがした。
あたしはそこで考えをうちきった。そして気分を変えようと鏡台の前に座った。きれいに磨き上げられた鏡面にクリスティーヌの姿が映り、そして、その背に……。
あたしの悲鳴は声にならなかった。
鏡の中に、腐り、無数の蛆が湧いて蠢く翼が映っていた。
「い……や……っ!」
あたしは両手で顔をおおって鏡台から立ちあがった。
「いやぁっ!」
叫びながらもう一枚の鏡に走り、割れんばかりに体を押しつけた。
「エリック!」
名を叫んだ。会いたかった。たまらなく会いたかった。
「エリック!エリック!エリック!」
両手で何度もたたく。こぶしが破裂するほど力一杯たたく。
でも、彼は現れない。いつもならすぐに姿をあらわすのに、今日は歌声すら聞こえない。
どうしたの?どうして来てくれないの?
鏡をたたく勢いがだんだん激しさを増した。そしてついに、打ちつけた所を中心に線が何本も上下に走り、大きく割れた鏡が鋭い音を立てながら、あたしにむかってくずれ落ちてきた。
「きゃあっ…!」
にぶい衝撃と激痛が交互に襲いかかり、あたしは床につき倒された。ようやく静かになって顔をあげると、鏡は跡形もなく割れてくずれ落ち、床一面にキラキラ光る破片が散乱していた。
「痛い……っ…。」
顔をしかめながら起きあがり、床に座る。見ると肘の部分が破れ、そこからパックリ開いた傷が覗いていた。幅は二十センチに及ぶだろう。だが血は一滴も流れない。流れるはずもない。人形のように。人間が見たらかなり気持ちの悪い風景だった。
「痛みは感じるんだから…あんまりよね……。」
天使── と人間── 。思い知らされた気分だっ
た。人間の体が欲しかった。すこしで
もあの人に近づけたらいいのに。
でも、あたしの背中では羽が腐っている。ドレッサーに映ったものがまざまざと心に蘇ってきた。ショックで収まっていた恐怖が再びあたしを襲う。胸がつぶれそうだった。
たった独りでこれに耐えなければならないの?
「エリック……あたしが好き?」
無意識に呟く。
その時すっと影がかぶさった。そして聴きなれた声が優しく降る。
「クリスティーヌ、どうしたんだね?怪我は?」あたしははっと声の主を見あげた。
「エリック!」
オペラ座の怪人がマスクを付けたままそこに立っていた。彼は心配そうにあたしを見おろしている。その後ろでドアが半分開いたままになっていた。
「どこ…に…?」
エリックはどこか嬉しそうに口を開いた。
「散歩…だ。オペラ座の森は色々な花が咲いていた…。こっそり廊下を通ってここへ来たが、なかなかスリルがある。」
人に姿を見られるのをひどく嫌う彼が自分から外に出るなんて、信じられなかった。喜んであげなければいけない。
それは分っているけれど。
あたしはもっと顔を上げてにっこり笑った。何も無い笑みで彼を見つめた。
「エリック、冒険だったわね。あたしは大丈夫。ちょっとぶつかった拍子に割れてしまって。古い鏡だったから……。」
あたしは彼の手を借りて起きあがり、スカートをはたいて破片を払った。
怪人は自分のポケットに手を入れた。
「おまえに似合うだろう。」
そして真白な優しい花を取り出すと、あたしのほつれ毛を直し、髪に飾った。
「思った通りだ。」
満足そうにエリックは言い、ちょっとだけ笑ってみせた。
初めてみた笑顔。たぶん彼の生涯で初めての。
「エリック……きれいね。」
ふいに怪人の顔が険しくなった。あたしの腕をぐっと掴んで引きよせた。
「大丈夫かね?ドレスが破れている。」
あたしははっとして腕を押えた。強引にひいて腕を隠した。
「ナイショね、やぶいちゃったこと。支配人に怒られるから!」
いたずらっぽく笑い、彼にウインクを投げた。しかし、エリックは呆けたように腕を凝視している。あたしは不安に駆られて叫んだ。
「エリック!」
はっとして彼はあたしの顔に視線を戻した。
「ああ……言わないよ、クリスティーヌ。………それより片つけたほうがいい。またケガをしては大変だ。イスにかけておいで。」
いつものように優しくエリックはあたしの手を取ると、座らせた。
でも、何だか嫌な予感がつきまとって離れない。もしかしたら、感づかれたかもしれない。そうなってしまえば全てが終わってしまう。
そっと怪人の心を覗いてみた。
ところが、何も考えていなかった。一心に鏡を拾い集めている。
あたしはとりあえず、ほっとした。
「ねぇ、エリック、この頃あまり会えないわね、毎日何してるの?」
「私かね?」
彼はちょっとはにかんだ。
「いつもおまえの事だけ考えている。」
そうね、あなたが愛しているのはクリスティーヌ、だけ。けど、あたしを好きになってはくれないかしら。天使が救いを求めてはおかしい?
「エリック……あたしが好き…?」
知らないうちに言葉が飛び出していた。彼は驚いた顔で振りむいた。しかし、それはすぐに何ともいえない暖かい表情になった。そして怪人はゆっくりと、はっきり言った。
「好きだよ。」
───── 支えがほしい。
「本当に?」
あたしはイスから立ってエリックの前に出た。見つめたが、自分自身気づかないほどの、ひどく切ないまなざしを向けていた。
「本当にあたしが好き?」
一瞬彼は戸惑いを見せたが、手がすっとあたしの髪に伸びて、優しく撫でた。みつめかえして答えた。
「おまえだけが何より大切だ。」
「そう…──── 。」
涙が出そうだった。あたしは彼の袖をつかんで、そのまま頬に押しつけた。
割れてしまった鏡を新しいものに入れ替えてもらった後、沈んだ気持ちでいたあたしは、突如激しい戦慄を感じて、凍りついた。
「何?この感情は!」
こんな強い憎悪を感じたのは初めてだった。全身がびりびりして強ばってしまう。
「エリック?」
不吉な予感に駆り立てられて彼を探す。しかし、部屋には感じられない。
「どこ、どこにいるの?」
必死に集中するが、疲れていてなかなかできない。
湖、地下蔵、地下への階段、………地下道………。みつからない。
「あのあと、部屋にいるっていってたのに………。どこに行ったの?」
予感がますます強くなる。不安で押し潰されそう。その時。
『殺される!』
強烈な恐怖が空間を突き抜けていった。あたしは即座にそれを辿った。
「みつけた!」
この部屋からずいぶん離れた廊下を“恐怖”が“憎悪”に追われて逃げている。それがなんだかはすぐに分かった。
「エリック、ブケーを殺してはだめよ!」
止めなくては!彼に人殺しなんてさせない!
あたしは廊下へ飛び出した。
廊下を走り出したものの、体が重くて思うように走れなかった。角まできて、止まった。「この姿ではだめだわ!天使に戻ったほうが速い。」
自分が望まなければ普通の人に天使は見えない。あたしは辺りに人がいないことを確かめて、姿を変えると翼を広げた。
「クリス……?」
消え去った後、呆然と見送る影が一つあった。
ブケーには自分がもうどのくらい走っているのか見当もつかず、どこにいるのかも分からなくなっていた。彼に分かるわずかなことは、まもなく、心臓が破裂するより前に、怪人に殺されることだけだった。激しい後悔が胸に押し寄せてきた。
こんな死に方をするのだったら、怪人を嘲るべきではなかった。
だが!ワシのようなうす汚い老人をだれが相手にしてくれる?気味の悪い幽霊をネタにでもしなければ、誰も口を利いてくれないじゃないか!哀れな男のささやかな楽しみを咎めるのか、オペラ座の怪人は!
大道具係は心の中で叫んだが、どうにもならないことは分かっていた。
「わぁうっ!」
何かにつまずいて、ブケーは倒れた。倒れたが最後もう動けなかった。だが、目だけは背後の闇に釘づけだった。
ゆら……と闇がうごめいた。
『いたわ!』
あたしの前方をブケーがよろよろと走っていた。気も狂わんばかりの恐怖が老人の心臓を限界以上に働かせているのが感じられる。あれではまもなく心臓は破裂するだろう。
『エリックは、あの人はどこ?』
空中に漂ったまま、薄暗い廊下を見回す。しかし、気配はするのにみつからない。だが、この気配、おどろおどろしい憎しみ。千年近く人間と関わってきて、これほどの感情には出会ったことがない。息が詰まりそう。じわじわと体が蝕まれていく気がする。
ふっ……、カーテンの影に怪人がいた。と思うと、反対側の道具いれの後ろ。次はずっと前方の階段の前。
一体どうやって移動しているのか、足音も聞こえないし、息遣いすらない。いいや、すべての闇に彼は存在している。そうとしか考えられなかった。
あたしは震え出した体を押さえようと、ぎゅっと両腕で体を抱きしめた。だが止まらなかった。あらゆる闇が憎しみで染まり、ブケーを追っている。
『あっ!』
ついに力尽きて倒れた。それを待っていたかのように、彼のまわりの闇が濃くなる。
ヒュン…。何かが空気を切り裂いている。ヒュン……ヒュ………ン。一つや二つじゃない。もっと多くの何かが、じりじりと哀れな老人に迫っている。
正体がなんであるかは、あたしが必死でエリックの姿をみつけようと一つの闇に目を凝らしているときに分かった。
「ひゃあっ!」
悲鳴にふりかえると、ブケーが薄闇の中で奇妙に体をねじまげてもがいている。よく見るとその両手両足は何か細いものにからまれ、あらゆる方向に引っ張られている。
『パンジャブの縄!』
ギ…リ………。
「ギャアァオゥ!」
ブケーが人間とは思えない声を上げた。ゆっくりとしかし確実に彼の体が捩じられてゆく。げぇ、と彼が胃液を吐き出した。
『死んでしまう!エリック、やめてっ!』
あたしは見えない彼に向かって叫んだ。一瞬、怯んだ気配が漂った。そのすきをついて、ブケーに突進し、縄を断ち切った。
「な……?」
突然起こったことに驚いて、怪人が現れた。彼はあたしの真下のわずかな影に潜んでいたのだ。
死にかけた男が必死に体を起こして逃げようとした。だが、その途端転び、起きようとしてまた転ぶ。
エリックは二度三度あたりを見て、再び憎しみに歪んだ表情に戻ると、ブケーに詰め寄った。
大道具係は怪人の姿を認めて動かなくなった。いや、指一本でさえ動かせなくなった。
これ以上はないほど目を見開き、唇も半開きのままだ。何かをいおうとして言葉が凍りついている。
怪人は左手を高く差しあげた。その手の中に魔法のように縄が現れた。エリックの口元にうっすらと笑いが浮かぶ。
『う……そ……!』
あたしはブケーの横に立ち、彼と同じように動けなくなっていた。目の前で起こっていても、信じることができなかった。
エリックは死ぬまでに二人の人間を殺している。でもそれは今の彼とは別人!彼はあたしと暮らすようになってから、ずいぶん変わった。かげりはあるものの、穏やかになっているし、時には優しい心遣いを見せてくれる。だれよりもあたしがよく知っている、彼は人殺しじゃない!
しかし、どうあがいても無駄だった。今にもブケーを吊そうとしているのはエリック、その人だった。
縄がゆっくりとブケーの頭にかかった。
『やめてっ!」
とっさにブケーを突き飛ばし、怪人の前に立ちふさがった。
怪人は何もない空間にいきなり現れたものをみて、ぎょっとした。
「う……?」
あたしに彼の言葉は聞こえなかった。彼を止めようと手をつきだして、息をのんだ。
からだが変わってゆく!
白くたおやかな腕が、みるみるゴツゴツとした毛むくじゃらなものに変わり、爪が長くのびて鋭い鉤爪になった。しなやかな足も太く醜く変わり、口は耳まで裂けてとびでた牙がぬめって光った。そして最後に象徴であるコウモリに似た翼が背中を突き破って大きく広がった。
「あ………悪魔だ………!」
大道具係の声でわれに返った。
エリックの手から握っていた縄が落ちた。生まれて初めて感じた恐怖に、体をこわばらせ、小刻みに震えている。
あたしは後ずさろうと思った。こんな姿を彼に見られたくない。
ところが体が動かなかった。それどころか勝手に腕が動いて、これ以上ないほど目を開いた老人の頬を鷲掴みにした。
残酷な笑みに唇が歪む。
「おまえ、このいやらしいウジむし、その顔を引き剥がして、小さくちぎって、舞台にまきちらしてやろう。」
口が勝手に動いている………!一声も自分の声が出ない。
ブケーは今にも失神しそうな顔でガタガタ震えている。
悪魔は嘲るようにいった。
「何も、恐れることなど、ない。仲間がいるではないか?ほれ、おまえを殺そうとした、男だ。奴と同じ『ばけもの』になるのだ。」
思ってもいないことが次々と言葉になる。
『ひどい、ひどすぎる!どうしてこんなことを言うの?』
あたしは心の中で絶叫したが、どうにもならなかった。腕が勝手に動いて、ブケーの首を掴み、床に押し付けた。彼は反射的にもがいたが、頭が床につく頃には死んだように動かなくなった。
次の瞬間、引っ掛けられたすぐ横の布が鋭い音をたてて、すぱっと切れた。それを横目で眺めつつ、悪魔は地の底から響くような声で言った。
「待っていろ…………!すぐに“ばけもの”にしてやる。」
哀れな大道具係は目を開けたまま気を失っていて、聞いていなかった。悪魔は思ったような恐怖を与えれず、舌打ちした。
その時、何かが空気を裂いて悪魔の首にからみついた。
「…………?」
悪魔はうっとおしげに首を回した。そこにはオペラ座の怪人が満身の力をこめて縄を締め上げていた。その目にはもはや怯えはなく、激しい怒りにギラギラ輝いている。
フン!と悪魔は鼻を鳴らした。そして、ブケーから離れた。男のシャツの右の袖口から左にかけてが切り裂かれた。悪魔はエリックに向き直ると、縄を掴んだ。
「何を怒っている?わざわざ仲間を作ってやっているのだ。感謝したらどうだ?」
エリックは答えなかった。代わりにいっそう目をぎらつかせ、腕に力をこめた。一歩、よろめきはしたが、悪魔の表情は変わらず彼を嘲っていた。プツッと自然に縄が切れた。
悪魔は、縄の切れた事におどろいているエリックに悠然と歩みよると、鋭い爪のある指で彼の仮面に手をかけた。
そして、さも愉快そうにいった。
「そうだ、おまえの顔をもっと相応しいものにしてやろう?仮面を剥いで、皮をめくり、その下の筋肉、神経、血管に至るまで、ていねいに取り出してやる。それが終わったら、首を切って、オペラ座の入り口に飾ってやろう。どうだ?気にいってもらえるか?」
言葉が終り、顔が残酷に歪んでも、エリックは気力をふりしぼって睨み続けていた。
爪が怪人の顎にかかった。つ…と赤い血が爪を伝う。
『だめよ!だめ!エリックを殺さないで!やめて!だれか、だれか!』
爪がさらに肉に食い込んだ。
その時。
ピシャーン!光が炸裂し、悪魔とエリックの間を猛烈な衝撃が走った。あたしたちはまったく反対方向に弾き飛ばされた。
「う………?」
衝撃の後に目が潰れるほどの光が残っていた。それは急速に形をもちだした。
「エリック……?」
あたしは光の影に隠れている彼の姿を探した。怪人はすぐにみつかった。ちょうど大道具のソファーの上に倒れている。動かないが、生きているのは感じられた。
「よかったぁ………。」
あたしはほっとして、起き上がった。もろに床に叩きつけられたおかげで、体のあちこちが痛い。
その時、気が付いた。
「体が動く!」
姿こそ醜いままだが、目も口も指も足もすべて思い通りに動かせた。
あたしがその理由に思い当たるのと、光が定まったのは同時だった。
「アイラ。」
光だったものは懐かしい名前で呼びかけた。しかし声は厳しかった。
あたしは悪魔であるために、姿を正視できなかった。
それはまばゆいばかりに輝く翼を持つ天使だった。天使は手に炎の輪をもつ剣を携えていた。はるかな昔、天使同志の戦いがあったときに使われたものだ。その一太刀で魔を地の底へ突き落とすという。
「このバカ!堕天使になってしまうなんて……。」
天使はあたしを見据えたまま、近づいた。あたしはじりじりと後退した。こうしないと、どんどん力が弱まってしまう。友達から逃げなければならないのは辛かった。
「アイラ、逃げても無駄だ。おれはどこまでも追う。」
だが天使は容赦なく近づき、ついにあたしは壁際まで追いつめられた。
「カイル!」
天使はあたしの目の前までくると、剣を二人の間に打ち込んだ。これは結界であり、あたしはもう動けなかった。
友人の瞳の色がすっと変わった。
「もう一度聞く。気持ちは変わらないのか?皆が心配している。大天使さまもだ。帰ってこい天界へ。」
あたしは目を伏せて首を振った。
カイルは忌ま忌ましげにエリックを指さした。
「どうしてあの男にこだわる?そこまで尽くすんだ?アイラ!あれは平気で人を殺す!悪魔と同じ男だぞ!」
彼の言葉に胸が痛んだ。
「そんなふうに言わないで!」
こみあげるはずのない涙が溢れて、頬を伝った。カイルは溜め息をついて顔を背けた。
「あいつの憎しみがおまえをこんなにも早くおとしめたんだ………!それくらい言わせてもらってもいいだろう!」
あたしは何も言えなかった。でも、決心は変わらなかった。
すっと天使の手が伸びて、あたしの胸の前に置かれた。
それが何を意味するのかは即座に分かった。
「だめよ!やめて、あなた何を考えてるの?」
彼の手のひらが急速に光り出した。光の当たる部分が熱い。
「あなたまで罪を犯さないで。あたしは体が動くようにしてもらっただけで十分だから、あなたは天へ帰って!おねがいよ、カイル!」
「バカ………言うな。その身体で……何ができる……。」
しゃべりながら、天使の顔が苦しげなものにかわってきた。
「く………!」
カイルはきつく目を閉じて、自分を襲う何かと闘っていた。手のひらの光は熾烈になり、もう見ていられない。
次の瞬間、光が見えない炎となって、あたしの全身を覆った。
「きゃあぁうっ!」
聖なる炎が容赦なく悪魔のヒフを焼きつくしてゆく。
「アイラ……“浄火”だ。耐えろ……。」
喘ぎの中からカイルが言った。その直後、彼は床に崩れた。
どのくらい過ぎたのか、気がつくとあたしは天使の姿で立っていた。体のすみずみまで清らかな力で満ちているのが分かった。
足元に悪臭を放つ灰があり、泡立ちながら消えようとしている。
「天使に戻ったんだわ………。」
あたしははっとなって、カイルを探した。黒い塊が目に入った。
「カイル……。」
あたしはすぐそばの床にひざをついた。そこには天使だったものが、満足そうにあたしを見あげていた。あたしは何か言おうと思った。だが、言葉にならなかった。
「おまえの罪を……引き受けたが……翼は………戻らなかったな……。許せよ、アイラ。…………。………あとはおまえの思うようにやれ。おまえしか、あの男は救えないの……なら。」
あたしは必死に涙をこらえて、うなずいた。
「どうして………?なぜこんな真似を……。」
カイルはちょっと残念そうに口を開いた。
「分からないなら……それでもいい。………。」
そして遠い目をして呟いた。
「おまえと過ごした千年は………とても……楽しかった。…………………次の千年も共に歩いていきたかったが…………。」
「カイル?」
醜くひからびた手が伸ばされた。あたしは両手で握りしめた。彼のまなざしが穏やかになる。ぎゅっと彼の手を胸に押し付けた。
「アイラ………剣を、おれに打ち込め。出来るね?おれはまもなく、悪魔に変わる。………そうなってしまってからではもう遅い。わかるな?おれを地の底へ落とせ。」
あたしは激しく頭を振った。だが、カイルは諭すようにいった。
「本当は分かっているだろう?おまえのため、おれのため、あの男のためだ、やれ!」
「いや!」
カイルの顔がじわじわと変化を始めた。彼は血の色に染まった目で睨んだ。声がすでに別のものになっている。
「やるんだ、早く!………そうしないと、おれはあいつを殺す!」
最後の言葉があたしを決心させた。彼の首から下が汚らわしい物に変わってゆく。肩の肉が翼をうみだそうと蠢いていた。
あたしは剣をつかむと、あらんかぎりの力でカイルの胸の真ん中に突き立てた。
「ぎゃぁっ!」
この世のものとは思えない声が上がり、それと同時に悪魔のからだが炎に包まれた。
「カイル!」
彼は業火の中から、最後の力をふりしぼって叫んだ。
「おまえの使命を果たせ、アイラ!」
そして、唐突にカイルは消滅した。
微かに彼の燃えた匂いだけが、残っていた。
あたしはブケーを彼の部屋まで運び、心を探って、殺されかけた記憶を消した。目を覚ましたとき、彼は多少気分が悪いかもしれない、だが理由は永遠に分からないだろう。
それから、急いでエリックの所へ戻った。
「まだ目を覚ましていないといいけど………。」
記憶をどこからどこまで消そうかと考えた。ブケーによると、エリックは仕事を終えて、部屋に帰る途中を襲ったらしい。
そこから、どこまで?いっそのこと記憶のすり替えをやってみようかしら?でもあれは危険だし……。考えているうちにエリックの近くまできていた。
「エリック………?」
ところが、彼が見当たらなかった。あたしは急いで彼のいたソファーに駆けよった。手を押し付けてみると、もう温もりはない。
「あたしが行って………すぐに目を覚ましたんだわ……。」
もう記憶の操作は間に合わない。途方に暮れかけた。でもゆっくりそうしている時間はなかった。
「部屋に戻るしかない………!」
あたしは足速に歩き出した。
クリスに姿を変えて部屋に帰った。部屋に入ると、ふわっと甘い香りに包まれた。あたしがいない間にだれかが届けてくれたらしい。ファンからの花束がいくつもテーブルにのせられていた。
あたしにはそれがカイルへの追悼に思えた。
悲しかった。
「カイル………すべてが終わったら、あたしもそこへ行くわ。待っていてね。あなたの気持ち嬉しかった。あたしもあなたが好きだった。あなたがいなくなって寂しい。悲しい。大声で泣きたい。でも、今は泣けないの。あの人がいない。どこかに消えてしまったわ。捜さないと…………!あなたが言ったように、使命を果たすわ………だから、ごめんなさい。」
祈りを込めて呟いた。潤んできた瞼を押さえ、鏡の前に立ち、両手を押し当てた。
「エリック………どこにいるの?」
意識が鏡に同化して次に拡散する。無数のあたしがすべての空間をエリックを求めて駆け巡っている。不思議だわ。以前はここまで出来なかった。
ああ…そう。これはカイルの力。彼は力も分けてくれたんだ。
再び胸が熱くなった。
「どこ………?」
オペラ座にはいない。………家に戻らず、そのまま表に出ている。かすかな思念が南の森から漂ってきている。すべての意識を南に向けた。
「みつけた!」
森は満ちた月に照らされて、青白く浮かんでいる。その一角が広い草地となり、穏やかな風に草がそよいでいる。樹齢百年はこすと思われる大木の影の中に、エリックがうずくまっていた。
『エリック……?』
あたしは意識体となって彼のまわりを漂った。深く顔をふせ、ぴくりとも動かない。石のよう。眠ってる?
『今ならやれるかもしれない。』
あたしが消したいのは、殺人の記憶と、悪魔の姿。ブケーの言葉も忘れた方がいいわ。
……でも、本当にそうしたほうがいいのかしら?彼のあの闇の部分は消えないわ………。
唐突にエリックの血に狂喜する顔が浮かんできた。背筋に冷たいものが走る。
そう、あれが彼、オペラ座の怪人のもう一つの顔。あたしは何を望んでいたんだろう?天才的な芸術家の顔?優しく、穏やかな彼?
自分に都合のいいことばかりだわ。
エリックを幸せにしようと思うなら、すべてを受け入れなければ。
『だけど………できないかもしれない………カイル。あの目が恐ろしい。忘れられない。あの人は本気でブケーを殺すつもりだったわ。人殺しなんて、なんとも思ってない。彼は罪を犯した後、何食わぬ顔であたしに会いに来たかもしれない。……………。』
再び戦慄が走った。考えれば考えるほど、彼を拒絶する気持ちが強くなってきた。自分でも信じられない変化。
音もなく、エリックが立ち上がった。影が深く顔にかぶさり、表情はまったく見えない。
立ち上がったきり、再び怪人は彫像となった。
『エリック……?』
だが、分からないほど微かに肩が震えていた。
そして、低くもれる嗚咽。
『どうしたの……?』
あたしはおそるおそる彼の肩にふれた。
その途端、怒濤のような悲しみが流れこんできた。
『ああっ!』
悲しみが、冷たい海になってあたしを満たす。
行かなければ!あの人のそばに!それだけがあたしのすべての想いだった。先ほどまでの恐怖はどこかへ消しとんでいた。
………気がつくと、あたしの体は彼のすぐ後ろの大木の根元にあった。
エリックは立ちつくしている。月光に照らされたその姿は、あまりにも弱々しく、今にも崩れそうに見えた。
すぐにでも彼のもとに行きたい、という衝動を押さえて、木の影からエリックをのぞいた。
一陣の風が吹いた。
あおられて、髪に飾っていたリボンが流された。それは一瞬、エリックの前をかすめた。
「だれだ…?」
彼はかすれた声で、振り返った。そして木の影に潜むものをみつけた。
「クリスティーヌ?」
あたしは弾かれたように、しかしゆっくりと彼に歩みよった。怪人は信じられないという顔であたしを見ている。その頬を伝う幾すじもの涙のあと。彼ははっとなって、背を向けた。
「私を見るな、クリスティーヌ!」
必死に威厳をたもとうと声を張りあげるが、かえって逆効果になった。それにあたしは従うわけにはいかなかった。
あれほど打ちのめされているエリックを、放っておけるわけがない。
かまわずに彼のそばにいった。
「来ては……ならぬ…………。」
あたしは怪人の腕に触れ、前にきた。エリックは顔を背けた。
「私を………見ないでくれ……。お願いだ………!」
声の終りは小さくなって消えた。あたしは彼の頬を撫でた。止めどなく流れる涙が指先から伝わってゆく。その手をエリックが掴んだ。
「おまえは………だれだ?私の天使なのか………?なぜここに?」
あたしは返答できなかった。代わりに言った。 「何が悲しいの……?」
エリックは手を離して、目をそらした。しかし涙は止まらない。
「悲しみなど………ありはしない。そうだろう?私はいつも独りで耐えてきた!強いのだ!悲しみなどありはしない!存在するとすれば………夢の中だけだ………!」
あたしは彼の髪を優しく撫でた。精一杯慈愛に満ちた声でささやく。
「夢……よ。今は……。あたしたちは夢の中にいるの。」
「違う!これは現実だ!」
「いいえ。………現実なら、あたしはここにはいないわ。」
その言葉にエリックは、すべての緊張がとけたように草の上に座りこんだ。あたしも彼と共に座り、そっと両腕で包みこんだ。怪人はやわらかく顔をあたしのふくらみに押しつけた。胸元が、彼の涙で濡れてゆく。
「今が夢なら、何をしてもいいのだな?こうしておまえに抱かれていても!…………クリスティーヌ…………。」
彼の腕があたしの背中に回った。涙がながれ続けている。触れあった部分から、エリックの悲しみが弱まることなく伝わってくる。怒りでなく、なぜ悲しんでいるのか、その原因は奥深くにあって、わからない。でも、あたしはあえて探ろうとはしなかった。
いまはただ、彼の悲しみを和らげてあげたかった。
「私は無力だ、何もできない!」
怪人はとつじょ顔を上げて呻いた。あたしは戸惑いながら、彼の髪を撫でた。
「クリスティーヌ!私は最低の人間だ!いいや、化け物だ!」
叫びながら激しく頭を振った。
「違う!あなたは人間よ!そんな事言わないで!」
「おまえに何が分かる!」
怪人は怒鳴ってあたしを睨みつけた。だが目の奥には悲しみが深く沈んでいる。
彼は続けた。
「おまえは何も知らない!私がどんな男なのか、何も知らない!…………私は……!」
彼はそこで顔を伏せ、言葉を切った。次の言葉が喉元まで込み上げてきている。だがそれをためらっている。これは罪を告白する時の表情だ、とあたしは思った。
でも、本当は何もいってほしくなかった。それが彼をいっそう苦しめることが分かっている。だが、あたしは黙って次の言葉を待たなければならなかった。
エリックの顔が苦悩にかげる。その影が濃くなり、彼を押しつぶそうとしている。あたしの中にもその苦しさがなだれこんでくる。
「私は………。」
彼が苦しげに喘いだ。あたしは耐えきれなくなって、怪人の口に手を押し当てようとした。何も言わないで、と言おうと思った瞬間、彼の手があたしの腕をはらいのけた。
「私は人殺しだ!」
そして彼は渾身の力をこめて、あたしにしがみついた。怪人はせきを切ったようにしゃべりだした。
「人殺しのバケモノ!これが私の正体だ!醜い顔のバケモノだ!」
エリックは仮面をむしりとり、地面になげつけた。「見ろ!見ろ!見ろ!………はるか昔……私が自分の顔に気づいたときは、まだましだった。だが、いまはもうだめだ!自分が押さえられない。ほんの些細な嘲りでもガマンできない。憎しみが自分を支配して、相手をこの手で殺さなくては気が済まなくなる!これまでにいったい何人を………この手にかけてきたか………、分からない!」
あたしには、少しずつ彼の悲しみの原因が見えてきた。
嘆きは続いた。
「………どうにかならないかと、必死で努力したこともある。だが、ダメだった!無駄だった!それほどまでに、私の憎悪は激しい………。今夜のこともそうだ。あの小賢しい男が私をバカにした………!冷静に考えれば、些細なことだ。だが、我慢できなかった!私はヤツを追いつめ、くびり殺そうとした、ところが………。」
エリックの表情に嫌悪と自嘲のいりまじったものが浮かぶ。
「私は初めて自分の憎悪を見た……。悪魔の姿となって、現れたのだ。醜い、おぞましい、けがらわしいものだ……私にふさわしい。……………すべては幻覚だったのか?気がつくと何もかも消えていた………。」
オペラ座の怪人は狂気をたたえた目で、あたしを見あげた。
このまなざし。あたしがあれほど恐れた目で、彼が見ている。
だが、なぜか怖くはなかった。
「クリスティーヌ、私はどうすればいい?自分が恐ろしい!憎しみに駆られ、人を殺す自分が!」
エリックの目から再び涙がこぼれた。
ああ、そう、これが苦しみの正体。
あたしは母親が愛しい子供にするように、ごく自然に彼の額に唇を押し当て、優しく背中に手を回した。
エリックはきつく目を閉じ、黙って身をゆだねている。
「あたしは、あなたに何をしてあげたら、いいのかしら………?」
彼は答えなかった。
「エリック………教えて。」
怪人はあたしの腕を逃れ、立ち上がった。顔を伏せたまま、重く口を開いた。
「おまえには、何もできない。……………私には、分かっている。どんな事になろうとも、だれの手も借りれない。私だけが背負うのだ。」
絶望に満ちた言葉だった。そして、あたしを見た。「私の地獄が終わるのは、命が尽きたときだ。だが、まともな死に方はすまい。」
顔に再び自嘲がよぎり、そして苦渋の色が浮かんだ。
彼の傷はあまりにも深く、癒しきれないかしら?いや、そんなものは存在しない。でも、あたしまでが信じられなくなる。
ここまで懸命にエリックの悲しみに耐えてきたけど、もう限界。悲しみに溺れてしまう。
「いいえ、あなたは普通の人と同じに、神父さまに見守られて天に召されるわ。信じて……。」
声だけは優しく、冷静に出すことができた。だが、瞳はうるみ、涙が流れていた。
「私のために泣いてくれるのか?愛しい天使よ…………。」
怪人はあたしに微笑みかけてくれた。それがもっと悲しみをさそった。
「あたしは………何もしてあげられないのね。」
涙が止まらない。
エリックは少しのあいだ沈黙し、そして意を決したようにいった。
「何でもしてくれるのか?クリスティーヌ。」
あたしはうなずいた。怪人は天使の前に膝をつき、おずおずとその両肩に手をかけた。
「願ってもいいのなら……、私を嫌わないでくれ……、見捨てないでくれ!それだけだ!私には、おまえしかいないんだ、クリスティーヌ!」
指が肩に食いこんで痛い。だが彼の声は祈りだった。
あたしはゆっくりとうなずいて、彼を抱いた。彼の腕も激しくあたしを抱きしめる。
「あたしはどこにもいかないわ……。あなたのそばにいる。」
「おまえにだけは知られたくなかった。……だが、おまえにだけは聞いてもらいたかった……私の天使よ………。」
荒れ狂っていた彼の心が、穏やかに静まってゆくのが分かる。
あたしが眠りを誘うように小さな声で歌うと、エリックはゆっくりと夢に落ちていった。
月はまだ高く、清かな光でエリックをてらしている。その安らいだ顔を眺めながら、あたしは自分の気持ちが大きく変わってゆくのを感じていた。
あれほどあたしを怯えさせた恐怖はどこかへ去り、代わりに何か大きなものが生まれている。
エリックは両極端な面を持っている。優れた芸術家としての顔と、狂気に駆られた殺人者としての顔と。そしてそれに苦しむ顔と。
最初あたしは、彼の光の顔しか見ていなかった。ところがエリックの闇の顔が表れたとたん、怯え、背を向けたくなった。しかし、彼の苦しみを知ったとき…………。
あたしは今、エリックの光も闇もすべてを受け入れている。抱きしめ、愛している。この気持ちはもう二度とゆらがない。
「カイル、あたしは……使命を果たすわ……。」
はるかな地の底で、彼が満足そうに笑っている気がした。
クリスティーヌ・ダーエの歌が聞こえる。遠いスカンジナヴィアの森を朝焼けのような美しさでこだましている。その傍らで声を合わせる者がいる。ラウル・ド・シャニュイ。二人はきっと幸せに暮らしているんだろう。
あの日、あたしは『音楽の天使』と名乗ってクリスの前に現れた。エリックを本当に天使だと信じていた彼女は、あたしを見ても驚かなかった。そしてあたしはクリスティーヌとラウルを祝福し、送り出した。彼女は今でもエンジェル・オブ・ミュージックを思い出すだろうか?いや正体を知らぬまま幸福な夢を見続けるのだろう。それでいい。
願わくはあたしの罪が彼らにおよびませんように
─── 主よ…………。
「クリスティーヌ?どうしたの?」
鈴のような声にあたしはハッとなった。顔をあげるとメグが小首をかしげている。あたしは微笑して答えた。
「何でもないわ。ちょっと考え事してたの。」
「疲れてるんじゃない?カルロッタの代わりに、何日も舞台に立ちっぱなしだから…。」
あたしはカップのミルクティを一口飲んで首を振った。
「それより、メグの方が顔色が悪いわ。何かあったの?」
言い終わるかどうかのうちに、彼女の頬が透きとおるほど白くなった。
「幽霊が── 出たの!」
血の気を無くした唇が震えていた。
「え?」
メグは大きく目を見開いて、カップも見ずに両手で持つと口に運んだ。そして落着けるように一口飲むとカップを置いた。
「幽霊を見たの!本当に見たことはなかったけど、もう何ヶ月もだれも噂しなかったから、いなくなったと思っていたのに!」
エリックが何かしたのだろうか?あたしはわざと関心深そうにたずねた。
「幽霊?このオペラ座の?どこで?」
彼女は両腕で思いきり自分を抱きしめ、一点を凝視した。あまりの恐怖に金縛りにあっている。あたしはそっとメグの肩に触れた。そして安心させるように優しく囁いた。
「大丈夫…幽霊なんていないの。」
だが、態度と裏腹に心は不安で一杯だった。
メグはようやく目を動かし、あたしを見た。おずおずと口を開いた。
「レッスン場の前よ!黒い影が立っていると思った。そしたらゆっくりと振りむいて!」
彼女が何を見たのかは、表情で分った。
「他に誰もいなかったの?」
「ママもいたわ。でも何も言わなかった!」
マダム・ジリーは唯一エリックの正体を知っている人。でも、きっと驚いただろう。エリックがそんな場所にいたので。
「マダムは?」
「部屋に帰ったわ。慌てて。それであたしもここに逃げてきたの!」
「そう─── ……。」
気のない返事をして、彼女のカップの横にクッキーを添えた。
「食べて。落着くわ。ね、メグ、幽霊なんていないわ。」
ううん、ううん、と何度も少女は首を振った。
「ちがうわ、ちがう!だって、変なことが続くじゃない!シャニュイ様は行方不明になるし、カルロッタは急に病気になるし!皆がいう幽霊のしわざよ!」
あたしは苦笑して言った。
「そうじゃないわ、子爵さまは今大変なお仕事をしてみえるの。だから、ここへはおいでになれなくて……。カルロッタはこの劇場に来る前から、時々お医者さまにかかっていたわ。どんな病気かは知らないけど。だから、幽霊のしわざじゃないの。」
あたしの顔を食い入るように見つめていたメグの表情が、安堵したものに変わった。
「クリスティーヌが、そういうなら……大丈夫よね!でも………あれは一体誰だったの……仮面をつけた気味の悪い人!」
彼女の言葉に胸が痛んだ。
「あなた達には何もしなかったんでしょ?たとえどんな顔をしていても、悪い人じゃないわ。」
同意を求めるように目撃者の顔をのぞきこむ。メグはおずおずとうなずいた。
そして不思議そうにあたしを見た。
「なんだか、あなたは変わったわ。別人みたい……。こんなこというの変だけど、前よりずっと、落ち着いていて、暖かくて………年齢はそんなに離れてないのに、ずっと、年上みたい。妙なこと言って、ごめんなさい。」
一瞬返答に困ってしまった。たが、微笑んで ─
それは思いがけず優しい── 答えた。
「恋をして………その人のすべてを受け入れられるようになれば…………、メグ、あなたはあたしよりもっと素敵になれるわ。」
「マダム・ジリー?」
ノックをして、待った。ややあって返事がかえった。
「どうぞ、クリスティーヌ。鍵は開いています。」
あたしは内心ドキドキしながら、表面は平静を装って、部屋に入った。マダムは静かに微笑んで、柔らかなビロードのいすに座っていた。あたしは彼女の向かいに、鏡を背に座った。
あたしは切り出した。
「マダム、どうかしたんですか?急に部屋へきてほしいなんて。」
だが、彼女はあたしの言葉など耳に入らないかのように、テーブルに両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。彼女は遠い目で言った。
「初めてあの男にあったのは、もう5年もまえ。秋の終りのとても寒い日だった。地下は地上の何倍も寒く、あまりの寒さに吐く息も凍り付きそうだった。でも、用事があってそこに降りた私は、3階の階段のすみにうずくまっているものを見た。」
「マダム?」
呼びかけても反応がなかった。声は続いた。
「それはすぐに人だと分かった。素足が見えたの。覗き込もうとしたとき、突如影がひるがえり、私は床に倒れた。人の顔が近ついてきて、金を出せ、と言った。その時、ランプの光に顔がはっきりと浮かびあがった。……あまりの恐ろしさに私は気を失った。」
「マダム………?」
あたしは不安になって再度呼びかけた。だが彼女はやはり気づかない。
「気がつくと、私はオペラ座のだれもいない舞台に横たわっていた。座いすのうえに、厚手の掛け物をされて。持っていたわずかなお金はなくなっていた。でも私は誰にもこのことを言わなかった。あの目が忘れられなかったから。」
「マダム?」
あたしは当惑して、彼女の顔をのぞきこんだ。マダムは微笑んだ。
「あの男はオフィスの前で笑ったのよ。照れくさそうに。初めて見た。…………あなたのおかげね、クリスティーヌ。」
彼女の目は総てを知っているように見えた。あたしは立ちあがろうとして、そして思い直した。
「あたしは何もしてません、知りません、マダム。」
「いいのよ…………。」
マダムはゆっくりといすにかけ直した。そして、潤んで見える瞳で天を仰いだ。
「あの男は、誰よりも不幸だった。でも今は違う。」
マダムは立ちあがると、あたしの前へ膝まづき、天使の手を両手で握った。そして深く頭を垂れた。
「主よ…感謝いたします。あなたの遣わされたものが彼を救いました…。」
あたしはどきっとして、手を引っこめた。マダムは顔をあげた。
「いいのよ、……あなたがどこの誰でもかまわないから………。」
「マダム、あたしは…………。」
胸がつまってしまって言葉が出なかった。正体を悟られてはいけない。でも、今はあたしを支えてくれる人がいることを確かめたい。
「あたしが誰でも?悪魔だとしても?」
マダムは何度もうなずいた。
「ええ、ええ、主に感謝いたします………!」
熱いものがこみあげてきて、涙がこぼれそうだった。あたしは彼女の手をしっかりと握りかえし、胸に押しあてた。
誰も見ていない鏡の中で、純白の翼が静かに輝いていた。
二つの予感が在った。いつの頃からか分からない。たぶん、エリックがオフィスの前にいたときからだろう。
ぼんやりとした、しかし確実に現実になる予感。
破滅と繁栄。あるいは生と死。
「すべてが終わるのかもしれない。……あたしが熾天使なら、もっとはっきり分かるのに。」
あたしはドレッサーにうつぶせた。
「毎日、舞台に立つのって疲れるのね。カルロッタは凄い人だったんだわ。」
顔をあげて見つめる。青い青い瞳。風がよく吹いた後の空の色によく似ている。あたしの本当の眼は夜明けの空の色。こんなに長い間姿を変えていると、本当の自分を忘れてしまいそう。
「エリックはどこにいるかしら。」
地下深くへ意識をのばしてみる。湖の上、岸辺、隠れ家のドア。
オルガンの前、いない。
「地上にあがっているのかしら?………あ。」
ベッドに何かがうずくまっていた。のぞきこんでみる。
怪人が聞きとれないほどの小さな寝息をたてて眠っていた。それも、手に楽譜を握ったまま。
どうしたのかしら……こんな時間に眠っているなんて。作曲してて、疲れちゃったの?」
あたしはそっと意識をもどし、考えた。
これからあの人のために何をしてあげたらいいだろう?明らかにあの人は外界に出たがっている。
今まで地下深く潜っていなきゃならなかったわけは、すべてあの顔にある。だったら方向を変えてあげればいい。死は生に。破滅は繁栄に。
「誰にも頼っちゃだめ。自分の力でやり遂げなきゃ。ね、カイル。」
あたしは鏡に向かって微笑んだ。
「マドモアゼル・ダーエ、お目にかかれて光栄です。」
極上の笑みを浮かべながら、ヴァレ伯爵はあたしの手を取ってくちずけした。
「こちらこそ伯爵さま。あなたの素晴らしいご活躍は、いつも支配人から伺っております。」
あたしは名士への挨拶はこれでいいのかしら、と思いながら支配人を見た。ところが彼は自分のデスクの横に立ったまま、苦虫をつぶしたような顔で、伯爵から渡された書類をながめ続けている。挨拶が終わったことに気づいていない。
伯爵が壁の絵に視線をむけて、咳払いをした。
ハッとなって支配人がむき直った。
あせりで額に汗がにじんでいる。彼は慌ててハンカチで額を押さえた。
「お待たせして申し訳ありませんでした。ついあなたさまの素晴らしい提案に夢中になっておりまして…………。」
取り繕った笑顔をみせると、支配人は伯爵にイスを勧めた。
伯爵は何ごともなかったように、勧められるままに腰を下ろした。
支配人から恭しくグラスが差しだされる。しかし伯爵はまったく目に入らない様子でおもむろに足を組むと、支配人を見た。
「いかがですかな?ムッシュ・フィルマン、私の提案は。」
「……誠に素晴らしいお考えと感服いたしておりますが……………。」
伯爵は満足げにうなずいた。だが、フィルマンは忙しく額を拭いながら続けた。
「………いやはや………わたし独りの一存ではどうも……。」
はっきりと、しかし威厳をもって伯爵は眉根をよせた。
「なぜかね?理由を明確に教えてもらえないかな?」
支配人はますますふき出た汗を懸命におさえながら言った。
「こ、このオペラ座は共同経営者がおりまして、……今はフランクフルトに所用で参っておりますが……彼と相談しないことにははっきりと申しあげることは……できな………。」
ヴァレは苛々して言葉をさえぎった。
「だが!君はムッシュ・アンドレからすべてを任されていると聞いたぞ。………どうかね?やれそうなのかね、無理なのかね?この日にちなら他の公演のスケジュールに何ら問題はないはずだ。わたしはきちんと調べたうえでこの提案を君に話しているんだ。それとも何かね、君には貧しい人々には何の関心も持っていないと?」
「い、いえ、とんでもありません!伯爵さま!」支配人は真っ青になって首を振った。
「チャリティー公演をして……う…売りあげを貧乏人に施そうなんて………そんなくだら…………いえ、素晴らしい事業は、今以上にあなたさまの名声を高めることになるでしょう!私としてはぜひ!やらせていただきたいのですが、……。君はどう思うね?マドモアゼル・ダーエ。」
はらはらしながらなりゆきを見守っていたあたしは、微笑みながら答えた。
「あたしも賛成です。素敵な考えですわ。レッスンも何とか調整がきくでしょうし。」
ヴァレ伯爵は嬉しそうに何度もうなずいた。
「さすがカルロッタのあとを継いだプリマドンナですな。聡明な女性だ。」
伯爵は促すように支配人を睨んだ。フィルマンはほっとした、だが内心は舌打ちしてるだろう表情で、口を開いた。
「君がそう言ってくれるなら、………伯爵さま、ご安心ください。」
うむ、と勝ち誇った顔で伯爵はうなずいた。
「無理を言って申し訳ない。だが理解してもらって嬉しい。わたしもできるだけの協力をさせてもらうつもりだ。公演を成功させるためにね。」
あたしは書類をのぞきこんだ。
「伯爵さま、プログラムが決まっていませんが…。」
「あなたが主役という以外はね。私はどうも才に欠けていて、何を選んだらよいか見当がつかんのだ。できたら、新作を上演して欲しいんだが。皆がアッと驚くような素晴らしいものをね。」
伯爵はちらりと支配人を見た。やっと冷や汗の引っこんだフィルマンの顔にふたたび滝のように汗が流れた。
「あいにく………期間が短いので、それはご無理かと………しかし、当方では必ず期待にそえるよう努力いたしますので……。」
「あ……たし、心当たりがあります!」
二人の視線がいっせいに集まった。あたしは一度深呼吸してから言った。
「あたしの音楽の先生が、それはそれは素晴らしいオペラを作っています。ぜひそれを上演させてください!」
ほう、とヴァレが目を細めた。期待に目が輝いている。反対にフィルマンはとんでもないという顔をしている。だが、彼が口を出す前に伯爵は言った。
「あなたがおっしゃるなら間違いはありませんね。あなたとあなたの先生の舞台を楽しみにさせていただきます。」
伯爵は立ちあがるとにっこりと笑って、あたしの手にくちづけした。
支配人の開けたドアを悠然と出ていきながら、彼はふっと思い出したようにいった。
「そうそう、忘れていた。ムッシュ・フィルマン、費用のことは心配する必要はない。宣伝から、ギャラまで総て私が払う。そうだろう?」
ヴァレはにやっと笑って支配人を見た。
その言葉が終わらないうちに、フィルマンの髭面が卑しい笑みでいっぱいになった。
「ご安心を!歴史にのこる舞台を上演いたします!」
エリックは鍵盤から手をはなし、楽譜の上を指さした。
「わたしの歌う声について来てごらん、おまえなら必ずできる。」
彼は再び鍵盤にゆびを滑らせながら、張りのある澄んだ声で歌い出した。一瞬心を奪われそうになって、あたしは慌てて歌いだした。
「そこはそうではない。こう歌うのだ。」
怪人がガラス細工のような美しい声を出してみせた。
「こう……?」
できる限り彼に近い声をあげた。
「そうだ……私の音楽の天使よ。おまえは素晴らしい……!」
エリックが誇らしげに歌姫を見た。あたしは歌いながら彼の肩にそっと手を置いた。
一区切りついたところで、あたしは歌うのをやめた。
いぶかしげな視線が向けられる。
「どうした?喉が痛むのかね?」
首を振った。そして、一呼吸おいてから言った。
「エリック、今度このオペラ座で舞台があるの。」
「それは知らなかった。ここのところ上にあがっていなかったからな。難しい歌があって、困っているのかね?」
再び首を振った。
「出し物は決まっていないの。ヴァレ伯爵が新作を希望されて……。それでこの曲をと………。」
「ヴァレ…………?」
怪人の顔がみるみる険しくなった。オルガンの蓋が音を立てて閉められた。
「あの………偽善者が………あの男が………このオペラ座に来たのか!そうかわかったぞ!また慈善事業とやらを始めるつもりだな…………。」 「エリック………。彼はこの収益を貧しい人々のために役立てると話してくれたわ。そんな風に言わないで……。」
「クリスティーヌ!」
仮面の奥の目が怒りで爛々と輝いていた。
「あいつの味方をするのか?おまえまでが何を言い出すのだ!あの男は慈善と称して自らの売名を行っているのだぞ!あいつなどのために私の芸術を汚されてたまるものか!」
あたしは思わず後ずさった。だが、オペラ座の怪人は体をぶるぶる震るわせながら、あたしの腕をわし掴みにした。あまりの力に腕がちぎれそうになる。
「クリスティーヌ…………おまえだけは私を裏切らぬと…………。」
怪人の声の最後が嗚咽に変わってとぎれた。すっと腕から力が抜け、彼は背を向けた。
「エリック…………。」
あたしは前に立つと、うつむく男に静かに囁いた。
「違うわ………あたしは決してあなたを裏切ったりしてない。どうして裏切れるの?」
怪人が困惑したまなざしを向けた。あたしは続けた。
「伯爵が貧しい人を助けたいと思っているように。………あたしは。」
言葉を切り、そして彼が落ち着くのをまって口を開いた。
「あたしはあなたを助けたいの。エリック…。」
「助ける………?」
「外へ出ましょう………、普通の人のように普通の家に住んで、太陽の光を浴びて生きてゆきましょう。」
言葉が終わらないうちに、怪人の顔が驚きと恐れでこわばった。あたしは彼が話しだすまで、見つめたままじっと待った。
やがて、エリックは混乱したままの目で喋り出した。
「私が?この私が外へ出て行くというのか?この隠れ家を出て地上へ?おまえたちのように外に家を建て、生活するというのか。天気のいい日には妻と公園に出かけたり、可愛い子供の頭を撫でてやったり……。」
怪人の目が憧れでうっとりとしていた。だがそれは一瞬のことで、彼は再びくるりと背を向けると、激しく頭を振った。
「ありえない、そんなことはありえない!おまえは何も知らないんだ、私が今までにこの顔のために、どんな目に遭ってきたかなど!おまえも知っているだろう。私の顔は地獄の悪魔でさえ目を背ける醜さだ。母親でさえ私を捨てたのだ…!その私が普通の人間のように暮らせるわけがない!」
怪人はよろよろとオルガンに歩いていくと、楽譜をむしりとってあたしに差しだした。
「持ってゆくがよい…………おまえのためになら……私は……。」
だが、あたしは突っ返した。
「ダメよ!あたしだけではダメ!あなたも一緒でなきゃ何の意味もないわ!エリック、お願いだから!」
あたしは彼の腕を掴んだ。しかし彼は顔を背けたまま、乱暴に振り払った。
「こんな話は何時間していても無駄だ!今日のレッスンは終わりだ、部屋に戻りたまえ」
怪人は怒鳴りながらドアを指さした。だが、あたしも負けてはいなかった。エリックの腕をつかむと、強引にあたしと向かい合わせにした。
「顔がなんだというの?私はあなたの顔を見たわ、そうよ、言うとおりの顔よ!でも!」
あたしは腕を伸ばして仮面を思いきり引き剥がした。
世にも恐ろしい顔が現れたが、彼は驚愕で言葉はなかった。
「あたしは平気よ!怖くも何ともない!ほら!」あたしは愕然としているエリックの首に手を回すと、目を開けたまま唇を重ねた。
「クリス………?」
怪人が呆然としてあたしを見おろした。あたしは少しも口調を緩めず続けた。
「あなたは恐れてるのよ、外に出ることを!だから仮面に隠れて何もしないんだわ!…………。」
怪人にようやく感情が戻ってきていたが、何も言わなかった。
あたしは、告白した。
「エリック……“あたし”はあなたが好きよ。顔なんてどうでもいいの。あなたを心から愛しているわ。」
彼の瞳が最初疑惑で濁り、やがて喜びに輝いた。「本当に……私を愛していると………ヴァレではなく……?」
「あなただけを愛しているわ…。」
エリックはほっと息をついた。
「私は……おまえまでもが去ってゆくのかと……。」
あたしはぎくっとして怪人を見た。
だが彼は微笑んでいた。
あたしも微笑み返し、言った。
「外に出ましょう、エリック。幽霊から人間に戻るの。あたしがついているわ。」
エリックの瞳に不安がよぎった。
「もし…もし、駄目だったら………?」
あたしはきゅっと唇を引きむすんだ。
「その時はまたここに戻りましょう。あたしはもう帰らない。舞台には二度と立たないわ。死ぬまであなたと暮らす。」
エリックは深く息をついた。そして、真っ直ぐにあたしを見た。
「外に出よう、クリスティーヌ。私を導いてくれ。」
あたしはうなずいた。顔をあげた時、潤んだ視界の中でエリックが仮面を拾い、二つに割っているのが見えた。
客席はほぼ満席だった。あらゆる階層の人達で賑わっていた。ヴァレ伯爵のハデな宣伝のせいもあるだろうが、伯爵の指示でチケットが安く配られていた効果も大きかった。
「まったくとんだ道楽貴族さまだ。おかげで小汚ない奴らまでがビロードのシートに座る!あとしまつが大変だ!」
客席をのぞきながら支配人ががなった。すでに支度を終えたあたしは、そんな彼を横目で見ながら、考えていた。
そんな彼でもこの舞台を見れば、きっとエリックを理解してくれる。
「……ところで、クリスティーヌ、君の先生は一体どうしたんだね?一度も姿を見せん。もっとも楽譜があるから別にかまわんが。」
あたしはにっこりと笑って答えた。
「この舞台が終わったら、お引き合わせします。それより、5番ボックスは空いてますよね?」
「君との契約だからな。だが、君がプリマドンナになってから、幽霊が現れないのはなぜなんだい?」
あたしは答えなかった。
音合わせが終わった。
幕がゆっくりとあがり始めた。ざわめく客席を見つめながら、つぶやいた。
「あなたの運命を今夜、変えてみせるわ。」
破滅が、死が、美しいものたちに姿を変えて客席に座っていた。
澄み切ったアリアの一小節が終わり、次小節が始まろうとしたその時、あたしは隅の座席に、ここには決しているはずのない人間を見つけた。
クリスティーヌ・ダーエとラウル・ド・シャニュイ子爵………!
何か月も前に遠い国へとあたしが送り出した二人が、そこにいた。
なぜいまさら戻って来たの?それよりエリックに見られでもしたら
「おい、どうしたんだ、ミス・ダーエは。曲は始まっているのに?」
客席が騒がしくなってきた。あたしははっと我に返ったが、声が出ない。ざわめきが激しくなってきた。どうしたらいいか分からなくなって、エリックが見ていると言った5番ボックスを見あげた。
その時朗々とした声が響き渡り、振りかえると全身を真っ黒なフード付きのマントで覆い隠した人物が、ゆっくりとあたしに歩み寄っていた。
その人は楽譜にない歌を、しかしあたしが飛ばしてしまった部分を補うように至上の歌声で奏でていた。
あたしにはその人物の正体が分かっていた。驚きと嬉しさが一抹の不安とともに心を一杯にした。彼の差しだした手をとり、寄り添った。予定のないデュエットが始まり、予定どおりのコーラスが流れ、あたしはすべてを忘れ、持てる力すべてを出して歌った。
やがて、指揮者が最後の一振りを終え、舞台は終わった。
ところが、客席は水を打ったように静まり返り、囁きさえ交わされない。あたしは胸が締めつけられるように不安になって、後ろにいた男の手を握りしめた。
パン……。どこかで音した。その音が広いホールに響きわたり、消える直前に、何が起こったのかあたしたちにはまったく分からなかった。
嵐のような拍手が起こっていた。拍手はまたたく間に激しさを増し、絶賛する声と入りまじって、オペラ座のなかに満ち満ちた。
「エリック…………。」
怪人は歌姫の手をぎゅっと握った。
長い長い喝采がようやく静まり出したとき、このうえない満足した顔でヴァレ伯爵と支配人たちが舞台に登場した。
「素晴らしい拍手をありがとうございました。紳士淑女の皆さま方、今夜のプリマドンナを紹介いたします。」
あたしはこぼれかけた涙をそっとふき取って、エリックの手を引いて前に出た。優雅に微笑んで頭を下げた。再び拍手が起こった。
「それから、もう一人の主役を……。」
言いかけた支配人は知らないことに気づき、慌ててプログラムをめくった。
「あたしから紹介しますわ。」
こんな予定ではなかったが、決心は変わらなかった。あたしは怪人を振りかえり、彼の心が変わっていないのを確かめた。
「もう一人の主役を紹介いたします。このオペラ座で幽霊と呼ばれ、あたしの先生でもある、エリック!」
言葉の終わりと同時に男はフードを一気に外した。一瞬の沈黙があり、次に起こったのは悲鳴だった。悲鳴が悲鳴を呼び、観客は恐怖のあまりパニックを起こしかけていた。逃げ出そうとしている者もいる。
あたしは辛くてエリックをみれなかった。だが、握ったままの手から彼の救いようのない絶望が伝わってくる。
すべて失敗してしまった。彼は再び地下に戻るしかない。そうなったら、どうなってしまうだろう………。
あたしは怪人の手をしっかりと握りしめ、観客に背を向けた。
その時エリックの鋭い耳がある音をとらえた。彼の目はたちどころに出所をみつけた。
「クリスティーヌ!」
怪人はあたしの手を引っぱり、ある一角を指さした。
客席のすみ、ほんの小さな一団が絶叫に近い歓声をあげながら、盛んに手をたたいていた。中流階級の人たちだ。
「最高だエリックひどい醜男だが、あんたの声は素晴らしい!」
その声をさかいにパニックが次第に収まってきた。彼らの言葉に素晴らしかった舞台の記憶が蘇ってきたのだ。
ぱらぱらと拍手が帰って来た。やがて拍手の輪は中流階級を中心に、次にもっと貧しい階級に、最後に裕福な上流階級に広がり、すべての人々がエリックを称えていた。割れんばかりの拍手に包まれて、怪人は信じられないという表情で天使を見た。あたしは涙を懸命にこらえ微笑んだ。
「エリック、ほら見て。すべての人があなたを見ている。認めてる。」
怪人はうなずいて、あたしの肩を抱きよせ、客席を見わたした。肩を抱いたその手は震えていた。
支配人が直々にやってきて、一ヶ月40000Fで契約をし、舞台が終わった翌日から、エリックはこのオペラ座の専属音楽家となった。
(支配人は今まで脅し取られていた金については一言も言わなかった。エリックの機嫌をそこねると思ったらしい。)
ところが仕事はそれだけでなく、あちこちの劇場からも依頼がきていた。彼は芸術家らしく気にいったものだけを受け、いずれも素晴らしい音楽を作って渡していた。
エリックは幸福そうだった。
しかし、あたしは一つの心配ごとから抜けきれないでいた。
ドレッサーの引き出しに隠しておいた封筒を取りだした。中には一通の手紙が入っている。
署名はシャニュイ子爵婦人。かつてのクリスティーヌ・ダーエ。あれは幻ではなかった。彼らは戻ってきていた。
手紙にはこうある。
『あなたとの御約束でここには来ないはずでしたが、どうしても会いたくて。あたしたち、やっとシャニュイ家から結婚のお許しをいただいて、先日教会で式を挙げました。それができたのもすべてあなたのおかげです。二人で報告をと思いましたが、おいでにならなかったので、これを残してゆきます。
音楽の天使へ感謝を込めて。
追伸、今夜の舞台は本当に素晴らしいものでした。あなたも、あの恐ろしい顔の人も。どうか彼を大切にしてあげてください。
あなたのクリスティーヌより。』
エリックは何も言っていない。彼が二人を見たのか見てないのか、心を読めば分かることだったが、怖くてできなかった。
「クリスティーヌ……。」
鏡の中に影が浮かんだ。あたしは慌てて手紙をしまうと、笑顔を装った。
「エリック、あなた、どうしてもそこから来てしまうのね。」
かつての怪人は照れ笑いして、鏡の中から出てきた。
「どうしたの?お仕事は?」
「いや、一区切りついたのでね。おまえに話があって。一緒においで。」
あたしは内心ギクッとしたが、顔には出さずに、招かれるまま鏡に足を入れた。
「今日は地下の闇でさえ、美しい。」
エリックは呟き、優しくあたしの手を引いた。
地下の家はいつもと様子が違っていた。ふだんよりずっと明るく、きれいに整頓され、花の香りで満ちている。あたしはいぶかしんで、もっとよく辺りを見回した。
「まぁ…。」
香りの源は彼のオルガンで、そこにはありとあらゆる種類の美しい花束が、まるで祭壇をかざるように置かれていた。
エリックはゆっくりと歩み寄ると、閉じられた楽譜を大切にとり、あたしに差しだした。
記されたタイトルに目を落とす。そして驚いて彼を見あげた。
エリックは怖いくらいのまなざしであたしを見おろしていた。
一体何がどうなっているのか分からなかった。
長い静寂が終り、ふっとまなざしがおだやかになった。彼は言った。
「教会で流れる曲だ、おまえと私のために。クリスティーヌ、おまえは私のすべてだ。わが妻となり、共に生きて行こう。」
あたしは自分の耳を疑った。だが問い返す間もなく、エリックはあたしを抱きしめていた。
彼の心臓が早鐘をうっている。あたしはためらっていた。今、彼が求めているのは本物のクリスティーヌだと信じていたから。
でもいまさら何の意味があるの?あたしが二度と天に帰れないんだとしても、荒涼たる地獄に落とされるのだとしても、あたしはエリックを幸せにすると誓った。
「クリスティーヌ?」
エリックが不安げにあたしを解放した。あたしは真っ直ぐに彼を見、そして抱きしめた。
「あたしはいつまでもあなたといるわ。」
そして彼の腕が愛しい天使を抱きしめた。切ないほど激しく。
エリックが倒れたのは、その夜だった。
死と破滅の予感。いつもつきまとっていたそれが、今度こそ現実になると、あたしは確信した。
重く暗い気配が彼の家を取りまいていた。倒れたその夜のうちに高名な医師が呼ばれ、エリックを診察した。
水のはいった洗面器から、多くの患者を治してきた手が引きあげられた。透明な滴がいくつも水面を跳ねる。
あたしは医師にタオルを渡した。
「どうなんでしょう?」
恐る恐る老医師の顔を見る。彼は目をふせたまま、あたしを隣の部屋へ連れていった。
ドアを閉め、医師はまずあたしをイスに座らせ、次に自分が腰を下ろした。
重い沈黙があった。彼は眉間のシワに深い苦悩を刻み、どう切り出そうか迷っているようだった。「先生?どうか教えてください。何を聞いても驚きませんから。」
目だけが動き、医師は口を開いた。
「わしはこれまで何千人もの病人を治してきたが、…………今度ばかりはもう手のほどこしようがない。ご主人の病気は先天性のものだ。普通なら成人する前に死んでしまうものなんだが………。ここまで生きてこれたのは奇跡としかいいようがない。奥さん、できるだけそばにいてやってください。彼に残された時間はもうほとんどないでしょう。」
あたしは医師の言葉を他人事のように聞いていた。しかし、それは束の間の事で、あたしは言葉の意味をたちまち理解した。
「エリックは………死ぬんです………か?」
声がかすれ、震えていた。医師は沈痛な面持ちでうなずいた。
「残念です。」
あたしはふらっと立ちあがると、よろよろとドアに向かった。しかし開ける力はなく、ドアの前で床に崩れた。
「大丈夫っ…です!」
慌てて駆けよった医師を制しながら、あたしはかろうじて立ちあがった。そして懸命に気持ちを落ち着かせて、言った。
「先生、申し訳ありませんが独りでお帰りください。そして、この事は誰にも言わないでください。無用な混乱は避けたいので……。」
「約束しますよ。わしはご主人のファンだった。どうか神のお慈悲がありますように。」
老医師は会釈すると、帰っていった。
あたしは我慢できなくなって、両手で顔を覆った。
「どうして………こんなことに!あたしは彼を救うために来たのに!」
涙が指の間からこぼれて床をぬらした。悲しみで胸がつぶれそうだった。
しかし、ゆっくり泣いている時間などなかった。あまりそばから離れていては、エリックが怪しむ。それに残り時間が少ないのなら、すこしでもそばにいたかった。あたしは涙をふいて、部屋を出た。エリックは苦しそうな呼吸のしたからあたしを見た。
「ここへ、来てくれ……。」
あたしはベッドの横に座り、彼の手を握った。偽りの微笑みを浮かべて、告げる。
「エリック、お医者さまはお帰りになったわ。ただの疲労ですって。たっぷり休めばすぐ元気になるわ。」
「そうか………。」
エリックは安心したように、息をつくと目を閉じた。あたしは優しく彼の髪を撫でた。でも、そうしているうちにも涙がこみあげてくる。
あたしは静かに立ちあがった。
「おなかすいてるでしょ?何か食べれそうな物、持ってくるわね。」
エリックが目を開け、わずかに首をこちらに向た。
「いいや、頼みがある。…クリスティーヌ、私の机の上に楽譜が置いてある。持ってきてくれ。」
「お仕事?元気になってからのほうがいいわ。」「私たちの結婚式のために、大事なことだ…から。」
仕方なく、いわれたとおりに彼の机に向かった。雑然とペンや五線紙の置かれた中に、彼の言った楽譜があった。何気なく持ちあげた時、新聞の切り抜きらしい紙が、ぱらりと落ちた。
拾いあげて見出しを読んだとき、ショックで息が止まるかと思った。
『フランスの貴公子・ラウル・ド・シャニュイ子爵、クリスティーヌ・ダーエ嬢と結婚』。それは異国の新聞記事だった。
「じゃあ………エリックは…………。」
「クリスティーヌ……!」
苦しげな呻き声が聞こえた。急いで彼のもとにはしった。
「エリック!」
彼は肩で呼吸をしながら、あたしに手を伸ばした。「楽譜を…………。」
それだけが命を救うような気がして、あたしは急いで手渡した。
不思議と呼吸が静かになってきた。
エリックがあたしの表情に気づいた。彼は腕を伸ばし、あたしの手を握った。
彼は澄み切ったまなざしでみつめた。
「………本当の名前は何と言うのだ?」
予想していたとはいえ、驚きは隠せなかった。ためらい、そして答えた。
「アイラ……アイラよ、エリック。」
「アイラか………。私の母と同じ名前だ。美しい響きだ。」
エリックは嬉しそうにつぶやいた。
「いつから知っていたの?」
「おまえを初めて地下へ連れてきたときから、疑ってはいた。何か妙だと……。………………私はクリスティーヌだけを見つめていたからね。疑ってはいたが、正体を暴く気にはなれなかった。おまえはいつも優しかったから……。別人だとはっきりと分かったのは、記事を見てからだ。ラウルとの結婚式の記事…。おまえも見たね?」
「どうして、黙っていたの?あたしはあなたを騙していたのに。」
エリックはちょっと照れ笑いをした。
「どうでも良かった………おまえがクリスティーヌでも、違っても。」
「その記事を見て、怒らなかった?」
エリックは首を振った。
「変な話だろう?以前の私なら確実にあの若造を殺していた。ところがその記事を読んだ時、まったくそんな気は起こらなかった。……むしろ、私の大切なクリスティーヌが愛する男と結ばれたと知って、父親のように心の中で祝福していたんだ。」
ぽろぽろと涙がこぼれた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。」
楽譜を持っていた手が、あたしの頬を伝う涙をそっと拭きとった。
「なぜ謝る?おまえが何をしたと言うんだ?」
「あたしは……あたしは……!」
エリックには涙の意味が分かっているようだった。彼はあたしの髪を愛しげに撫でた。
「気がつかなかったかな?私がどれほど穏やかな日々をおくれていたか…。アイラ、おまえは私の顔を恐れなかった。ブケーを殺しそこねた夜、そばにきてくれた。そして、………光の世界に連れ出してくれた。おまえがいなかったら、成しえなかったことばかりだ…………。」
「あたしは、ここにいても良かったのね……………………………。」
彼の言葉と表情にすこしだけ、救われた気がした。
「そうだ、私のアイラ。笑ってくれ。私のために微笑んでくれ。天使よ………おまえは何者なんだろう?なぜクリスティーヌの姿をしている?」
「あたしは…遥かなる聖地から、天から降りてきたの……。」
あたしの身体がかすかに光りだした。エリックは驚きながらも、じっと変化を見守った。
やがて本来の姿に還った。彼は至高の微笑みを浮かべながら呟いた。
「素晴らしい…………アイラは本当に天使だったのか。」
だが、あたしは頭を振った。
「違うわ、エリック。あたしはもう天使なんかじゃない。翼がないでしょう……………。」
「いいや、美しい天使だ。……うっ………!」
とつじょエリックは苦悶に顔を歪めると、枕に顔を押しつけてうずくまった。
「エリック!」
彼の背中をさすりながら、苦しみが去るのを待った。徐々に表情が穏やかになってゆく。だが、あたしは彼の命が急速に消えてゆくのを感じていた。
とぎれていた涙がまたこぼれた。
「ア………イラ………。もっと、おまえのそばで生きてみたかった。」
わずかに顔をあげたエリックの唇から、掠れた声がもれた。
「あきらめないで!」
あたしは叫んだが、もう通じないと分かっていた。彼が求めるように両手を高く差しあげた。
「エリック!」
彼の命をつなぎ止めるように、しっかりと抱きしめた。
「どうしてあたしはあなたを救えないの?どうして?あなたを救うために、あたしは天を棄ててきたのに!」
「おまえは自分の意思で来たのか…………?なぜ?」
「あなたに魅かれていたから、あなたを愛していたから……!」
エリックの震える手があたしの頬を愛しげに撫でた。彼は満足そうに、微笑みさえ浮かべてあたしをみつめた。
「………アイラ、私はいつも思っていた。こう言えたらと………『アイラに会えてよかった。かつて愛した少女と同じくらい、おまえを愛している。』と…………愛しい天使よ…………………。」
それが、最後の言葉になった。
『オペラ座の怪人』、エリックが死んだのは、朝焼けが美しく空を染めはじめた頃だった。
「目覚めよ、アイラ。」
悲しみに深く沈んでいたあたしの心に、覚えのある声が響いた。
あたしはゆっくりと目を開けた。目の前には心配そうな顔のカイルがいた。
「カイル?どうしてここに?よかった、地獄から解放されたのね!」
あたしは喋りながら、あたりが今までと違うことに気づき、驚いた。
「ここは天上世界。あたし、いつの間に帰ってきたの………?」
カイルは言いにくそうに告げた。
「アイラ、おまえはどこにもいっていない。おまえは今まであの哀れな男の魂と夢を創っていた。幻の日々を送っていたのだ。」
「うそ!あたしは覚えてる。彼の声、教えてもらった歌、踊ったダンス、仮面の感触!カイルが来てくれたことだって!」
だが、カイルは首を振った。
「なにひとつ、起こらなかったことだ。見ろ、おまえの翼は今も背中にある。おまえが罪を犯さなかった、証拠だ。」
あたしはハッとして、背中を探った。そこに無ければ、親友の言葉を否定できただろう。
しかし、純白の羽は、罪を知らず、肩に残っていた。
彼の言葉を認めないわけにはいかなかった。
「信じたくない……何もかも夢なんて……!」
いたわるように、カイルの手が肩におかれた。
ところが、この感触には思い当たるものがあった。そう、あれは時間をさかのぼる直前、こうして彼があたしに触ったのだ。あの後の記憶はボンヤリしている。気がつくと、エリックのベッドに横たわっていたから、てっきり成功したと思いこんでいた。だが………。
「あなたが!」
思いきり手を払いのけ、怒りに燃える目で、親友をにらみつけた。
「あなたが邪魔をしたんだわ!あたしが彼を助けに行くのを妨害した!……なんてことを!人間を助けるのが、天使のつとめなのに!見捨てるなんて!」
カイルは辛そうに目を伏せたまま、答えなかった。そのとき背後から、威厳にみちた声が響いた。
「カイルを責めてはならぬ。アイラよ、すべては私が命じたことだ。」
「大天使さま!」
まばゆい光に包まれた天使が、きびしい表情でたたずんでいた。
「アイラよ、誤ってはならぬ。エリックがあのような運命をたどったのは、宿命なのだ。歴史を変えるのは主ですら許されることではない……。」
「ウリエルさま、あれほどひどい運命でも変えてはならないのですか?」
大天使は厳かにうなずいた。それから優しくあたしのリングに触れた。
「おまえの行いは明らかな間違いだ。だが、主はせめてもの慰めにと、おまえの魂と、男の魂を一つの夢へ導かれた。……………アイラ、おまえのエリックを救おうとした気持ちは貴いものだ。忘れてはならぬ。」
触れられた部分がキラリと光った。だが、あたしは後ずさり、激しく首を振った。
「いいえ、いいえ!夢だけ見ていたのなら、何もしなければ良かったんです!あたしは彼の言葉が忘れられない。『アイラに会えてよかった』といってくれた顔が忘れられない………!」
悲しみで胸が引き裂けそうだった。いっそのことそのほうが良く思えた。いく粒も涙がこぼれて、頬を伝う。
「アイラ………。」
カイルがあたしの肩をぎゅっと抱いた。
「こんなのって………ひどすぎる!」
泣き叫ぶあたしに大天使は言った。
「しかし、おまえの行いは決してムダではない。おまえではとらえきれないだろう。私の『眼』を通して見るがよい。」
ウリエルは手のひらをあたしに向けた。手がぼうっと光り出した。次の瞬間、あたしは彼と混じりあった。
「見るがよい。あの男の魂を。おまえに出会うまで悲嘆にくれていた心が、今はどの魂よりも安らいでいる。………あの男はいずれ、地上に戻る。貧しい、身寄りのない不幸な人間として。エリックとしての人生が、そういうさだめを背負わせてしまった。だが、その時にこそアイラ、おまえは降臨し、あの男を導いてやるがよい。」
大天使はもう一度あたしに『見せた』。
冷たい雨の中、ずぶ濡れの男が背を向けて立っていた。誰かに呼ばれたのか、ゆっくりと振りむく。
「その男の顔をよく覚えておくのだ。名前は、アレックス・エマーソン。エリックの生まれ変わりとなる者だ。」
あたしはエリックの魂宿る者の顔をしっかりと心に刻みつけた。
悲しみが遠くなり、代わりに何か強いものがあたしの中に生まれてくる。
涙を手の甲でさっとぬぐって、ウリエルを見あげた。
「決して忘れません。あたしは今度こそ、あの人に幸せを…………!」
大天使はうなずき、満足げに笑みをうかべた。
「そのときはおれも一緒に行く。」
カイルがさり気なくささやく。
「うん。」
それだけの言葉に、親友の償いの気持ちがこめられているのを感じた。
千年来の友。カイルのためにも、今度こそ使命を果たさないと。だけど、支えてくれる仲間がいるのは、何よりも嬉しい。
力強く翼を広げる。雲が切れて、まぶしい光があたしたちに降りそそいだ。それは、希望そのものに見えた。